ベネズエラ反体制派の大立ち回り

モーリス・ルモワーヌ特派員(Maurice Lemoine)
ル・モンド・ディプロマティーク編集部

訳・阿部幸

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 クーデターに失敗し、経済を揺さぶる策に出たベネズエラの反体制派は、この国に民主的な手続きというものがあることを思い出したらしい。憲法の規定に依拠して、チャベス大統領の罷免を求める国民投票の実施請求に乗り出したのだ。しかしながら、反体制派が全国選挙評議会(CNE)の決定を受け入れようとせず、市民的不服従を呼びかけていることから、ベネズエラでは再び、危険なほど緊張が高まっている。[フランス語版編集部]

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 「国民投票の実施を要求する者もいたな。それがどうだ、実施にこぎつけたはいいが、敗れ去ったではないか」。2002年4月14日、ミラフローレス宮(大統領府)への帰還後に開いた記者会見で、笑顔のチャベス大統領の口からは、ついつい皮肉な言葉がこぼれ出た。その3日前にクーデターに襲われた大統領は、軍の忠誠派と驚異的な民衆運動のおかげで、政権に復帰したところだった(1)。スラム街の入り組んだ路地の中で、彼の無数の支持者たちが、この総司令官の脇をかためる。「チャベスがそれほど悪いなら、どうして人々がこんなに彼を愛するっていうんだい。どうしてミラフローレスへ連れ戻したりするんだい」

 この時のことを、1998年の大統領選挙でチャベスに敗れた対立候補、エンリケ・サラス・ロメルはこんなふうに語る。「この事件は、極右が政権を奪い取って、民意に反することを始めようとしている、というふうに受け止められた。それに比べて、チャベスが、本当はそうではないのに、民主主義者のように見えてしまったのだ。連帯感の高まった魔法の瞬間があったというわけだが、しかしキリストだって磔にされる1週間前には歓呼で迎えられていたことを忘れないでいただきたい」。何をかいわんや。

 一時は打ちのめされていた反チャベス派は、目にものみせてやるという姿勢を取り戻した。2002年末、彼らは政権と対決しようとして、後に「デモ合戦」と呼ばれることになる動きに明け暮れた。クーデター直前の時期と同様、メディアがそうした空気を「過熱」させまくった(2)。だが、反体制派が大規模なデモを打つたびに、大統領派がそれと同じぐらい、時にはそれ以上の規模の真っ赤な人波をもって応戦した。メディアが見ようとも、伝えようともしなかったことである。そのため、反体制派は(メディア情報に惑わされ)大統領派のデモが起こっていたことを知らないまま、もっぱら反体制派の「最大級のデモ」「巨大デモ」「超級デモ」「デモの中のデモ」に沸き立つテレビ・ニュースのペースに乗っかっていた。「国中」が大統領の退陣を求めている、というわけだ。

 2002年7月11日、経営者層に金で買われた労働組合、ベネズエラ労働者連盟(CTV)のカルロス・オルテガ議長は、それまでに何度となく繰り返してきた言葉を口にした。「チャベスが退陣する時まで、我々に休息はない」。緊張が高まり、小競り合いが散発した。後にメディアが「11A」という略語で呼ぶようになる4月11日の軍部反乱事件に関し、同年8月14日に最高裁が4人の将校の訴追を11対8で否認すると、まずチャベス派が口火を切って、衝突は暴力的なものに転じた。庶民はこの決定にいきり立った。「これではまるで、ビン・ラディンを裁くと言いながら、世界貿易センタービルがひとりでに崩れ落ちたと結論付けるようなものじゃないか」。逆説的なことに、批判勢力が「独裁的」と断ずる政府のもとで、11A事件の首謀者は一人として処分されていない。彼らはそれをいいことに活動を続けている。しかも、アメリカ政府は首都カラカスに、政権交代事務所なる機関を置くと発表している。

 「民主調整者」の旗印のもとに結集した反体制派に、危機の制度的な解決を探る道がないわけではなかった。憲法によると、2003年8月19日に到来する大統領の任期半ばには、国民発議により大統領の罷免を求める国民投票を組織することができる(第72条)。しかし、法の規定なんて知ったことではないとばかりに、反体制派の指導者たちは先を急いだ。民意を問う手続きでは勝算はおぼつかないという懸念もあった。

