宙吊りのままのアブハジア情勢

マチルド・ダモワゼル(Mathilde Damoisel)
ドキュメンタリー作家、監督作品『黒い岸辺スフミ』など
レジス・ジャンテ(Regis Gente)
ジャーナリスト、在トビリシ

訳・三浦礼恒

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 2003年9月半ば、ロシアのプーチン大統領はカフカスと中央アジアの旧ソ連諸国の首脳をヤルタに呼び集めた。会議の目的は自由貿易地域の創設を協議することだった。ロシアが期待するのは、単なる経済的な統合を超えて、この地域での影響力を拡大することだ。必要とあらば地域紛争を利用することも厭わない。グルジアとそこからの分離独立を求めるアブハジアの対立へのどっちつかずの介入は、まさにその一例を示している。[フランス語版編集部]

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 「黒海の真珠」と呼ばれ、旧ソ連時代は観光地として名高かったアブハジアは、かつては世の激動から無縁の場所のように思われていた。1992年から93年にかけてのグルジアとの戦争から10年を経た現在、このカフカスの小さな楽園は、かろうじて平和を保っている状況にある。事実上は独立国も同然だが、国際社会からは承認されずにいる。

 両者の戦いは、あわせて1万人の戦死者と、約20万人のグルジア人難民を生み出した。難民の大半は、今も帰郷の望みがほとんどないまま、グルジア国内に仮設された受け入れセンターに暮らす。アブハジア側にも傷跡は生々しく残っている。戦争の爪痕がいたるところに見られ、インフラストラクチャーの被害もあまり回復していないようだ。少なくとも18万と言われる人口のうち、10%が国際支援に頼って生きている。戦争終結から10年が経過した現在も、グルジアとアブアジアは協議による紛争解決には至っていない。

 ペレストロイカ政策を機としてソ連各地で独立の気運が高まった1989年当時、アブハジアはグルジアに帰属する自治共和国にすぎなかった。かつてはグルジアと同格だったにもかかわらず、1931年にスターリンによって格下げされてしまったのだ。アブハジアの民族運動「結束」は、1989年3月18日に「グルジア共和国の一部ではない」地位を要求した。

 グルジア政府はすぐさま、この「分離」の企てに反応した。グルジア人はアブハジアにおける最大の民族集団だったからだ(1)。両者が互いに示す暴力性について、フランス国立東洋言語文化研究所のジョルジュ・シャラシーズ教授は「ソ連の全民族を侵している病理的な歴史意識」の反映であると言う。そして「グルジア人とアゼルバイジャン人には同じ強迫観念が取り憑いている。彼らは輝かしい過去を声高に主張する。それぞれの少数民族であるアブハズ人とアルメニア人には自分たちほどの過去がないとみなし、排除を正当化しようとする特権意識である」と分析する(2)。アブハジアのデモは瞬く間に独立の要求へと変わった。4月9日にはソ連軍がデモ隊を暴力的に追い散らし、21名の死者を出した。

 グルジアとその属国アブハジアは決裂に向かっていった。両者の利害の不一致は明らかだった。アブハジアは主権の要求を続け、そのためならグルジアと連邦関係を結んでもよいとまで提案した。対するグルジアは、自国領土の一体性を守る道として、ソ連体制からの離脱を目指した。

 1992年1月6日にグルジアでクーデターが発生すると、前年5月に選出されたガムサフルディア初代大統領は失脚した。彼の民族主義的で権威的な主張は、ありとあらゆる反対運動を噴出させていた。3月にはゴルバチョフ時代にソ連外相を務めたシュワルナゼが呼び戻され、暫定議会たる国家評議会の議長に就任した。同年7月、グルジア共和国は独立国として国連と世界銀行に加盟した。

 その間に、同じくグルジア内の自治共和国である南オセチアで武力闘争が発生した。ガムサフルディア派も政権に揺さぶりをかけた。こうした政治的激動が続くなか、アブハジアではアルジンバ議長率いる最高会議が、7月23日にグルジア人議員たちの欠席のもと、1925年のアブハジア憲法を復活させ、1931年のグルジア併合以前の地位を体裁として整えた。

 戦いの火蓋が切られたのは1992年8月14日のことだった。鉄道の安全確保と人質の解放という口実のもと、グルジア軍はアブハジアへ侵攻した。実際には「分離主義者」たちを掃討するためであった。戦闘は翌年9月27日まで続いた。アブハジア軍は北カフカス人民連盟の義勇兵(チェチェンのバサーエフ司令官ら)の援軍を受け、更にロシア軍から第104パラシュート部隊の派遣などの支援を得て、首都スフミの奪回に成功した。アブハジアに住んでいたグルジア人の大部分は逃げ去った。

