パレスチナの大義の普遍性

エティエンヌ・バリバール(Etienne Balibar)
パリ第十大学名誉教授

訳・阿部幸

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 なぜ我々は、パレスチナの大義を支持しようとするのか。なぜ我々は、政治を語る言葉の尊厳と責任が、そこで問われていると考えるのか。私はあくまで個人の資格でこの問いに答えよう。ただし、中東の「公正な和平」のために立ち上がる人々の枠を超えて、多くの人々が意見の一致を見出すような答えを示していきたい。私はこの大義には普遍性があると信ずる。とはいえ、それが自明な大義であるとは思わない。ひとつには、それに類する例は歴史上も政治上も存在しないからだ。だが理由はそれだけではない。我々は中立的であるには紛争に巻き込まれすぎており、情勢を完全に掌握するには隔たりすぎている。そのことを日々思い知る我々は、少なくとも次のことを自覚しなければならない。イスラエル・パレスチナの悲劇を「客観的」に認識することを妨げる諸々の困難は、この悲劇の解決を困難にする一因ともなっているのである。

 正義と法の点からすれば、この紛争のうちに絶対的な境界線を見出すことはできない。これは「悪」対「善」の戦いではない。そこに認められるのは、誰の目にも明らかであり、拡大を続ける不均衡である。世界屈指の軍事強国であり、超大国アメリカと密接に結びつき、近代戦争の軍備を取り揃えたイスラエルは、一般市民を守ろうとしているだけだと言う。イスラエル人には、自分たちが集団的に脅かされ、いわば常に「執行猶予」の状態に置かれていると感じるだけの歴史的な理由がある。しかし、現に民族としての存亡をかけて闘っているのはパレスチナ人の側である。

 イスラエル人とは、ひとつには近代史上最大の民族虐殺から生き残り、古代ヘブライ人の「約束の地」に国をつくる権利を国際社会によって認められた人々である。そこにさらにアラブ諸国や世界各地から自発的あるいは強制的に移民したユダヤ人が加わっている。彼らが直面したのは、生存権を否定するような敵意に満ちた環境だった。彼らは状況を逆転させ、防御から征服へと転じた。

 イスラエルは、アラブ諸国が始めた1948年の戦争に乗じて、今日その規模が明らかとなった民族浄化を実行し、その後の紛争でも勝利を重ねて支配的諸国の仲間入りをした。1967年には、歴史的パレスチナの残る22%を占領、入植した。これにより、国際法に反する回復不可能な既成事実が作り出された。その論理的な帰結は、認める者も否定する者もいるが、パレスチナ人を大「ユダヤ国家」の臣民とするか、新たに大規模な移住を強制するか、あるいはその両方ということになる。

 パレスチナ人の三分の一は土地を追われ、多くは悲惨な状態で、難民として生きるようになった。イスラエルから帰還の権利をなんら与えられることもなく、アラブ諸国で統合や市民権の付与を検討されることもない。「余計者」の民として、集団的な災厄によって民族意識を形成するに至ったパレスチナ人は、存続可能な国家として独立させるという約束を国際社会が果たすのを待ち続けている。ところがその代わりに、彼らは形ばかりの政府を与えられ、隣国の安全を侵害しているという責任を集団的に負わされている。

 占領下にあるパレスチナ市民社会が、驚くべき抵抗力を発揮して、土地を耕し、保健衛生や教育を普及させ、芸術家や作家を輩出し、家族や市民団体の連帯を生み出したことは、つとに指摘されている。第二次インティファーダ以降、イスラエルの政府と軍は、こうした活力を叩きのめすことに成功した。インフラや生活手段を徹底的に破壊し、戦闘員も普通の住民も無差別に標的とする殺人的な国家テロルを実行し、行政機能を麻痺させ、土地を奪って領土を細分化した。彼らは「話のできる相手」を探すふりをしながら、パレスチナ社会内部のイデオロギーの分裂や勢力争いを徹底的に煽り立てた。ただし言うまでもなく、そうした分裂や争いはイスラエルが作り出したわけではない。国際的な合意によって定められた両民族の独立が実現不可能になる時が間近に迫っている。その結果が悲惨なものとなることは、イスラエルにとっても同じである。

 ナクバ[破局:1948年の事件についてのアラブ側の呼称]に始まり分離壁の建設に至るまで、パレスチナ人が存在そのものを否定されてきたという事実によって、あらゆる抵抗の形態、特にイスラム主義組織その他の様々な組織がイスラエルの一般市民に対して行っているテロリズムが、はたして正当化されるのだろうか。そう問うてみなければならない。イスラエルとその擁護者たちの論点に「応じる」ためだけではない。ここには根本的に問うべきことがあるからだ。それは道徳的な問題であるだけでなく、政治的な問題でもある。