 2002年10月22日、クーデターに関与した軍人14人が、アルタミラの高級住宅地にあるフランシア広場から「正当な不服従」の声明を読み上げた。間もなく70人になった軍人たちは、この「解放区」にキャンプを張り、そこで何週間にもわたって、活字メディアとテレビが周到に仕組んだショーを展開することになる。より「ソフト」な2度目のクーデターに向けた準備は、これで万端だった。

 米州機構(OAS)の呼びかけによって、政府と民主調整者は話し合いに臨んだが、民主調整者は「大統領退陣まで」続けるというゼネストを宣言する。この経営者主導のロックアウトは、一部でしか開始されなかったが、やがて最終兵器を振り回すことになる。国営ベネズエラ石油(PDVSA)である。操業停止によって政府を苦しめることができるのは、この会社だけだった。オリガルキーならぬオイルガルキーと呼ばれる同社の経営陣は、労働者たちを職場から追いやることで、確かに政府に手痛い一撃を加えることになる。

 ロックアウトは2002年12月と2003年1月の63日間にわたって続き、経済の中枢を狙ったサボタージュが繰り返され、約100億ドルの損失をこの国にもたらした。2002年4月のクーデターと同様この時も、何人かの「殉教者」が「民主主義」の生け贄とされた。12月6日、オルテガ議長が反体制派の軍人の本拠地フランシア広場で定例記者会見を行っていた時、一人の男が開いた銃口により、「エスクアリド(3)」の群衆のうち3人が死亡、28人が負傷した。メディアが生中継で「アルタミラの虐殺」の「恐怖と大混乱」のシーンを流す中で、オルテガ議長は「OASのベネズエラ介入」を求め、チャベスを人殺しと呼んだ。11A事件に関与したエンリケ・メディナ・ゴメス将軍は、大統領を倒すために軍が決起するよう呼びかけた。

 その翌日から、素人の撮ったビデオが民放各社で繰り返し放映され、容疑者とされたポルトガル国籍のジョアン・ゴウヴェイア氏が、カラカス市長フレディ・ベルナルを含む大統領の側近らと一緒にいるシーンが映し出された。事件の責任は彼らに帰された。その後の捜査でパスポートを調べたところ、ゴウヴェイア氏はビデオが撮られたとされる時刻にポルトガルにいたことが判明したが、そのことは報じられていない(4)。でっちあげだ。しかし、この工作のおかげで、ホワイトハウスのフライシャー報道官は、次のように宣言してみせることができた。「アメリカは、この危機から脱するための政治的に実行可能かつ平和的な唯一の解決策は、早期選挙の実施であると確信する(5)」。チャベス抜きで、とは言わずもがなである。

第一の署名運動

 しかし、二度にわたり民主的に選出された大統領は、支持派の国民とともに持ちこたえている。とはいえ、一番苦しんでいるのは、この国民たちである。奇妙なことに、都市部の電気もガスも「ゼネスト」にやられはしなかった。もし電気が止まれば、民放テレビが被害を受けることになる。これらのテレビ局は、通常の番組をすべて取りやめ、コマーシャルをカットして、ひたすら経済的サボタージュを呼びかけている。ガスはというと、これは反体制派の基盤となる中流階級の毎日の生活に使用されるものである。

 インフラが整備されていない貧しい地区では、同じガスで料理するといっても、こちらはボンベを用いる。それが店頭から姿を消した。「あれは貧しい者に対するストだったわ」。2003年1月末、カティア地区の住民はそう語った。彼女の家財道具は、テーブル1卓とイス4脚、それと古い冷蔵庫でおしまいだ。「1カ月の間、薪で料理をしなくてはならなかった。それに薪なんてもの、この辺りにはないわよ」。当時は、哺乳瓶のお湯をアイロンで沸かそうとする女性たちもいた。

 まさに戦時経済である。質素な売店の店先に、ある日、張り紙が出る。「トウモロコシの粉あります」。それが次の日には消えている。生活必需品からなくなっていくからだ。「連中は、人々が根負けすると考えたのよ」と、当時はコミュニティ・テレビ局カティアTVのディレクターだったブランカ・エクロウトは語る。「今に爆発するだろうってね」。反乱を引き起こして、政府に対する「民衆の拒絶反応」を示そうという目論見は、しかしながら失敗に終わる。第二のカラカソ(6)が起きることはなかった。「人々はこの事態を冷静に受け入れた」と、これもカティアの地区責任者は言う。「みな、腹を空かして、どんづまりの状況にあるが、それでもチャベスを支持し続けるだろう。街頭行動に出て混乱を引き起こしたりはしない。敵は、この政府ではないのだから」

