ペルー先住民が強制された不妊手術の実態

フランソワーズ・バルテルミー特派員(Francoise Barthelemy)
ジャーナリスト

訳・森亮子、斎藤かぐみ

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 ペルー外相は4月2日、同国政府が国際司法裁判所に対し、日本から引き渡しを拒否されたフジモリ前大統領の身柄返還を求める訴えを提起すると発表した。彼はペルー司法当局により、1991年から92年に民兵グループが24名を殺害した事件の黒幕として訴追されている。しかしながら、フジモリ政権における最大のスキャンダルは、ペルーの内外を通じて完全に闇に葬られたままとなっている。この政権は優生政策の下、30万人以上の女性に強制不妊手術を施したのだ。ターゲットが貧しい先住民であったことは言うまでもない。[フランス語版編集部]

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 クスコから50キロほど離れた湖のほとりの草原地帯に、アイジャコチャという先住民の村がある。このアンデスの高地では、農民は牛に引かせた犂(すき)の刃で畑を耕す。藁葺き屋根のあばら家の一軒に、チャクラ(小麦やとうもろこし、じゃがいもを栽培する小さな農地)から一人の女性が戻ってきたところだ。関節炎のために手の形が変わったこの女性が、勇気あるイラリア・スパ・ウアマンである。

 イラリアは1991年に、アンタ女性農民連盟の創設メンバーに名を連ねた。アンタは人口およそ8万人の地方で、農民が半分以上を占める。3年後、彼女は事務局長となり、その肩書きで1995年の第4回北京女性会議に参加した。そしてフジモリ大統領と言葉を交わした。「彼は保健衛生分野で導入するつもりの家族計画プログラムについて話し始めた。私が『わかりました、でも、夫婦で一緒に決めることが条件です』と言ったら、彼は『もちろんです』と答えたのよ」

 その数カ月後、イラリアは村の看護婦に激しく急かされ、詳しい説明もないまま、ある腹部手術を受けさせられた。手術の後、なかなか体調が回復しなかった。「あの人たち、『おまえは豚のように子供を産みたいのか。何もしなけりゃ、旦那の怒りを買うぞ』と罵った。それから、すぐに回復すると請け合ったけれど、そんなことは嘘だった。体の外側の傷跡はすぐに治っても、内側の傷はそうはいかない。私たちは重労働だからね」と、彼女は語った。後遺症で苦しんでいるのはイラリアだけではない。彼女の友人で、モジェパタ村に住む一家の母親も「体力がなくなった」と言う。彼女も卵管結紮(けっさつ)を施されたのだ。

 同じ頃、モジェパタ、リマタンボ、アンカワシといった複数の村から不安なニュースが届くようになった。子供の健康診断のために診療所に行った既婚女性たちが、時には10人や20人の単位で閉じ込められたというのだ。予防接種をするという口実で手術室に入れられ、麻酔をかけられる。そして一人ずつ、ふらふらになって外に出てくる。後になってから、恐ろしいショックとともに、不妊手術をされ二度と子供を産めない体になったという事実を知るのである。

 イラリア・スパと他の女性たちは、これらの事件を公に告発することにし、そのためにアンタ女性農民連盟の幹部会から除名された。この報復措置は、彼女たちによると、婦人科医のワシントン・オルティスが企てたものだ。現在も同じ仕事を続けるオルティスは、不妊手術を強制された女性たちに告訴を取り下げろと圧力をかけた。にもかかわらず、抗議運動は拡大した。「我々は市町村や地域レベルの議会で、強制不妊手術の実施を非難してきた」と、ペルー農業地域自治体ネットワーク(1)の代表を務めるアンタ市長、ロサス・ベルトランは語る。「我々は、クスコの人権オンブズマン事務局と共同で、抵抗運動や犠牲者への支援活動を組織した」

 2001年9月8日、フジモリ大統領が日本へ逃亡し議会に解任されて1年足らずが過ぎた頃、保健大臣ルイス・ソラリが自発的避妊手術(AQV)事業に関する特別委員会を設置した。女性農民リーダーのイラリア・スパ・ウアマンを含む4人の委員が選任された。

