ロシアに広まるソ連ノスタルジー

ジャン=マリー・ショーヴィエ(Jean-Marie Chauvier)
ジャーナリスト、在ブリュッセル

訳・池田麻美

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 労働者の男性とコルホーズ農民の女性が鎌とハンマーを振りかざし、光輝く未来に向かって大きく歩み出そうとする姿を表すヴェーラ・ムーヒナ作の彫像を、だれもがスクリーンでなら一度は目にしたことがあるだろう(1)。モスクワの国民経済達成博覧会場の入り口を飾っていたこの像が、このほど解体された。スクラップになるのではない。改修のためだ。5月1日と11月7日(2)の共産党員の行進と同様に、5月9日の対ナチスドイツ戦勝記念日にも赤い旗が振られる。旧ソ連の国歌が新たに響きわたる(3)。少年たちは、「我が祖国、ソ連」と書かれたシャツをこれ見よがしに身に着ける。ロックグループはソ連時代の「ヒット曲」をカバーし、モスクワのFM放送はロシア語の歌を増やすようになった。おしゃれなカフェや商業広告もソ連のシンボルで飾られ、ポストモダンなノスタルジーを漂わせている。

 このような振り子の揺り戻しは1990年代半ばに始まった。ソ連映画がテレビで再放映される。テレビ局側の説明によれば「視聴者の要望」があるからだ。新聞の論説は、「ソ連人民」が今も健在で、ノスタルジーが「世間のムードの基調」になっているような風潮を憂慮する(4)。定評ある世論調査の結果も同様の傾向を示す。「ロシア人の57%が旧ソ連時代に戻りたい」と考えており(2001年)、45%がソ連の制度は現行制度より「優れている」と見なし、43%が「新たなボルシェヴィキ革命」を望んでいる(2003年)。現状についての見解も「正しい」とされるものとは随分と違うようだ。1991年8月の「民主革命」は評判が悪く(5)、大規模な民営化については大多数の回答者(80%近く)が「犯罪的」であると切り捨てる。これに対して民主派の人びとは罵倒を浴びせかける。人びとは記憶喪失にかかって「強制収容所や欠乏を忘れている」にすぎず、金持ちというだけで金持ちを憎み、敗者と年寄りはぼんくらであり、「生物学が問題を解決するだろう」と言い放つ。民主派の不安は、プーチン政権下の数々の政治的事件によって増幅した。彼らの友人やスポンサーである大財閥が起訴され(6)、クレムリンは大手メディアを再び掌握した。NKDVとKGB(7)の名誉が回復され、シロヴィキ(8)とFSBの影響力が拡大しており、旧ソ連域内にロシアの影響力を復活させようとする意欲も現れている。2001年9月11日の直後にプーチン大統領と結んだ「戦略的同盟」にもかかわらず、アメリカが旧ソ連地域に進出したり、イラク戦争に踏み切ったことを公式レベルで批判している、等々。

 とはいえ、これまで共産主義の根絶に向けた努力に不足があったわけではない。レーニンとトロツキーの赤色テロ、スターリン時代の「大テロル」、1932年から33年にかけての飢饉、強制収容所、ナチスドイツとの共謀を罪状とした「処罰者」や「容疑者」の抑留、ブレジネフ時代の弾圧。こうした「ボルシェヴィキの犯罪」を暴く記録文書や記事、本やテレビ番組は、1991年以降ロシアを埋め尽くした。「民主的な商品価値」の宣伝とセットになった「記憶の戦い」に、大手メディア、ジャーナリスト、歴史家が猛烈な勢いで参入した。この戦いを支えているのが、フォードやソロス、フーヴァー、ヘリテージ、カーネギー、USIS(米広報文化交流局)、USAID(米国際開発局)など、アメリカを中心とした欧米諸国の政府機関、大学や財団、それに言うまでもなくロシアの篤志家の新興財閥からなる巨大なネットワークである(9)

 ゴルバチョフ時代の討論対決(10)に替わり、ありとあらゆる形で「悪の帝国」が糾弾されるようになった。このロシアの反共産主義の辛辣さに比べれば、欧米からの批判も見劣りがすることだろう。ただしロシアの場合には、新体制を脅かすような危機が起きるたびに、「アカの復活」や内戦のおそれを言い立てるのが目的だった。

