欲望、文化産業、個人

ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler)
哲学者・著述家

訳・逸見龍生

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 数十年来世界を支配している寓話がある。すくなからぬ政治思想や哲学が、その幻惑の虜となってきた。この寓話によると、1968年を経て、時代は「ゆとり社会」や「容認社会」「柔構造社会」など、いわゆる余暇社会、個人主義社会に変貌したという。脱産業社会論と呼ばれる、この寓話の理論から、「ポストモダン」哲学は大きな影響を受けた。それがこの哲学のアキレス腱となった。社民主義者も同じである。この寓話を信用し、大量生産・大量消費の産業社会から、中産階級社会へと時代は移行したと唱え、プロレタリア階級は消滅するだろうと予想した。

 統計を見ると、プロレタリアートの数はなお多い。賃労働者の大部分がプロレタリア化しつつある現状からすれば(職場の機械化に従った結果、自発性を発揮する機会も、専門職としての知識も、今や奪われようとしている)、むしろ総数は増えている。中産階級も貧困化している。辞書には余暇、すなわち「レジャー」とは、桎梏からの自由、「絶対的な自由」を意味するとある。しかし、辞書にあるような意味で、余暇が発達したかどうかは、きわめてうたがわしい。個人の自由になる時間が増えたどころか、逆にますます時間の管理とハイパー・マス化は進行しているからだ。余暇は、自発的隷従の新たな形式を産んだ。文化産業と番組コンテンツ産業が余暇の製品化と組織化を推し進めた結果、かつて哲学者ジル・ドゥルーズ(1)が語った「管理社会」ができあがった。管理社会が拡大するにつれて、文化・サービス資本主義が急成長し、ライフスタイルの細部を組み立て、日常生活を目先の利益を追い求める場に変えた。「マーケティング志向」をつうじた人間の平準化も進んだ。経済価値という観点から、個人の生涯時間を計算可能なものとする「生涯価値」は、こうした動きの典型だろう。これらの動きの本質は、特異化と個体化の機会を奪うことなのだ。

 ドゥルーズが慧眼にも見抜いたように、「マーケティング」とは「社会管理のための道具」(2)であり、「脱産業」社会と称する社会の実態は、ハイパー産業社会である(3)。個人主義が優位に立つというよりはむしろ、個は群れとなって行動し、個体化の機会がくまなくかき消されていく時代である。

 哲学者ジルベール・シモンドン(4)が、個体化の喪失という概念を提唱したのは、機械の支配下にある19世紀の労働者の状況を説明するためだった。当時の労働者はまず職能を、ついで人格を喪失し、プロレタリアートに転落していった。今や、消費者の行動が、欲望のフォーマット化と改竄をとおして、平準化していく番だ。現代の人間は、生きる力、様々な生を生きる可能性をうしなう。規格という考え方が代わりに現れる。だが、規格とは、詩人マラルメが雑誌『最新流行』で論じたように、流行へのたえざる目配せにほかならない。現代の規格は、マーケティング技術が「合理的」に促進している。外食産業ビジネス界を牛耳る「マニュアル」ともよく似ている。契約破棄や訴訟をちらつかせ、フランチャイズ・チェーン傘下の小売事業主たちをがんじがらめに縛りつける、聖なる戒律に。

 「個体化の喪失」が「生の喪失」も意味していることには、深刻な危険がひそんでいる。市会議員8名が犠牲となった、ナンテール市議会銃撃事件の犯人、リシャール・デュルヌは、「一度でいいから生きているという実感を味わいたい。だから何か悪を働かねば」ならない、と日記に記していた(5)

