高炉の火が消えるベルギーの町

セルジョ・カロッツォ(Sergio Carrozzo)
ジャーナリスト、在ブリュッセル

訳・渡部由紀子

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 かつて炭鉱労働者の消滅を見たリエージュ地方とスランの町から、今度は製鉄労働者が消え行こうとしている。業界大手の多国籍企業アルセロールが、ベルギーのリエージュにあるコッケリル製鉄所から、「熱い工程」を切り捨てることを決定したのである。2世紀近くにわたって銑鉄を生み出してきた高炉は消え、それとともに数千人が職を失う。地元の労働者、住民、組織や団体の怒りはもっともだ。とはいえ、それを超えて、地域経済と地域産業の新しい将来像を描き出していかなければなるまい。[フランス語版編集部]

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 ベルギーの東部、リエージュ市に隣接する労働者の町スラン。ここの住民は、神や富をたたえる記念碑を築きはしなかった。彼らの生活は200年前から、「火の大聖堂」を中心に営まれている。コッケリル製鉄所の高炉だ。6号炉とB号炉は今も稼動し続けており、頂上までの高さは70メートルにも達する。この巨人たちの腹の中で、ガスとコークスと鉄と炎の錬金術が施され、銑鉄が生み出されていく。

 コッケリルで勤務シフトを管理する(1)ロベール・ボルトロッティ氏は、25年近くもの間、彼の「飯のたね」となってきた、溶岩のような白熱のマグマを物憂げなまなざしで見つめる。「1970年代半ばには、高炉1基で日に3500トンの銑鉄を生産し、それには80人の労働者が必要だった。現在は、4500トンを3分の1の人員で生産している。技能の点から見て、我々は誰にもひけをとらない。工員はヨーロッパで最高水準だし、設備の性能も最上級だ。それだけに、『熱い工程』を打ち切るのは余計に惜しまれる。動機は何かといえば、明らかに生産コストだろう」。けたたましい騒音の真っ只中で、彼はこう結論付けた。「我々が1トンの鋼鉄を生産するには125ユーロが必要だが、ブラジルでは80ユーロで生産できる」

 多くの人がそうであるように、彼も数十年にわたり、すべてを「わが」工場に捧げてきた。「シフト勤務は実につらい。熟睡できず、疲れが回復しない。年をとればなおさらだ。しかも、会社は絶えず生産性の向上を求めてくる。家族のことを顧みたり、文化や政治、社会活動に手を染めたりする余裕もない」。アルセロール社(2)がコッケリル製鉄所の「熱い工程」(3)を、段階的とはいえ不可逆的に停止するという血も涙もない決定を下したことに対し、みなと同じく彼にできたのは、苦々しさと怒りをあらわにすることだけだった。

 決定が下されたのは、2003年1月のことだった。この多国籍企業の取締役会は、「今後は競争力の高い事業所だけに投資を集中させるべく、必要な処置を準備するよう経営陣に要請した。(・・・)その結果、『大陸部』の高炉の改修への投資は打ち切られることになった(4)」。標的となったのはスランだけではない。フランスのフロランジュやドイツのアイゼンヒュッテンシュタットの製鉄所も同様だ。これらの高炉はいずれも、採算性という祭壇のいけにえにされるのだ(5)

 この決定に対し、スランの町だけでなくリエージュ工業地帯全域で、コッケリルの従業員に加え、地元の住民全体、組合活動家や政治家、経済人、社会活動家たちがすさまじい反発を示したのももっともだ。リエージュ一帯の全市町村は、製鉄労働者への支持を表明した。先頭に立ったスランのギー・マトー市長(6)は、アルセロール社が「リエージュの『熱いライン』の閉鎖を宣告するという社会的蛮行に踏み切った」と非難している。「株式市場への服属のせいで、白羽の矢を立てられたのがコッケリルだ。スランが、そしてこの地域一帯が、息の根を止められようとしている。アルセロールの冷酷非道な強要に対し、みなで『ノー』を突きつけようではないか(7)

 この抗議運動が最高潮に達したのは、3月12日にリエージュ市で、組合が呼び掛けたデモに約5万人が集結したときだった。参加者の怒号は、迫りくる社会的異変を必死に振り払おうとする呪文のように響きわたった。「熱い工程」が終わるということは、直接的および間接的に9500人以上が解雇されることを意味する(8)。1970年代前半以降、すでに10万人近い産業労働者が職を失っているこの地方にとって、非常に厳しい一撃である。