 2003年を通じて、ベネズエラ経済は9.5%も落ち込んだ。国は荒廃し、福祉政策は阻害された(狙いはまさにここにあった)。しかしながら、チャベスを片付けるために何百万ドルも費やし、大統領に揺さぶりをかけるためのテレビ放送に何千時間も割いたあげく、反体制派は新たに強烈な敗北を喫することになる。

 ストライキが尻すぼみになる中で、反体制派の指導者たちは、メンツをかけて挑発を再開する。2003年2月2日、彼らは憲法を引き合いに、大統領罷免の国民投票を求める署名運動「フィルマソ」に打って出た。この日の実務を取り仕切ったのは、位置付けのはっきりしない組織、スマテ(ぜひ参加を)だった。ただし、アメリカ国務省と近しい国家民主基金(NED)から過去2年間にベネズエラ反体制派の様々な政党や組織に支給された80万ドルのうち(7)、この怪しげな組織が「選挙教育」プログラムという名目で、5万3400ドルを受け取ったことは知られている。

 「歴史的な」「決定的な」「このうえもない」一日は、記憶に残る工作の一日でもあった(裁定者はスマテだけだったのだから)。この日の終わりに、反体制派は400万以上の署名が集まったと発表する。2000年の(棄権率が非常に高かった)選挙の際にチャベスが獲得した375万7733票を上回る数である。この結果を見て、反体制派の一部からは、国民投票を行う必要はないという声もあがった。大統領にはもはや正統性がないという論法だ。もっと巧妙に、政権が国民投票の実施を拒否したという点を突いていこうという者もいた。事実、大統領の任期半ばよりも6カ月と18日早く組織されたこの「フィルマソ」は適法ではない。しかし、ベネズエラ・ボリバル共和国憲法に精通していない国際世論にとっては、国民投票を求めるあらゆる団体は、それだけで民主派というふうに見えている。「その実施を拒む者は、国民の審判を恐れている」というわけだ。このスローガンはとりわけ、2003年9月12日に全国選挙評議会(CNE)が、違憲を理由に実施請求を却下した際に、繰り返し聞かれることになる。

 「70%ものベネズエラ国民がチャベスを拒絶している」。同年8月19日、大統領がついに任期半ばに達した時、フランスをはじめとする各国メディアによって、決まり文句のように繰り返されたのがこの言葉だった。インフレと失業率の上昇に伴い、貧困が拡大したのは事実である。古い政治体質と結び付いた官僚制化、利権政治、買収がいまだに蔓延しているのも事実である。

 しかし、その一方で、政府により激しい再建策がとられた(1万8000人もの人員が解雇された)石油産業が、生産能力を回復して、国の財政を支えていることを忘れてはならないだろう。貧困層を対象とした社会政策にも注目すべきだ。農地改革(8)、労働者地区での持ち家政策、バリオ・アデントロ計画(キューバから数千人の医師の協力を得てスラム街や僻地で行われた保健医療)、ロビンソン計画(100万人規模の識字教育キャンペーン)、リバス計画(中学で中退せざるを得なかった人たちが対象)、メルカル計画(市場より安い価格での生活必需品の販売網)、マイクロクレジットの実施(2001年から2003年にかけて、人民銀行と女性銀行を通じて総額5000万ドルを融資)などである。民衆が大統領を支持していることも忘れてはならない。当の大統領は、間もなく我々にこう語ってみせることになる。「何もしなかった冴えない社会民主主義の大統領として終わるくらいなら、いっそ倒される方がましだ」

第二の署名運動

 OASとカーター・センター(会長はカーター元アメリカ大統領)の後援のもとに進められた困難な交渉の結果、民主調整者は2003年5月29日、今度こそ適法な国民投票実施への道を開く協定を受け入れた。

 新たな全国選挙評議会の委員は、国会が(可決に必要な特別多数決を得られず)指名に失敗した後、8月25日に最高裁によって指名された。反体制派は喜びに沸き立った。最高裁は(11A事件に関与した軍人に対する判決からもうかがえるように)どちらかといえば反体制派に好意的であるからだ。評議会の委員は、政府代表が2人、反体制派が2人、そして議長のフランシスコ・カラスケーロがバランスをとる役目を果たす。議長については、民主調整者の中には信頼できないとする声もあるが、一般的には「反チャベス派」と見られている。国営ベネズエラ石油の再建の際に、家族が解雇されているからである。こうして、委員を一新された評議会に、新たな署名運動「レアフィルマソ」の監督という重大な任務が課されることになる。