 1930年、精神分析の創始者ジグムント・フロイトは、次のように書いている。産業技術が神たるにふさわしい属性を与えてくれたにもかかわらず、「神に類似するまでになりながら、今日の人間は自分を幸福だと思っていない」(6)、と。これぞまさしく、ハイパー産業社会に生きる私たち人間の姿である。現代社会は、人間から人格を奪い、家畜の群れに変えた。何かであることも、何かになることもままならない、要するに未来のない家畜の群れに。非人間的な家畜の群れは、狂気へと走っていく傾向がある。1920年に著した『集団心理学と自我の分析』において、フロイトは、集団狂気に陥る群衆心理の分析に初めて取り組んだ。『快感原則の彼岸』で、集団狂気の背後に潜む、死の欲動の問題を取り上げた後、全体主義やナチズム、反ユダヤ主義がヨーロッパ中を跋扈した1930年、フロイトは『文化への不満』を著し、もう一度同じ主題に立ち帰った。

 『文化への不満』でフロイトは、写真、レコード、電話技術に関しては論じているものの、ラジオについては言及せず、ムッソリーニやスターリンに続き、ヒットラーが頻用した映画についても、一言も触れていない。「トレード・フォロウズ・フィルムズ(商業は映画の後を追う)(7)」、とアメリカの上院議員が発言したのは1912年だから、奇妙と言えば、やはり奇妙である。ナチスが初のテレビ公開放送に踏み切るのは、1935年4月である。にもかかわらず、フロイトがテレビの発明を予想していたようにも思えない。フロイトとちょうど同じ時期に、思想家ヴァルター・ベンヤミン(8)は、全体主義権力がいかにメディアを掌握するのかという問題を、「大衆のナルシシズム」という観点から分析しようとしていた。だが、フロイトも、ベンヤミンも、黎明期の文化産業が、民主国家も含め、将来あらゆる国で、「機能」に関してどのような新地平をひらくことになるのか、予測することはできなかった。

 この点を理論化したのは、フロイトの実の甥、エドワード・バーネイだった。リビドー経済と叔父フロイトが名づけたものは、うまく活用すれば、無尽蔵の可能性を引きだせるはずだ、とバーネイは思いついたのである。その結実が、PRという説得の技法だった。1930年頃、バーネイは、無意識の理論をもとに編みだしたPR技法を、タバコ会社フィリップ・モリス社のため実地に適用した。まさにフロイトの眼に、文明に拮抗する死の欲動が、ヨーロッパ中に広がりつつあると映っていた時期にあたる。もっともフロイトのほうは、何一つアメリカに関して言及していない。次の実に奇妙な一節を除いて。「『大衆の心理的貧困』とでも呼ぶべき状態が生まれる危険が差し迫っている。この危機が一番強く感ぜられるのは、指導者たるべき人材が指導者たりえず、社会の結びつきがもっぱら構成員相互間の同一視によって生まれる時である。こうした人材が、指導者という重要な役回りを引き受ける必要は、大衆が形成されるような場面こそ、とりわけ大きいはずだというのに」。続いて「現在のアメリカの文化状態は、あるいは起こるかも知れぬ上述のような文化の害を研究するためにはよい機会であろう。しかし私は、現代アメリカ文化を批判したいという誘惑は避けて通ろうと思う。私は、自身もアメリカ的方法を取ろうとしているかのような印象は与えたくないのだ」(9)

リビドー的・情動的貧困

 文化産業の機能が、ほんとうの意味で分析の俎上に乗ったのは、思想家テオドール・W・アドルノとマックス・ホルクハイマー(10)が、カール・クラウス(11)が1910年代から行っていたメディア批判よりも更に踏み込んで、「アメリカ的方法」を告発した時である。

 今日からすると、まだ詰めの甘さは残るにしても(12)、アドルノたちが明らかにしたのは、文化産業は、産業全般と独立した別個のものなどではないということ、やはりライフスタイルの大衆化をつうじて、消費行動を一定に方向づける機能を担っているということだった。経済活動は消費者に不要な多数の新商品を生みだす。潤滑な流通は、当然、何としても確保しなければならない。こうして過剰生産や、経済恐慌の慢性的な危機が、文化産業にも生じる。システムそのものを根底から見なおすのでないかぎり、危機を乗り越えるには、アドルノとホルクハイマーの言う野蛮そのものを、更に成長させつづけるほか方法はない。