モスクワの影

 グルジアは劣勢に置かれていた(3)。シュワルナゼ議長は1993年10月9日、ガムサフルディア派の反乱に対してロシアから軍事的支援を得るために、これまで再三拒否してきた独立国家共同体(CIS)への加盟を議会に諮ることなく受け入れた。ロシア政府にとって、これはひとつの勝利であった。やかましいグルジアがこれであるべき位置に戻り、欧米に接近してモスクワと距離を置こうとする姿勢がしばらくは抑えられることになるからだ。

 アブハジア問題も、「近い外国」を掌握しようと望むロシアには好都合に働いている。フランス国立東洋言語文化研究所で旧ソ連諸国の動向を研究するシルヴィア・セラーノが指摘するように「カフカス地域に関してロシアには戦略の名に値するものはない」としても、合理性と幻想がないまぜとなり、地政学的見地と卑俗な動機に由来する様々な利害の混在こそが、地域諸国をロシアの保護下に置き続けることに加担してきたのだ。

 ロシア政府は、アブハジアの分離主義者たちに手を貸すことが、カフカスの「要衝」たるグルジアへ圧力をかける手段になると考えていた。一部のロシアの政治家や軍人たちによれば、この回廊はトルコやイランに対する辺境線(要塞化した国境線)として、また黒海への出口として、ロシアの安全保障にとって「死活的」な意味を持つ。

 しかしながら、1810年にアブハジアを保護領として以来、ロシアが実際に繰り返し示してきたのは、この小国の民などどうでもよいという態度だった。アブハジアがそれを忘れたわけではない。だが、戦争のトラウマを引きずった人々の大多数はグルジアとは「もう一緒にやっていけない」と考えており、独立国を名乗るアブハジアが自らを守るためには、ロシアに頼らざるを得ない。2001年の9月から10月に起きた戦闘の際に示されたように、アブハジアの軍事的安全を保障してくれるのはロシア軍だけなのだ。

 いまや、アブハジアではロシアの影響力が確立し、ロシアからの投資は政府上層部の後押しのもとで増大した。携帯電話網が構築され、観光インフラの買収や長期借り上げが進められ、大手チョコレート会社が1万ヘクタールにわたってヘーゼルナッツを植えつけた。2002年の春には、それまで身分証明書を持つことができなかったアブハジアの人々にロシアの市民権を与えるキャンペーンが組織された。アブハズ人とロシア人の命運を更に密接に結びつけておこうということだ。2002年12月には、グルジア政府の激しい反発にもかかわらず、ロシアの都市ソチとアブハジアの首都スフミを結ぶ鉄道が運転を再開した。

 こうしてみると、紛争解決があり得るとすれば、ロシアの役割が不可欠であることは明らかだ。フランス地政学研究所のシリル・グローガン研究員は「モスクワが鍵を握っていることに異論の余地はない」とする。「もしクレムリンが決断すれば、ロシアが調停者の役割を果たすことにより、紛争は数週間で解決する」

 だが、2つの敵対しあう社会がここ10年でそれぞれ急進化した現実を過小評価してはならない。イングリ川を挟んで向かい合う2つの社会には、根強い固定観念がある。アブハズ人の目には、グルジア人は今もなお侵略者として映っている。グルジア社会は総じて、アブハズ人たちが主張するアイデンティティを認めようとせず、グルジアとアブハジアという問題があること自体も認めようとしない。グルジアの首都トビリシでは相変わらず、領土の「喪失」とその「回復」の必要性が叫ばれているのだ。

 グルジアとアブハジアの市民代表が非公式に取り組んできた対話の世話役を務めるグルジアの哲学者パータ・ザカレイシヴィリは強調する。「我々はアブハジアとの紛争について、それが1992年から93年の戦争を指すだけでなく、ずっと深い根を持っていることを認識しなければならない。我々がアブハズ人たちの熱望を理解し、戦争開始の責任が我々にあったということを認めない限り、いかなる解決も望めない」

見えてこない政治的解決

 歴史が重くのしかかっている。ソ連の時代から今に至るまで、アブハズ人は脅かされた少数民族という身構えを崩そうとしない。1931年にアブハジアがグルジアに併合されたとき、彼らの言葉は禁止され、文化は弾圧され、領土には大量のロシア人とグルジア人が入植してきた。この併合の記憶は「グルジア化」の時代として、今なおアブハズ人の心に跡をとどめている。非スターリン化によってバランスが取り戻された後も、自らのアイデンティティが否定されることへの恐れが沈静化することはなかった。

 対するグルジアでは、アブハズ人はいまだに「居候」とみなされることが多い。数世紀前に北カフカスから降りてきて、黒海沿岸に住み着いた山岳民族という見方である。どちらが先だったかという点が問題にされている。そんなふうに過去を引き合いに出すことは、安定国家の形成という真の問題から目を背け、真の解決への道を断念することになる。