 ボルシェヴィズムに対する糾弾は、かつての帝政派や脱党者を中心とした反ボルシェヴィキ派の名誉回復をもたらした。ナチスとの協力でさえ、その一部は理解をもって受け止められている。イズベスチヤ紙の時評担当者マキシム・ソコロフは、次のように説明を試みる。「時代は複雑だった(・・・)。[ヒトラーの第三帝国は]ボルシェヴィキの蛮行からヨーロッパを守る唯一の砦だった。SS全国指導者[ヒムラー]が今日まで生き延びていたなら、全体主義と戦った者として称えられているだろう(11)

 ソ連の歴史上の現実の脈絡、時代背景や体制、多様な社会や文化を無視した異様な修正主義に、多くの歴史家は異議を唱えている。しかし、時代の基調を作り出しているのは彼らではない。それよりも、ヴィクトル・スヴォーロフのベストセラーの方が広く出回っている。2002年末に出版された最新作(12)は、「ソ連時代の統治者は全員、例外なく悪党でチンピラだ」という書き出しで始まる。

 公式の反共産主義の先駆者となったアレクサンドル・ツィプコは、こうした中傷には生産的なところがないと言う。彼は既に1995年の時点で、この風潮が「召し上げ的な改革」とあいまって人びとを気落ちさせ、「ソ連の歴史が復権する土壌を用意した」と嘆いている(13)。それは卓見だった。中傷攻撃の矛先は「体制」にとどまらず、伝統的なロシアにもソ連にも共通する共同体的な平等主義や集産主義の価値観へと向けられている。標的は「下層民」つまり労働者である。彼らは生活環境が不安定になったばかりか、旧体制の「共犯者」であり、国の「庇護」に甘えた「怠け者」で、ポスト工業時代の進歩には「無用の者」であるとの烙印を押されるようになったのだ(14)

60年代の雰囲気

 こうした攻撃の嵐にもかかわらず、ロシアはまだ、画一的なソ連観に陥っているわけではない。そのような画一化が起きるには、あまりに多くの体験や文化遺産、引き裂かれた思い出が現存する。人生の物語は、そのままで激動期の混沌を反響させる力がある。あれは澄み切った信念、未来に向かう喜び、そして無差別のテロルの地獄への理解不能な突然の墜落といったことの境界が、めちゃくちゃに揺れ動いていた時代だった。

 強制収容所という世界の重要な証人となったヴァルラーム・シャラーモフは(15)、1920年代のソ連という両義的な時代のなかの、自分の多感な青年時代、レーニンの威光、革命の理想について記している(16)。「なんという地平、なんという広がりが、ごく普通の人びと一人ひとりの目の前に開けていたことか」。ごく普通の人びとの運命の声を聞けば、あの社会主義に彼らが賛同した理由もなんとなく見えてくる。例えばリュドミラの物語では、クラーク(富農)一掃政策により迫害された農民の娘が、異なる世界の境界をまたぎ越え、都市で出世街道をよじ登っていく(17)

 これはまさに、農村に住む無数の人びとの物語である。内戦の時代に生き、集産化という大きな断絶の後も農村に住み続けた農民たちから、他にも様々な物語が適切な時期に集められた(18)。つまり言論が、今や主流化した反共産主義イデオロギーに左右される以前、自由になったばかりの1990年代初頭のことである。

 新しい状況のもとで再構成された記憶には、かつての犠牲者や殉教者が、事後的に形づくられた「反全体主義」のイデオロギーに動員されていくという問題がある。彼らのなかには、共産主義者や左派トロツキー主義の反体制派も数多くいる(19)。収容所から帰還した後も「社会主義」を信じて仕えることをやめなかった人びとである。それが今日では、逆のことが主張されている。だれがどんな権利で、死者の名において話すことができるというのだろうか。