 第二次世界大戦後、平和復興時に生産過剰は全体の40%にのぼるとの予測を受け、「PR」理論に続き、「購買動機調査法」が過剰生産解消のため確立した。当時の広告代理店の一社は1955年、次のように報告している。「需要と欲望を新規につくりだしたと同時に、古びたもの、流行遅れとなったものに、嫌悪を抱かせることができたこと」は、北米は大いに誇りにしてよい、と。嗜好と嫌悪は、表裏一体である。嫌悪感をうまく醸成できれば、嗜好そのものもおのずと変わる。要はいかに「下意識」にアピールするかだ。特に産業界には、この手法は、アメリカ国内工場製品にどうしたら市民の購買意欲を高めることができるかという難問に対する、うまい解決策となった(13)

 フランスでも、19世紀以来、すくなからぬ抵抗にあいながらも、工業製品の導入が組織的に進み、ライフスタイルは激変した。エミール・ド・ジラルダンの広告会社、ルイ・アヴァスによる通信社の設立は、典型的な例である。だが、時間消費製品が初めて出現するのは、文化産業(映画、レコード)、とりわけ、番組コンテンツ産業(ラジオとテレビ)が登場してからだ。ラジオやテレビ番組の聴取・視聴者は、映画と違ってスピーカーやブラウン管の前にひとりでいるせいか、好き勝手に自分で楽しんでいるという幻想を抱く。だが、現実には、時間消費製品をつうじて個人の行動は大衆の行動に変わり、個人の「内面」はやすやすと管理できるようになった。

 「自由時間」についても同じだ。ハイパー産業社会では、人間の活動のあらゆる領域が、消費者に特有の、衝動的で、模倣的な行動で埋めつくされている。洗剤やガムと同様、教育や文化、健康も消費の対象なのだ。重要なのは、やはり個人消費という幻想が、欲求不満や疑惑、破壊本能をかき立てていることだ。テレビの前でひとり時間を過ごしていると、自分が個人行動を取っているとつい思えてくる。だが実際には、その瞬間に、数十万人の視聴者が同じ番組を眺めている。

 産業活動が地球全域に拡大したのを受けて、産業界は、規模の経済の大がかりな実現を目指すようになった。消費行動の技術的管理と均質化はさらに重要性を増す。その役割を担うのが、番組コンテンツ産業である。時間消費製品を買い漁り、世に広く流布させ、人々の時間を捕らえる。捕囚とされた時間から、視聴者が生まれ、広告主に売りつける商品も生まれる。

 メロディーや映画、ラジオ放送など、時間の経過を旨とするモノの本質は時間のうちにある。哲学者エドムント・フッサールが、「流出」と呼んだ時間のことだ(14)。時間は、移ろい、過ぎゆく。私たちの意識は、時間的なモノが統合している。だが意識と同様に、時間的なモノも、現れるやいなや、たちまち消え去っていく。1920年の市民ラジオの誕生、1947年のテレビ番組放映開始を境に、番組コンテンツ産業が、私たちの意識の時間と、長さがぴったりと符合するモノを生みだし始めた。時間的なモノは、意識の時間と重なりあい、私たちの意識のなかにもぐりこむ。今日の文化産業が仕向けるのは、歯磨きやソーダ、靴や自動車を消費する時間を、大量の消費者の意識のなかにもぐりこませることだ。文化産業が収益を上げる仕組みは、ほぼ100パーセントがこんな具合だ。

