ドイツは戦争の苦難を語り得るか

ブリギッテ・ペツォルト(Brigitte Patzold)
ジャーナリスト

訳・森亮子

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 ドイツの民間人が体験した国外追放、強制移住、強制収容の苦難、特に第2次世界大戦の終了間際の体験について語ることができるのか。「死刑執行者」が「犠牲者」でもあるという事態は成り立つのか。まだ癒えない傷を再び開こうとすべきなのか。終戦から60年たった今、ポーランドとチェコスロヴァキアから追放されたドイツ人を記念するセンターの建設計画によって、こうした論争が再燃している。[フランス語版編集部]

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 チェコスロヴァキアとポーランドから、第2次世界大戦後に追い出されたドイツ人を記念するセンターを作るべきか。人々の心の奥に葬られた記憶を呼び覚ますことが必要だとすれば、このようなセンターの設置先として、どの町がよいのか。ベルリンか、ヴロツワフか、ジュネーヴか、ストラスブールか、それともストックホルムか。こうした議論がここ数カ月にわたり、世論を沸騰させているのは偶然ではない。あれから60年を経たドイツは、普通の国になることを目指しており、とりわけ、今春にも欧州連合(EU)に入ってくる東欧諸国との関係正常化に力を注いでいるからだ。

 いつものごとく、議論の先頭を切ったのは文学者だった。ドイツ人は長い間、戦争末期の集団脱出や爆撃で味わった苦しみに身がすくんでいるような状態だった。しかし、世代の交代が進み、当時を知る人々が姿を消しつつある今、沈黙を破る時が来たといわんばかりに万事が運んでいる。

 最初にタブーを破ったのは、ノーベル文学賞作家のギュンター・グラスである。筋金入りの社会民主党支持者で、ヴィリー・ブラントの盟友だったグラスには、ナチスの犯罪を相対化しようとするものだと嫌疑をかけられる余地はまずない(1)。ダンツィヒ(現グダニスク)生まれのこの作家は、小説『蟹の横歩き』(2)の中で、ドイツ人の集団脱出というテーマに挑んだ。この本には、1945年1月30日に客船ヴィルヘルム・グストロフ号がソ連の潜水艦から魚雷攻撃を受け、赤軍の追撃を逃れようとしていた難民9000人が凍てつくバルト海で溺れ死んだ事件のことが書かれている。

 グラスはこれまでずっと、失われた領土は二つの世界大戦を引き起こしたドイツが「支払わねばならぬ代価」だったと固く信じてきた。この見事な小説は、そんな彼が急変したことを物語っているのだろうか。いな、彼の変化は別のところ、ドイツ人の苦難というテーマにもっと早くに取り組まなかったことへの自責の念にある。「このテーマを右翼に独占させておくべきではなかった。これを語るのは、私の世代の義務だった」と老大家は語る。この作品の登場はまさに爆発的だった。数週間のうちに、40万部が飛ぶように売れた。

 似たような衝撃を人々に与えた本がもう一冊ある。ヨルク・フリードリッヒの『火事』だ(3)。1943年から45年にかけてハンブルク、ドレスデン、ケルンなどが受けた爆撃(161の町が破壊され、60万人が死亡)が描写されている。この「火の戦争」は、紛れもなく連合軍が全滅を企図して行ったものだった。歴史家であり、ドイツ軍がロシアで犯した犯罪に関する著作もあるフリードリッヒは、今まで専門書でしか扱われてこなかった問題を、幅広い読者に投げかけた。大きな歴史について公に構えるのではなく、名もない人々が受けた苦難を伝える物語は、確かに未だかつてない反響を読者のうちに呼び起こした。

 若い作家もまた、こうした過去とその生き証人に関心を寄せる。36歳の小説家タニヤ・デュケルスは、ギュンター・グラスと同じテーマによる小説を書いた(4)。彼女は屋根裏部屋で古い手紙を見つけたことをきっかけに、ヴィルヘルム・グストロフ号の危難から間一髪のところで逃れたおじとおばに質問を投げかける。クリストフ・アーメント、シュテファン・ヴァクヴィッツ、ラインハルト・イルグル、オラフ・ミューラーといった若手の作家も、祖父母たちが体験した戦争と集団脱出、領土喪失といったドイツの過去に題材をとる。

 41歳のヒルケ・ローレンツは、「戦争の子供たち」にインタビューをした(5)。「私の身近では、まるでいけないことであるかのように、戦争の話はぽつぽつとしか出なかった。同情を表すのは非常識なことだった」と彼女は言う。このジャーナリストが選んだ方法は、爆撃のトラウマや地下壕で味わった恐怖、母親や姉妹がレイプされるの何もできずに目撃した体験、両親との死別について、生き残った人々に語ってもらうことだった。このようなことを話すのは並大抵のことではない。「死刑執行人の民族」が他の民族に加えた苦しみを前にして、どうやって自分たち自身の苦しみを言葉にすればよいというのか。

