旧ユーゴ諸国に躍る民族主義の影

ジャン=アルノー・デランス(Jean-Arnault Derens)
ジャーナリスト、『クリエ・デ・バルカン』編集長、在ベオグラード

訳・斎藤かぐみ

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 バルカン諸国の民主化という期待は崩れ去ったのだろうか。セルビアは出口の見えない政治危機にはまり込み、ザグレブでは民族主義政党クロアチア民主同盟(HDZ)が2003年11月23日の選挙によって政権に舞い戻ることになった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは2002年10月に、与党の座にあった民主派勢力の不安定な連合を三つの民族主義政党が追い落としている。

 1990年代を通じて欧米で高い評価を得たバルカン諸国の民主系野党は、民族主義と縁を切って自国を「正常化」し、欧州連合(EU)との接近という軌道に乗せようと意気込んでいた。しかし、セルビアの新与党連合には早々と亀裂が走り、コシュトニツァ大統領のセルビア民主党(DSS)はジンジッチ首相の民主党(DS)とあからさまに敵対した。政権に就くとすぐさま、セルビアの民主派勢力は過去10年に及ぶ対立を再燃させたかに思えた。2003年12月28日の選挙で示されたのは、それが民族主義政党セルビア急進党(SRS)(1)を利することになりかねないということだった。

 DSSとDSの抗争では、旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)とどのような関係を保つべきかが焦点となった。コシュトニツァ大統領が国際法廷との全面的な協力を拒み、詭弁まがいの法律論をふりまわしたのは、国際法廷に対する根本的な不信感からだった。つまり、セルビア人はこれまでずっと(集団として)歴史の犠牲者であったのだから、人道に対する戦争犯罪の加害者であるはずがないというのだ。犯罪を疑われた個人を裁判に委ねることこそ、セルビア民族にかけられた集団責任の疑念を払拭するための条件だと説く声はほとんど聞こえてこなかった。ジンジッチ首相でさえ、こうした真実を語ろうとはせず、ICTYとの協力がセルビアにとって避けられない義務であり、国際社会への復帰と貴重な援助の獲得のために払うべき代償だと述べるにとどまった。

 たとえばアメリカは、援助の条件としてセルビア人容疑者の逮捕を求めており、これまでに何度も最後通牒をつきつけてきた。しかし、その結果は理不尽なものだった。ミロシェヴィッチが2001年6月28日にハーグに移送され、ほとんどすべてのセルビア人容疑者も、ムラジッチ将軍という目立った例外を除いて同じ運命をたどったにもかかわらず、セルビアに実際に与えられた融資は夢のような約束の金額には及ばなかった。

 こうした脅しや駆け引きの論理では、セルビアの世論が国際法廷の歴史的な意義を納得するべくもなかった。しかも、ICTYはセルビアだけを目の敵にしているように映っていた。2003年春、戦犯問題を担当するアメリカのプロスパー無任所大使はムラジッチとカラジッチの逮捕を改めて求めたが、これは他の国々の容疑者には一種の「恩赦」が与えられる、としか聞こえなかった(2)

 ICTYのデル・ポンテ主任検察官は、次回の起訴では「あらゆる民族集団」が対象となると言っているが、コソヴォのアルバニア系住民についての捜査が「数々の困難にぶつかっている」ことも認めている。この地域に展開する北大西洋条約機構(NATO)の部隊が、コソヴォ解放軍(UCK)の元ゲリラ兵に関する捜査にまるで便宜を図ろうとしていないふしもある。

背景にある経済不振

 クロアチアの場合、2000年1月から2003年11月まで政権を担っていたラチャン社民内閣は、ICTYとの協力に同意するという原則論を唱えていたにすぎない。2002年10月には軍の参謀総長だったボベトコ将軍が起訴され、クロアチア政府とICTYの間に重大な危機を引き起こしている。政府と民族主義野党は一丸となって引き渡しを拒んだが、彼が死亡したことで危機は過ぎ去った。ラチャン首相は「裏切り者」呼ばわりされることを恐れ、クロアチア軍による犯罪を論じたり、1991年から95年の「愛国戦争」の再評価を行ったりすることを拒絶した。クロアチア社会でもセルビアとまったく同じように、ICTYの要求をきっかけとして、現在から遠からぬ過去について真剣に論じようという気運が生まれることはなかったのだ。