 議会は同月、フジモリ政権時代のAQVプログラムの下で犯された「不正行為」を調査するため、議会委員会を発足させた。委員長には、保守派の国民統合(UP)の議員であり、アヤクチョ・アンダワイラス・ワンカベリカ地方医師連盟の会長でもあるエクトール・チャベス・チュチョンが選任された。

 2002年7月、保健省から任命された調査員たちは、137ページから成る分厚い「最終報告書」を公表した。これによると、1995年から2000年にかけて、33万1600人の女性に不妊手術が行われ、2万5590人の男性に精管切除が施されたという。報告書は次のように強調する。「これらの人々は、圧力や恐喝や脅迫を受けたり、食べ物を与えられたりして、しかるべき情報提供もないまま丸め込まれた。このため、本当の理由を知った上での判断ができなかった」

 全ては「公衆衛生計画」の名の下に実施された。その真の目的は、ペルー国内の貧困地区での出生数を減らすことにあった。要するに、主な対象はアンデスの山岳地帯(シエラ)、アマゾンの森林地帯(セルバ)、リマを取り囲むスラム街といった貧困地区の先住民だった。

 多くの公文書は破棄されていたが、残っていた56の書類によって事実関係が確認され、責任者の名が明らかになった。第一に浮上したのが、フジモリ前大統領である。彼は毎月、主に歴代の保健大臣エドゥアルド・ジョン・モッタ(1994-96)、マリノ・コスタ・バウエル(1996-99)、アレハンドロ・アギナガ(1999-2000)の官房から、手術の実施件数の報告を受けていた。

満たすべき割当て件数

 この保健省の調査報告書が出るやいなや、強制手術の件数(200から300ほどの不幸な事例があったことは認める者に言わせると「むちゃくちゃ」)と目的をめぐって激しい論争が起こった。アギナガ元大臣は計画を熱っぽく弁護して、数十万組の夫婦が望まない妊娠や中絶を避けることができ、母親や幼児の死亡率を「思いきり」減らすことができた(当然の結果だ!)と主張した。

 バウエル元大臣は2002年7月25日付のラ・レプブリカ紙の中で、1996年から2000年の間にアメリカの機関が行った調査の結果に基づき、「出産適齢期の女性の90%は、自分が受けた家族計画法にとても満足している」と断言した。ところが同じページにリヒア・リオスという母親の証言も掲載されていて、不妊手術に同意するまで、ペルー社会保険機関(IPSS)の職員からどのような嫌がらせを受けたかが述べられていた。以来、彼女は熱や出血、腹痛に悩まされ、働くことができなったという。

 2002年7月23日に保健省の最終報告が議会に提出されると、議員たちはフジモリ前大統領と3人の元保健大臣を「民族虐殺」および「人道に反する犯罪」の容疑で告訴することを決めた。1年後の同じ日、独立浄化戦線(FIM)のドーラ・ヌニェス議員が委員長を務める議会の人権委員会が、同一の罪状を改めて取り上げ、国家検事総長の下での調査を要請した。これは議会の常任委員会によって却下された。議論は次から次へと委員会をたらい回しにされ、どんどん行き詰まっていった。

 この間、日本政府から日本国籍を付与されて以来ずっと東京に住み、ペルー政府による引き渡し要求から保護されているフジモリ被告は、次のように反論した。自分は強制不妊手術などやっていない。それどころか、ペルー史上初めて、国民は母親になる責任を選択する手段を得たのだ。

 だが、ペルーや外国の研究者たちが、何年もかけて、真相を明らかにしようと努力を重ねている(2)。社会学者でもある弁護士のヒウリア・タマーヨは、ラテンアメリカ女性人権擁護委員会(CLADEM)ペルー支部の委託により、リマ、クスコ、ロレト、ピウラ、サン・マルタン各州に住む100人ほどの女性から証言を集めた。それらをまとめたものが1998年6月22日、首都圏最大の日刊紙エル・コメルシオに掲載された。そこには、不妊手術のずさんな実態、事前の同意の欠如、手術後の合併症の発生、ありとあらゆる逸脱行為が記されていた。不注意や劣悪な衛生条件、スタッフの訓練不足、患者の健康状態の悪さ(結核、栄養失調)によって、また時には患者が妊娠していることに気づかなかったために、死亡者が出たことも書かれていた。