 こういったことが、第2次世界大戦の末期に追放されたドイツ人を記念するセンターの建設の是非を問う議論の背景にある。しかしながら、大きな論争になったのは、むしろ場所の選択についてだった。

ポーランドとチェコの反発

 ベルリンを候補地とする案は、国内から出てきたものだ。提案者のエリカ・シュタインバッハは、社会民主党員のペーター・グロッツと共同で国外追放者連盟の会長を務めており、生まれ故郷チェコスロヴァキアのズデーテン地方の歴史とドイツ人の集団脱出に関する近著(6)がある。これに対しヨーロッパ規模で提案されている候補地は、ポーランドのヴロツワフである。この動きを先導したのは、現在は社会民主党所属の下院議員で、かつて東ドイツ最後の政府で外相を務めたマルクス・メッケルである。2003年7月にメッケルが呼びかけた賛同署名には、ノーベル文学賞受賞者のギュンター・グラスとイムレ・ケルテースの名もある。

 シュタインバッハが自案を打ち出したのは、ちょうど国外追放者連盟の会長に選ばれて間もない2000年2月のことだった。彼女は反国外追放財団を創設し、この財団と同じ名前のセンターを首都ベルリンに建設するのに必要な資金集めを開始した。滑り出しは順調に思われた。ラウ大統領と、追放ドイツ人の息子であるシリー内相が支持に傾いている様子だっただけでなく、シュレーダー首相もフィッシャー外相も反対はしなかった。

 しかし、計画が固まって、それに関する議論が始まった途端、ポーランドやチェコなどで反発が強まった。2003年の夏、ポーランドの雑誌ヴプロストのトップ記事を飾ったのは、羊の姿をしたシュレーダー首相の背に、ナチス親衛隊の制服を着たシュタインバッハがまたがっている合成写真だった(7)。注釈には、「第2次世界大戦の最中に犯した犯罪の賠償として、ドイツ人はポーランド人に1兆ドルを支払う義務がある」と書かれていた。

 一連の経緯を見ていると、ポーランド人は今もなおドイツ人の「復讐心」を恐れながら暮らしていて、戦後の和解に基づいた良好な関係はあっけなく崩れ去ってしまいかねないとでもいうようだ。政界の大物たちは、歯に衣着せぬ物言いでドイツの計画を非難し、火に油を注いだ。バルトシェフスキ前外相は「狂信的排外主義がドイツで月並みなものになりかけている」と発言した。ゲメレク元外相も、ベルリンを候補地とする案は和解に寄与するどころか「憎しみを掻き立てる」だけだと言う。

 ズデーテン問題が今なお政治に不穏な影を投げかけているチェコでも、やはり同様の反発が起こった。歴史はこの国に痛ましい傷跡を残している。当時ゼマン首相が指摘したように、ナチスがズデーテンに侵攻し(1938年10月)、次いでボヘミア・モラヴィア地方に侵攻すると(1939年3月)、最初にドイツ人の方がチェコ人を追放した。この前首相は、ズデーテンのドイツ人を「ヒットラーのスパイ」呼ばわりした。チェコ総督だったラインハルト・ハイドリッヒの暗殺(1942年5月27日)からリディツェ村の民間人虐殺(1942年6月10日)、さらに1945年から46年にかけてのドイツ人追放にいたるまでの、暴力の連鎖は深く記憶に刻み込まれている。

 1991年には、ハヴェル大統領がチェコスロヴァキア国民を代表して、国外追放の際にドイツ人の虐殺が実行されたことを謝罪し、旧ズデーテン住民が失った財産の返還を請求するための便宜として、チェコスロヴァキア国籍を付与することさえ提案した(8)。今となっては、この和解案ははるか遠くのことのように思えてしまう。現在チェコ政府には、1945年のベネシュ大統領令を撤廃するつもりはない。ナチス政権への協力者として一括して糾弾されたドイツ人300万人の財産没収と国外追放に法的根拠を与えたのが、この大統領令だった。調査によると、世論も同じく撤廃に反対している。

 この状況に鑑みれば、ベルリンに反国外追放センターを建設するという案が、大学研究者ハンス・ヘニングとエヴァ・ハーンの主導する抗議運動を呼び起こしたこともうなずける。2人はチェコ、ポーランド、ドイツの政治家や知識人から多くの署名を集めた。

議論はまだ開かれたまま

 メッケル議員が2003年7月に、はっきりとヨーロッパ的な見地に立つ計画を打ち出したのも、東の隣国からの明らかな不信を目の当たりにしたからだ。メッケルは多数の支持者を勝ち得ていた。追放ドイツ人の息子である現ポーランド大統領クヴァシニエフスキ、前チェコ大統領ハヴェルに加え、ポーランドの元大臣バルトシェフスキとゲレメクの2人、他にチェコの政治家として、首相経験のある現上院議長ピトハルト、副首相マレシュ、両国の合同フォーラム「ブドゥスノスチ(未来のために)」の共同責任者カフカなどがいる。

