オリンピックの地政学

パスカル・ボニファス(Pascal Boniface)
国際戦略関係研究所所長、パリ

訳・内藤あいさ

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 1896年、近代になって初めてのオリンピックは、今回と同じアテネで開催された。競技に参加したのはわずか13カ国。ドイツは体操チーム、アメリカは陸上チームを派遣したが、他の11カ国からは一人か二人の選手が参加したにすぎない(1)。全部で285人の選手が9種目のスポーツを競うだけのものであり、観客数もせいぜい数千というところだった。

 2004年のアテネ大会は、のべ40億人以上が時差を超えて、テレビで観戦することになるだろう(2)。201を数える各国オリンピック委員会(3)から送り出された1万500人の選手が参加する。オリンピックがいかにグローバル化されたものとなったかがよく分かる。

 会期を通じて、アル・カイダによる乱入の不安が付きまとっている。競技には一種目も出ず、警備方面を担当するという異色の参加者、北大西洋条約機構(NATO)の存在も、これによって説明が付く。幾人ものアメリカ人選手がテロへの危惧から参加を断念し、アメリカ人の半数が、オリンピックはテロの標的になるだろうと確信している(4)。誰もが思い起こしているのは、1972年のミュンヘン大会で、「黒い九月」の突撃隊により9人のイスラエル人選手が人質となり処刑された事件のことだ。テロ組織にとって、世界中のメディアが集まるオリンピックは、あらゆる行動に最大級の効果が見込める特別な標的である。しかし、ウサマ・ビン・ラディンの仲間たちにとっては、人々の心に付きまとい、オリンピックに重い影を投げかけているというだけでも、すでに十分な成果かもしれない。

 オリンピックの再興を主導したピエール・ド・クーベルタンにも、戦略的な関心がなかったわけではない。彼はドイツに追いつくために、フランス人の若者に競争精神を叩き込むことを唱道した。普仏戦争でのドイツの勝利の決め手は身体的な訓練にあった。1913年には、ドイツのスポーツ紙に次のような論調が現れている。「近代オリンピックの発想に象徴されているのは、世界規模の戦争である。そこでは軍事的な側面が公然と示されるわけではない。諸国がいかなる序列をなしているのかは、競技成績の読み方を知る者なら自ずと見て取ることができる(5)

 1912年のストックホルム大会も、政治的な主張が繰り広げられる場となった。フィンランド人、チェコ人、スロヴァキア人、ハンガリー人のような独立していなかった民族は、支配帝国の旗ではなく自分たちの旗を掲げ、独自の選手団を送る権利を主張した。

 しかし、スポーツが本当の意味での国際的な観衆を得て、諸国の政府がこれを政治的に利用しようと考えるようになるのは、第一次世界大戦後のことである。オリンピックは、国際的に注目を集め、開催国が技術の進歩と組織化の能力を世界に見せつける特別な場となった。

 オリンピックに参加すること自体にも、明らかに重要な象徴性がある。招待されないということは、スポーツと友好の祭典にふさわしくない国との烙印を押されることである。オーストリア、ブルガリア、ドイツ、ハンガリー、トルコは第一次世界大戦に参加したせいで、1920年の大会から排除された。逆に1936年の大会でベルリンが開催地に選ばれたことは、ドイツが1918年の敗戦から国際社会に戻ってきたことを意味するはずだった。

 ベルリンでの開催という決定は、ヒトラーが政権を握る以前になされていた。ヒトラーは、スポーツの面でも組織能力の面でも、ナチズムと「アーリア民族」の優越性を世界に対して示すために、このイベントを利用しようとした。この第二の点については、金メダルを4つ獲得したジェシー・オーエンズをはじめとするアメリカの黒人選手が活躍し、ヒトラーに失望をもたらす結果に終わっている(6)

ボイコットという攻撃手段

 第二次世界大戦後、1948年のロンドン大会ではドイツと日本は招待されなかった。1952年のヘルシンキ大会ではドイツの復帰とともに、イスラエルとソ連(7)の初参加が認められた。ソ連の選手団は「敵」の接触や亡命を防ぐために、オリンピック村には入らなかった。東側諸国の選手団を収容するために、第二のオリンピック村が建設された。