 意識とは、本質的に「自己」意識であり、この自己意識のことを、特異性という。「私」と口に出して言えるのは、自分自身に私だけの固有な時間を与えているからだ。哲学者ミシェル・フーコー(15)は晩年、自己の技術の解明に取り組んだ。しかし文化産業、とりわけテレビは、巨大な同期化装置となって、自己をやすやすと打ち砕く。数万人、いや数十万人のテレビ視聴者が、ある実況中継番組を同時に見ている瞬間、世界中の人びとの意識のなかに、同じひとつの時間消費製品がすべりこんでいく。毎日規則的に同じ時間に、同じAV消費行動をくりかえしていけば、人びとの「意識」は、最終的には、同じ「ひとり」の意識となる。つまりは誰のものでもない意識に。家畜の群れの無意識は、深層の欲動を解き放つ。それを押しとどめて、欲動を深層に繋ぎとめておくのが欲望の役割である。しかし今や不可能だ。欲望が生まれるには、「特異性」がまず必要だからである。

 マーケティング技術は、1940年代にアメリカの産業界で実施段階に入り、以後ますます高度化を遂げた。その過程で生まれたのは、象徴的貧困と、リビドー的・情動的貧困である。リビドー的・情動的貧困は、かつて私が本源的ナルシシズムと名づけたもの(16)の喪失を招く。

 生産と消費を「同時に」掌握し、大衆の行動を強く規定している点に、今日の資本主義の強みがある。脱産業化社会論の寓話には、そんな視点がすっぽりと抜け落ちている。個人を集団に対立させて捉える謬見から抜けだしていないからだろう。シモンドンが完璧な形で明らかにしたのは、個人とは、進行しつつあるひとつの過程であり、存在に向けて「生成」途上にあるという、まったく逆の事態である。個人が、心のレベルで個人として成立するには、集団のなかで個を形成する必要がある。集団は、個体化の過程で欠かすことのできない役割を果たしている。なぜならどの特異性も、「個以前の底流」とシモンドンが呼んだ共通の層から、めいめいが各自に必要なものを汲みだしているからである。

 個以前の底流は、何世代にもわたる経験の蓄積から生まれた過去の遺産である。特異性がここから各自に必要なものを汲みだすのでないかぎり、そして、心的な個が互いにその底流を共有しあい、自分から加わり、変えていくのでないかぎり、次の世代にその遺産を引き渡すことはできない。だが、それぞれの個がその底流に個別に関わるのでなければ、共有しあうとは言えない。また、個別に関わると言うかぎりは、その関わり方は、他人とは違う特異なものでなくてはならない。社会集団は、共通の底流の内に自己を再認するという意味で、共時的な結合体である。また、成員ひとりひとりが、個以前の底流から各自に必要なものを独自に汲みだしているという意味で、通時的な結合体である。

 だが、番組コンテンツ産業は、共時性と通時性の共存を矛盾とみなす傾向がある。ハイパーシンクロニゼーション、すなわち超同期化を最優先するためだ。だから、たとえマスメディアのプログラムが個以前の底流をつくりだしたとしても、それぞれの個が、特異にその内容を我がものとすることはできない。人類学者アンドレ・ルロワ=グーランが、社会・民族的プログラムと名づけたものは、今や番組表に取って代わる。私は隣人たちとまさしく瓜二つの体験をし、私たちは群れとなって生きる。

ナルシシズムの崩壊

 「私」とは、フッサールが「一次把持」と呼んだものの、時間的な「流出」がつくりあげる意識である。一次把持とは、意識流の「今」から、意識が把持するものを指す。ひとつの旋律のなかで、ある音に残響している直前の音は、私の意識に経過音として立ち現れる。先に鳴った音は、旋律のなかになお響き、今が、今のなかで、旋律のうちに維持している。直前の音が、続く音とある関係をつくり、音程を生みだし、続く音を「構成」する。私が「受け容れ」、「生みだす」様々な現象と同様に(私が「演奏」したり「聴き取」る旋律や、「声にだし」たり「耳で聞く」文章、あるいは「おこな」ったり、人から「受け」る行為など)、私の意識生は、本質的に一次把持から成り立っている。

