ヘラートから見たアフガニスタン

ジュリアン・ブサク(Julien Boussac)
人道援助組織でヘラートに10カ月滞在

訳・森亮子

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 おそらく対決が始まることになるだろう。2003年10月24日、カブールの政府は地方民兵を武装解除し、その一部を現在編制中の国軍に組み入れる計画を打ち出した(1)。西部ヘラート州の知事イスマイル・カーンは、これにまったく耳を貸そうとしない。ヘラートにいる部隊は「アフガニスタン国軍の兵士」であり、しかも「武器が中央倉庫の中にある以上、すでに武装解除も済んでいる」と主張する(2)。カーンの非公式スポークスマンは、国際治安支援部隊(ISAF)がカブール以外にも展開することを国連が決定する以前から、「すでに秩序と治安が確立されている」ヘラートではISAFは歓迎されないと表明していた。

 ボン合意(3)から2年たっても、この国は分裂状態にあり、中央政府の力はいまだに大多数の州には及んでいない。これらの反抗的な地方勢力は過去の遺物にすぎないのだろうか。それとも今後の不安定要因となっていくのだろうか。

 ヘラートには、アフガニスタン暫定政権の行き詰まりが極端なまでに表れている。この同国第3の都市は(4)、イランとトルクメニスタンに国境を接する州の都で、活気に溢れた商業の中心地であり、行政基盤も発達している。20年にわたる戦争にもかかわらず、教養のある中流階級が残っている。ヘラート州にカブールの支配が及ばないのは、中央との連絡が寸断されているせいではない。現地勢力が抵抗しているためである。

 2001年11月11日、ヘラートからタリバン上級幹部が逃げ去った。その中には誰一人として地元の出身者はいなかった。市民は行政施設を占拠した。隣のゴール州の山岳部で武装抵抗勢力を率いていたイスマイル・カーンがヘラートに到着したのは、その翌日になってからだった。彼は1979年に共産政権に抗する西部のムジャヒディンの司令官となった後、タリバンに制圧される以前の92年から95年までヘラートの知事を務めた。権力の座に戻ったカーンは、住民から大きな支持を集めた。カブールが内戦に打ちのめされていた頃、ヘラート州では彼の統治下で平和が守られた。タリバンの支配が及んだ後も、ヘラート市民はまったく歓迎の姿勢を示さず、追放された知事を懐かしんだ。

 イスマイル・カーンは今回も瞬く間に権力機構を掌握し、ヘラートのウラマー会議の同意もほどなく取りつけた。カブールの新政権は、カーンがボン合意に批判的で署名もしていないにもかかわらず、彼を正式に州知事に「任命」した。このように力ずくの承認がなされたとはいえ、カブールと自称「アフガニスタン西南部の首長」の関係は、実際には一触即発の状態にある。

 カーンは現在でも3万人規模の部隊を率いており、兵士の給料は自分の懐から支払っている。収入の大半の出所は、年間5000万から2億ドルと推定される関税だ。彼はこの金を中央政府には渡そうとしない。カーンはお山の大将でいるだけでは満足せず、西部5州の事実上の支配権を主張して、言うことを聞かない地方司令官に対する軍事介入を繰り返している(5)。イラクとは直接的な関係を保ち、カブールの意に反してまでも戦友を公職に就け、形式上は中央政府を承認しているにもかかわらず、ほぼ絶対的な権力を手に入れている。

 ヘラートはアフガニスタンで最も安全な町とされている。知事の警察と軍隊が秩序を維持し、住民にありがたがられている。女子も男子と同様に初等・中等教育を受けることができる。大学も再開されている。中心部の道路のアスファルト舗装、公園の整備、道路標識や信号機、街灯の設置など、こまごまとしたインフラが一新された。近隣諸国との交易のおかげで商業活動も再開された。本格的な復興に必要な大規模投資がなされていないにもかかわらず、こういった目に見える進歩が州政府のイメージを向上させてきた。

タリバン時代を髣髴とさせる禁令

 しかし、この地方政府に首尾一貫した復興政策があるとは言いがたい。役人たちは全般的に、自分たちの仕事もよく分かっておらず、中央政府が何を決めているのかはまったく知らない。多くのヘラート市民に言わせれば、行政機構がここまで退廃したことはかつてない。