 しかし、旧ソ連時代を知る存命者の大半は、激動期を体験していない。彼らが思い起こすのは、戦争とスターリンの死に続く約40年間のソ連時代である。ある芸術家は60年代の雰囲気をこんなふうに回顧する。「理想化しているのだろうけれど、この国には楽観的な勢いがあった。私が言っているのは政治のことではなく、周囲の人たちの精神風土のことだ。ビートルズによる衝撃で愛を求める気持ちが生まれ、ヒッピー運動でそれが頂点に達した。光り輝く時代だった。あの時代によって、私は楽観的に将来を見据えて生きることを学んだ」。そこでは、異なる二つの基準が思いがけずぶつかり合って結託した。一方は公式の理想(楽観的な将来)に即し、もう一方は非順応主義の文化(ビートルズ)に即していた。

 要するに、だれも明日を心配しなくてよかった躍進中の国の将来への信頼感と、政治的無関心やオルタナティブ文化の誘惑との共存が成立していた。台所で世界の再編を論じていた時代を懐かしむブレジネフ時代の反体制派もいる。「未来はまだ訪れていなかった」。そして、それが期待外れになることは周知のとおりである。1991年以降、彼らのうちいったい何人が、あれほど待ち望んだ変化がもたらしたものを見て、悲しみのあまり病や失望、死に倒れ、舞台を去っていったことだろう。

 「新しいリーダーたちは、『60年代人』をこき下ろしている」と、ワシーリー・ジュラヴニョフは語る。「彼らはリーダーたちにとっては目の敵だ。というのも、新興財閥をはじめとする実業家が権力の階段を上り詰めたのは、彼らの支持のおかげだからだ(20)」。活動家でもなく、反体制派でもなく、知識人でもなく、党幹部でもなく、ただ生をまっとうすることを渇望した当時の若者たちは、ロマンを追い求め、あるいは特別手当に釣られて、1950年から80年ごろの「大工事現場」へと向かうために快適な都市生活を捨てた。ノヴォシビルスクの学園都市、シベリアの大水力発電所、トリアッティやカマ川の工業コンビナート、第二シベリア横断鉄道、バイカル・アムール鉄道などが建設されていった。今日では壮大な無駄でしかなかったという感情が広まっているが、彼らにとっては濃密だった青春時代の思い出である。

 ぞっとするような冒険から、うちひしがれて戻ってきた者もいる。このアフガン戦争のことは、手足を失った40代くらいの人たちが路上や地下鉄の中で話している。これと入れ替わりに、若い世代は、「チェチェン帰還兵」として、もう一つのぞっとするような出来事を経験している。

 しかし、大多数の者はこれほど強烈な出来事にかかわったわけではない。彼らはただ生きてきただけであり、一定の生活様式、社会関係、文化に浸かっていた。そうしたものとの決別には苦痛が伴った。1961年生まれのウクライナ人作家アンドレイ・クルコフは、独特の語り口で次のように語っているが、彼のような人は少なくない。「あの社会は親睦の上に成り立っていた。隣人のドアは叩けばよかったし、お金が必要なときには貸してもらえた。ソ連崩壊後、こうした連帯は全て崩れ去ってしまった。(・・・)崩壊直前に生まれた20代は素早く適応した。私の世代にとって、孤独は現代の病だ。私は多くの友を失った。多くの者が自殺し、また亡命していった(21)

 自由化に対する抵抗運動のなかには、こうした和やかな関係や生き生きとした社会文化の追憶があるのだろうか。文化社会学者のリュドミラ・ブラウカは、最近の抗議活動に参加した労働者の証言を次のようにまとめる。これらの活動家は、1989年から91年にかけて自分たちが抱いた幻想(民主派の支持)を厳しい目で見ている。彼らはソ連の終焉のとき、苦渋に満ちた喪失感を覚えた。経営者が自分たちに相談なく好き勝手をすることを受け入れられず、「国家、それは我々なり」と信じ続けようとし、話し合いと社会的庇護の文化から抜け出せずにいる(22)

興味深い調査結果

 欧米人には、この喪失感がどんなものであるかを理解するための知識が、おそろしいほど欠けている。失われたのは、一つの文化の宇宙であり、どんなイデオロギーとも重ならない社会生活の厚みである。彼らはちっぽけな引き出しのどこに、前衛芸術だけでなく、老若男女に大きな影響を残した大衆文化を収めてみせるのだろう。アレクサンドロフのミュージカル、ウチョーソフのジャズ、イリフとペトロフのユーモア、兵士ワシーリー・テルキンの冒険、ワシーリー・シュクシンの映画の「二つに引き裂かれた」登場人物、工場内クラブのアマチュア芸術、作者重視の歌曲の大流行、つまり1960年から80年ごろまでの非常に大衆的なプロテストのことだ。反体制的なフォーク歌手たちが世代を超えて一致して、「世紀の歌」として20年代の「コムソモール詩人」ミハイル・スヴェトロフのバラード「グラナダ」を選んだという最近の事件を、どう位置付けてみせるというのだろう。いったい、この実在したアトランティスのメッセージを伝えることなどできるものだろうか。

