アルジェリア社会の深い傷跡

リエス・シ・ズビール(Lyes Si Zoubir)
ジャーナリスト、在アルジェ

訳・近藤功一

line
 4月8日のアルジェリア大統領選に向け、ブーテフリカ大統領が出馬表明をしたのは、2月22日ときわめて遅い時期だった。彼は軍の後押しを取り付けることができなかった。しかし、ウーヤヒヤ首相が率いる民主国民連合(RND)と、平和のための社会運動(MSP、イスラム穏健派)の支持は固まった。また、与党の民族解放戦線(FLN)については、党員の過半数は最大の対立候補ベンフリス前首相の支持に回っているが、一部は自分に付くと踏んでいる。こうした政治屋の争いに対し、10年に及ぶ暴力のトラウマを抱えたアルジェリア社会は醒めた目を向ける。[フランス語版編集部]

line

 2004年2月8日の日曜日、アルジェリア中がテレビに釘付けになっていた。チュニジアのスファックスで行われたアフリカ・ネーションズ・カップ(ANC)準々決勝、アルジェリア・モロッコ戦を見るためである。終了6分前、アルジェリアがゴールを決める。準決勝進出はほぼ決定的だ。試合終了のホイッスルを聞く前から、アルジェリア各地で何百万もの人々が通りに飛び出した。西のトレムセンから東のアンナバ、北のアルジェから南のタマンラセットに至るまで、もう喜びの大爆発だった。「こんなお祭り騒ぎは、アルジェリア代表がホームで優勝した1990年のANCのとき以来だ。普段はサッカーに無関心な人でさえも興奮していた」と、アルジェに住む建築家、ハミド・モクラニは語る。

 無情にも終了数秒前、モロッコに同点に追い付かれ、延長戦では優位に立たれてしまう。そしてアルジェリアは敗退。ハミドは言葉を続けた。「みんな倒れ込んで、号泣した。周囲はヒステリー状態で、罵声が飛び交い、ほんの5分前には抱き合っていた同士で乱闘まで起きていた。幸福感に浸りたいと心から願っていたのに、またしても落胆に見舞われた」

 話はここで終わらない。翌日、モロッコ代表がドーピングで失格になり、最終的にアルジェリアの勝ちになったという噂が流れた。この誤報はものすごい勢いで国中を駆けめぐる。そして、前日よりもさらに激しい狂喜乱舞が繰り広げられた。地元メディアが再三打ち消したにもかかわらず、この騒ぎは数時間続いた。「正気の沙汰ではなかった。女性はユーユー(儀式的な歓喜の叫び)を発し、車はクラクションを鳴らし立てた。みな口々に、情報は公式のもので、アル・ジャジーラやユーロスポーツでも流されていたと断言した。全くみっともない」と、オランに住む38歳の商人、アジズ・シリグは嘆息する。ハミド・モクラニも言う。「あれは私も信じた。1982年のワールド・カップでアルジェリアが敗退した後、同じ噂が流れたことが頭をかすめたけれども、そう信じたかったのだ。準決勝に進出できると考えるなんて単純だったけどねえ。駄目なときは、なんでも駄目なのさ」

 ライバル国モロッコへの敗退、噂が消え去った後の屈辱感と徒労感、それに加えてチュニジア警察によるアルジェリア人サポーター殴打事件(公式発表では60人、外交筋によれば200人が負傷)が一瞬にしてさらけ出したのは、90年代後半からアルジェリア社会を包んでいる重苦しい雰囲気だった。ブーメディエン時代(1965-78年)の大臣の一人はこう説明する。大きな苦難に見舞われたアルジェリア社会は「傷口の手当てを全くしないまま、良いニュースを絶望的に待ち望んでいる。不幸やテロ、惨事に見舞われた年月を忘れ、心から笑うことができる機会を」

