イランの覚醒

ベルナール・ウルカード(Bernard Hourcade)
国立学術研究センター、パリ第三大学、国立東洋言語文化研究所、
高等研究実習院による「イラン世界研究チーム」リーダー

訳・近藤功一

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 イランでは、しばしば大地が揺れ動く。言葉通りの意味としても、比喩的な意味としてもである。しかし、イランの人々は昔から、崩壊した町を建て直し、深く傷ついた社会や、切り裂かれた日常生活を立て直す術を心得ている。この国の歴史には、2003年夏以来、加速がついているように見受けられる。それは、アメリカや多くのイラン人の望む「体制変革」でもなく、新たなイデオロギーや社会の「革命」でもない。エリートと主要国だけでなく、「市民」や地域社会、そして国際社会をすべて巻き込んだ世界の新たな流れの中に、この古い国が参入したということだ。寝苦しく悪夢に満ちた長い「眠り」の後、イランは覚醒した。

 2003年10月には、歴史のページがめくられたことを示す3つの大きな出来事が相次いだ。10月10日、シリン・エバディがノーベル平和賞を受賞。21日、イラン政府は核に関する国際ルールを受け入れた。27日、仏ルノーが、外資では1979年以来初となる大規模の工業投資を決定した。

 どの出来事も、長期間の、多くは劇的な闘いの成果である。これら「10月革命」は、イランの人々が二度と代償を払うつもりのない新たな革命が勃発するよりも、おそらく重大な帰結をもたらすことになるだろう。

 改革派のモハンマド・ハタミ師が大統領に選出されたことで、ここ数年は希望がふくらんでいた。しかし今や、この新しい覚醒もまた、イランが何度も体験してきた逆説にすぎなかったという気もしないではない。とはいえ、彼が登場した1997年当時には、アメリカはまだ東のカブールにも西のバクダッドにも進出していなかった。

 ハタミ師は、イラン・イスラム共和国の創始者ホメイニに近いサークルの中にいた。彼は他の人々にまして、イスラムを文化的、社会的、政治的な保守主義から脱却させ、近代世界の建設を支える力のひとつにしようという意志を持ち続けてきた。以前からオリヴィエ・ロワが明らかにしてきたように(1)、この政治的イスラムの理想は権力闘争によって挫折したが、思想そのものが死んだわけではない。イスラムにおける改革の切望は、聖地コムの宗教学校でも、モフセン・キャディヴァール師、モジュタヘド・シャベスタリ師、アヤトラのアモリ師、アブドルキャリーム・ソルーシュ師のような宗教知識人の間でも、着実に地歩を広げている(2)

 この思想は現在では少数派となり、大衆を動かすことはなくなっているが、ホメイニ師の別の後継者グループが権力を掌握し、革命期とイラン・イラク戦争に由来する政治構造と手法を堅持しているにもかかわらず、深く根を下ろしている。こうした「保守派」と「改革派」のにらみ合いが続くなか、イスラムといえば拒否反応を示すような国民も増えてきた。しかし、ハタミ師によって復活したイスラム変革論が止むことはないだろう。この議論には今や、何らかの政治的変化、さらには急変が起こったとしても、生き延びる基盤が備わっているからだ。

 過去25年間で、イランのイスラムは近代化を遂げ、文化、社会、経済、政治、国際関係の中に組み込まれ、革命、聖職者体制、戦争、共和制から生まれた新しいエリートが定着した。高校を出て1980年に革命防衛隊(パスダラン)に加わり、政治活動を続けながら特例で大学に入り、それからカナダやオーストラリア、イギリスに何年か留学した後に、博士号を携えて帰国したといった者は、数え切れないほどいる。

 一方、1990年からラフサンジャニ大統領の下で実施された民営化政策は、革命と聖職者体制のおかげで登場した新しいエリートに対し、強固な経済基盤を与えることになった。伝統的なバザール経済の時代は終わったのだ。こうした企業幹部は、政治や社会の方面では保守主義が多いが、ビジネスでは近代主義、国際関係では自由主義の立場をとっており、その結集に努めているのが強大な「専門家協会」である。彼らは2003年の地方評議会選挙で大都市を押さえ、2004年2月20日の総選挙、2005年5月の大統領選でも同様に勝利する構えでいる。