 意識生における把持は、「選択」をする。私は、把持できるもの「すべて」を把持するわけではない(17)。懇々とものが現われ出る流れのなかで、意識は、それぞれの把持に固有のやりかたで、選択をおこなう。同じ旋律を二度続けて聴くとどうなるか。当の旋律への私の意識は、おのずと変わる。一種の「フィルター」を通して選択するのである。この濾過行為が、「二次把持」である。二次把持は、記憶が保持している一次把持の想起であり、一次把持は、想起のための、経験の土台をかたちづくっている。

 意識生は、一次把持と、二次把持による濾過からなりたっている。だが、一次把持と二次把持との関係は、重層的に決定している。決定に関わるのが、三次把持である。三次把持とは、記憶の支えとなるモノや記憶技術といった、痕跡を記録化することができるもののことである。特に、写真や録音、映画やビデオ、また、ハイパー産業時代の管理社会の技術的なインフラとなるデジタル技術などだ。

 三次把持は、たとえばアルファベット表記のように、個人が、心の内部と集団の内部の両面で個体化していく過程で、個以前の底流にたどりつくための支えとなる。人間社会には例外なくこうした三次把持が見つかる。個体化を方向づけるのが、三次把持である。個体化とは象徴的な共有であり、個人の経験が痕跡に外在化して、はじめて可能となるのだから。ところが、産業化した場合、三次把持は管理のための技術になり、象徴交換は深く変質してしまう。生産する側と消費する側にあくまで一線が引かれ、多様なはずの意識時間が、あますところなく超同期化されてしまうからである。

 人びとの意識時間は、似たり寄ったりの二次把持が占め、いよいよ同一の一次把持を選択するようになっていく。あらゆるものが、もはや大して変わり映えしない。人びとは、ことさらに自己について語るべきこともなく、他者との出会いもまれとなったのをしたたかに思い知らされる。侘びしくTVの画面の前に座りながら、孤独に追いやられていく。余暇という、「あらゆる制約から自由な」時間は、画面をつうじて手に入れることはかえってむずかしくなる。

 上記の象徴的貧困が進行した結果、ナルシシズムが崩壊し、政治経済面では無秩序が激増した。ナルシシズムは、病理的な状態に達する場合もあるが、まず一義的には心、欲望、特異性のはたらきを条件づける機制である(18)。マーケティングは、生産者側が製品を引き続き生みだしていくのを助けるだけに飽きたらず、消費者側の欲求も一から生み、欲求の再生産、多様化、階層化のプロセスにたえず調整役として関与している。このとき、システムの機能の潤滑油となるのは、生産者と消費者それぞれが抱く欲望の発現である「実存的エネルギー」にほかならない。労働や消費のリビドーは、第三者が支配し、誘導する。本来、労働とは昇華であり、現実原則であった。だが、産業社会で分業化した労働からは、昇華の快楽やナルシシズムの快楽を味わう機会は減じ、他人にリビドーを奪われた消費者が、消費に快楽を覚える機会も、いよいよ減る。消費者は反復強迫で麻痺し、欲望は否応なく「萎え」ていく。

 管理社会は調節社会であり(19)、AV技術やデジタル技術など、美的感性(aisthesis)(20)に訴える技術を駆使し、意識時間や心身の無意識を制御している。ハイパー産業社会では、美的感性を刺激するものばかりが全面に躍り出て、ハイパー・マスを操作し、個人が心のなかや社会で味わう感覚の経験に取って替わる。今や経済戦争の武器にも、舞台にもなった、象徴的次元だ。超同期化のせいで、本源的ナルシシズムや、個人が心と社会の両方で個体化していく過程がすっかり根こそぎにされ、人びとの過去が均質化し、個体化の機会はいよいよ消え失せていく。一人称単数形の「私」と、複数形の「私たち」との区別は、象徴的に脆弱な無定形の非人称「ひと」のなかで、曖昧になる。誰もが同じように管理の対象となっているわけではない。その意味では、あたかも「私たち」が二つの層に分割したかのように、感性の断層を私たちは生きている。だが、状況を超えるべく行動を起こさなければ、いずれは「私たちすべて」が暗い運命を否応なく辿ることとなるだろう。私たちの子どもにはなおさらのことだ。