 国民議会(下院)第一回投票でイスラム救国戦線(FIS、解散させられた)の勝利が無効とされ、「アルジェリアの闇」が始まって12年になる現在、人々のやるせなさはほとんど隠しようもない。「感情の起伏が激しいのよ。些細なことでも涙を流す。最たる例は、結婚式のとき。以前のような快活さがなく、つまらなそうにしている。テロが激しかった時代には、逆に何が何でも憂さ晴らしをしたいという欲求があった。少しでも楽しめる機会があれば逃さなかった。アルジェリア社会はおそらく活気を取り戻し始めているけれど、そこには灰色の仮面がある」と、国立行政学校の卒業生で公務員のヤスミナ・Tはため息をつく。彼女と同様に、複数の社会学者も、1970年から90年までの20年間へのノスタルジーがかつてないほど強まっていると指摘する。確かに、当時の映画やスポーツ試合の再放送は高い視聴率を獲得している。

 「このやるせなさを特に感じているのは大人だ。隣人を警戒したり、家族を守るために武器を手にしたりするなんて考えられなかった『もうひとつのアルジェリア』を経験しているからだ」と、先の元大臣は語る。「彼らはテロが徐々になくなりつつある今になってようやく、社会がどれほど被害を被ったかに気付いた。我々は人間的価値、知的好奇心、外の世界への開放といった面でとんでもなく後退してしまった。ありていに言うと、この後退によって初めて、体験した悪夢のひどさに愕然とすることになったのだ。私が念頭においているのは、特に1996年から98年にかけての虐殺のことだ」。精神的な傷はあまりにも深く、あらゆる世代にトラウマとして刻み込まれている。

 アルジェリアの人々が時に「古きフランス」と呼ぶ世代がその一例だ。植民地時代から受け継がれた厳格な服装マナーをきっちりと守り、完璧な清潔を心がけ、髭は毎日剃り、ネクタイは当たり前、道路が埃っぽくてもいつも磨き込んだ靴を履いていた人々が、今では無頓着になり、だらしのない若者と見分けのつかないような格好をしている。

政府の無策

 アルジェの有名な開業医は次のように指摘する。「より深刻なことがある。独立国アルジェリアを築き上げ、90年代以降に徐々に体制から排斥された人々の中には、自分の健康に無関心な者も多い。彼らは闘うことを諦め、最期のときを待っているといった風だ」。この諦めと呼応するような、気懸かりなもうひとつの現実がある。そこにもアルジェリアの新たな不幸が映し出されている。2003年2月にアルジェでセミナーを開催した民間精神科医協会が、「自殺と自殺未遂の数がここ4、5年で大幅に増加している」と報告しているのだ。公式の数字によると、10万人あたり自殺が2件から5件、自殺未遂が34件の割合で起こっている。

 ヨーロッパ諸国と比べると15倍から20倍は少ないレベルだが、精神科医たちは警鐘を鳴らす。精神医学の教授でアンナバ病院の部長であるモハンマド・ブーデフをはじめとして、医師たちは公式統計に懐疑的で、現実はそれ以上だと考えており、予防対策の欠如を非難する。実際、自殺未遂者のための受け入れ・予防センターは、アルジェリア全土でアンナバにひとつあるだけだ。10年に及ぶ暴力が生み出した不安や恐怖の広がりを考えれば、大海の一滴にすぎない。「殺人者が罪に問われず、『行方不明者』の安否が分からないままになっている問題への無策については言うまでもないが、政府当局は、長年にわたる敵対状態が精神に、さらには身体に及ぼした影響を軽減するための一貫した医療衛生政策も実施できずにいる」と、アルジェの開業医は語り、恐るべき数字を挙げた。15歳以下の若者100万人がテロの直接的被害者、もしくは目撃者になっており、そのうち心理治療を受けているのはごく少数にすぎないという。

 アルジェリアの指導者は、トラウマの重大さを認めようとせず、暴力の時代に終止符を打つことができると言い張ろうとする。内務省の非公式報告書によると、テロの絡んだ敵対行動による死亡者は、2003年には1500人にとどまっており、うち450人近くは武装イスラム主義者である。報告書によれば、この数字は交通事故による年間死傷者数(平均4000人)よりも少なく、10万人から20万人の間と言われる「暗黒の10年間」の犠牲者数とは比べようもない。