若者の成長と女性の進出

 「ハタミ主義に幻滅した人々」の失意を強調するのも結構だが、主要な成果を隠してしまってはならない。2期にわたる任期中、ハタミ大統領とその様々な支持者は、イスラム共和国とともに育った新しい世代が政治論を交わし、地方や社会に軸足をおいた新たな勢力関係を作り上げることを可能にした。この闘いは、特に女性にとって困難を極めたが、ハタミ政権が弾圧を食い止め、法治国家を前進させたおかげで実を結んだ。

 道のりはまだ長い。しかし過去数年の間に共和制、民主主義、思想の自由が、特に地方レベルで大衆の政治的、社会的行動の中に定着したことは否定すべくもない。政治的イスラムに新たな地位を与えるような抜本的変化、それを実現するための条件は出そろったのだ。

 イラン国民は20歳以下が50%と、近隣諸国に比べもう若くはない(3)。しかし若い世代には強烈なアイデンティティがある。イスラム革命以降に育った彼らは、政治や自分たちの生活様式に関わる劇的事件や議論にぶつかってきた。識字教育が普及した結果、テヘランから遠く離れたところに住んでいても、彼らは理解と行動のための新しい手段を手にしている。しかも、若い世代の大半は都市部に住んでいる(4)

 取り締まりにもかかわらず、イランは民衆が議論し、語り、表現し、異議申立する国である。司法や警察を支配している聖職者がいくら奮闘しても、もはや情報へのアクセスや自己主張を取り締まることはできない。それだけになおさら「見せしめ」として、特にジャーナリストなどに対して乱暴で徹底的な弾圧が行われる。しかし、こうしたことに対しては政府内からでさえも、猛烈かつ効果的な非難が起こっている。

 世界のほとんどの若者のように、彼らも消費社会の一員となり、国際文化に触れたいと望んでいる。しかしイランの若者は、政治にも大きな関心を持っている。彼らは15歳で手にする投票権が力となることを自覚している。この「ホメイニの子供たち」は、まだ政権を奪う歳には達していないが、ハタミ時代に鍛え上げられており、あと5年もすれば被選挙権を持つようになる。彼らが思想に磨きをかけ、それを政治の場で体現していけば、政権にしがみついているノンポリのエリートやテクノクラート、イスラム教勢力に取って代わることができるだろう。その際の権力の移譲は、革命とはならないにしても、衝突なしには済まされないだろう。

 イランの政治と社会の中で、女性は若者と同様、もしくはそれ以上に、きわめて逆説に満ち、とはいえ非常に効果的な役割を果たすようになっている(5)。この後戻りすることのない変化の影響はまだ未知数だが、いくつかの象徴的な数字がある。大学の新入生の62%が女性であり、農村部の女性の識字率は62%に達する(1976年では17%)。イラン女性が生涯で生む子供の数は1980年には平均6.8人、それが今日は2人を割った。同様の変化はある程度までは、シリアやアルジェリアのような他の国にも見受けられる。しかしイランの政治的、歴史的、国際的な背景が生み出した独特の傾向が、これからムスリム世界全体にじわじわと広がっていく可能性もある。

 イラン女性たちが、公共の場に一歩また一歩と進出していくにあたっては、近代主義的な宗教関係者もかなり力を貸している。彼らは専制的、家父長的、あるいは男性優位の伝統に由来するスカーフのような社会風習から、イスラムの宗教的側面を切り離そうとしているからだ。イランには、見かけの印象とは異なって、ムスリム国家での女性の地位に革命が起こるための条件がそろっている。

国際舞台の中で

 パレスチナ人を支持し(革命後のイランを一番初めに訪れた外国指導者はアラファト議長だった)、冷戦下でアメリカに敵対してきたイランは(1979年には444日間にわたる外交官人質事件が起きた)、国際「秩序」に対する反感を表明し続けた。そのために孤立し、経済制裁下に置かれてきた。さらには8年にわたる侵略戦争に苦しめられることになった。この戦争が生み出した紛争と軍拡競争が、イラクに何をもたらしたかはすでに明らかだ。イラクとその同盟諸国と紛争状態にあった革命国家イランの外交政策を特徴づけていたのは、反米的イスラム革命の輸出だった。レバノンなどに見られるように、非合法的な手段、ひいてはテロという手段も同時に輸出された。