 アブハジアは今もなお、独立国家グルジアに対するロシアの圧力手段と位置づけられており、先行きはまったく不透明だ。この夏にロシア企業がグルジアへのエネルギー供給を再開した事実も、こうした見方を裏づけるものだ(4)。現在の紛争の性格は、もし2005年の選挙でシュワルナゼの後任に親ロシア的な大統領が就いたとしても変わらないだろう。先述のシルヴィア・セラーノは「解決にはまだ長い時間がかかるおそれがある」と示唆する。「モスクワが全てのカードを握っているというわけではないからだ」

 それはアブハジアにはむしろ都合の良い状況だ。アブハジア政府はロシアというハンマーとグルジアという鉄床の間に挟まれながら、独立を掲げているのだから。とはいえ、その一方ではロシアとの「連合」も視野に入れている。2004年に病身のアルジンバに替わることになる次期大統領も、同じ路線を追求するほかないだろう。この地域では国家機構が脆弱なことを忘れてはならない。旧ソ連時代以来の派閥や有力者ネットワークの重みを過小評価してはならない。マフィアの権益は紛争解決への大きな障害である。イングリ川の停戦ラインは不法地帯と化しており、アブハジアとグルジアの密輸業者がまったく自由に友好的に、ガソリンやタバコ、盗難車の取引を行って繁栄を享受しているのだ。

 この状況で、国連グルジア監視団(UNOMIG)と国連事務総長支援グループ(5)にいったい何ができるだろうか。タリアヴィーニ国連事務総長特別代表は次のように語る。「武力紛争終結から10年後の現在、アブハジア問題が解決されていないのは事実です。しかし、状況は予断は許さないものの、安定化してきています。UNOMIGがそれなりの役割を果たしているということです」

 国際社会は今もなお、連邦国家という枠組みの中で両者に権限を配分することを提案したボーデン文書に依拠して、グルジアの領土的一体性の保全を主張する。だが、それはアブハジアにとって受け入れ難い。タリアヴィーニ特別代表はこう強調する。「最も重要なのは交渉に入ることです。ボーデン文書は出発点にすぎないのです」

 2003年3月6日から7日にかけて、ロシアのプーチン大統領とグルジアのシュワルナゼ大統領がアブハジア問題を協議するためソチで会談した。調印された合意文書には、アブハジア南部ガリ地方へのグルジア難民の帰還、スフミ経由でソチとトビリシを結ぶ鉄道の運転再開、イングリ川の水力発電所の近代化といった内容が列挙されていた。この合意は前進として説明されたが、実際にはガリ地方の難民の件をはじめ、現状を追認しただけのものにすぎなかった。ソチ会談が見せつけたのは、ロシア政府が演じる役割の大きさである。そこでは国連は顧みられなかった。そしておそらくは、紛争の包括的な政治的解決も顧みられることはなかった。

(1) 1989年の国勢調査によれば、およそ52万5000人の推定人口のうち46%がグルジア人、18%がアブハズ人、15%がアルメニア人、15%がロシア人、3%がギリシャ人となっている。
(2) 「帝国とバベルの塔:ペレストロイカにおける少数民族」(雑誌『人類』20号「国旗を前にして」特集、ガリマール・スイユ社、パリ、1989年)。
(3) ジャン・ラドヴァヌイ「地域主義に侵食されたグルジア」(ル・モンド・ディプロマティーク1993年11月号)参照。
(4) 更に8月6日には、グルジアの首都トビリシに電力を供給するAESテラジの株式が、その75%を保有するアメリカ企業AESからロシア統一電力機構(UES)に売却された。
(5) 同グループはフランス、ロシア、ドイツ、イギリス、アメリカから成る。


(2003年10月号)

* 随所「アブハジア人」を「アブハズ人」に訂正(2008年8月28日)

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12年間にわたる紛争

1991年4月9日グルジアが独立を果たす。
1992年7月23日アブハジアが主権を宣言。3週間後にグルジア軍が介入する。
1993年7月27日ロシアのソチで停戦協定が締結される。国連が国連グルジア監視団(UNOMIG)を派遣する。
1993年9月27日戦闘が再開され、アブハジア軍が首都スフミを奪還する。
1994年5月14日モスクワ協定が締結される。イングリ川に沿って緩衝地帯が設けられ、独立国家共同体(CIS)の平和維持軍が派遣される。グルジア難民およそ20万人の帰還が開始される。
1998年5月25日ガリ地方での戦闘再開後、停戦協定が締結される。
1999年10月3日アブハジアが住民投票によって憲法を採択し、公式に独立を宣言する。
2003年3月6〜7日ソチでシュワルナゼ大統領とプーチン大統領がアブハジア問題について会談する。
2003年3月18日アブハジア議会がロシアとの「連合」を求める動議を可決する。
2003年7月21日ジュネーヴで和平プロセスが再開される。


[訳・三浦礼恒]

(2003年10月号)

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