 1年後、このデータはドキュメンタリー・ビデオとセットにして、『ナーダ・ペルソナル(個人的なことなんかじゃない)』という衝撃的な本にまとめられた。そこでは劇的な事実が暴露されている。政府が当初、不妊手術の「達成すべき目標件数」として掲げていたものは、じきに各関係者や保健所にとって義務的な「満たすべき割当て件数」に変わったのだ。成績がよいと報奨が与えられ、悪いと懲罰が加えられた。『ナーダ・ペルソナル』には国家が打ち立てた非情な政策が描き出されており、このため著者は脅迫や威嚇を受けることになる。

 当時のペルー政府は、割当て件数を設けたことは一切認めていない。しかし、AQVの実施件数、特にそのものすごい増加率は否定のしようもない。1996年には8万1762件だった卵管結紮の件数は、97年には10万9689件に上がり、これをピークに翌年には2万5995件と急減した。いずれにせよ、ペルーの内外で沈黙が続いている。

 西アンデスの標高2300メートルの地点に建設され、「白い町」という美称を持つアレキパは、反体制的な町として知られ、社会闘争の長い伝統がある。フジモリ体制に対しても、やはり抗議の姿勢を表した。大学の学長経験者フアン・マヌエル・ギジェンが、2003年まで市長を務めていた。彼の在職中にアレキパ市民たちは、二つの電力会社の民営化中止を求め、トレド現大統領に対して激しい抗議運動を行った。「私の見解では、国際通貨基金(IMF)と世界銀行がペルーに押し付けた新自由主義政策と、フジモリが企てた家族計画プログラムの間には、密接な関係がある」とギジェンは言う。「IMFは新たな融資と既存の債務の再交渉と引き換えに、保健衛生部門まで含めた民営化、外国資本への市場開放、それに人口増加の抑制を求めてきた。主眼は貧しい人々、そして非常に貧しい人々、つまり潜在的に『危険』な階層にある。こうして個人の権利、家族の権利、さらに広くは、社会の基本となる倫理的な原則が侵されるようになった」

 だが、かのリプロダクティブ・ヘルス&家族計画プログラムは、1995年7月28日に実に巧みに発表された。所得や教育水準の低い世帯も、高所得者層と同じように様々な家族計画法が利用できるようになる、という点をフジモリ大統領は特に強調し、さらに勇ましい調子でこう締めくくった。「我々はタブーも聖域もない実務型の政府であったし、これからもそうあるだろう。ペルー女性は自らの運命の主人であるべきなのだ」

 このプロジェクトの資金の出所はどこか。国庫、だが無論それだけではない。最大の技術的、財政的な支援は米国際開発局(USAID)によるもので、3600万ドルを出資している。これは第二の支援者である国連人口基金(UNFPA)の7倍にのぼる。共和党が過半数を占め、伝統的に産児制限に反対の姿勢をとるアメリカ議会がUSAIDの出資を承認したのは、議会の関心が当時そこにはなく、クリントン大統領との政策闘争といった国内問題に向いていたからだった。他には、フジモリの東京での最大の庇護者たる曽野綾子を会長とする日本財団も、およそ200万ドルを出資した。

WHOの讃辞

 様々な非政府組織(NGO)も資金を受け取っている。アメリカのパスファインダーや、ペルーの女性団体マヌエラ・ラモス(3)などだ。これらの組織は、女性運動団体フローラ・トリスタンとともに1970年代から女性の権利のために闘っており、一部はオプス・デイ(4)とも結び付いたカトリック教会の「旧弊」な姿勢をやりこめる好機が訪れたと、熱狂を隠そうともしなかった。

 事実、「人為的」な手段によって産児制限を進め、学校に性教育の授業を導入しようという決定に対し、教会の上層部はただちに攻撃を開始した。後に、強制不妊手術のことを知らされた女性NGO団体は、保守勢力がそれを口実として、家族計画プログラムをつぶそうとするという危険を察知した。となると、いくつかの「過ち」については個別に非難しつつも、巨大国際機関に後押しされた政府の戦略を支持しないわけにいかなかった。なんたる矛盾、なんたる二面性だったろうか。