 20世紀は、生産と消費をめぐる環境、システムを最適化した時代だった。生産管理と投資管理では情報コンピュータ技術が、消費管理および政治面も含む社会行動管理ではコミュニケーション技術が、それぞれ開発された。今日では、二つの領域は融合している。声高に唱えられているものはもはや「余暇社会」ではない。個々の人間の欲求を「パーソナル化」することだ。かつて、精神分析学者フェリックス・ガタリ(21)は、個人がさらに下位に分割していく現象が拡大しつつあると指摘していた。特異性は、認知科学や計算工学を応用した技術の支配下で、特殊性に変わっていく。

 これらの技術は、「ユーザー・プロファイリング」など新たな手法をつうじて、フロイトのみならず、バブロフの方法論も援用した、巧妙な条件づけの手法を編みだしている。ある本の読者に、同じ本を読んだ読者たちはどんな本を読んでいるかを教え、自分も読みたいと思わせるよう仕向けるのは、典型的な例だ。検索エンジンが、検索結果画面のトップから順に、閲覧頻度の多いサイトを掲げるのも、特定サイトの閲覧数をさらに増やす、高度にソフィストケートしたサイト閲覧率促進技術となっている。

特異性の問題

 産業オートメーション化が、生産工程の記憶技術の中枢を占めるようになった現在、同種のデジタル機器が、同一規格で、生産ラインのあらゆる場面を管理するようになった。マイコン方式の製品にしても、通信販売で顧客と工場を直結し、多様な需要に柔軟に対応する手法にしても、遠隔操作による工場生産管理にしても、いつでもどこでも同じ機器、同じ規格だ。デジタル機器はマーケティングにも大いに役立ち、消費の組織化を推し進めている。ベンヤミンが想像したのとは逆に、ハイパー・マスの出現とともに起こったのは、大衆のナルシシズムの広範な展開などではなく、むしろ、個人と集団のナルシシズムの大規模な崩壊である。こうした事態が意味しているのは、端的に「例外者の破壊」だ。本源的ナルシシズムを一掃した結果、いたるところに群れの生き方がはびこっている。

 個人が、心のレベルと、集団内の双方で個体化していくプロセスでは、集団の想像力や個の多様な歴史が結び合う。時間消費製品は大衆規格を代理品として押しつけ、ひとりひとりの個の実践の特異性や、個の実践に宿る例外的な性格が、じりじりと縮小していく。例外もまたひとつの規則である。ただし、口では何とも言い表わしようのない規則だ。例外は、変則的な場面に遭って、初めてそうと実感することができるものだ。つまり、マニュアル化も、予測もできない。細部の違いに目をつむって、何にでも対応できるようなルールを敷くようなやりかたでは、どうしてもうまくいかない。長い間、例外者を神に帰してきたのもそのためだ。神こそ、特異なものは、互いに比較することは不可能であるという規則そのものであり、規則を絶対的に超えた存在だった。ところが、マーケティングのせいで、特異性は骨抜きになり、望むままに比較や分類することができる、中味の空っぽな特殊性に変わってしまった。消費のハイパー・マス化と、消費嗜好の極分化をつうじて、リビドー・エネルギーをうまく丸めこんだ今となっては、すっかり御しやすい存在になった。

 ここで問題にしているのは、リビドー経済とは完全に裏返しの事態である。そもそも特異性、例外者だけが、欲望の対象となりうる。私に例外と映るものだけが、私の欲望の対象となる。凡庸さは欲望しようがない。ただ反復強迫だけが、凡庸さを志向する。心は、エロスとタナトスという、たえず混じり合う二つの傾向からなりたっている。文化産業とマーケティングは、消費欲望の発達を高く目標に掲げた。だが、実際には、死の欲動を強め、反復強迫的な状況を生みだすと、好き勝手を始めた。文化産業とマーケティングは、生の欲動にとって、大きな障壁となる。何かを欲望するということが、本来の意味での消費行動の基本だという点から見ても、上述の過程は、自滅的だ。哲学者ジャック・デリダの表現にならって、自己免疫異常と言ってもよい。