 ドイツのフリードリヒ・エーベルト財団の協賛で実現し、ミハイル・ゴルシュコフが取りまとめた調査を見れば(23)、いかにソ連の復権が、ステレオタイプとはほど遠い、落ち着いた考え方に由来しているかが分かる。この調査は、ソ連の70年代を「悪夢」として描こうとする政府とメディアの企ての失敗を明らかにしており、そうした圧力の効果はもう切れたとさえ述べている。とはいえ質問項目として挙げられた時期や質問された人の年齢層により、回答全般にはばらつきもある。

  • 「スターリン主義の罪はいかようにも正当化できない」。16〜24歳の75.6%、25〜35歳の73.5%、36〜45歳の74%、46〜55歳の66.8%、56〜65歳の53.1%がこの意見を持つ。

  • 「マルクス主義の考え方は正しかった」。肯定的な回答は、最も若い世代と高齢の世代で27.4%から50.3%までの開きがあった。

  • 「西洋の民主主義、個人主義、自由主義はロシアに馴染まない」。この意見は56〜65歳で62.9%の支持を得たが、16〜24歳では24.4%にとどまっている。

  • 「誇りに思うこと」としては、全ての年齢層で約80%が1945年の勝利を挙げた。36歳以上は戦後復興を2位に挙げ、それより若い層(16〜35歳)は「ロシアの偉大な詩人、作家、作曲家」を挙げた。どの年齢層でも約60%が宇宙開発の快挙に言及している。「ソ連はロシア全史を通じて最初に普通の人びとに対して社会正義を保障した国家である」という主張については36歳以上の過半数が支持したが、25〜35歳では42.3%、16〜24歳では僅か31.3%だった。

 各時代の特徴については、調査参加者の大多数が主に次のような点を挙げている。

  • スターリン時代:規律と秩序、恐怖、理想、祖国愛、急速な経済発展。

  • ブレジネフ時代:社会的保護、生きる喜び、科学・技術・教育分野の成功、人々の間の信頼関係。

  • 現在のロシア:犯罪、不確かな将来、民族間の紛争、金持ちになれる可能性、社会の危機と不公正。リベラルな考え方の人のうち、ブレジネフ時代を肯定的に見るのが25%(共産主義者では45.9%)、エリツィン時代については21%が否定的に見ている(同59%)。

 将来に関しては、大部分の人が経済の主要部門、教育や保健衛生の国営に賛成しており、(民間との)共同管理を認めるという部門は食品、住宅、メディアの分野にとどまる。過半数(54%)が「社会的に平等な社会を選ぶ」とし、民主主義の第一の特徴を「法のもとでの市民の平等」と定義している。

 過去に対する揺れ動く見方は、「市場改革」の経験によって濾過されており、この改革が惨憺たるものであることは今や広く知れわたっている。

 改革の初期の提唱者だった社会学者のタチヤーナ・ザスラフスカヤ(24)は次のように見る。労働者は「ソ連時代よりさらに財産所有から遠ざかり、権利を奪われた状態にある。(・・・)生産は落ち込んだだけでなく、構造的にも技術的にも退行している。(・・・)ソ連時代、社会の必要を満たし、僅かながらも人々の生活の質を向上させた産業部門が、今日では悪くなる一方だ。ペレストロイカとグラスノスチの時代に勝ち取られた民主的な成果も危うくなっている。(・・・)社会の二極分解はとてつもないものになった。(・・・)人口の20%から30%が深刻な窮乏のうちに暮らし、崩れかけた住宅に住み、満足に食べられず、病気を抱え、あまりに早い死を迎えているのだ」