ダルデンヌ兄弟を育んだ町

 1817年、英国ランカシャーの機械整備士の息子ジョン・コッケリルがスランに上陸し、のちの製鉄帝国の基礎を築いて以来、聖火のように燃え続けてきた高炉が消滅すれば、その心理的衝撃がすさまじいことは言うまでもない。ここではすべてが手の内にあった。鉄と石炭の鉱山、ムーズ川の流れ、そして尽きることのない労働力。地元の農民たちが、産業発展の「先兵」となった。彼らは徐々に都市プロレタリアートを形成し、貧困と搾取の中で生活した。彼らが直接的にかかわりを持ったのは、炭坑や高炉、建設現場や鉄道であり、これらは限りなく広がって、周囲を一変させていった。田園地帯は急速にアリの巣と化した。ヴィクトル・ユーゴーが1834年に著した黙示録的な叙述によれば、「噴火でできた穴がそこら中に空いた谷」のようだった(9)。第2次世界大戦後はさらに、イタリアやスペイン、モロッコ、トルコから何千人もの移民がやって来て、まずは鉱山で、続いて製鉄所で働くようになった。

 今もなお、この「鉄の町」の相当部分はコッケリルの施設が占めている。ひときわそびえ立っているのが、威容を誇る6号高炉である。まるで町の暮らしの中に「怪物」が住みついているようだ。規則的に絶え間なく息を吐き出し、あるときはシューシューという音を、またあるときは爆発音を立てる。とてつもなく大きな暗い塊から巨大な配管が生えていて、ぎりぎりのところをかすめて屋根の上に張り出し、庭に沿って走り、下方に潜り込み、暴れ狂う触手のように家の角から再び現れる。工場は居住区に溶け入り、居住区は工場に溶け入る。この怪物は実際のところは、何世紀にもわたる町と産業の混然とした絡み合いの産物である。

 スランはそこここで、ルネサンス期の都市計画者が思い描いた完璧な都市に対する最悪のアンチテーゼの様相を呈している。しかし、これはスランに限ったことではない。同じような風景と工業地帯は、ベルギーのシャルルロワやフランスのノール・パ・ド・カレー、ドイツのルール、イギリスの北東部など、ほかの地方にも存在する(あるいは存在した)。不幸なことに、どの地方も黄金の60年代以後、同じ運命をたどってきた。再三の危機、相次ぐ再編、生産設備の停止、そして行き着く先は大量解雇である。50年代の最盛期には、コッケリル製鉄所は2万5000人以上を雇い、スランの町はいつも煙や騒音、人間と仕事で黒ずんでいた。ここでもほかと同様に、労働者階級は鉄のように堅固に、自分たちが天国に向かっていると信じていた。今は衰えを見せる金属製の巨人だが、その頃は繁栄や社会的進歩をもたらしていた(10)。そして企業は撤退にあたり、さび付いた跡地や閉じたシャッター、雑然とした市街、砕け散った運命、絶望を置きみやげとした。

 映画監督のダルデンヌ兄弟(11)は、この地獄への転落をつぶさに目にするという悲しい特権を手にした。彼らの映画の大半で、スランは「天然の舞台装置」の役割を果たしている。「私たちはこの町で子供時代を過ごし、この風景の中を駆け回った。コッケリルとスラン、それは私たちに人生のことを大いに教えてくれた女たち、男たちだ。私たちは、彼らとともに築き上げられた。コッケリルがなかったら、スランがなかったら、たぶん映画を作りはしなかっただろう。こうした人々や、その子供たちが、決断を迫られるのを見るのはとてもつらい。腹立たしい。私たちは、彼らの闘いに連帯を感じている。スランに暮らす人々や、コッケリルで働く人々が抱いているはずの虚無感、これを克服していかなければならない。空間や頭、肉体、歴史の中で、高炉は巨大なスペースを占めていたのだから」