 レアフィルマソは、11月28日の金曜から12月1日の月曜にかけて行われた(9)。国民投票を実施するためには、反体制派が開設した2780カ所の署名所で、最低240万2579名(有権者の20%)の署名を集めなければならない。治安という面では、万事が平穏無事に運んだ。海沿いのバルガス州ナグアタでは、何人かが署名しているテーブルのすぐ横で、チャベス派と反チャベス派との軽い小競り合いがあった。「この女、署名者のリストを作ってるぞ」と反体制派の一人が大声をあげる。「ポケットからそのリストを出せ」。詰め寄られた女性は、にっこりとやり返す。「人数を数えてるのよ。嘘みたいな数字が発表されないようにね」。11月29日の土曜日に同州で発表されたのは、確かに、嘘みたいな数字ではなかった。署名所に来る人よりも、銀行のATMの前にいる人のほうが多かった。「当然よ」と、反体制派の地元責任者の一人は我々に語った。「みんな、昨日の金曜日には、さっそく署名に来たんだから」

 その翌日には、チュアオ(カラカス東部、反体制派の拠点)の同じく閑散とした署名所のそばで、「我々の見積もりでは400万の署名が集まった」という言葉を耳にした。続けて、完璧なフランス語で、昔はもっとよかったという現実離れした言い分を聞かされた。「金持ちも貧乏人も一緒に祭りを祝い、同じような服を着て、同じような靴をはいていた。そう、昔はもっとよかった。あの人殺し(チャベスのこと)が社会に亀裂をもたらすまでは」

 ただひとつ、確かに異様だったのは、首都圏の中流階級の牙城であるチャカオ、バルータ、スクレ、チュアオで、プラニージャ(氏名、身分証明書番号、指紋、署名の欄が縦に10人分ずつ並んだ用紙)の数が足りなかったことだ。全国選挙評議会は、地区ごとに有権者の66%分のプラニージャしか許可しなかった。国全体で見れば、民主調整者が動員できる数をはるかに上回る800万までの署名が可能だが、住民の多数が反体制派という社会的条件を備えているような地区の場合、66%では必要分に足りなかった。この問題は、地元で署名できなかった者たちをプラニージャの余った各地の署名所まで連れて行く「自動車ピストン輸送」によって解決された。立会人として現地入りしていたガビリアOAS事務局長は「そのおかげで全員の参加が可能になった」と言う(10)

 急流だ、雪崩だ、政権交代が始まったのだ。反体制派はそう吹聴した。例えば人気記者マルタ・コロミーナは「もはや命脈を絶たれた大統領を蝕む失望と不安(11)」を解説する。大胆な見立てだ。この時ほど、ミラフローレス宮のチャベスがリラックスして見えたことはなかったのだから。彼は我々に語った。「もし署名が集まったというなら、国民投票をするさ。彼らがそこで勝った場合には退陣するよ。憲法を尊重させるところまで持ってこれたんだから。しかし、我々の情報によると、充分な署名が集まるとは思えないね」

 反体制派陣営の見方はこれとは異なる。彼らは何度かの上方修正を経た後、12月19日に、346万7050名分の署名簿を全国選挙評議会に提出したと発表した。この数字を見ると、とっさにいくつかのことが思い浮かぶ。4日間かけたレアフィルマソの数は、スマテが2月2日の午後だけで集めたと称する数に及ばなかった。もちろん、「国民の70%が大統領反対派」と言うには程遠い(12)。もうひとつ、チャベスは、投票日が1日だけの大統領選で、この数を上回る票を獲得している。

 さらに困った事実がある。12月1日の夜、カラカス東部を覆っていたのは見事なまでの沈黙だった。反体制派の指導者の顔には、敗色が浮かんでいた。反体制派陣営の中核と目される5人組(G5)のエンリ・ラモス・アルプ(民主行動党)、フリオ・ボルヘス(正義第一党)、エンリケ・メンドーサ(ミランダ州知事)、フアン・フェルナンデス(石油関係者協会)、エンリケ・サラス・ロメルは、なるべく目立たないようにして、テレビに出ることも、勝利の行進や祝賀会を主催することもしなかった。