 2000年に政権に就いた民主派勢力は、民族主義エリートによる「略奪経済」が招いた惨状にも対処しなければならなかった(3)。クロアチアではトゥジマン前大統領の取り巻きが、民営化を通じて国の富を奪い去っていた。ラチャン社民内閣はこの問題に切り込もうとはしなかった。クロアチアでもセルビアでも、1990年代の戦争中に巨額の財を成した者たちが司直の手に煩わされることはなかった。

 その一方で、バルカン諸国の経済はいまだ危機を脱してはいない。セルビアには年金生活者が100万人、今のところ仕事に恵まれている就業者が100万人、それに対して失業者が100万人いる。平均賃金は月額150ユーロにも満たず、年金はその半分だ。観光収入のあるクロアチアはもう少しましなようだが、それでも失業者が3分の1近くに達しており、200億ドルを超える対外債務を抱えている。

 どの国でも、こうした経済の不振に対し、有権者は民主派与党に落とし前を求めるようになった。クロアチアのラチャン首相の党やセルビアのジンジッチ首相(故人)の党は社会民主主義を看板にしているが、これらの政権は経済面や社会面で政策理念を欠いている。移行経済から取り残された人々の声は、どの政党にも代弁されていない。セルビアでは、ミロシェヴィッチの社会党が左派政党への変身を主張したが説得力はなく、むしろ民族主義極右がこうした空白に浸透しようとしている。

 はっきりした改善がみられるのは、域内関係の分野だけでしかない。2003年春以降、クロアチアとセルビア・モンテネグロ連合それぞれの国民はビザなしで往来できるようになっている。同年秋にはセルビア・モンテネグロ連合のマロヴィッチ大統領が、戦争犯罪についてクロアチアのメシッチ大統領と謝罪を交わし、またボスニアでも謝罪を表明した。旧ユーゴスラヴィア地域での新たな関係構築が始まり、経済交流によって促進されているように思われる。だが、国際社会はこうした正常化において何の役割も果たしていない。

 歴史の頁はめくられ、2004年の民族主義勢力は1991年のそれではない、そう言えるだろう。クロアチアのサナデル首相は、彼の率いる「新生」HDZが90年代に見られた過激化とは縁を切ったことを強調する。HDZは欧州議会の会派である欧州人民連合に迎えられている。

 奇妙なことだが、サナデル内閣はその前の社民内閣に比べ、ICTYに起訴されたクロアチア人容疑者を逮捕しやすい立場にあると言ってよい。それでサナデル首相が「悪しきクロアチア人」と非難されるようなことは考えられないからだ。クロアチアの新政権にとって、この賭けはやってみる価値がある。国際法廷とうまく協力することは、クロアチアが2007年か2009年、あるいは2010年に、他のバルカン諸国を待たずにEU入りを果たすためのポイントのひとつだからだ。「新生」HDZは明確に目標を定め、そのために払うべき代償を理解している。サナデル首相は批判の声を簡単に黙らせることができるに違いない。

国際保護が障害という皮肉

 セルビアとボスニアの民主派勢力もEU入りを期待すると表明しているが、その見込みはクロアチアほどはっきりしていない。2003年6月にテッサロニキで開かれたEU首脳会議では「西バルカン諸国」、つまり2004年5月の加盟が決まっているスロヴェニアを除いた旧ユーゴ諸国、およびアルバニアの「欧州統合は天の定め」だと明言された。とはいえ、これら諸国に対して加盟日程はまったく示されていない。EU入りの目標実現が不確かなまま、さらなる経済的な犠牲を国民に求め、ICTYとの協力の重要性を説くことは至難の業と言える。