 1992年4月5日の自作クーデタ(議会の解散と司法権の停止)、それにフジショック(必要な調整であるという触れ込みの超自由主義的な措置の実施)にもかかわらず、フジモリ大統領は95年の選挙では、左翼ゲリラのセンデロ・ルミノソに対する勝利を引っさげて、64%の得票率で再選された。「彼はそれ以降、産児制限という従来タブーとされてきた問題について、急進的な決定を下すようになった」と、米州自由貿易地帯(FTAA)反対運動のコーディネーターを務める政治評論家、ラウル・ビエネルは言う。「フジモリは数学に長けていて、数字が大好きだ。女性一人あたりの出産数を減らすことで貧困を減らすというのは、その数学の一環をなす。この計算を成功させるためなら、非常に乱暴なやり方も含めて、なんでもありだった」

 1995年9月9日、フジモリ大統領は不妊手術の実施を可能にするために、「一般人口法」の改正法案を議会に提出する(5)。議会は同月、ホルモン注射やピル、ペッサリーやコンドームのような他の避妊法と同様に、不妊手術を合法化する法案を承認した。ここで重要なポイントは、手術が無料だということだ。政府には非常に気合いが入っていて、女性・人間開発推進省(PROMUDEH)をはじめとする全省庁のほか、国軍と警察も積極的に関与した。

 担当の医師は3カ月以内、延長なしの期間限定で雇われており、もはや良心に基づく異議申立をすることは認められなかった。「卵管結紮フェスティバル」などという名前のイベントが、農村やスラム街で催された。ゲームにダンス、コンサート、お芝居、人形劇、花火、スポーツ、それに料理がふんだんに振る舞われ、歯医者や美容師をただで利用できる。絵入りのポスターには、子供の少ない「モダン」な家族と、足元にわらわら子供がひしめく「遅れた」家族の姿。立て看板には「無料で卵管結紮や精管切除を」というスペイン語の文字。そう、町からやって来た医者は、この日の終わりには仕事をしっかり完了させた。だが、彼らが与えた情報とサインさせた「同意書」について、ケチュア語を話す農民や、大半は読み書きのできない女性たちが、どれほどのことを理解できただろうか。

 「女医や看護婦、保健婦は、地元の診療所で農家の女性とおしゃべりをした。そして油や麦、砂糖や米をあげて、気を許させるようにしたわけさ」と、クスコのサン・アントニオ・アバト中央大学を出て、マチュ・ピチュで観光ガイドをやっている35歳の男性D・Wは言う。「こうしたことが、政府による食糧援助プログラムの実施や、僻地のインフラ整備工事と同時並行で進められた。除幕式にはフジモリ自身がやって来て、ポンチョを羽織り、ヘリコプターから降りて、テレビカメラの放列を浴びた。喝采と歓呼で迎えられ、チーノ・ブエーノ(いい東洋人)と呼ばれていたよ」

 ラ・レプブリカやエル・コメルシオのような真面目な新聞が慎重な姿勢を見せたのは、おそらく(一部には)こうした事情が働いたからだろう。しかも国外では、ペルーが家族計画の分野で収めた成功に対して、世界保健機関(WHO)が讃辞を連ねていた(6)。国内では、カトリック教会から「逸脱行為」があるという非難が起きていた。この非難は根拠のある信用できるものだったのだろうか。

 96年春になってようやく、ペルーの奥地で起きていることに対して、エル・コメルシオ紙の記者フリア・マリア・ウルナガが目を向けるようになった。彼女はアマゾン森林地帯の集落トカチェで悲惨な事件が起きたことを嗅ぎ付けて現地に向かい、ある若い母親の命が奪われた経緯について話を聞いた。この母親は、病院で不妊手術を受けてすぐ、バイクタクシーで自宅に戻された。土の道を20分も揺られたせいで、傷口が膿み、それで命を落としてしまった。

 フリア記者はこんなふうに語っている。「彼女の家に行って、近所の女性たちにも会いました。動揺して怯えていました。彼女たちも同じ手術を受けて、『売女』と口々に罵る夫たちの怒りに直面していたのです。続けて、亡くなった女性の2人の子供にも会いました。2人の孤児の写真が新聞の一面を飾り、このルポによって隠されていた出来事が暴露されることになったのです」。労働組合、女性団体、ベアトリス・メリーノ(FIM)のような野党議員、カトリック関係者などが動き出した。しかし、都市住民が大半を占めるペルーの一般市民は、ほとんど心を動かすことがなかった。「今では関心はさらに薄れています。ペルーの人々は社会問題と経済危機に直面していますから。それぞれ自分のことしか考えていないうえに、指導者層に深く失望しているという状況です」