 ポーランドの日刊紙『選挙新聞』の編集長アダム・ミフニクは、欧州センターの候補地としてヴロツワフを最も強く推す一人だ。この町は、ウクライナのリヴォフから追放されたドイツ人とポーランド人が交差した場所だった(9)。ハヴェル前チェコ大統領はヴロツワフという案に好意的だが、クラウス現大統領はストックホルムの方が中立的で好ましいとする。

 メッケル議員は場所にはこだわらない。彼にとって大切なことは、この計画をヨーロッパ全体の流れに組み込み、国外追放や強制移住、強制収容を基本的人権の侵害であるとする新しいコンセンサスが、将来のEU加盟国にも共有されるようにすることだ。チャーチルやF・ルーズヴェルトといった民主主義者は、住民を移動させて同質の民族集団を作り出すことが平和を確立するためには正しいと信じたが、民間人がトラウマに苦しみ、ナショナリズムが生み出された歴史を見れば、それが誤りだったことがわかる。

 この見方に立つならば、ドイツ人にも自らの苦難を人々に知ってもらう権利がある。だからといって、第2次世界大戦と民族大虐殺に対するドイツ人の責任が軽減するわけではない。大切なのは、民族ごとに犠牲者を数え上げるという暗鬱な作業を行うことではなく、さまざまな民族がそれぞれの見方の違いを考慮に入れつつ、えり好みなく民族の枠を超えた記憶の義務に目覚めるように持っていくことだ。シリ−内相が言うように、反国外追放センターは博物館でも裁判所でもなく、ヨーロッパのこれからの世代が生きた歴史を学べる場にしなければならない。

 しかし、それだけでは終わらない。ある犯罪を別の犯罪と引き換えに忘れてあげるというのでは、たとえ「集団責任」が建前にされたとしても「『目には目を』の応報の論理を復活させること」になると、ペーター・グロッツは言う。グロッツは、センターの建設が始まるというのであれば、場所の選択に関しては譲歩するつもりでいる。「ベルリンに作る考えをあきらめなければならないなら、そうしようじゃないか。しかし、だからといってスレブレニツァやストックホルムというのも極端だ」。彼によれば、真っ先に取り組むべきは教えるという作業を始めることであり、2005年にもボンの歴史館で「追放の世紀」に関する大規模な展覧会を開催することだ。それは強制移住からアルメニア人の大虐殺、ズデーテンを経てコソヴォにいたるまでの史実を教えるものになるだろう。

 メッケルもまた先を急いでいる。場所だけでなく資金調達の面でも問題のあるような建設計画が、政府あるいはEUによって決められてしまう前に、彼はセミナーやシンポジウム、歴史ワークショップ、コンクールや奨学金といった側面から、国外追放に反対するヨーロッパ規模のネットワークを作り上げようとする。

 したがって、議論はまだ開かれたままだ。それに「我々はみな難民だ」と表面的に合意するだけで終わってしまうのは望ましくない。ポーランドの作家ステファン・フフィンは、ナチスに追放された自分の母親と、ポーランド人にダンツィヒ=グダニスクから追い出されたドイツ人との間には、違いが一つあると指摘している。それは、侵略した側と侵略された側の違いだ。ギュンター・グラスも決してそれを忘れたわけではない。しかし、生まれ故郷の町を喪失した痛みがそれで変わることもない。

(1) ブリギッテ・ペツォルト「ギュンター・グラス−忘却に抗する十字軍」(ル・モンド・ディプロマティーク1995年10月号)参照。
(2) ギュンター・グラス『蟹の横歩き』(池内紀訳、集英社、2003年)。ドミニク・ヴィダルによる書評「ドイツとその息子たち」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年2月号)参照。
(3) Jorg Friedrich, Der Brand(火事), Propylaen Verlag, Berlin, 2002.
(4) Tanja Duckers, Himmelskorper(天体), Aufbau Verlag, Berlin, 2003.
(5) Hilke Lorenz, Kriegskinder(戦争の子供たち), List Verlag, Munchen, 2003.
(6) Erika Steinbach, Die Vertreibung. Bohmen als Lehrstuck(追放−教訓としてのボヘミア), Ullstein Verlag, 2003.
(7) 週刊誌シュピーゲル(ベルリン)2003年9月22日号に転載。
(8) アントニーン・リーム「苦渋に満ちたズデーテン問題の解決に向けて」(ル・モンド・ディプロマティーク1996年2月号)参照。
(9) ブリギッテ・ペツォルト「ポーランド領ヴロツワフの下からほの見えるドイツ領ブレスラウの面影」(ル・モンド・ディプロマティーク1996年5月号)参照。


(2004年4月号)

* リード文「フランス語編集部」を「フランス語版編集部」に訂正(2004年4月25日)

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