 二人はともに歯に衣を着せない。「会社の経営陣が労働者に言っているのは、要するに『この結果を招いたのは君たちのせいだ。君たちは柔軟性や競争力、採算性に欠けていた』ということだ。なんという倒錯だろうか。主客を転倒し、犠牲者に罪をなすりつけてはばからないとは。自分が痛い思いをしないときに、口で言うのはたやすい」。暗鬱なシナリオが見えてきた今も、二人はいずれもあきらめようとはしない。「私たちの場合は、謙虚になろうと思っている。結局のところ、直接的には何事にも巻き込まれていない以上、『ああしなさい、こうしなさい』と言うのは簡単だ。私たちがそう言ってみせるのは簡単かもしれない。しかし、現状に明るい兆しが見出せないとしても、生命というのはもっと力強いものだ。どんなときだって」。その生命がどうやって再び根を生やせばよいのかはまだわからない。「製鉄業、それに鉱山やガラス産業が、町や住民に富をもたらすのであれば、人々はかなりのことを受け入れるようになる。それが町の雑然とした都市化の原因だ。スランはあまりに強い焼き印を歴史によって押されてしまい、否定的なイメージに付きまとわれている。製鉄業は衰退し、近年は都市再生の試みがなされているというのに、それでも人々の心の中のスランは、今なお煙にくすぶった町のままだ」。マトー市長はそう嘆く。

転換に向けて

 町は対照的な表情を持っている。脱工業化の傷跡が残る下町には、低所得者や失業者も多い(12)。緑に覆われ、樹木が茂った山の手には、次々に建物が増え、裕福な家族が住みついている。その中間には、公団住宅も含めた中間層の住宅地がある。6万の住民の社会的、経済的な特徴は、均質というにはほど遠い。

 再建への道のりには、まだまだ課題が山積みだ。「この町や地域が産業面で、また都市として、新しい顔を形作るのに、どのくらいの時間がかかるだろうか。一世代は確実にかかるだろう」と、市の幹部も言う。「政党、組合、大学、企業団体、経済・産業分野の公教育機関など、あらゆる組織や団体が、この工業地帯の転換についての幅広い検討に携わっている。一つの部門に投資を注ぎ込むというのは除外するとして、他のあらゆる選択肢を考えてみる必要がある」

 すべての鋼板を同じ輸送隊に託してしまうのは、たしかに決して得策ではないが、アルセロール社のギー・ドレ会長がそんなふうに言い放つのには、厚かましさが感じられなくもない。「製鉄業がどれほどリエージュの歴史に根付いているかは知っている。しかし、その状態を乗り越えていく必要がある。地方全体がたった一つの産業に同化するなどということが得策なわけはないのだから(13)」。同社と組合組織は難航した交渉の末、次のような合意に達した。「熱い部門」の停止は2005年から2009年の間に段階的に行う。原則として、純然たる解雇は行わず、早期退職と他の事業所への配置転換を実施する。アルセロールは、経済再編計画に協力し、新たに雇用を創出することを約束した。同社が「従業員、顧客、株主など、すべてのパートナーに対して責任ある企業」として、まじめに自社紹介しているのは事実である(14)

 リエージュ地方で依然として無視できない存在であり、景気の成り行きによっては前言を撤回することもありうるアルセロールに対し、どのような信頼を寄せればよいのだろうか。その答えは、コッケリル製鉄所の「冷たい部門」が最終的にたどる運命によりけりだろう。会社は完全に沈んでしまったわけではない。スランにもリエージュ工業地帯の他の地区にも、まだ工場は残っており、1800人以上が働いている。しかし、ばらばらに解体された巨人そのもの、特にそこに体現されていた頼もしさについては、過去のものとしてあきらめる心構えが必要だろう。

 「我々は何十年もの間、コッケリルは永遠に存在するのだという安心感を抱いてきた。重工業が人々の心の奥底にまで安心感を与えていた。人間的にも物質的にも、知的にも心理的にも、我々の暮らしはそれによって形作られ、染められてきた。空間的な意味だけでなく、政治、社会など、さまざまな意味合いを帯びたこの景観を、今後は作り替えていかなければならない。過去を否定する必要はないが、ノスタルジックになってもいけない。コッケリルは今後も存在するが、今までとは違ったものになる」。リエージュ大学の科学技術史センターの所長で、フランス学院のメンバーでもあるロベール・アルー教授は主張する(15)

