シーア派とスンニ派を結束させるイラク民族主義

フアン・コール(Juan Cole)
ミシガン大学 近代中東史学教授

訳・佐藤健彦

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 一年前には、イラク民族主義と汎アラブ主義は死滅したと思われていた。その凋落の大きな責任はバアス党にある。それまで権力の座にあったバアス党が「地元」と「地域一帯」の両方にまたがる民族主義を喧伝していたからだ。彼らは人類の文明史上イラクが担ってきた役割を賛美し、ハンムラビ王やネブカドネザル王の後継者をもって自認した。そしてエジプトに代わるアラブ世界の盟主になろうとした。しかし、フセイン政権のおぞましい性格を知るイラク人は、そうしたプロパガンダ的な民族主義に賛同しなかった。

 次いで、汎アラブ主義の象徴に仕立てられていた国内のパレスチナ難民に対し、イラク人は警戒の目を向けるようになった。アル・ジャジーラなどの汎アラブ的なメディアはフセイン独裁政権に対して甘かったと批判された。イラクの政治勢力は、シーア派とクルド人の台頭について、スンニ派が主流のアラブ連盟が公に懸念を表明していることを非難した。シーア派の急進勢力には、イラクの思想家よりもイランのホメイニ師の影響が認められた。現在シーア派の最も有力な精神的指導者である大アヤトラのアリ・シスターニ師もイランの出身である。スンニ派のアラブ人も、ヨルダンに由来するイスラム原理主義運動に寛容だった。

 イスラムの原点への回帰を掲げるサラフ主義は、ヨルダンから物資を運び込むトラックとともに広がった。直解主義に立った政治的なスンニ派イスラム主義は、マアンやザルカ(有名なテロリストであるアブ・ムサブ・ザルカウィの出身地)といったヨルダンの小都市で支持され、ファルージャなどイラク西部にも拡大した。もともとは世俗主義から出発したバアス党は政権末期には、これらの宗教勢力をアメリカに対する潜在的な同盟相手とみなし、規制の手をゆるめるようになっていた。

 しかしながら、スンニ派の牙城であるファルージャとシーア派地域の南部一帯で起こった2004年春の蜂起は、イラクの占領状態によって宗派を超えた民族主義が復興したことを見せつけた。3月22日にパレスチナのアハメド・ヤシン師が暗殺されると、彼の名前を冠したファルージャの住民グループが、海軍特殊部隊員から民間企業に転職したアメリカ人警備員4名を殺害した。彼らの遺体は冒涜された。これに対して米海兵隊は町全体を包囲、封鎖して砲撃を加え、多くの民間人死亡者を出した。この激しい包囲攻撃の模様はアル・ジャジーラとアル・アラビーヤによってテレビに映し出され、イラク全土とアラブ全域に猛烈な怒りをかき立てた。

 時を同じくして、「連合軍」は30歳のシーア派急進指導者ムクタダ・サドル師に攻撃の手を伸ばすことにした。サドル派の新聞アル・ハウザはヤシン師の暗殺後、それまで以上に反米感情を煽るようになっていた。暫定当局は3月28日にこれを発禁処分にし、次いでサドル師の側近28名に対し逮捕令状を出した。自分も拘束されると確信したサドル師は、クーファ、ナジャフ、バグダッド、ナーシリヤ、クート、バスラなどで、支持者の民兵組織を決起させた。

 サドル師はイランのようなイスラム共和国の樹立を望みつつ、他方ではイラク人の愛国心にも訴えかけている。彼は自国のシーア派がイランの強い影響下にあることを苦々しく思い、世界中のシーア派の法的かつ精神的な最高権威たらんとするイランの最高指導者ハメネイ師の主張に異論を唱えている。サドル派の創始者である父親のサディク・サドル師は、バアス党が入り込めずにいたシーア派のスラム地区で独裁者フセインが禁止した金曜礼拝を行っていたため、1999年に同党に暗殺された。

