ダルフールの見放された紛争

ジャン=ルイ・ペニヌ(Jean-Louis Peninou)
ジャーナリスト

訳・清水眞理子

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 スーダン西部に位置するダルフール地方は2003年2月以来、政治・経済紛争によって荒廃している。数千人が死亡し、大量の難民が隣国チャドに流出した。この人道的悲劇について国連は「民族浄化」とさえ述べている。しかしながらアラブ・イスラム教系の北部とキリスト教・伝統宗教系の南部との間で、1983年から石油収入をめぐって内戦が続き、和平交渉の断続と再開が繰り返されるなかで、西部の紛争はあまり注目されずにいる。国連が2004年4月22日にようやく調査団を派遣したダルフールの凄惨な戦闘には、スーダンの和平が南北間だけの問題ではなく、国全体の方程式であることが改めて示されている。[フランス語版編集部]

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 2003年2月以来、スーダン西部ダルフールの3州を血に染める戦いは、今世紀初めの最も深刻な人道的悲劇のひとつとなっている。11万人がチャドへ避難し、70万人が国内難民となり、1万人以上が死亡した(1)。悲惨と略奪を語る目撃者の証言は一致している。夜明けとともに攻撃がしかけられ、村は焼き打ちにあい、道路は寸断され、家畜は盗まれ、人道援助団体や外国人の立ち入り禁止区域が設けられる。過去20年にわたり断続的にダルフールで繰り返されてきた部族間の抗争は、数カ月のうちに多数の人命を奪う内戦に姿を変えた。

 ダルフールの名は、スーダン中部マッラ山地に住む黒人農民、フール族に由来する。かつて長い間フール族が支配していたフール王国は、1916年にスーダンに併合された。この地方は現在、北・南・西ダルフールの3つの州に分割されている(2)。ダルフールの北半分は、ラクダ遊牧民が闊歩するサハラ砂漠である。中部と南部では、雨が比較的よく降る山岳地は別として、遊牧民と農民が周期的に衝突を起こしており、雨量が少ないときは特に著しい。ダルフールは部族の数が多い。すべてイスラム教徒であるが、一部を除いてアラビア語は母語ではない。「アラブ系」部族、少なくとも敵対者からそのように呼ばれる部族は、一般に北部のラクダ遊牧民か南部の牛遊牧民である。「アフリカ系」部族には羊飼いもいるが、多くは農民だ。しかしながら首都ハルツームでは、ダルフールの諸部族はいずれも概して軽蔑の目でみられている。

 水や牧草地を求めて移動する遊牧民と、土地とわずかばかりの家財を守ろうとする農民との争い、それがダルフールの歴史である。この地方は資源に乏しく、設備もなく、国から放置されているうえに、人口爆発が起きており(20年で倍増して現在600万人)、そのために水と生活空間を求める競争が激化した。これまで遊牧民が移動のルートと移牧の時期を守ることを前提に、争いごとは伝統に則って裁定されていたが、それが1980年代半ばの大干魃と飢饉によって崩れ始めた。以来、ダルフールは危機的な状況にある。ハルツームの政権の周辺には地域出身の政治家もいるが、それでも状況は年々悪くなるばかりである。

 1985年から88年にかけての戦争は多数の人命を奪った。フール族が村を襲撃したアラブ系部族と敵対し、さらにそこにチャドとダルフールの人的移動、リビアのイスラム義勇軍の介入、サディク・マハディ率いる与党ウンマ党の政治的思惑が絡み合った。この戦争は、干魃期ならではの対立がピークに達したもののように思われた。だが、時がたってみると、それは前哨戦にすぎなかったように思われる。南部のアラブ系リザイカート族はエド・ドゥエイム地方に自分たちのダール(国)を得る約束を取り付けたものの、89年11月の「和平会議」の時には和平というよりむしろ休戦の印象が支配的であった。

 89年にスーダンに成立したイスラム軍事政権も、ダルフールの治安問題を解決することはなかった。それどころか政権は「アラブ系部族」に非常に好意的な態度をとり、なかでも好戦的な部族を勢いづかせた。何人かは新体制の有力者に名を連ねた。90年代を通じていくつもの局地戦が起こったが、外国ではほとんど報じられなかった。90年には、ジョン・ガラン大佐のスーダン人民解放軍(SPLA)を支持するフール族と、「アラブ系」のベニ・ハルバ族の支持を受けた国軍が交戦した(3)。96年には南部のリザイガート族とザガワ族の間で、97年から99年にかけては西部のアフリカ系農民マサリート族とアラブ系のウム・ジャルール族の間で戦闘が起きた。ほとんどの場合、先に手を出したのは「アラブ系」の側だった。その民兵のことを指す「ジャンジャウィード」という言葉が恐怖とともに広まった。「カラシニコフ銃で武装した悪魔の騎兵」といった意味の合成語である。かつては槍と剣を武器としていたのが、80年代以降は突撃銃による攻撃に変わったことを示す。