 イラン通常軍はイラク前線に張りついており、いつしか使用可能な状態の装備も欠くようになった。非合法的な戦争を展開し、化学や核のような大量破壊兵器とミサイルの製造を目指すことは、この弱点の埋め合わせになるはずだった。その成果は技術的に見て、短期的には危険というよりも不安なものでしかなかったが、イランを潜在的な脅威とするには十分だった。「大悪魔」アメリカに対し、また他の諸国に対しても一様に、猛烈な反イスラエル論を展開したことで、「ならず者国家」という形容詞が生み出され、正当化されていった。イスラム共和国イランは、長い間それを嬉々として受け入れ、今や拭い去ることが困難になってしまった。

 しかしながら、この数十年でイランが得た最大の成果は、「悪の枢軸」として邪悪で時に誇張された役割を割り振られたことよりも、政治的独立を獲得したことだった。イランのナショナリズムが逆境により、「東側でも西側でもない」というスローガンにより、また「第三世界」を中心とする数多くの国々や国際機関と実質的な中身には乏しくとも外交関係を結ぶために傾けられた弛みない努力により、強められたのは明らかだ。イスラム革命後のイランは歴とした独立国になったが、同時に弱体化した。15の隣国の脅威となるには程遠く、近代的軍隊を欠いたイランは、国境を越えてくるクルド人、アゼリ人、バルーチー人、アラブ人を通じて、外国の影響力が増すことを恐れている。

 2001年9月11日の事件の後、この地域に侵攻して以来、アメリカはイランの直接の隣人となった。それで軍事侵攻を受けることは考えられないにしても、イスラム体制に加えられている圧力と、独立を死守するという国民一丸の決意からして、イランは問題の核心に突き進まざるを得ないだろう。勢力関係が変化したのは国外だけではない。国民はこぞって、経済や政治のみならず文化や科学の分野でも、ハイレベルで国際舞台に加わることを要求している。

 つまり、イラン政府が国際社会への復帰を試みているのは、自らの選択であるのと同時にそうせざるを得ないからである。ヨーロッパ諸国、ロシア、中国、日本、そしてアメリカさえも、それぞれのやり方で、この国と特別な関係を結ぼうとしている。イランは豊かで、国土も人口も大きく、中東で最も安定し、もはやイスラム革命の起こる心配もないという意味で、一目おくべき国なのだから。このようにイランは、地域の安全保障と発展にとって欠かせない存在という地位を築きつつある。だが、諸国との間に信頼関係を回復し、何事においても鍵を握るアメリカとの関係を「正常化」するには、まだ時間が必要だろう。

 最悪の事態は依然として起こりうる。特に懸念されるのは、アメリカの新保守主義勢力とイスラム革命を懐古する勢力という二つの過激思想の対決である。しかし、さしあたっての未来は、人権、国際安全保障、経済発展の領域で、2003年10月に明らかとなった勢力関係や手法という観点から捉えていくべきだ。

25年間の変化の帰結

 シリン・エバディへのノーベル平和賞授与には、2つの意味がある。つまり人権が、現在の趨勢の中で中心的な役割を占めているという認識を改めて示したこと、そしてこの闘う弁護士のように、イスラム文化の枠組みの中で行動しようとしている人々の立場を強化したことである。法律の改正は必要だが、それだけでは人間のメンタリティを変えることはできない。

 イスラムが現在でも、この国を支える活力源のひとつである以上、行動を向けるべき対象は、「保守派」も含めた数多くの善意あるムスリムだということになる。聖職者文化にがんじがらめとなったハタミ大統領とは反対に、イランの人権活動家は、国際的な支援を歓迎し、要請している。イランの人々が世界の経済的、知的、芸術的、科学的な活動の場に(近いうちに政治的な活動の場にも)以前よりはるかに組み込まれるようになってきた現在、国際的な支援は非常に効果的なものとなっている。

