感激の夜、絶望の朝

ピエール・カルフォン(Pierre Kalfon)
ジャーナリスト、作家、外交官、
1969年から軍事政権によって追放される73年までル・モンドのチリ特派員。
下記は『パブロ・ネルーダの緑のインク』
(テール・ド・ブリュンム社、2003年9月刊行予定)からの抜粋

訳・青木泉

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 1970年9月4日。サルバドール・アジェンデが選挙された時のことを思い出す。

 狂おしい喜びが、群衆の間に少しずつ広がっていった。路上では、それまで見も知らなかった人々が同じ喜びを共有することで他人ではなくなり、笑いと抱擁を交わし合っていた。

 この日、1970年9月4日、サンチアゴの冬は終わろうとしていた。夜の帳が下りてきた。人々はこの激しく争われた大統領選の結果を長いあいだ待っていた。左派勝利への希望を温めつづけ、いてもたってもいられずに道に出て歓声を上げた人々にとって、この時間は耐えがたく長いものだったに違いない。

 最初は、気がかりな噂が広がっていた。3人の候補者のうち右派の候補が優勢だというのだ。既にホルヘ・アレッサンドリの支持者たちが、愚弄するようにチリの国旗を車のドアにはためかせ、一斉にクラクションを鳴らしながら、高級住宅街から市街に下りてきていた。それから、この噂は尻すぼみになった。票読みが大きく変わったのだ。クラクションを鳴らしていた者たちは威勢を失い、山手の豪邸へと引き返していった。

 人々はさらに待ちつづけた。そして突然に、それは波のうねりのようにやって来た。アジェンデがトップに立ったのだ! 人民連合に推されたアジェンデだ。社会党、共産党、急進党、キリスト教民主党左派が結集し、分裂状態の右派に対抗していた。今度こそ、勝利はそこにあった。人々はそれでもまだ信じがたい気持ちでいた。しかしながら、数字が確かに示していた。地滑り的勝利とは言えなかったかもしれないが、そんなことは問題ではない。左派の候補は36%を超える得票率で、保守党の年老いたアレッサンドリを明らかに凌駕し、キリスト教民主党のラドミロ・トミックを大きく引き離していた。アジェンデが最高の票を得たことに議論の余地はなかった。大統領選の永遠の敗者であり、3回の敗北の後、自分の墓碑銘は「大統領候補アジェンデ」になってしまうのだろうと痛烈な皮肉を述べていた彼が、今ここで不幸な予言を否定してみせている。

 人々は叫び、小躍りしていた。「小躍りしないやつは反動分子だ」。そして夢でないことを確かめるために抱き合った。ああ、この国はなんて素敵なのだろう。それに、爪の先まで政治意識に満ちたこのチリ人たちのなんと素晴らしいことか。

 9月の湿った寒さとともに、夜が完全に暮れた。しかし誰がそんなことを気に留めるだろうか。サンチアゴの南部と東部の貧しい地区から、この首都の目抜き通りのアメラダへと、色とりどりの毛織物やショール、ポンチョを身にまとった人々が押し寄せていた。女たち、ふっくらした頬とつぶらな瞳の子供たち、痩せこけて気むずかしく、くすんだ顔色で、ごわごわの黒い髪をした男たち。この平和的で晴れやかな群衆から、お祭りムードが発散されていた。ぼんやりとした街灯の光を補い、また体を暖めるためにあちらこちらに焚かれた陽気な火が、靄の中に浮かび上がっていた。口から口へとニュースが伝わっていった。アジェンデが話すというのだ。

 町の中心にある恋人たちの憩いの場所、サンタ・ルチアの丘に面したチリ大学学生連合の建物の2階に、急ごしらえで音響装置が用意された。ようやくアジェンデが、ポータブルスピーカーを使って、言うまでもなく即興で、群集に向けてスピーチをした。30年ごしの闘いについに勝利したことを知って言いようのない感慨に上気したこの62歳の医師は、的を射た言葉で民衆の勝利を称え、支持者に感謝し、より良い社会正義を目指す闘いに他の人々も加わるようにと激励した。これから向き合うべき障害は数多くあるが、チリは根本から変わっていくのだと彼は言った。そして誰もがみな聞き取った。ついに「トルティーヤがひっくり返る」状況が生まれ、経済の繁栄から取り残されてきた人々が、国民的な祝宴に多少なりとも加わることができるようになるのだと。

 「うるわしき祖国よ」と人々はチリの国歌を歌い、拍手喝采し、喜びに浸っていた。この歓喜の瞬間、浮かれたチリ人がよく使う野卑な言葉が口々に飛び出した。「チリ万歳、くそったれ!」