 2001年以来、村の襲撃、略奪、家畜の窃盗などの事件が、特に南部のニャラとゲネイナの間、なかでもマサリート族やフール族の村で多発するようになったが、処罰は一切されていない。襲撃は組織的で大規模なものであり、襲われた側は「民族浄化」が計画的に企てられていると確信する。同時期に北ダルフール州でも多くの深刻な事件が起き、ザガワ族とアラブ系のアレガート族やリザイカート族との緊張が高まった。

武装蜂起と一時停戦

 2003年2月25日、弁護士のアブデルワヒード・ムハンマド・ヌールが率いるダルフール解放戦線(DLF)がマッラ山地で武装蜂起した。この時はダルフールの「アフリカ系」部族のほとんど全部が反乱軍に結集した。DLFは1年あまり前に創設され、フール族の村の自警団に基盤を置いていたが、マサリート、ザガワ、ベルタなど他のアフリカ系部族にも広がったことをアピールすべく、2003年3月にスーダン解放軍(SLA)に改称した。

 蜂起は十分に準備されたものだった。SLAは、ドシュカ機関銃を搭載し、RPGロケット砲、迫撃砲、カラシニコフ銃で武装した戦闘員の乗りこんだトヨタ製軽トラックで、警察の派出所や国軍の武器庫を襲撃した。司令官は衛星電話を使用している。反乱軍はいくつかの地点を占拠して、マッラ山地のゴロには司令本部、チャドとの国境にあるチネにはザガワ族の最有力スルタンの拠点を置いた。SLA指導者アブダラ・アバカルは経験豊かな人物である。彼は1990年に成功裏に終わった攻勢に司令官の一人として参加した。この時の勝利がダルフール出身のイドリス・デビーをチャドの政権に就かせることになった。2003年春、政府軍はつぎつぎ劣勢に追いこまれる。兵力を南スーダンに集中させていたうえに(4)、ダルフール出身の兵士の脱走がかなりの数にのぼっただけに、政府軍はいっそう苦戦を強いられた。

 ハルツームのバシール大統領は、軍事的手段でこれに応じた。南スーダンから部隊を移転させ、隣国のチャド、リビアとの国境を封鎖しようとした。リビアのカダフィ大佐はダルフールとの間でトラックの走行を禁止する措置を了承し、チャドのデビー大統領は国境地帯でスーダン軍と協力した。しかし武器は豊富にあり、砂漠の国境地帯を制することは不可能であった。2003年4月25日、SLAは北ダルフールの州都アル・ファシェルに突入するという大胆な奇襲攻撃に成功した。SLAは空港を制圧し、航空司令官イブラヒム・ブシュラを捕らえた(5)

 ハルツームの屈辱感は最高潮に達した。大統領はダルフール諸州の知事を更迭し、ニャラやアル・ファシェルで反乱勢力のシンパと目された多くの知識人や有力者を逮捕した。危機委員会が設置された。その主要な決定は、重大な結果をもたらすことになる。北ダルフール州の新知事オスマン・ムハンマド・キビール将軍が、アラブ系民兵を正規軍に編入し、武器とともに白紙委任を与えたのだ。蜂起軍は戦勝を重ねてはいるものの、彼らの村もまた攻撃を受けるようになった。

 夏の終わりにバシール大統領はチャドの大統領の仲介で秘密裏にSLAと交渉をもった。ザガワ族出身のデビー大統領は反乱勢力をよく知っていて、この危機がバシール大統領との同盟関係を損ねることを恐れていた。仲介は成功し、9月3日にチャドのアベシェで停戦合意が交わされる。しかし、この合意には未来がなかった。というのも、スーダン政府の最大の狙いは、反乱勢力の中に生まれた政治的分裂を利用することだったからだ。

 第二のグループ、正義と平等を求める運動(JEM)が北ダルフール州で活動を強めていた。JEMは44歳のハリル・イブラヒム博士に率いられ(6)、ザガワ族に基盤を置く。かつてハサン・トゥラビ博士のイスラム主義政党に所属していたイブラヒムは、チネのスルタンの一族の出身で、1999年に体制と絶縁した。イブラヒムらは2000年、北スーダンの3大部族、シャイジア、ジャアリイン、ダナグラによるスーダンの国家と政治の支配を糾弾してベストセラーとなった「黒書」を匿名で出版した。とはいえJEMは南スーダンの主張に共感しているわけでもなく、紅海からダルフールにまで広がる見放されたスーダン中部の代弁者たらんとする。

南北の和平交渉の陰で

 政府当局がトゥラビの別働隊だと断じるJEMは(トゥラビはこれを曖昧に否定する)、チャドのアベシェでのSLAとの交渉に招かれなかった。このため停戦合意後も戦闘は続いた。さらに、同じく合意の対象外とされたジャンジャウィードが西部のザリンゲー地方などで襲撃を続けていた。ジャンジャウィードの攻撃は、国軍の空からの援護射撃のもと、ますます激しさを増した。

 2003年12月16日に停戦期限が満了すると、地域一帯で戦闘が再開した。兵力を強化する時間的余裕があったスーダン政府は攻勢に転じ、顕著な戦果をあげた。SLAの司令官、アブダラ・アバカルは殺害され、ザガワ族の中心地にあるクルブスとチネは制圧され、数万人の女性と子供がチャドに避難した。国軍はマサリート族の住む南方でも、さらにはメイドブ族が住む北方サハラ砂漠の丘陵地にいたるまで、同じように成功をおさめた。これに対してマッラ山地を攻囲する企ては瞬く間に失敗に終わった。