 対するチャベス大統領は、レアフィルマソ3日目が終わった時、彼らしい鮮烈な言い回しで「メガ級の不正」があったと糾弾し、新たな波紋を呼び起こした。熱烈なアメリカびいきのコロンビア元大統領で、反体制派への肩入れが周知の事実であるガビリアOAS事務局長は、すぐさま次のように反論した。「我々は、大規模で広範な不正があったことを思わせるような証拠を全く見出さなかった」

長引く確認作業

 だが不正は存在した。全国選挙評議会のホルヘ・ロドリゲス委員は、早くも11月29日の時点で、次のように我々に語っている。「数多くの告発があり、一連の手続き全体に疑問が残る。署名を強要された人たちがいる。例えば、エル・ジャニト病院では、患者たちが『署名しなければ、あなたの手術は行いません』と言われた」。プラニージャを200枚しか受け取っていないのに、400枚分の署名を持ってくる署名所があるかと思えば、未成年や死者の名が連ねられたところもある。世界35カ国から集まった52人の国際監視団の一人、ホンジュラスのドリス・グティエレス議員(民主統一党)は、あるプラスチック製のカードの存在を指摘している(我々もその存在を確認した)。「作成したのはある民間機関(スマテのこと)で、署名に行った証拠として、そこに身元を書いて指紋を押さなければいけない」というものだ。こんなふうに署名行為を公開にするような文書が、どのように使われるかは見当が付く。雇い主に対して(というのも、大多数の人が平日である11月28日金曜日に署名を行ったのだ)、自分は大統領への反対をしっかり表明したと証明してみせるとか(労働省は124の企業が社員に圧力をかけたと告発した)、将来の職探しの際に提示が必要になるとかである。

 「全国選挙評議会が作った書式は、署名所ではプラニージャA、巡回用(原則として署名所まで自分で出向くことができない人用)にはプラニージャBと、明解だったにもかかわらず」と、グティエレス議員は指摘する。「前者が後者の目的に流用された。そうすれば、戸別訪問して署名を集めても、署名所で大量に集めたものだと言うことができるし、決められた規則によれば立会人の目も届かない」(署名所の場合には政府側のボランティアの立会人を置くという規則がある)

 全国選挙評議会による有効署名の確認作業は、それほど面倒なものではないと思われていたせいで長引き、結果発表は何回も延期された。反体制派は数々の非難を浴びせたが、チャベス大統領は2004年1月26日、OASとカーター・センターのメンバーが確認作業に立ち会うことを受け入れた。カーター元大統領の見るところでは、評議会の仕事ぶりは優秀だった。「私の個人的な意見としては、全国選挙評議会は(・・・)適切な決定を下すだろうし、その後の政治的な帰結も受け入れられることになるだろうと思う(13)

 政府は選挙評議会の決定をおとなしく受け入れると約束した。これに対して、反体制派はそういう約束はせず、2月24日に結果が判明すると、なおさら受け入れようとしなかった。有効署名は183万2493名、しかし国民投票を実施するには不充分だ。14万3930名分は不正署名であり、また23万3573名分が有権者名簿と一致しないために無効とされた。さらに87万6017名分が「プラニージャ・プラーナ」に記されていた。どういうことかといえば、筆跡が似通った用紙、つまり(本人のものかもしれない一つは別として)同一人物が書き込んだ署名用紙が、合計9万組近く見つかったということだ。字を書けない人やお年寄りのために署名してあげることは許可されていたが、この種のプラニージャが途方もない数に上るというのは非常に考えにくく、「メガ級の不正」という主張が信憑性を帯びてくる。そのため、全国選挙評議会は、署名者と目される人に再確認させる手続きをとることにした。該当者は、3月18日から22日の間に出頭して、確かに自分は署名したと証言しなければならなかった。

 「署名簿に交渉の余地はない」として、民主調整者は市民的抵抗を呼びかけ、暴力的なデモを繰り返し、国家警備隊に鎮圧された。2月27日から3月4日の間に10人の死者(混乱した状況下だったため、誰が発砲したかは正確には不明)、何十人もの負傷者、300件以上の逮捕者が出た。「署名と指紋、身分証明書番号が本物だと自信を持って言えるのなら」と、ランヘル副大統領は語る。「問題行動に出たりはしないはずだ。どうして確認を恐れることがあるかね。私が署名者なら、行って証言するよ。この署名は確かに私のものだとね(14)