 他方、中華人民共和国の承認については、国際連合よりも国際オリンピック委員会(IOC)が先を行っていた。ヘルシンキ大会で、台湾は中国選手団の出場に抗議するために参加を見合わせた。それでも、1958年には今度は中国がIOCを脱退することになる。毛沢東政権下では、スポーツには教育上と保健上の役割しか認められず、競技を通じてナショナリズムを高揚させるという発想は皆無だった。スポーツが再び国民意識の発揚の手段となるのは、1976年の毛沢東の死後のことである。中国はそれだけにメダル獲得に躍起となり、好成績の選手に対するドーピングを疑われるようになる。

 台湾は1981年にIOCに復帰し、中国と肩を並べることになる。韓国と北朝鮮は1988年の開催地にソウルが選ばれて以来、合同選手団を作ることを協議しているが、今日にいたるまで実現していない。スポーツが地政学よりも先に進むこともあるが、そう大きく進むわけではない。まだ国とはなっていないパレスチナの場合、1994年以降、IOCのメンバーとなっている。パレスチナ人は、オリンピックを国際的な承認を得るための手始めと見ており、アテネ大会では、パレスチナの旗を掲げての入場行進を認められた。

 2000年の開催地に北京ではなくシドニーが選ばれたことは、中国の人々にとって、世界における自国の新たな地位が認められなかったように感じられた。2008年の開催地の決定は、この屈辱感を払拭し、中国の大国としての復活が公認されたものとして受け止められた。

 オリンピックは、地政学上の激動と密接に関わっている。1956年には、エジプト、イラク、レバノンがフランス、イギリス、イスラエルによるスエズ運河の占領に抗議するために、またフランコ政権下のスペインとスイスがソ連によるハンガリー介入を非難するために、メルボルン大会をボイコットしている。

 1976年の大会には、アフリカ諸国が参加しなかった。ニュージーランドの排除が認められなかったことを不満としたからだ。ニュージーランドが非難されたのは、アパルトヘイト体制下の南アフリカにラグビーチームを送ったからである。1980年のモスクワ大会は、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するためにアメリカがボイコットを主導したことで(フランスは追随しなかった)、ソ連が期待していたような国際的な承認の機会とはならなかった。ソ連は大量のメダルをかっさらって鬱憤を晴らした。ソ連は1984年のロサンゼルス大会のボイコットによって仕返しをしようとしたが、賛同したのは12の共産国にすぎず、失敗に終わった。

 ボイコットという攻撃手段は、今日では考えにくい。メディアへの抜群の露出の機会を棒に振ろうと思う国などない。反対に、オリンピックから排除されることは、最も厳しい罰として恐れられている。

 その結果、特殊な非政府組織であるIOCが、すさまじい権力を持つことになる。IOCは115名の委員から成り、会長には長い間、フアン・アントニオ・サマランチが就いていた。彼はフランコ時代の有力者だったが、1980年のモスクワ大会のときは中止という事態を回避するために奔走した。

 IOCには、各種スポーツの国際連盟と各国オリンピック委員会の代表に加え、個別に任命される70名の委員がいる。彼らの活動ぶりは、スポーツ関係者というよりもジェット族といった方が適切だろう。

メダル獲得競争

 委員会は大会の組織、実施、放送の全権を握っている。その資金源は、テレビ局が支払う競技の放送権料と、「協賛」の多国籍企業との実に有益な提携関係であり、合わせて28億ドルの予算規模になる(これは、マリのような国のGDPに匹敵する)。IOCはスキャンダルと無縁ではない。2002年のアメリカのソルトレークシティ大会では、何名もの委員が収賄を糾弾され、うち7名が除名、4名が辞任という結果になった。

 IOCは政治色がないことを高らかにうたっているが、これを多少なりと真に受ける者はいない。ある国のオリンピック委員会を承認するかしないか、開催地をどこにするかといったことは、紛れもない政治的な決定である。2005年7月に行われる2012年の開催地(パリも候補地となっている)の決定でも、地政学が無視できない役割を果たすことは間違いない。この意味で、スペインの政権交代により、マドリッドがニューヨークやロンドンに差をつけて、有力な候補地として浮上する可能性もあるだろう。パリはフランス外交の人気を推進力として、最終決定をもぎ取りたいという思惑を持っている(8)