 彼いわく、転換はまず「教育上かつ心理上」の行動から始まる。「人々は頭の中に、産業の跡地をたくさん抱えている。これは最悪だ。明確なアイデンティティーを回復し、産業革新への興味と新技術の吸収能力とを取り戻す必要がある。作業手順に関する知識は、高炉が閉鎖されてしまえば生かされないが、しかし知識を前にしたときの行動は、一種の条件反射のように体に刻み込まれているはずなのだから」。スランの町とリエージュ地方の歴史は、多くの場合には社会福祉の前進に道を開くことになった激しい階級対立を繰り返してきた。この歴史は、社会経済的、政治的な対立の現場で、人々に危機の時代の克服を可能にした数々の行動に彩られている。「ワロンとリエージュの社会史を見るかぎり、工学と社会工学が激しい衝突を伴いながらも相互に結び付き、後者も大きな成功を収めてきた」。アルー教授はそう続けた。

 リエージュ工業地帯の転換は、まだ手探り状態であるとはいえ、予告された高炉の死を待たずに始まっている。産業革命の最後の証人が消えても、すべてが終わるわけではない。むしろ、大気だけでなく精神も曇らせてきたコッケリルの煙が一掃されることにより、新たな時代が台頭するに違いない。この新時代の輪郭は不確かだが、そこにはリエージュの住民が忘れ果ててしまったものの兆しがある。みなでともに受けて立つべき挑戦である。

(1) 高炉は常に火の入った状態で稼動するため、3チームが8時間交代で作業に当たっている。
(2) この地方の製鉄会社の大半を現在までに吸収したコッケリル社は、1981年にシャルルロワ地方の製鉄大手エノー・サンブル社と合併し、コッケリル・サンブル社を設立した。株式の過半数はワロン地域が保有していた。1999年2月、同社は仏ユジノールに買収された。2002年2月、スペインのアセラリア社およびルクセンブルクのアルベッド社との合併により、10万4000人の従業員を抱えるアルセロール社が誕生する。同社は世界最大の普通鋼メーカーであり、2002年の売上高は266億ユーロに達する。
(3) 製鉄施設、すなわちコークス製造工場、高炉、および製鋼工場に関わる作業工程を「熱い工程」と呼ぶ。そこで生産された鋼板は「冷たい工程」、すなわちメッキや表面処理などを経た上で、自動車製造などに用いられる。[訳註:前者は日本では「製銑・製鋼・圧延」、後者は「表面処理」に相当すると思われるが、本文では一定のニュアンスをもって用いられているため、原文の表現を踏襲した。]
(4) ル・ソワール紙、ブリュッセル、2003年1月25日付。
(5) 同上。
(6) 62歳のマトー氏は、これまでに大臣や副首相を歴任した。1971年から88年までスランの市長を務め、2000年に市長職に返り咲いた。聡明かつ有能で、市民に近い政治家である彼の名は、しばしば政治献金疑惑事件で取り沙汰されるが、いずれも潔白を勝ち取っている。
(7) 2003年1月29日、スラン文化センターでの演説。
(8) そのうち直接雇用されているのは2393人。『長期にわたりリエージュの一部となった製鉄業を守るために』(ベルギー労働総同盟刊、リエージュ、2003年)参照。
(9) ヴィクトル・ユーゴー『ライン河幻想紀行』より。ルネ・ルブート『ヨーロッパの工業地帯の生と死、1750-2000年』(ラルマッタン社、パリ、1998年)からの引用。
(10) 1955年には、5万6000人がワロン地域の製鉄業で雇用され、そのうちの2万6700人はリエージュ工業地帯で働いていた(雑誌『労働組合』、ブリュッセル、2003年1月31日)。コッケリル・サンブル製鉄所の従業員数は、2002年現在で6700人(ル・ソワール紙、2003年5月3日付)。
(11) 監督作品は、『あなたを想う』(1992年)、『イゴールの約束』(1996年)、『ロゼッタ』(1999年)、『息子のまなざし』(2002年)など。
(12) この地区では、住民一人あたりの平均年収は7000ユーロに留まり、失業率は32%に達する。
(13) ル・ソワール紙、2003年4月26日付。
(14) See http://www.arcelor.com/, pp. 4 and 57.
(15) ロベール・アルー『コッケリル、技術の2世紀』(ペロン出版、アルール・リエージュ、2002年)も併せて参照。


(2004年1月号)

All rights reserved, 2004, Le Monde diplomatique + Watanabe Yukiko + Saito Kagumi

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