 サディク・サドル師は反イスラエル、反米的な説教を行い、農村部に住むシーア派に部族的な慣習よりもシーア派の教義の伝統を重んじるようにと呼びかけた。サドル派は神権政治を求める清教徒的な運動であり、イラクをホメイニ師が築いたようなイスラム共和国にすることを目標とした。サディク・サドル師は大アヤトラのシスターニ師と精神的指導者の地位を争うほどになった。シスターニ師は独裁政権時代には息をひそめ、宗教関係者を政治から遠ざけようとしていた。

1920年代の反英蜂起

 スンニ派のサラフ主義者とシーア派のサドル支持者は、「連合軍」を前にして対立を超え、イラク民族主義と汎アラブ主義によって手を携えるようになった。バグダッドでは、シーア派のカジミーヤ地区と相対的に裕福なスンニ派のアザミーヤ地区が隣り合わせて対立していたが、そこでも一時的に敵対関係が解かれた。救援物資を積んだトラック60台を一緒に用意して、4月8日にファルージャに向かわせたのだ。見送りの群衆はヤシン師とサドル師の肖像画を振りかざした。米海兵隊としてもトラックを何台かは通過させないわけにいかなかった。

 アブドゥル・サラーム・クバイシ師が率いるスンニ派厳格主義者の組織であるイスラム法学者協会は、包囲されたファルージャの勢力とアメリカとの交渉に介入して評価を高めた。また同協会は4月17日に発表した声明で、サドル師への支持を表明し、イラク人に向け「占領者の追放」を呼びかけた。

 イラク人は、近隣諸国からの宗教的、政治的な影響にさらされながらも、強固な民族意識を築き上げてきた。さまざまな宗派にとって、宗教的な帰属意識はイラク人であることに先立つものではない。

 ダアワ党などのシーア派政党はフセイン政権下で弾圧され、多くの党員はイランやイギリスに亡命せざるを得なかった。1980年から90年の間に、ダアワ党のロンドン支部は、党の独立性を重視する民族主義者と、ホメイニ師に従おうとする宗教関係者の二つに分裂した。党全体では民族派が勝利した。

 ダアワ党は90年代には、亡命イラク人勢力を結集させようとするアハマド・チャラビの動きに協力した。しかし、クルド人の準自治権をめぐってチャラビ率いるイラク国民会議と絶縁することになる。ダアワ党が現在にいたるまで望んできたのはスンニ派、シーア派、クルド人をまとめあげる強力な中央政府である。同党の代表イブラヒム・ジャアファリは2004年4月初めにテヘランに赴き、サドル師とアメリカとの調停をハタミ政権に要請するという重要な役割を果たした。計画そのものは失敗に終わったが、これによってジャアファリの株は上がった。

 イラクは民族意識が低く、シーア派アラブ人の南部、スンニ派アラブ人の中部、クルド人の北部の三つに割れていると思い込んでいた人々は、イラクの民族意識の強さを示す多くの証拠を見落としていた。

 フセイン独裁政権の崩壊から数日後の2003年4月18日、ロンドンに拠点を置く日刊紙アル・ハヤトが、大アヤトラのアリ・シスターニ師の息子ムハンマド・リダ・シスターニへのインタビュー記事を載せた。彼はそこで、シスターニ師が「イラクを支配しようとする外国勢力全てを拒否している」ことを述べ、スンニ派かシーア派かの別なく全イスラム教徒が結束すべきであると呼びかけた。また、シスターニ師はシーア派によるスンニ派モスクの襲撃を罪深いことであると非難し、モスク再建のために寄付金を送ったという。大アヤトラによれば「イラクはイラク人のものである。イラクを治めるのはイラク人であるべきで、それは外国勢力のもとで行うことではない」。ムハンマド・リダ・シスターニはインタビューの終わりで、20世紀初めに大英帝国の占領に抵抗する宗教関係者が子供たちを引き連れて戦ったことに言及した。近代イラク史上初めて全国規模で起こり、シーア派の有力者や宗教関係者が統率した1920年の蜂起のことである。