 1973年9月11日。人々が大使館へ駆け込んだ時のことを思い出す。

 9月11日にピノチェトの起こしたクーデターは、左派にはパニックを、右派には愉悦を、キリスト教民主党には不安まじりの安堵をもたらした。

 何カ月も前から、人民連合政府はクーデターの脅威を言い立てていた。政府は本当にそう信じていたのだろうか。共産党は、3カ月前にクーデター未遂があったにもかかわらず、軍の遵法主義を主張するばかりだった。アジェンデ政権は国の社会主義化に向けてブルジョワ的な合法路線で行くことに賭け、銃の力に訴えることも民衆に武装させることもしなかった。彼の独自性はまさにそこにあった。このような平和的な仮説はマルクスの理論では示されていない。それゆえ、寒風がやって来てモネダ宮(大統領府)が爆撃されると、チリの左派は総崩れとなり、完璧な悲劇が訪れた。全くの潰走状態である。人々は大使館に駆け込んだ。それは生やさしいことではなかった。

 サンチアゴの中心部を流れるマポチョ川では、夜中に銃殺された人々の死体が日常的に見られるようになった。川岸の上から、また川のほとりで、道行く人々は押し黙って、呆然と、漂っていく死体を見つめた。家宅捜索や逮捕の数が増えていた。人民連合の主だった指導者の首には懸賞金がかけられていた。詩人パブロ・ネルーダはサンチアゴの荒らされた自宅で命を落とした。国立競技場を転用した巨大な強制収容所は瞬く間に、自分がそこにいるのは訳が分からないという様子の男女で埋まった。アイルランド系の名を持つアルゼンチン人社会学者は、妻の出産に立ち会ったばかりの病院で逮捕された。立派な身なりをした彼の場合、容疑が軽かったおかげでほどなく釈放されたが、それまで3日間もスツールの上に座らせられて放置されていた。彼の話によると、指名手配された左派の人々の名前が壁に何列にもわたり、それぞれの政治的な所属とともに貼り出されていた。「外国人」という列さえあり、リストの2番目には光栄にも私の名前があったという。軍の諜報機関はアジェンデ政権の間に時間を無駄にしていたわけではなかったのだ。

 まさに外国人ジャーナリストであり、フランス政府から派遣された教授であるという立場ゆえに、私のところには助けを求める人々が雪崩をうって押し寄せた。友人、初対面の人、友人の友人、誰もが急を要していた。危難に陥ったのはチリの左派だけではなかった。多くのラテン・アメリカ人が足元をすくわれていた。母国の弾圧を逃れたブラジル人、ボリビア人、ウルグアイ人が、チリに避難してきていた。もはや彼らの眼前にあるのはサブマシンガンだけだった。どこに行き場があるというのか。

 妻と私は、知り合いの外交官や手助けするつもりのあるフランス人に声をかけ、さしあたりでできる限りの緊急支援ネットワークを立ち上げた。応援に呼んだAPF特派員ヴェロニク・D、バルパライソから駆けつけた同僚ジャック・A、その他の多くの人々とともに、友好的な大使館と「忌まわしい」大使館のリストを作成した。前者にはメキシコ、アルゼンチン、スウェーデン(ハラルド・エデルスタムという傑出した人物のおかげだ)、そしてピエール・マントン大使に率いられたフランス大使館が含まれる。一方、東欧諸国、ソ連、西ドイツ、オランダの大使館は、意地悪く、扉を固く閉ざしていた。ある大使は、公邸の木の上で片足はまだ外に出たまま保護を求めていた男を、憲兵を使って追い出したという。

 しかしオランダは劇的に立場を変えた。ある日曜日の早朝、顔見知りのオランダ人外交官が我が家を訪れた。「うちの大使を飛行機に押し込んできました。彼のせいであなたにノーと言わねばならなかったのです。代理大使は私です。明日にも家を借り、マットレスを買い、料理人を雇います。どうぞ誰でも連れてきて下さい」。私は彼に抱きつきたくなった。これで救われる命がある。もっとも、私は翌日になるのを待ちはしなかった。手元のリストには危険の差し迫った共産党の国会議員が3人いた。私は彼らを直ちにこの味方の家に向かわせた。

 多くの場合、難しいのは受け入れ先を見つけることよりも、そこの大使館に物理的にたどり着くことだった。軍事政権は各国の公館の前にパトロールを置き、入り口を見張っていた。不審人物とみなされた者は直ちに路上で手錠をかけられ、時には木の周りにくくられた。後はパトカーがやって来て引き受ける。しかし上手いやり方は必ずあった。注意深く観察してみると、例えばベルギー大使館の入り口は、高級住宅街プロビデンシア地区の袋小路の奥にあることがわかった。そのため憲兵は、交代要員を乗せた護送車を大通りで待つために、引き継ぎの時間になると持ち場を離れざるを得なかった。このわずか数分の隙をついて、走らないようにしながら亡命志願者に同行し、ほんの少し前にはあれほど厳しく警備されていた敷居を跨ぐまで見届けることができたのだった。

 それから、避難者を連れていった人々自身も大使館に保護を求め、この国を去るべき時がやって来た。チリの人々はピノチェトと弾圧、夜間外出禁止令、そして超リベラリズムとともに生きることを学ばねばならなかった。それは以降17年という年月におよぶ。


(2003年9月号)

All rights reserved, 2003, Le Monde diplomatique + Aoki Izumi + Saito Kagumi

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