 急進的イスラム主義者の体制批判が弱まったことは、武装グループの勢力図の変化にも表れている。軍首脳部の主張によれば、布教と聖戦のためのサラフィスト集団(GSPC)の例で分かるように、武装グループは「空中分解」したという。GSPCは、イスラム共和国の創設を目指して武力による体制崩壊を図るグループの中でも、最も組織化された集団だった。現在では、これまでの「首長」ハサン・ハッターブは部下に背かれ、カビリヤ地方で孤立しており、2003年初頭には500人ほどとなっていたGSPCのメンバーの大半は、新たに「首長」となったナビル・サハラウイ、通称アブー・イブラヒムの下で、東側の国境付近に移動した模様だ。また残虐で知られるイスラム武装集団(GIA)は30人程度のメンバーを残すのみとなり、アルジェ郊外の平野部の農業地帯ミティージャに封じ込められているという。アルジェリア西部の農村地域では、サラフィスト布教擁護グループ(HDS)など複数の反体制派グループが活動を続けている。

 「GIAが100人規模の複数の中隊を同時展開する力を持っていた時代は過ぎ去った」と、ある匿名の治安問題専門家は説明する。都市部では支援ネットワークのほとんどが解体され、山岳地帯では軍の大規模作戦により組織の主要部が壊滅した。しかし、人員が減っても非常に機動的になったグループが、現在も活動を続けている。彼らは打たれ強く、現地の状況を熟知しており、この先まだ何年にもわたり猛威を振るう力を持っている。万が一、政情が再び悪化したり、例えば政治的イスラム主義が墓場から蘇ったりすれば、彼らが深刻な脅威となる危険がある。

 人々はそうした展望を知らないわけではないものの、その他の関心事の背後に押しやっている。アルジェリアは1992年2月9日からずっと非常事態下にあるが、ここ数年来、人々は通常の生活を取り戻そうとしてきた。独立系新聞の一面には、テロの時代は終わり、夜間外出禁止令の恐怖、偽の道路封鎖の脅威、治安部隊の制服を着た何者とも分からない人間による夜間の誘拐といったことは、もはや過去のものとなったという考えが打ち出されている。

「根本的なことは何ひとつ解決されていない」

 「みんな、ほっと一息ついている。私も以前より恐怖感は薄れた」。アルジェ郊外南西部アイン・ナアジャ団地に住む40歳のエンジニア、ファイサル・Rは、そう語りつつも表情が硬いままだ。「ほとんど眠らない時期があった。夜の物音に耳を澄ませ、銃撃戦の音がどこから聞こえてくるのか推測し、階段のちょっとした軋みにも飛び上がった。今は以前より眠れるようになったとはいえ、朝家から出かける前にはいつも多少の不安を感じる。1996年には、隣人の車の上に頭が置かれているのを見た。それが誰のものなのかは今でも分からない」

 野党のメンバーは、暴力が減少したことは認めつつも、勝利に酔うことには懐疑的だ。社会主義勢力戦線(FFS、イスラム主義者との対話推進派の野党)のある幹部はこう断言する。「確かに民衆の恐怖感は薄まった。武装グループが敗北したという考えは、多数派に支持されている。しかし、だからといって暴力がなくなったとは言えない。実際、大都市圏はテロを免れているが、地方の状況ははっきりしない。西部や中部の道路は未だに危険であり、人里離れた小集落は夜の殺し屋の標的となっている」

 最も憂慮すべきは、犯罪率の増加である。卑劣な殺人事件や武器による襲撃が、頻繁に新聞に取り上げられる。民間の企業経営者たちも、この日常的暴力に備える必要を感じるようになった。35歳の元軍人タウフィーク・Bは、除隊後いとも簡単に民間人警護の仕事に転職した。「これはもぐりの職業だが、稼ぎになる。高原地域の商人が大量の現金を持ってアルジェへ『上京』しなければならないとき、私が呼ばれる。その際に昔の同僚を2、3人連れて行くのも珍しいことではない。彼らも家計をやりくりする必要があるからね」