 セルビアとボスニアの場合、今後の国家の性質と形態が不明確であることが、欧州統合の見込みに暗い影を落としている。EUはコソヴォ問題をもうしばらく「凍結」しておくために、ユーゴ連邦に替わるセルビア・モンテネグロ連合の創設を強要した。2003年2月5日に発足した同連合は3年間の「時限付き国家」にすぎず、セルビアとモンテネグロの改革政策の障害となっている。両者がそれぞれ別々にEU入りに向けた政策を定めるべきなのかもわからず、コソヴォの最終的な地位も定まっていないというのに(4)、欧州統合について論じることなどできるものだろうか。

 ボスニアでは、デイトン協定の見直しはもはやタブーではない。独立系のコンサルティング機関であるヨーロピアン・スタビリティ・イニシアティヴズは、現在の国家体制の抜本的な見直しを提言している(5)。協定で定められた二つの「構成主体」の代わりに12の準州とセルビア人共和国、ブルチコ市に分割するというものだ。この案はセルビア系、クロアチア系、ムスリム系それぞれの民族主義勢力から大反発を買うことになった。

 2002年には民主行動党(SDA)、セルビア民主党(SDS)、クロアチア民主同盟(HDZ)の三つの民族主義政党が政権に返り咲き、自分たちの政治的独占に手を付けるような改革を全面的に阻止している。わずかな前進も和平履行会議の上級代表からの強制によるものでしかない。このアシュダウン上級代表は帝国の総督のように振る舞っていると非難されている。そして、国際社会の手厚い保護が、ボスニアの指導者たちの責任逃れを助長している(6)。結果として、有権者は現在でも煽動の誘惑につけこまれやすく、「帰属意識」に即した投票に走ってしまう。

 皮肉にも、こうした国際的な保護措置がボスニアの欧州統合に対する主な障害となっている。デイトン協定から8年を経た現在も、国際社会にはバルカン地域についての明解で現実的なロードマップがないと言わざるを得ない。

 マケドニアとボスニアでは、NATO部隊の縮小と並行して欧州警察部隊の展開が進められ、安全保障の権限がEUに移譲されつつある。しかしマケドニアやコソヴォ、あるいはモンテネグロでも、武力衝突の可能性がなくなったわけではない。ヨーロッパは戦略を欠いたように見えるまま、重い責任を負うことになる。

 もしサナデル首相が約束を履行できるなら、クロアチアはおそらく「西バルカン諸国」の呪縛から逃れられるだろう。しかし他の諸国は、EUの中に点在する慢性的な低開発地域となってしまうおそれが高い。民族主義勢力がさらに力を強めることになっても驚くにあたらない。これらの国々は汚職と組織犯罪によって蝕まれている上に、憧れの欧米諸国にたどり着くためには何でもやるつもりの非合法移民の予備軍に溢れているのだから。

(1) 長期にわたりミロシェヴィッチ政権に加わっていたSRSは、フランスの国民戦線などの極右勢力と緊密な関係にある。
(2) http://www.balkans.eu.org/article2214.html 参照。
(3) プレドラグ・マトヴェイェヴィッチ、ヴィドサフ・ステヴァノヴィッチ、ズラトコ・ディズダレヴィッチ『旧ユーゴスラヴィア−軍閥たち』(レスプリ・デ・ペナンシュール社、パリ、2001年)参照。
(4) ジャン=アルノー・デランス「コソヴォの現状維持は不可能だ」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年12月号)参照。
(5) http://www.esiweb.org/reports/bosnia/showdocument.php?document_ID=48 参照。
(6) クリストフ・ソリオ、スヴェボル・ディズダレヴィッチ編『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ−移行の争点』(ラルマッタン社、パリ、2003年)参照。


(2004年3月号)

* 筆者名欧文表記「Jean-Arnaud Derens」を「Jean-Arnault Derens」に訂正(2009年4月14日)

All rights reserved, 2004, Le Monde diplomatique + Miura Noritsune + Saito Kagumi

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