 あるモノの特異性を、私が欲望するのは、そのモノが、私という特異性を、鏡のように映しだすからだ。私自身のまだ知らない、私の特異性が何か、モノが明らかにしてくれるのである。資本が、私たちの行動をハイパー・マス化するのであるならば、欲望のハイパー・マス化にも、当然資本は狙いをつけるはずだろう。個人も、否応なく、群れとなって生きていかざるをえまい。そうした論理からすれば、例外者は、ひとえに打倒すべき敵となるだろう。この点は、産業民主主義のせいで、家畜社会が出現するだろうと喝破したニーチェが、とうに見越していたことだ。産業社会の政治構造が抱え込んだ真の難問だ。例外者への欲望を投影するスクリーンを、厳重な管理下に置いたとき、タナトスの論理(22)、すなわちエントロピーの影が、世界中を広く覆い始める。タナトスとは、秩序が、無秩序に従属することを意味する。タナトスは、涅槃の状態であり、あらゆるものが平準化に向かう。例外者が、「欲望の欲望する」対象でありつづけるかぎり、タナトスは、あらゆる例外者をことごとく否定するのと同義である。

 以上指摘してきた問題の根本部分が、フランスが唱える「文化的例外」(23)論議には、残念ながらまったく見えてこない。何らかの措置を急いで講じなければならないというのに、浅薄な政治的スローガンのせいで、焦点はぼやける一方だ。この論議の主唱者たちは、例外という問題を狭い視野からしか考察せず、ハイパー産業社会の進展や、その帰結たる象徴的貧困が突きつける数々の課題に、まともに取り組む姿勢も見せようとしない。例外をめぐる問題は、明日のグローバル社会における最も重要な課題だ。にもかかわらず、「文化的例外」という論議は、例外措置を国際通商協定の枠組みで撤廃することを求めるあれこれの議論と同じく、地域や産業部門、「利益団体」の問題だけを取り上げ、本質的な問題はなおざりにしてしまっている。

 ことは、文化省が管轄する、いわゆる「文化」の未来にのみとどまるまい。ハイパー産業社会は、日常生活のあり方にこと細かく指示をだし、日々の生をあらゆる面で制圧しているのだ。ここに、産業社会の生態系が抱える最大の不安要因がある(24)。人間集団が、かつてない規模の大量破壊をもたらす方法を手に入れたというのに、人類の精神や知性、情動や感性が、全面的に危機に瀕している。

 リビドー崩壊の原因となる混乱は、政治の領域にも及んでいる。政治家たちは、自らを商品として売りこまんがため、政治にマーケティング技術を導入した。その点に、投票者たちは、他の商品に倦むのと同様の、深い嫌悪感を催している。

 市民と市民の代表者たちは、今こそ目覚めるべきだ。特異性の政治がもつ問題の重みは、今や決定的なものとなった。特異性の政治なくして、政治に未来はありえない。特異性の政治のみが、極右ナショナリズムや、あらゆる原理主義の跋扈を防ぐことができる。将来のハイパー産業社会に欲望を復権すること。混乱の拡大を、前もって阻止すること。そのためには、政治みずからが、欲望を率先して生みださねばなるまい。3月28日の統一地方選挙で現政権に反対票を投じ、何ら具体的な政策目標をもたぬ政党に批判の声を挙げたのは、リビドー経済の全面的破壊に憂慮し、一向に充たすことのできない政治的欲望に渇いた人びとだ。言うまでもなく、アリストテレスが市民間の関係を規定して述べた「友愛」は、リビドー経済という樹に成った、薫り高い熟成した果実である。