 テロリズムは、絶望感や無力感、あるいはイデオロギーや、国家テロルが誘発する対称性といった側面から説明することもできるが、いずれにせよ、パレスチナ人の闘争にとって破滅的なものでしかない。第一に、それはパレスチナ社会の破壊というイスラエルの戦略に完全に合致する。人命や資金の点で非常に高くつくにしても、パレスチナ社会に行使する暴力の水準を絶えず引き上げることができるからだ。つまり、イスラエル政府がテロリズムの発生する条件を維持し、自らの行動によって定期的にテロリズムを再燃させていることに驚くべきではない。第二に、テロリズムはイスラエル社会の内部で、征服政策を方向転換させようとして行動を起こすかもしれない勢力の大部分を萎えさせてしまう。暫定合意を交わすことも、両民族が和解することも、限りなく不可能になってしまう。それぞれの側に残されるのは虚無的な展望でしかない。最後に、テロリズムはパレスチナ人の一部、とりわけ若者の間に英雄的犠牲という発想を植え付け、敵か味方かの区別でしか人命の価値を認識できなくしてしまう。このような意識が、きわめて長期にわたって開明性(1)を崩壊させる結果にしかならないことは、あらゆる歴史的経験によって証明されている。

 パレスチナ社会の一部が、植民地化の暴力に対抗してテロリズムの暴力に訴えているとしても、両者の状況が法と正義に照らして非対称的であるという事実に変わりはない。イスラエルが防護を口実として敵を全滅させる権利を与えられることにはならない。しかし、テロリズムの暴力には、占領者に勝利する可能性を限りなく遠ざけてしまうか、無目的なものにしてしまう危険がある。それはつまり、根本的に自滅的なのである。この問題は、パレスチナ人が解決するしかない。とはいえ、国際社会は責任を自覚することのないまま、この「弱者の武器」だけが唯一可能な武器のように見えている現状に替わる新たな力関係の形成をじっと待っていればいいなどと結論付けることはできない。

 しかし、2001年9月11日の事件、アフガニスタン戦争、そしてイラク戦争以後、問題は完全に性質を変えた。この情勢の特徴をなす「最悪の法則」を例証するかのごとく、イスラエルによる植民地化とパレスチナによる抵抗は、「善の勢力」と「悪の勢力」との衝突という論理を至るところで押し付けようとする世界規模の暴力の経済に捕らえられ、彼らの紛争に固有の政治的意味を削ぎとられてしまった。

 こうして新たな非対称性が生まれ、両者は互いに相手を逆様に映し出す鏡となった。イスラエルはパレスチナの武力闘争を常に「国際テロリズム」の一翼とみなしてきた。これは、イスラム原理主義とアメリカがともどもに推し進める「テロルのグローバリゼーション」の先取りであった。パレスチナ人の側は、数々の裏切りにもかかわらずアラブ世界との連帯意識を捨てず、自分たちの敵にとって最も手強い敵になると見た者を理想化するきらいがある。昨日はサダム・フセイン、明日はビン・ラディンか誰かそれに代わる者、といった具合だ。東洋と西洋という二つの敵対陣営が世界規模で戦っており、イスラエル・パレスチナ紛争もその一面にすぎず、どちらかの陣営の全面的「勝利」のあおりでしか解決されないという認識が定着している。主導権を取り上げられたドラマの当事者たちは、互いのテロリズムをそのまま投げ返すかのような「対抗テロリズム」をひたすら繰り返すばかりだ。

 こうした有害な趨勢にパレスチナ人の多くは全力で抵抗している。彼らは自身の戦いではない「聖戦」の口実にされ、地域に広がる戦火の犠牲者として名指しされる。この趨勢はイスラエルにとっても、自国をアラブ世界のただ中で恒常的な戒厳令下の要塞にできるとでもいうのでない限り、非常に憂慮すべきものである。そのことを実感あるいは予感しているイスラエル市民はたくさんいるが、ここでもまた明確に行動を打ち出せずにいる。さらに、この趨勢は世界全体にとっても危険である。「文明の衝突」が広がり、領土、主権と市民権、植民地化と脱植民地化、富裕と貧困、宗教対立、文化的な隔たりといった問題を呑み込んで変質させる危険である。イスラエル・パレスチナ紛争には、これらの問題が凝縮されている。だからこそ、まだ間に合うのならば、民族の存在と安全保障の権利、そしてこれまでの不正義の補償を基本とする解決策を実行に移そうと努めることが、地政学的に同じ圏内に属する国々は無論のこと、すべての国々にとって利益になるのである。

 パレスチナの大義を支持するのはイスラエル国家の正当性を疑問視することにつながる、といった見解をよく耳にする。一部の者たちがテロリズムという抵抗手段を用いるからといって、パレスチナの大義の正当性が消え去るわけではない。それと同様に、イスラエルの政策が不当であるからといって、イスラエルが政治的「主権」を備えた主体として存在することの正当性が疑問視されるわけではない。ただし、その主権の領土的な基盤について、またイスラエル人が自国を将来にわたって民主的国家として存続させる条件を整えるべく、主権の制限を受け入れるという際の局地的ないし地域的な枠組みについて、予断を持ってよいということではない