 2003年5月、国家社会経済評議会(CNES)は犯罪や軽犯罪の悪化に関する詳細な報告書を出した。そこでは、恐喝、麻薬の密売、売春を専門とする組織的な犯罪グループの出現が強調されている。こうした警鐘の響きをさらに強めるのが、憲兵隊の公表した統計資料だ。それによると、2003年1月から3月にかけて(テロ事件は別として)407件の流血事件を含む5000件の犯罪が起きた。前年度に比べて著しい増加である(35%増)。さらに深刻なことに、当局の予想では、2004年および2005年の犯罪増加率は100%以上になるという。CNESのあるメンバーも「これは抑え込むのが困難なうねりだ」と認め、最も危険な都市としてアルジェとオランを挙げた。

 アルジェリア社会の重苦しい空気は、治安の悪さだけでは説明することができない。「やるせなさはひとつの症状でしかない。アルジェリアの人々はそのことを自覚している。たとえテロが打倒されても、根本的なことは何ひとつ解決されていない。また最初から同じことが繰り返されるかもしれないと多くの人が考えている」と、ルイーバ工場団地の組合活動家、ラシード・Bは警告する。このような悲観的な見方に加担しているのが、大統領選直前の毒気に満ちた政治ムードだ。2003年夏以降、アルジェリアは暴力の予感のする不確かな時代に戻ったかのような雰囲気に包まれている。

 FISの元指導者、アッバーシ・マダニ師とアリ・ベンハッジ師が釈放されたときには、政治的イスラムの地位という問題が解決していないことが明白になり、古傷が呼び覚まされることになった。「髭の男たちは今でも健在だ。転向した者や、FISの元指導者や元活動家はみな、堂々と出歩いている」と、エル・ワタン紙の女性記者は嘆く。2004年1月15日には、マダニ師がカタールのドーハで、FISは政治舞台に返り咲くという意気込みを改めて表明した。このイスラム主義指導者は、マレーシアでの療養に向けて出国するまで公の場で演説はしないと当局に約束していたにもかかわらず、記者会見の席で「和平構想」を発表し、大統領選の延期と「苦難の時代」の主な当事者全員の恩赦を提案した。

 しかし、政治的イスラム主義の反対派が最も懸念するのは、マダニ師が明らかに90年代初期の主張をそのまま復活させている点だ。彼は今回、「新共和国憲法作成のための新たな最高憲法議会の選挙」と、「イスラムの原則に則ったあらゆる自由」を保障する新共和国の樹立を要求している。こうしたイスラム主義の再興を嘆くフェミニストたちが目をむくような主張である。その一方で、真の権力者の優柔不断がこのところ目立っている。

醒めた若者と拡大する不平等

 コティディアン・ドラン紙の論説記者、サアドゥン・アル・マカリは、「ブーテフリカ大統領と対立候補の抗争に際して、どうも理屈に合わないことに、軍がどちらの陣営にも付こうとしていないように見えることが、人々の不安をかき立てている」と説明する。軍のためらいは、弱さの露呈と受け止められ、暴力の再燃を呼び起こす可能性がある。「最悪なのは今の政治状況が大衆には分かりにくいことだ」と、彼は言葉を続けた。そこで示唆されているのは、民族解放戦線(FLN)の主導権をめぐる激しい抗争である。

 かつての独裁政党FLNは2つの党派に分裂している。ひとつは、大統領候補として名乗りを挙げたベンフリス前首相を中心とする「正統支持派」だ。もうひとつは、現大統領を支持する「再興派」であり、2003年12月30日にアルジェ裁判所から活動停止命令を受けた同党の指導権を取り戻そうとする。この陰惨な争いは、地方対立の様相も帯びている。ブーテフリカ氏は西部出身、ベンフリス氏は東部出身。分解を続ける政界を象徴するような争いであり、アルジェリアの人々にとって笑い事では済まされない。それに加え、カビリヤ地方は依然として緊迫した状況にあり、部族評議会が選挙のボイコットを決定した。ブーテフリカ大統領に敵対する勢力も、ゼルフーニ内務大臣の命令で行政府が大統領サイドに付いたことに抗議するため、同じく選挙をボイコットすると脅しをかけている。軍が土壇場で選挙延期の強行を決定でもしない限り、状況は変わらない。