彫像の新しい台座

 改革派政党ヤブロコの党首を務める自由主義経済学者のグリゴリー・ヤヴリンスキーはロシアの「反近代化」に言及し、環境保護活動家のオレグ・ヤニツキーは「ありとあらゆる危険を秘めた社会」だと論じる。農民社会と集産化を研究する歴史家のヴィクトル・ダニーロフはこう語った。「我々は鉄のカーテンの後ろで暮らしていた。外界の現実を知らず、横並びの貧しさのうちに暮らしていると信じていた。鉄のカーテンが落ちた今、(・・・)我々は本当の貧窮という試練にさらされるようになった。ソ連時代には貧窮生活を送っていたのではなく、たいしたものではなかったものの、横並びの「充足」のうちに暮らしていたことが今になって分かる。『人民の奉仕者』には特権があったとはいえ、保健衛生や教育の制度は全ての人の手に届くものだった。行列があったのも各人が必要物資を手に入れるためで、それも今日では多くの人びとには手に入らなくなってしまった」

 ダニーロフによると、多くの人にとって「外界への扉は開かれたと言えるだろうが、人々の間には鋼鉄の扉が立ちはだかっている。社会の『原子化』がここまで進んだことはかつてない」。ロシアは、こうした悲しい認識だけでなく、過去、未来、そして発展の可能性についての興味深い考察にも事欠きはしない。しかし西側諸国では、ロシア思想の多元宇宙は無視され、西洋的な自由主義に基づいた見解だけが伝えられている。

 とはいえ、再登場した愛国主義は、動揺と貧窮、そして新たな敵のイメージ(アラブやイスラムの「テロリスト」)から生まれた恨みによって育まれている。このイメージは、自分たちも含まれるはずの文明化された西洋と一緒に作り上げたものである。現在の愛国主義は、かつてのような「反帝国主義」に代わり、「白人庶民」が自分たちよりもっと困窮した人びと、つまり南側諸国の脅威に向けた外国人嫌悪の様相を帯びている。これはなんとも逆説的だ。というのも、その一方で多くの者が、ソ連の労働者や学生の多民族共同体に脈づいていた親睦の精神を惜しみ、新たな境界の設定、旅行の自由を妨げる政治的、経済的な障害、家族や友人グループの離散といったことを嘆いているのだから。彼らはチェチェン人の大量虐殺を受け入れる一方で、30年代のカルト映画『サーカス』も鑑賞する。この映画では、ユダヤ系の俳優ソロモン・ミホエルスが、アメリカの人種差別の魔の手から黒人の子を引き剥がし、イディッシュ語の子守唄を歌いかける。ミホエルスは40年代末の反シオニスト・反ユダヤ主義キャンペーンの際、スターリンに暗殺されている。

 ソ連に対するロシア人のノスタルジーと再評価の動きが、その様々な政治的利用と混同されてはならない。現実からして、ソ連体制への回帰はありえない。ソ連の社会制度の解体、民営化、金の役割、「グローバル全体主義的」な外界からの圧力は、もはや後戻りできないところにまで達した。官僚機構と警察機構に基づいた腕力の伝統が復活しているのは、権力と石油収入管理という国内的な必要からばかりではない。国際的な状況を見ても、新ロシア人の崇拝するアメリカの「モデル」によって、軍事化と治安文化の見本が作り出されている。

 プーチン大統領は「名誉回復」に際して、ピョートル大帝も、ニコライ二世のもとで専横的に自由主義改革を行ったピョートル・ストリピンも、このところ存在感を強めているロシア正教会も忘れはしなかった。クレムリンの紋章が王冠をかぶった双頭の鷲だとすれば、新しいブルジョワの偶像はドル紙幣のような緑色をした「黄金の子牛」だ。

 今なお共産主義の道具を振りかざしているヴェーラ・ムーヒナの金属製のカップルに話を戻そう。その改修のニュースが自由主義者を怯えさせることはあるまい。かつての未来に向かって躍進する労働者の男性とコルホーズ農民の女性の永劫の威容は、新しい時代にふさわしく、もっと大きな台座の上に置かれることになりそうだ。ショッピングセンターの上である。