 イスマイル・カーンは、カブールの政府や国際社会が「ヘラートのために何もしていない」と、事あるごとに非難している。先に見たように、暫定政権はあまり地方に関与していない。国連や支援諸国も人道援助以上のことはほとんど何もしていない。中央政府に逆らう勢力を強化する必要はないということだろう。しかし半ば見捨てられた地方政府の側は、それだけ自分の活動意義を強調できるようになる。しかも、物価の上昇や「風紀の乱れ」は国際部隊がいるせいだと公に非難する口実にもなる。

 タリバン時代のような絶対的な厳格主義はもはや過去のものとなった。しかし、知事は当時の禁令の数々をそのまま残している。今でも公共のコンサートやアルコールは禁止され、町の映画館は閉鎖されたままだ。公式の禁令の中には、必ずしも守られているわけではないにしろ、タリバン時代を髣髴とさせるものもある。表向きは、アフガニスタン人が外国人を自宅に招待すること(6)、男性の教える私塾に女性が通うこと(7)、スピーカーで音楽を流すこと(8)は厳禁である。女性は再び外で働くことを認められるようになったが、政治からは除外されたままだ。しかも、タリバン時代以前には着用していなかった者も含め、チャドリ(ブルカ)を脱ぎ捨てた女性はほとんどいない。

 伝統の擁護者、民族主義の指導者を自称するイスマイル・カーンは、欧米諸国の操り人形と見られがちなハミド・カルザイと一線を画すべく、強力な扇動活動を行っている。こうしてカーンは、社会の中で無視できない集団からの支持を取りつけている。その筆頭は宗教指導者だが(9)、支持基盤は彼らだけではない。

 とはいえ、カーンが実際にどれぐらい支持されているのかは何とも言いがたい。ここヘラートでも、権力者は潜在的な対抗勢力に対して強圧策をとっているからだ。恣意的な拘束、ありとあらゆる脅迫が日常的に実行され、不協和音は抑え込まれる。復興した市民社会の貴重な意思表示の場である専門家組織シューラ(評議会)は、それを現に体験した。しかし、シューラはヘラートの教養あるエリートを集め、州政府に専門的な助言を与えることを公式の目的とする組織にすぎない。州政府は、町で唯一の新聞と、州でただ一つ視聴可能なテレビ局を牛耳り、フリーのジャーナリストを直接脅迫している(10)。ヘラートに多数いるシーア派住民、それにパシュトゥン人は、権力中枢からは排除されている。2002年6月の緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)の選挙の際、西部諸州で選ばれた代議員を見ても、全員がイスマイル・カーンの配下の者だった。

 ヘラート州での基本的人権の侵害についてヒューマン・ライツ・ウォッチが2本の痛烈な報告書を公表すると(11)、女性評議会や地方人権委員会が設立されるようになった。ただし、それらのメンバーは州政府によって指名された。知事のイメージを改善するためのうわべだけの動きにすぎなかったのだ。イスマイル・カーンは思想的立場をうまく定め、歴史的な正統性を主張し、資金をばらまく力を持ち、秩序の維持をうたい、抑圧の装置を駆使することにより、長期にわたる権力基盤を固めたように思われる。

 2003年の春、カブールの中央政府は強硬策に出た。カルザイ議長は5月に、中央政府の権限を尊重するとの念書を主だった知事から手に入れた。6月2日には、ヘラートが2000万ドルの関税の国庫納付を受け入れた。その次の対決は8月17日に起こった。イスマイル・カーンが、形式上は知事と兼任不可とされる軍司令官の辞職に追い込まれたのだ。しかしカブールが新しく任命した軍司令官は、現在にいたるまで形式上の指揮権しか享受していない。

アメリカのあいまいな姿勢

 とはいえ、カブールとヘラートが協力関係を打ち切ったわけではない。中央政府は州の職員に不定期ながらも給料を支払っている。2002年10月の新アフガン貨幣の導入も滞りなく行われた。保健衛生のような技術的分野では、より効果的な協力の兆しも見られる。そのうえイスマイル・カーンは、カブールとの直接のつながりを保っている。中央政府の観光・民間航空大臣を務めている息子のミルワイス・サデクである。

 国際社会からの圧力は情勢変化を促す要因となり得るが、アメリカのあいまいな姿勢が問題だ。アメリカ政府はカブールの政権を支持し、ヘラートにも「地方復興チーム」(12)を設置したいと考えている。しかし、新手のタリバンやテロリスト、アヘン密売を敵視するイスマイル・カーンは、手を結んで当然の相手である。ヘラートに駐留中のアメリカの特殊部隊が、大きな行事の際には町の警備にあたることもまれではない。