 「政治屋の政治には興味がない。どうせ、最初から話は決まっているのだから」と25歳の翻訳家ナワールは言い捨てる。アルジェリアを浸している陰鬱な大海の中で、彼女の世代は多くの評論家に楽観的な展望を抱かせている。ナワールは勤務先のハリーファ銀行が倒産した後、民間の輸入業者で「半分もぐり」の職を見つけた。「ハリーファは何事かをしようと試みた。若者はみな彼のように行動することを夢見ている。彼は政治に手を出すべきではなかったのよ」という言葉は、失墜した億万長者に対する若者の気持ちを完全に代弁するものだ。彼女は今の仕事を辞めないまま、もっとよい仕事を見つけようと「面接のはしご」をしている。「今より給料が1000ディナール(約1500円)よければ転職する。これがゲームのルール」。とはいえ、外国に出るという考えはない。「いつか国を離れるとしても、それは経験と資金が出来てから。不法入国者のような惨めな思いをしに行くつもりはない」

 公務員であるナワールの両親は、まごついた様子でこう語った。「頼むことをせず、手を出す世代だ。1988年10月の暴動が起こったとき、ナワールは10歳だった。彼女は暴力に彩られた時代に青春を送った。彼女の指針となるものは、我々のものとは異なっている」。サアドゥン・アル・マカリが言うように、同様の現象は報道業界でも見られる。「若いライターには時々、まるで傭兵みたいなやつがいる。彼らは注文帳を片手に、同じ記事を複数の会社と交渉する。それを問題だと思ってもいない」

 こうした潮流は、政権が生活不安を制度化したと責める労働組合や左翼政党から非難されており、民間の企業グループを呼び水として起きている。ハリーファほど目立たないこれらの民間企業は、ノール・シュッド・エクスポール誌2003年3月号で専門家が指摘しているように、自分たちは「社会主義」の遺物とは一切関係がないと感じている。全面的自由主義を信奉し、すでに90年代の経済改革によって損なわれていた社会契約を少しずつ侵食している。「政党や労働組合が現場に力を入れないため、若者は政治や労働組合に関心を持たなくなっている」と、経済学者のアリ・シュワルビーヤは指摘する。「新しい経済モデルの形成には、今後の数年が決定的に働くだろう。社会や政治を担う人々が受け身にとどまるなら、この国は少しずつ、不平等を拡大する『自由放任』の時代へと移行していくことになる」

 大統領選を目前に控えた現在の社会状況も、こうした懸念を裏付けるものでしかない。2003年、アルジェリアの貿易収入は240億ドルを超え、外貨準備高は300億ドルを記録した。これは1962年以降で最大の数字だが、貧困ライン以下の生活を送る総人口の半分を潤すことはない。退職者、公共部門の職員、失業者は、家族の連帯のおかげでようやく生活している状況だ。「計算すると、私の給料で20人を食べさせていることになる。10年前の2倍だ」と、巨大石油企業ソナトラックのエンジニアは語る。失業中の28歳と30歳の2人の息子に加え、姉妹の1人とその4人の子供の面倒を見なければならない。それに、故郷の村に住む幾人かの親類も、彼の送金なしには生活できないのだ。

 彼ほど幸運な境遇にない人もいる。ここ数年で、アルジェリアにはホームレスも見られるようになった。首都や大都市で、一家全員が食べ物を求めさまよっている。「壮大な理想を持ったアルジェリアは過去のものとなった。速度によって道の分かれた社会が完全に定着してしまった」とブーメディエン時代の大臣は嘆き、こう締めくくった。「こんな風に貧困が急激に増大すると、近いうちにテロの暴力が再燃することになるかもしれない」

(2004年3月号)

All rights reserved, 2004, Le Monde diplomatique + Kondo Koichi + Mori Ryoko + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)