 メダルの獲得数に関していえば、有力な国々もあるが、近年ではうまく分散するようになってきている(9)。小国でも、決勝戦の瞬間だけは世界的に存在感を示すことを期待できる。カリブ海の小さな島国セントクリストファー・ネビスは、2003年の世界陸上選手権のとき、100メートル走の金メダルを取ったキム・コリンズのおかげで、国際舞台の前面に躍り出た。冷戦時代には、東西の競合がオリンピック競技にも持ち込まれた。アメリカとソ連は、自己の体制の優越をメダル獲得数という形で示そうとした。二つのドイツの競合はとりわけ激しかった。キューバは自国選手の成功を、すばらしい教育・保健政策の成果であるとした。

 ソ連は1956年、二度目の参加のとき、37個の金メダルを取り、32個だったアメリカを抜いた。1960年も同様だった(43対34)。アメリカは1964年(36対30)、続く1968年(45対29)、再び優位を取り戻した。ミュンヘン大会では、共産諸国に二つの勝利がもたらされた。アメリカの33個に対しソ連が50個の金メダルを獲得し、西ドイツの13個に対し東ドイツが20個の金メダルを獲得した。1976年のオリンピックでも、もちろん1980年の西側諸国がボイコットしたモスクワ大会でも、東側は優位を維持した。冷戦時代最後のオリンピックとなったソウル大会でも、やはり共産国が勝利を収めた。ソ連(55個の金メダル)を筆頭に東ドイツ(37個)が続き、アメリカは36個で三位に終わった。

 あらゆるスポーツの競技と同様、オリンピックで時に排外的な愛国心が呼び起こされるのは残念なことだと言える。スポーツは、節度をもって観戦され、あくまでもスポーツの枠組みにとどまるかぎり、人々が必要とする情熱をかき立ててくれる。この枠組みの中では、「他者」の存在が競技には欠かせない。外国人のチャンピオンの快挙も、それはそれで感動を呼び起こすものだ。オリンピックは、IOCの押しつけがましい道徳論に傾かずとも、世界と他民族に向かって開かれた窓なのである。

 スポーツ、それは戦争ではあるだろうが、古代ギリシャの人々が望んだように、武器によらず、血を流すこともなく、死者も出ない、儀式化された戦争だ。それは平和に向けた教育の場でもある。社会学者のエリアスとダニングは、まさに次のように述べている。「国際的なレベルでは、国際オリンピック大会やワールド・カップのようなスポーツ大会が、諸々の国家が整然と、そして明らかに手を結ぶことのできる唯一の平時の機会を与える。(中略)オリンピックは、異なった国々の代表がお互いに殺し合うことなく対決することを可能にさせる(10)

(1) ステファーヌ・ピヴァト『スポーツという争点』(ガリマール社、パリ、1994年)59ページ参照。
(2) このスポーツイベントの頂点では、各国市民がふだんは気にも留めないような種目の結果に関心を向ける。自国の選手がメダルを取ったり、表彰されたりするかもしれないからだ。ポール・ヨネ『スポーツのシステム』(ガリマール社、パリ、1998年)50ページ参照。
(3) これに比べて、国連加盟国は191カ国にすぎない。
(4) ル・モンド2004年6月10日付参照。
(5) ピエール・アルノー「1919〜1939年の新たな地政学状況」、雑誌『地政学』(パリ、1999年7月)掲載。
(6) アメリカが24個の金メダルだったのに対して、このときドイツは33個の金メダルを獲得している。
(7) ソ連の金メダルは22個で、40個のアメリカに次ぐ第二位に終わっている。
(8) 選考に残っている五つ目の候補地はモスクワである。ライプチヒ、ハバナ、リオデジャネイロ、イスタンブールはすでに落選した。つまり、IOCの選択には南北の基準が働いており、政治的な要因よりも財政上の要因が重視されている。
(9) シドニー大会では80カ国が何らかのメダルを獲得した。
(10) N・エリアス、E・ダニング『スポーツと文明化』(大平章訳、法政大学出版局、1995年)327ページ。仏文に合わせて一部訳文を変更した。[訳註]


(2004年8月号)

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