薄れゆく関心

 ラモン・フィゲロア医師は、アンデス山中の標高3400メートル地点、インカ文明の「生きた博物館」と言われるクスコで、1995年に公衆衛生部門の外科医を務めていた。その後も数カ月の間、地方病院の院長職にとどまった。彼は96年に同僚の医師とともに医師連盟を通じて、人種差別的な不妊手術キャンペーンを非難するようになる。「緊張した空気でした。強権と弾圧に走り、汚職にまみれた政府に正面切って立ち向かったせいで、我々は重大な脅迫に見舞われました」と、現在は分権民主党(PDD)で左派の闘士として活動するフィゲロア医師は語る。「我々は『反乱分子』と名指しされました。ようやく少しずつ、政府はこの非人間的な政策をある程度まで放棄するようになってきましたが、自己批判はまったくしていません」

 プノ州第二の都市イラベでは、アイマラ族出身の43歳のフェルナンド・ロブレス・カジョマナイが2年前に市長に就いた。「政府は当時、まさに『民族浄化』に乗り出して、白人やクリオーリョではなく、先住民だけを攻撃対象にした」と彼は言う。「それは人口を筆頭に、経済と社会の様々な面に打撃を与えた」。出生数は大幅に減り、小学校や中学校は空っぽになった。教育機関の統合を実施する必要が生じ、生徒数が足りなくて廃校になるところも出てきた。他方、手術を受けたカンペンシーナ(女性農民)の多くが、病気や鬱など様々な障害に苦しんでいる。「彼女たちは周りから冷たい目で見られている。精管切除をした少数の男性は『去勢者』と呼ばれている」

 アメリカで、遅ればせながら、怒りの声が聞こえるようになった。特に、人口調査研究所(PRI)がデーヴィッド・モリソン代表をカメラマンの一団とともにペルーに派遣して以降、そうした声が高まった。98年1月にPRIのルポルタージュが制作されると、議会も関心を向け、犠牲者の公聴会を開くことにした。その頃リマでは、増え続ける告訴や告発に、人権オンブズマン事務局が大きな関心を寄せていた。

 こうした中で、アメリカ議会はペルーの家族計画プログラムへの援助を見直さざるを得なくなった。98年10月22日にティーハート修正条項(7)が可決されると、ペルーや他の国々へのUSAIDの資金援助に規制がかけられるようになった。受益者は命じられた条件に服さなければならず、さもなければ援助金を受け取ることができなくなった。これは人権の尊重に関する立派な警告であるように思われた。しかし、99年12月に再びペルーに赴き、アヤクチョ州とワヌコ州を視察したデーヴィッド・モリソンは、無理強い、不充分な情報提供、脅迫、裏工作が続いていることを示し、こう非難した。「それでもUSAIDがペルー政府への送金、つまり違法になった資金提供をやめることはなかった(8)

 以後、不妊手術に関わる基準は厳しく見直され、是正された。産児制限に関する他の政策についても同様である。カトリック教会の内部では反動勢力が勢い付き、政治に影響力を及ぼすようになった。トレド大統領の政党ペルー・ポシブレのナンバー2であるソラリ議員は、サン・マルコス大学で医学を修めた。彼はペルー司教会議の生活防衛部のメンバーとして、自分は「信仰者」だと述べており、2001年に保健大臣になると、特別委員会の設置を主導した。この委員会が1年後に、強制不妊手術に関する「最終報告書」を大々的に発表することになるわけだ。