 しかし、そうした正当性を弱め、さらには世界の大半の人々に疑問視させてしまう危険を生んでいる二つの事実がある。一つ目は、「ユダヤ国家」というイスラエルの定義に関わっている。この国家はパレスチナ人を犠牲にしながら拡張を続けているからだ。境界線の内側でも、パレスチナ人に二級市民という身分を押し付け、数々の権利を剥奪し、両者が暮らす土地の所有権について「真の」イスラエル人との象徴的平等を認めずにいるからだ。二つ目は、近代国家としてのイスラエルの正当性の法的、道徳的な根拠に関わっている。それは、聖なる起源にまつわる神話ではあり得ない。親の世代が犠牲者となった大量虐殺が、ユダヤ系住民を諸国民の法を超えたところに置くような「主権」に転換されるはずもない。常勝の軍事力も根拠とはならない。イスラエル国家の正当性には、周囲の民族による承認が必要である。何よりも必要なのは、イスラエル人が非常に特殊な植民地化の過程で「移動」させた民族による承認である。

 だからこそ、イスラエル人にとって、パレスチナ人が彼らの主権と同等で、さらには彼らの主権と結び付けられた主権を持つことが必要なのだ。確かにイスラエル国家の承認は、当初アラブ世界によって拒絶された。現在も多くのパレスチナ人を含め、一部の者からは拒絶されている。しかし、もしイスラエルがパレスチナとその住民を破壊し尽くすことになれば、そのような承認を得るのは絶対に不可能となり、イスラエルが「他の国と同じような」国となることは永久になくなるだろう。

 世界的な問題と化し、自国の安全を脅かしている紛争に影響を及ぼすために、外部の諸国には何ができるのだろうか。正義と歴史に基づいた有効な解決を見つけることは、対峙し合う敵同士にしかできない。そうした基盤に立った有望な方法は少なからずあるだろう。外部の「証人」あるいは「友人」である我々は、同じ地に住み着いた二つの民族の国づくりの半世紀にわたる闘争の末に、何が回復可能であり、何が回復不可能であるかを決定する立場にはない。しかしながら、彼らの対決はかつてないほど、閉じられた空間で行われるものではなくなっている。彼らの同盟関係、利害関係、イデオロギー的な影響力、家族や文化、宗教上の人間関係を通じて、パレスチナ人とイスラエル人は外部の世界に存在する。また多くの国が、人道上、軍事上の支援プログラム、投資や学術的協力、移民や外交などによって、それぞれの社会生活に関与している。

 解決策が外部から押し付けられるべきでないことに異論をさしはさむ者はいない。だからといって、国際的な調停は必要ないと考える者もいないだろう。調停の成否に歴史的な信頼性を問われている国連に加え、アメリカ、ヨーロッパ、そしてアラブ世界に多くの点がかかっている。アメリカの態度の変化を待つのはよそう。ブッシュ大統領は最近もシャロン氏と肩を並べ、イスラエルの拡張政策を支持することを確認し、強調した。それにアメリカは、中東の劇的な事件や国内政治の不測の変化に振り回されている。ヨーロッパは鍵を握る立場にある。独自の視点を言葉だけでなしに打ち出すことや、調停作業にアラブ諸国を引き入れることがヨーロッパにはできるはずだ。このように民主的な均衡を取り戻すことなしには、いかなる「ロードマップ」もあり得ない。パレスチナ人の信頼を得られるか、あらゆる地域を関与させることができるか、そして「文明の衝突」の論理を無力化することができるかは、そこにかかっている。「調停者」が侵略者の庇護者である限りは、いかなる調停も不可能である。

 それゆえ、我々の世論が集結していかなければならない。そこでは原則を踏まえておく必要がある。つまり、過去に何が起こり現在は何が緊急であるのかを正しくわきまえること、最終的な見通しを公正なものとすることに関しては、断固として譲らない姿勢を示さなければならない。これは簡単なことではない。そのためには、さらに困難なことだが、共同体レベルの連帯と象徴レベルの立場確認が、論理的な思考と自発的な行動を行う能力に変わり得るものであることを示していかなければならない。均等ではない大義の間で、誠意をもって均等な立場を取ることは不可能だ。それでも我々の世論は、世界が虐げられたパレスチナ人の救済に向かうことを求める声を力強く上げようという時には、パレスチナの大義を普遍性にまで高めなければならない。そこに達するには、もはや遅すぎるのだろうか。確かに遅い。しかし他に道はない。

(1) 原語「civilite」は通常は社会的な礼節を備えていることを表す語であるが、エティエンヌ・バリバール著、松葉祥一訳『市民権の哲学』(青土社、2000年)に従って「開明性」とした。同書の訳注および訳者後書きによれば、この語はバリバールにおいて「解放」「変革」とともに政治の三つの基本概念の一つとして特別な意味を与えられている。[訳註]


(2004年5月号)

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