 そんな手続きは詭弁ではないのか。アメリカ政府は当然のことながら、民主調整者に助け船を出した。「懸念」の意を表明し、評議会の「技術的なこだわり」を非難した。忠実な親米派のガビリアOAS事務局長は「サンプリング方式」による署名確認作業を提案した。それはつまり、「かさ」や「目方」で署名を認めろということだ。ベネズエラの選挙結果が投票によってではなく、世論操作のために作られたメカニズムによって決まっていた時代のように。

 こうした後ろ盾に意を強くした最高裁の選挙法廷の裁判官2人が、3月15日、民主調整者によって3月8日に申し立てられた請求について、イバン・リンコン裁判長や憲法法廷に諮ることなしに、適法であると宣言した。プラニージャ・プラーナに記された87万6017名分の署名を、総数に加算することが命じられた。そうすると全部で270万8510となり、国民投票実施に充分な数に達する。立証責任は逆転された。つまり、確認にあたっては、不当に名前を使われた、あるいは使われたと思う市民が、自分は署名しなかったと証言しに来なければならないのだ。こうして、新たな手続き合戦の火蓋が切られ、情勢はますます不安定な気配となった。

 仮に反体制派が大統領罷免を求める国民投票実施にこぎつけたとしても、チャベスが当選時に獲得した375万7733票を上回る賛成票が24時間以内に(もちろん不正なしに)得られ、それがチャベス支持者の投じる反対票を凌駕する必要がある。これまでの票読みと力関係からすれば、成功の見込みがあるとは言いがたい。このため、急進派の中には、混乱を恒常化させることで、アメリカ政府とOAS事務局長の力を借りて、ハイチと同じやり方で危機を解決するという賭けに出ようという者もいる。そこには2つの大きな障害がある。ウゴ・チャベスはジャン=ベルトラン・アリスティドではない。そして、ベネズエラはハイチではない。

(1) モーリス・ルモワーヌ「『市民社会』を装ったベネズエラのクーデタ未遂」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年5月号)参照。
(2) モーリス・ルモワーヌ「嘘八百のベネズエラのマスコミ」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年8月号)参照。
(3) 「やせっぽち」の意で、大統領が反体制派に与えた蔑称。
(4) フランシア広場の3人の兵士、アンヘル・サラス、ダビド・アルグエジョ、フェリクス・ピント、アルグエジョとピントそれぞれの婚約者、そして14歳の少女の死も、同様の工作(と、それに続く完全な沈黙)を生んだ。犯人の一人と目されたシフォンテ・ヌニェスは逮捕後に、2人の反体制派将校、フェリペ・ロドリゲス将軍とジュセペ・ピリエリ大佐の命令に従って行動したと述べた。2人は犠牲者たちがボリバル主義サークル(政府に近い大衆組織)に情報を流していると疑っていたという。
(5) BBC、ロンドン、2002年12月13日放送分。
(6) 1989年2月27日、国際通貨基金(IMF)が強要した構造調整計画を受け、民衆が蜂起して、カラカスで略奪を行った。暴動の鎮圧の際、3000人が死亡した。
(7) ベネズエラで、正統な政府の不安定化を企てる集団を支援する国家民主基金は、2003年4月3日から7日にキューバで有罪宣告を受けた反体制派ジャーナリストの一部にも、民主主義の名のもとに資金を提供していた。ベネズエラで資金を受け取っている組織のリストは、ベネズエラ連帯委員会のサイトに掲載されている(http://www.venezuelafoia.info/)。また、同基金のサイトにも掲載されている(http://www.ned.org/grants/02programs/grants-lac.html#Venezuela)。
(8) モーリス・ルモワーヌ「ベネズエラの約束の地」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年10月号)参照。
(9) 憲法72条は、市町村長や州知事に関しても適用される。レアフィルマソに先立つ11月21日から24日には、それぞれ与党議員35名と野党議員37名の解任を求める二つの署名運動が組織された。
(10) エル・ナシオナル紙、カラカス、2003年12月1日付。
(11) 同紙、2003年11月30日付。
(12) 1201万2118名が有権者登録されているので、その場合には、840万8483名の署名がなければならない。
(13) Jimmy Carter, << Venezuela Trip Report : Jan. 25-27 2004 >>, The Carter Center, 30 January 2004 ; http://www.cartercenter.org/
(14) エル・ウニベルサル紙、カラカス、2004年3月4日付。


(2004年4月号)

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