 10月21日、イランはフランス、ドイツ、イギリスの外務大臣と、核に関する国際ルールを遵守するという合意を交わした。この出来事の意味は、それまでずっとイラン聖職者層内部の意思決定を麻痺させていた恐怖の壁が(6)、国家安全保障最高評議会のルーハーニー書記官によって初めて乗り越えられたということだ。

 イラン政府は、反イスラエル的、反アメリカ的な弁舌に終始することで大きな政治的空白を隠蔽する代わりに、国内外で生じた変化の規模を認識し、退路を断って協調路線を歩んでいくことに合意した。決裂でも非合法活動でもない路線である。核兵器のように微妙な分野でイランが取った透明化政策には、信頼関係の回復と同盟関係の構築へと至るまでに、さらに補足と強化の必要がある。しかし基本的な決定はなされたのだ。

 フランスが中心的役割を果たしたこの核合意は、この50年で初めてワシントンからイニシアティブを奪い、自分たちの手法が効果的であることを示したという意味で、ヨーロッパ諸国にとっても革命的だった。彼らは圧力をかけ、時に脅し文句をちらつかせながらも、イランの正当な必要と期待に応えた前向きな解決策を提示した。イランが求めていたのは、近代技術へのアクセスと地域安全保障上の役割である。

 アメリカによる25年に及ぶ追放政策では何ひとつ変わらなかったのに対し、「上向き」の解決策を重視するヨーロッパのイニシアティブは、革命後のイランの悪癖を非難しつつ、国際社会に安全保障上の保証を与えることを可能にした。

 40年以上にわたり製造されてきた国民車ペイカンに代わる自動車の生産会社を(7億ユーロを投じて)設立するというルノーの決定は、この国に大きな政治的リスクや経済的リスクがないことを裏づけている。この投資が意味するのは、もはやイランが国の発展を阻害するような革命に揺れるリスクはないという経済界の認識である。トタル石油が1995年に、アメリカの石油制裁に「違反」して投資を実施したのと同様、ルノーはイランの覚醒の現実を見極めたのだ。他の企業も後に続きつつある。

 イランの歴史は、まだしばらくは紛争や劇的事件に彩られることだろう。護憲評議会などを通じて権力を握る聖職者勢力は、例によって投票以前に敵対勢力を排除したり、法律の公布を拒絶したりすることで、選挙手続きを歪めることを止めようとしない。しかし、国内外の勢力が共闘戦線を張った現在は、もはや90年代とは違う。

 それでもなお、イランの一部の保守派やテクノクラートは、技術には開放的で思想には閉鎖的という中国やサウジアラビアのような制度を望んでおり、他方アメリカの新保守主義勢力は、政権の抜本的な変化を求めている。いずれの側も、この国が25年間でどれほど変化したのかを認識していない。ナショナリズムとイスラム、そして知識という三つの流れを組み合わせることにより、イランは独立に親しみ、イラン社会は行動の自由に先立つ言論の自由に親しむようになったのだ。

(1) オリヴィエ・ロワ『政治的イスラムの失敗』(スイユ社、パリ、1992年)。
(2) ファルハド・ホスロハヴァル、オリヴィエ・ロワ『どのように宗教革命から脱却すべきか』(スイユ社、パリ、1999年)。
(3) マリ・ラディエ=フラディ『イランの国民と政治』(国立人口研究所、パリ、2003年)。
(4) イラン社会の新しいアイデンティティに関しては、多くの著作がある。ジャン=ピエール・ディガール、ベルナール・ウルカード、ヤン・リシャール『20世紀のイラン』(ファイヤール社、パリ、1998年)、ファルハド・ホスロハヴァル『イラン革命の人類学』(ラルマッタン社、パリ、1997年)、ベルナール・ウルカード『イラン、共和国の新たなアイデンティティ』(ブラン社、パリ、2002年)など。
(5) アザデ・キアン=ティエボー『イスラム、国家、家族の中のイラン女性』(メゾンヌーヴ・エ・ラローズ社、パリ、2002年)
(6) ポール=マリー・ド=ラゴルス「イランの脅威、イランへの脅威」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年10月号)参照。


(2004年2月号)

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