 2002年4月21日の大統領選挙から、2004年3月28日の統一地方選にかけて広がった運動では、政治階級全体が、象徴的・心的貧困、そして不可避的に政治的貧困を相手に断固戦うことを、目標に掲げた。とりわけ文化と研究に関する問題で、政府が壊滅的な敗北を喫したのは、偶然ではない。文化は、二次的な政治問題などでは決してなく、まさしく政治の真髄である。リビドーと同じく、文化こそは、産業が究極的に奪わんとする砦なのだ。だから、政治はまず何より、文化の政治でなくてはならない。文化省が、文化で生計を営む多様な人びとの期待に、きちんと応えていけるかどうかというような意味ではない。ハイパー産業資本主義は、社会組織という、個が心と集団の両面で個体化していくための基盤を、こなごなに破壊してしまう。文化の政治は、その破壊に対して、根源的な批判を突きつけるのだ。

(1) ジル・ドゥルーズ(1925-1995)は哲学者。
(2) ジル・ドゥルーズ『記号と事件、1972-1990年の対話』(宮林寛訳、河出書房新社、 1996年)。
(3) ベルナール・スティグレール『象徴的貧困」第1巻「ハイパー産業化の時代」(ガリレー社、パリ、2004年)参照。
(4) ジルベール・シモンドン(1924-1989)は哲学者。
(5) ル・モンド2002年4月10日付。ベルナール・スティグレール『9・11から4・21にかけての愛と自己愛、友愛』(ガリレー社、パリ、2003年)も参照。
(6) ジグムント・フロイト「文化への不満」(『フロイト著作集3』、高橋義孝訳、人文書院、 1969年)。
(7) ジャン=ミシェル・フロドン『映画と国民国家』(野崎歓訳、岩波書店、2002年)。
(8) ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)はドイツの哲学者。
(9) フロイト「文化への不満」、前掲書。
(10) テオドール・W・アドルノ(1903-1969)とマックス・ホルクハイマー(1895-1973)はともにドイツの哲学者、フランクフルト学派の創始者。
(11) カール・クラウス(1874-1936)はオーストリアの作家、メディア批評家
(12) 拙著『技術と時間』第3巻「映画の時間と悪しき生」(ガリレー社、2001年)第1章で、アドルノとホルクハイマーの分析のどこが不十分なのかは指摘しておいた。カント思想の図式論を援用しつつ、かれらは文化産業が、まさにカント主義批判を必要としていた点を見落としていたのである。
(13) ヴァンス・パカール『非合法の説得』(クレマン=レヴィ社、パリ、1958年)。
(14) エドムント・フッサール(1859-1938)はドイツの哲学者、現象学の父。
(15) ミシェル・フーコー(1926-1984)は哲学者。
(16) スティグレール『9・11から……』、 前掲書。
(17) 一次把持は関係を生む。旋律では、アルペジオで弾いた音の連続から音階や和声が生まれる。文中の意味論的・統辞論的関係も同様である。
(18) この点は、フロイトの次のような指摘を参照。「リビドーは自我自身にもまつわりついていること、それどころか、リビドーのそもそものホーム・グラウンドは自我であり、いわば自我はいまなおリビドーの本拠地であることが判明した」。フロイト「文化への不満」、前掲書。
(19) ドゥルーズ『記号と事件』、前掲書を参照。
(20) ギリシア語で経験をなす感性を意味する。
(21) フェリックス・ガタリ(1930-1992)は精神分析学者、反精神医学の先駆者。
(22) 死に関わるもの。
(23) WTO創設へと至ったウルグアイ・ラウンド以来、文化産業を貿易自由化の例外とすることを唱えてきたフランス政府の立場を指す語。[訳註]
(24) ベルナール・スティグレール『偶有の哲学、エリ・デューリンクとの対話』(ガリレー社、パリ、2004年)も参照。


(2004年6月号)

* 一つ目の小見出し、および、そこから九段落目「欲動的」を「リビドー的」に訂正(2004年7月1日)
* 同上段落、小見出し「特異性の問題」の三つ前の段落、および直後の段落「一次ナルシシズム」を「本源的ナルシシズム」に訂正(2004年7月1日)

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