マフディ軍団とトルクメン人の協調

 イラク国内の安定を求めるシスターニ師は言葉を抑えながらも、占領に対して不満を漏らし、国民間の結束を求め続けた。2004年2月、ある訪問者は同師の立場について次のように語った。「シーア派とスンニ派の争いなどは現在イラク全体を脅かしている危険に比べればはるかに小さいと考えておられる。いま最も重要なことは国民が団結することだ。(・・・)師はこう述べられた。『国民を分断させることは反逆行為だ。あなたの部族のみなさんとスンニ派の宗教関係者に、くれぐれもよろしくという言葉とともに、シスターニが彼らの手に接吻し、シーア派、クルド人、キリスト教徒、トルクメン人など全てのイラク人と団結するよう求めていると伝えてほしい。団結せよ、そして私がアメリカに対し毅然とした対応をとることを信じよ』」

 シスターニ師はシーア派の指導者ではあるが、クルド人やスンニ派の政治指導者とも面会し、それがイラク全体のためになると考えている。彼はこれまでごくまれにしか政治に干渉してこなかったが、アメリカとの対決に臨んだ時には、その全てに勝利している。正式な憲法は国民全員の投票によって選ばれた代表者が起草すべきであるという主張や、イラクの正統な政府も選挙で選ばれるべきであるという主張がそうだ。その結果、2004年の春にアメリカのお膳立てによる選挙を敢行するという計画は頓挫した。

 奇妙なことに、時として諸勢力のせめぎ合いが政治的な接着剤のような役目を果たすことがある。恒常的な紛争地域である北部の油田都市キルクークでは、100万人弱の人口がクルド人、トルクメン人、アラブ人の三民族で等しく占められている。長きにわたって最大民族となっていたのはトルクメン人で、シーア派とスンニ派の両方がいる。クルド人は油田が生み出す仕事を求めて移住してきた。フセイン独裁政権は大量のクルド人をキルクークから追放し、イラク中部や南部からシーア派を含むアラブ人を連れてきた。

 2003年8月、キルクーク近郊の聖地の管理をめぐってシーア派トルクメン人とスンニ派クルド人の間で争いが起こった。ナジャフのシーア派アラブ人は使者を送って、シーア派トルクメン人への支持を表明した。サドル師は「イラク北部を他の地域から隔絶しようとするあらゆる企てを非難する」と述べ、民族浄化の動きを遺憾であるとした。大量のクルド人がキルクーク入りし、アラブ人に占拠された自宅を取り返そうとしていたからだ。サドル師はこの事件を機に、自らの影響力をイラク全土へ広げようとしたのである。

 2003年12月から2004年1月にかけ、キルクークをクルド地域に組み込むという構想をめぐり、民族間の緊張が再び高まった。この時サドル師はマフディ軍団の民兵2000人を送り込み、ストライキ中のトルクメン系住民30万人を支援した。両派の協調はやや意外なこととして受け止められた。

 民族主義は国民の結束だけから作り上げられるわけではなく、国内の紛争、闘争、妥協などを通じて作り上げられることもある。これは宗教勢力にとっては望むところである。ヤシン師のようなスンニ派の急進指導者(彼は既に支持者から「殉教者」とみなされている)やサドル師のようなシーア派の急進指導者(同様の運命をたどる可能性もある)は、多くのイラク人にとって、アラブの地を占領する外国軍に対する抵抗運動の象徴となっている。

 アメリカ政府は、イラクへの駐留を「国造り」の実践であると考えていた。この計画は、きわめて皮肉なことに、アメリカを追放するという目的に向けてイラク人が結集することによって成功するかもしれない。19世紀にオスマン帝国のアブドゥル・ハミト二世や宗教改革者のサイイド・ジャマール・アッディーン・アル・アフガーニーが汎アラブ主義、つまりヨーロッパの帝国主義に対抗するためのシーア派とスンニ派の連合を唱えて以来、こうした構想は常に失敗に終わってきた。それが今になって、アメリカという超大国の手によって、夢から現実に変わりつつあるようだ。


(2004年5月号)

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