(1) この共産主義者カップルの像は、モスフィルム製作映画のクレジットに使われている。
(2) 「1917年10月の偉大なる社会主義革命」の記念日。
(3) アレクサンドル・アレクサンドロフが作曲したソ連の国歌は、1945年に「インターナショナル」に替わって採用され、1991年のソ連崩壊とともに廃止された。2000年12月8日、ロシア下院が復活を決め、ソ連の国歌を作詞したセルゲイ・ミハルコフが新たに「愛国的」な歌詞を付けている。
(4) アンドレイ・コスレスニコフによる2001年6月5日および8月14日付イズベスチヤ紙(モスクワ)掲載記事より。
(5) 保守派によるクーデタの失敗とエリツィン前大統領によるクーデタの成功について、ロシア人の48%が「権力争いのエピソードの一つ」としか見ておらず、31%は「悲しい出来事」と見なす。「民主主義の勝利」との回答は10%にとどまった。事件から10年目を迎えた2001年、記念式典は行われなかった。
(6) かつての実力者のうち、ウラジーミル・グシンスキー(メディア事業)はスペインに亡命し、ボリス・ベレゾフスキー(自動車、石油、メディア事業、クレムリンの大番頭)はイギリスに「政治亡命」し、ミハイル・ホドルコフスキー(石油のユコス社)は投獄されている。
(7) 内務人民委員部(NKVD)はスターリン時代の政治警察。後身組織は1954年に発足した国家保安委員会(KGB)、ソ連崩壊後はロシア連邦保安局(FSB)である。
(8) 軍隊、警察および情報機関の人間の総称。
(9) 自由主義政党「右派勢力連合」とソロス財団は、フランス人ステファヌ・クルトワによる『共産主義黒書』の編集を助成した。
(10) ジャン=マリー・ショーヴィエ『ソ連、変動する社会』(ローブ社、ラ・トゥール・デーグ、1988年)参照。
(11) イズベスチヤ紙、2002年3月26日付。ソコロフが取り上げたのは、SSのウクライナ人部隊ガリツィエンの名誉回復のことである。
(12) Victor Suvorov, Ten 'Pobedy(勝利の陰に), Moscow 2002.
(13) ネザヴィシマヤ・ガゼータ紙、モスクワ、1995年11月9日付。
(14) カリーヌ・クレマン『市場に翻弄されるロシア労働者たち』(シレプス社、パリ、2000年)参照。
(15) ピエール・ルパープ「シャラーモフの語る強制収容所」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年12月号)参照。
(16) ヴァルラム・シャラーモフ『1920年代』(ヴェルディエ社、パリ、1997年)。ヴェルディエ社からは『極北コルィマ物語』全訳版(2003年)も出版されている。
(17) 『リュドミラ、世紀のなかのロシア女性』(ラ・ディスピュート社、パリ、1998年)。
(18) E. M. Kovalev, Golosa Krest'ian, Selskaia Rossiia XX veka v krest'ianskikh memuarakh (農民の声:農民の回顧録に見る20世紀ロシアの農村), Aspekt Press, Moscow, 1996.
(19) ピエール・ブルエ『共産主義者 vs スターリン、一つの世代の皆殺し』(ファイヤール社、パリ、2003年)参照。
(20) リテラトゥールナヤ・ガゼータ紙、モスクワ、2002年3月6-12日付。
(21) 著書『ペンギン』(リアナ・レヴィ社、パリ、2000年)についての雑誌『天使の名簿』によるインタビュー(http://www.lelibraire.com)。
(22) Ludmila Bulavka, Non Konformizm(非順応主義), Ourss, Moscow, 2004. 現代ロシアの労働者による抗議行動を、社会文化的に描写した著作。
(23) Osennii krizis 1998 goda : possiiskoie obchtchestvo do i posle(1998年秋の危機−それ以前とそれ以後のロシア社会), PNISiNP, Rosspen, Moscow, 1998.
(24) 1983年4月、体制の危機と構造改革の必要性を認めた最初の公式報告(機密文書)の執筆者。ドニ・パイヤールによるフランス語訳は『ラルテルナティヴ』誌26号(パリ、1984年3-4月)に掲載。引用部分は、以下の単行本に所収された論文「改革の成果と社会政策の責務」より。Kuda idet Rossiia ?(ロシアはいずこへ), Intertsentr, Moscow, 1998.


(2004年3月号)

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