 2004年2月9日、バシール大統領は「完全勝利」の宣言のもと「軍事作戦終了」を発表した。しかし実際は違った。軍隊は市街地を支配下に取り戻したが、戦闘は継続した。市民の殺害も同様に続いた。たとえば2月27日には北ダルフール州のタウィラ地方で、3月7日には西ダルフール州のワジ・サリで、ジャンジャウィードは100人あまりの成人を平然と処刑した。国連はまた少なくとも4カ所、おそろしく劣悪な環境にある女性や子供の収容所の存在を確認している。しかしながら、新たな司令官ジブリル・アベルカリム・バハリに率いられたSLAは、内紛にもかかわらず勢力を保っていた。SLAは1万人以上の兵士を束ねていると思われる。

 南スーダンの果てしない戦争に和平の光が見えてきたことで、ダルフールに向けられた国際的な取り組みは二の次にされてしまっている。政府はSPLAとケニアで交渉を続けている。とはいえ、アメリカの強硬な外交圧力で2002年10月に始まって以来、延々と協議が続いている状況は懸念を呼び起こしている(7)。SPLAのガラン大佐とバシール大統領だけでスーダン全体に関わる決定を下すことができるものだろうか。できるはずがないことは、ダルフールの蜂起を見ればよく分かる。

 困難を自覚するガラン大佐の態度は慎重だ。彼はケニアのナイヴァシャでの交渉路線を温存しつつ、ダルフールで軍部とジャンジャウィードがもたらした惨状に抗議し、SLAにひそかに軍事支援を提供した。この数カ月、彼は反体制派の連合である国民民主同盟(NDA)の危機を回避することができなかった。南スーダンが北スーダンの民主化要求を支持するかわりに民族自決権を認めさせるというNDA設立時の盟約は、ナイヴァシャ交渉という彼の「独自路線」によって深刻な打撃をこうむった。しかしNDAの評議会は2004年2月13日、オスマン・ミルガニ議長の消極姿勢にもかかわらずSLAの加盟を承認し、西部の反乱も国の根幹に関わっていると認めるようになった。

 ダルフールの蜂起軍に対するバシール大統領の唯一の提案(自分の選んだ委員会がハルツームで主催する和平会議)は、これまでのところ純然たる降伏の要求のようにしか見えなかった。ルワンダの大量虐殺10周年を控えた2004年3月に、国連の諸機関はダルフールで進行中の「民族浄化」を公然と非難することを決め、アナン事務総長は国際的な軍事介入もあり得ると警告した。

 2004年4月8日、こうした圧力を受けたバシール大統領は国際監視団の同席のもとで、今度はJEMも対象に含めつつ45日間の新しい停戦を受け入れた。しかし反乱勢力と政府との真の政治的合意、そしてアラブ系民兵の実効的な武装解除がないかぎり、6カ月間で3回目のこの停戦は、見せ掛けだけの合意がまたひとつ加わっただけの結果に終わりかねない。

(1) 2004年3月初頭に国連の人道援助機関が提供した数字に依拠。この死者数は現実をかなり下回るものだろう。赤十字国際委員会や市民団体は2004年4月までスーダン政府からダルフールでの活動を禁止されていた。
(2) 1994年以降スーダンはウイラヤと呼ばれる以下の26州に再編され(以前は9州)、それぞれに行政府と議会が置かれている。上ナイル、紅海、バハル・アル・ジュバル、ジャジーラ、ジョングレイ、南ダルフール、南コルドファン、ハルツーム、センナール、東エクアトリア、北バハル・アル・カザール、北ダルフール、北コルドファン、西エクアトリア、北部、西バハル・アル・カザール、西ダルフール、西コルドファン、ガダーレフ、カッサラ、ナイル、白ナイル、青ナイル、ワラブ、ユニティー。
(3) 1983年以来、アラブ・イスラム教系の北スーダンと、スーダン人民解放軍(SPLA)などに結集したキリスト教・伝統宗教系の南スーダンの間に内戦が起こっている。
(4) ジェラール・プルニエ「スーダン和平はまだ遠い」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年12月号)参照。
(5) ブシュラは3カ月後、出身部族(アラブ系マーシリヤ族)の有力者による交渉の結果、解放されることになる。
(6) トゥラビ博士はバシールが政権を奪った1989年のクーデターの煽動者であり、10年にわたって体制の黒幕であった。99年12月にバシール大統領と袂を分かち、断固たる反体制派に転じて以来、政府当局から影響力を恐れられている。2004年4月1日に軍事クーデター未遂のかどで再逮捕され、彼の政党、人民国民会議(PNC)は活動停止となった。
(7) 富の分配については合意が見出されたが、国境やアビエイ市の地位などをめぐって交渉がつまずいている。


(2004年5月号)

All rights reserved, 2004, Le Monde diplomatique + Shimizu Mariko + Saito Kagumi

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