 このところ情勢が変化しているとはいえ、「アフガニスタン西南部の首長」の権威や裁量権を深刻に脅かすものは何もない。ヘラートは、カブールで進行中の「国家再興」から遠く隔たった世界にある。

 首都カブールでは、当初の臨時政権に代わり、緊急ロヤ・ジルガで任命された暫定行政機構が発足した。2003年12月には新しい憲法が採択され、2004年6月には総選挙が行われる予定である。この種の節目はこれまでにも何度かあったが、ヘラートの例を見てもわかるように、暴力が横行し表現の自由がない状況は変わらないままだった。

 政府の構成にさえ、タリバン後のアフガニスタンの力関係が反映されている。北部同盟に属していたパンジシール渓谷のタジク人の比率が突出しており、徒党的な政府ではないかとの疑念を呼ぶ(13)。さらに、1992年から96年の内戦の当事者だった元司令官らが入閣していることで、大多数の市民の不信は決定的となる。カブールのインフラ補修工事が遅々として進まない現状も、人々の疑念をいっそう掻き立てる。

 しかも、政府が受け取った国際援助金は、予定されていた総額に届いていない。現行予算年度の最初の7カ月間で受け取ったのは、約束された年間総額の42%にすぎなかった(14)。プログラムごとの内訳はさらに雄弁である。民兵の武装解除と社会復帰のための資金は26%、警察関連の資金については15%しか支払われていない(15)

 選挙期日が近づくにつれ、有力候補たちは野心をあらわにするようになっている。10月8日には、パンジシール派の主だった大臣、イスマイル・カーン、アブドゥル・ラシド・ドスタムが会合して、再選を狙うハミド・カルザイの対立候補を一本化することを協議した。もしそうなれば2004年6月の選挙により、旧北部同盟のパンジシール派や強大な地方勢力という現在も軍事力を温存した集団が、合法性を手に入れることになる危険もある。

 ボン合意で決められた予定の遵守が必死に試みられているが、現実とのずれは誰の目にも明らかである。2年前の合意を杓子定規に守ろうと、必要不可欠な前提条件が整っていないまま再建を急いだあまり、アフガニスタンの国家機構は正統性もなく、国民から尊重されることもなく、内実に欠けるものになってしまった。さらに現在進行中の、あるいは今後に予測される様々な動きにより、この国がいっそう不安定化する危険も高まっている。新手のタリバン運動が再び起こるかもしれないし、アヘン収入が激増すれば(16)、中央の求心力が弱まるのは必至である。支援諸国の間にはいつものごとく倦怠感が広がっている。中期的には外国部隊の撤退も日程に上るようになるだろう。新生アフガニスタンは明らかに過去の亡霊にとらわれたままなのだ。

(1) See International Crisis Group (ICG) : << Disarmament and reintegration in Afghanistan >>, Brussels, 30 September 2003.
(2) 2003年7月23日および27日の声明。
(3) 2001年12月5日にアフガニスタンの主要各派間で締結。中央政府の設置と国際部隊の展開を主な内容とする。
(4) ヘラートの町の人口は40万人、州の人口は約200万人と推定されている。
(5) ヘラート南方のシンダンド地方のパシュトゥン人司令官、アマヌラー・カーンとの武力衝突など。
(6) イスマイル・カーンが2002年6月の公式会議の折に、口頭で発した禁令。
(7) 2003年1月10日の政令。
(8) 2003年3月1日の政令。
(9) イスマイル・カーンは通常、ヘラートの大モスクから公式演説をしている。
(10) 2003年3月25日、ラジオ・フリー・アフガニスタンのヘラート支局員が、アフガニスタン独立人権委員会の事務所の開所式の際に、ヘラートの警察に攻撃され、追放された。
(11) << All our hopes are crushed : violence and repression in Western Afghanistan >>, New York, 5 November 2002 ; << We want to live as humans : repression of women and girls in Western Afghanistan >>, 17 December 2002.
(12) 連合軍に従属し、武官と文官で編制された「地方復興チーム」は、地方の復興作業に着工し、地方でカブールの政府の権力を強めることを任務とする。
(13) See ICG: << The problem of Pashtun alienation >>, 5 August 2003.
(14) Source : Afghanistan Donor Assistance Database, Kabul, 28 October 2003.
(15) 予定された総額といっても、政府が当初に要求した予算の半分にすぎない。
(16) 2002年のアヘン関連収入は25億ドルと推定される。これは公式の国内総生産(GDP)の半分に相当する。


(2003年12月号)

All rights reserved, 2003, Le Monde diplomatique + Mori Ryoko + Saito Kagumi

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