 「彼はこれを出すことで、女性の自由を中心問題としたものをはじめとして過去の調査を否定し、自分の保守的な考え方を押し付けたのです」と、CLADEMペルー支部の弁護士で、女性人権擁護調査事務所というNGOを率いるロクサーナ・バスケスは論じた。「我々の主要な関心事が何かと言えば、それは女性の権利が保障されることなのですから。例えば中絶は禁じられており、訴追の対象になっています。中産階級の女性なら、危険を冒さずに手術することができます。針を使って命を落とす年間35万人以上の人々は貧しい女性たちです。保健大臣になったソラリ氏も後任のカルボネ氏も、避妊法の利用に反対しましたし、今でも反対しています」。新たに保健大臣となったピラール・エレーナ・マセティは、彼らよりも開放的な精神の持ち主に見えるが、事態が改善に向かうとは限らない。真実和解委員会も、根本的な変革の必要を主張して、過去20年間に振るわれた政治的暴力の原因の総括と分析を試みてきた。2003年8月28日に公表された同委の「最終報告書」によれば、こうした政治的暴力のうちに露呈されているのは「ペルー社会に過去に存在し、現在も存在する巨大な亀裂」であり、「貧困や社会的排除と暴力の犠牲者となる可能性との相関」であるという。犠牲者の大部分は、貧困地域に住みケチュア語を話す農民であり、こうした「取るに足りない」人々の運命が他の国民の関心を引くことはない。

 「この悲劇には多くの点で、不妊手術を強制された女性たちの悲劇と似たところがあります」と、ペルー・カトリック大学の学長で、真実和解委員会の委員長を務めるサロモン・レルネル・フェブレスは結論付ける。「しかし、彼女たちのことはもはや問題として取り上げられなくなってしまいました。私の見るところ、このとんでもない出来事では、イデオロギーのせいで何がなんだか分からなくされてしまいました。頭の固い女性運動家たちを尻目に、オプス・デイが議論の主導権を握ろうとしましたし、政治責任者たちは国民の無知と無関心につけこんで開き直ってしまった。私の大学では、人権・民主主義研究所の創設を予定しています。大規模な不妊手術の問題も取り上げるつもりです」

 この犯罪は、それほど人々の耳目を引かないまま終わってしまうことになるのだろうか。

(1) ペルー農業地域自治体ネットワーク(REMURPE)は、2000年1月にリマで設立された組織であり、その2年後にペルー革新自治体ネットワークとの合併により強化された。フランスやイギリスをはじめ、数々の国際技術協力機関からの支援を受けている(http://www.remurpe.org.pe)。
(2) 公衆衛生コンサルタントを務めるペルー人女性の以下の調査報告を参照。Raquel Hurtado, << Aplicacion de la anticonception quirurgica como politica de poblacion en el Peru y violaciones a los derechos humanos : un analisis desde la perspectiva de genero >>(ペルーにおける人口政策および人権侵害としての避妊手術の実施), Lima 2000. 政治評論家でもあるジャーナリストがドイツ正義平和委員会のために書いた以下の書物も参照(原著は2000年3月にドイツ正義平和委員会出版より刊行)。Maria-Christine Zauzich, Peru : politica de poblacion y derechos humanos . Campanas de esterilizacion 1996-1998(ペルー:人口政策と人権−不妊化キャンペーン、1996-1998), Medios & Enlaces, Lima, April 2000.
(3) ペルーのNGOレプロサルード・マヌエラ・ラモスは、1995年から2000年にかけ、USAIDから約2500万ドルを受け取ったと見られる。
(4) スペインのエスクリバー・デ・バラゲル師が1928年に創設した保守的なカトリック組織。クリスチアン・テラス「欧州カトリック勢力のロビー工作」(ル・モンド・ディプロマティーク2004年1月号)参照。[訳註]
(5) 1985年に公布された人口政策法の下では、不妊手術は禁じられていた。同法の監督に当たっていた国家人口評議会に替わり、新法では女性・人間開発推進省が設置されることになる。
(6) 1996年2月に開かれた保健衛生部門の改革に関する国際セミナーで、フジモリ大統領が行った開会のスピーチは、世界保健機関(WHO)と汎アメリカ保健機関(PAHO)の全面的な賛同を得た。
(7) 法案の推進に中心的な役割を果たした共和党の下院議員(カンザス州選出)トッド・ティーハートの名前に由来。
(8) See David Morrison, << A pesar de abusos comprobables, la Usaid sigue financiando programas de planificacion familiar en Peru >>(検証可能な逸脱行為があったにもかかわらず、USAIDはペルーの家族計画プログラムへの資金援助を続行), PRI Review, Front Royal, Virginia, January-February 2000.


(2004年5月号)

* 筆者名の欧文表記を追加(2005年1月30日)

All rights reserved, 2004, Le Monde diplomatique + Mori Ryoko + Jayalath Yoshiko + Saito Kagumi

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