ヨーロッパ人の歴史を求めて

クリスチャン・ドブリ(Christian de Brie)
ジャーナリスト

訳・岡林祐子

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 発足から半世紀を経た欧州連合(EU)は、今や6カ国から25カ国にならんとする加盟国の人々を前に、その存在理由たるべき運命共同体を描いてみせることに困難を覚えるようになってきた。欧州憲法案の前文には、「ヨーロッパの人々が、そのアイデンティティと自国の歴史に対する誇りを持ちつつ、ヨーロッパ共通の運命を作り上げていく決意でいることを確信し」と書かれている。しかし、共通の集合的な記憶を拠り所とすることなしに、ヨーロッパとして結束することが可能だろうか。それぞれの国が、過去の自民族中心主義的な観点を持ち続け、自国の英雄たちの礼賛を続けていてよいものだろうか。その中には、ナポレオンのように隣国の加害者となった者や、ジャンヌ・ダルクのように隣国の被害者となった者もいる。数百万人が訪れるヨーロッパ各地の名所旧跡で、歴史はどのように語られているのか。[フランス語版編集部]

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 自分の目で確かめるために、欧州連合(EU)のいくつかの国を、町から町へと訪ね歩く(1)。そんなふうに、名もなく好奇心に満ちたにわか旅行者が、行く先々で問いかけるべきこと。それは、ヨーロッパの歴史がヨーロッパ人に対して、どのように語られているのか、ということだ。美術館や博物館、宮殿、城、教会、史跡、記念館など、あまりに数が多すぎるので、しごく適当に、あるいは好悪に基づいて、行き先を選ばざるを得ない。芸術中心の美術館を候補から外し(2)、民衆の芸能や伝統に関わる博物館を保留にすると、ガイドブックの欄外にまで目を凝らさなければならない。さて、その結果は定番からはかけ離れたものとなった。

 専横な君主、尊大な皇帝、強欲な王侯や司教、血生臭い独裁者たちが、領土や後継者、宗教や国家をめぐるヨーロッパの果てしない戦争の歴史を埋め尽くし、その権力欲の重いツケを大衆に払わせてきた。彼らは栄光に酔いしれ、ヨーロッパのいたるところに、自らの権力を象徴する共通の記号を残した。騎馬像、凱旋門、大理石のライオン、純金の太陽、炎をかたどった剣、壮大な水瓶や泉水、威嚇的な悪魔や神の像などだ。だがどうだろう。彼らの記憶は今なお麗しいものとして称賛されている。最悪の記憶がそれに見合った扱いを受けているとは限らない。今では手を取り合うようになった隣国を犠牲とした戦果が、贅沢な自己顕示欲の証拠である城や宮殿という舞台で誉めそやされ、そこを犠牲者の子孫たちが行列をなして訪れている。

 こういう場所は多数あるが、2つを例に取れば充分だ。シェーンブルンとポツダム、それぞれウイーンとベルリンの近郊にある。シェーンブルン宮殿は1700年から1918年の間ハプスブルク家が夏を過ごした離宮であり、「偉大なオーストリア帝国の象徴」であると同時に「家族的な親しみに溢れた場所」と形容される。1440室からなる宮殿とバロック様式の広大な庭園には、ヨーゼフ一世からマリア・テレジア、ヨーゼフ二世、68年の長い治世を誇るフランツ・ヨーゼフを経て、カール一世にまでいたる専制君主が去来した(3)。彼らの記憶として我々が聞かされるのは、芸術と庭園を愛する心、家族の祝い事や静かな黙想に対する好みだけでしかない。

 プロイセン王の居城ポツダムは、17世紀にホーエンツォレルン家の狩猟地に新築された。同家はフリードリヒ一世と兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世に始まり、第一次世界大戦で殺戮を尽くしたヴィルヘルム二世まで続いた暴君の一族である。ここポツダムでは「大王」フリードリヒ二世によって「美化」された街の称讃しかうかがえない。「芸術と文学の庇護者」であるフリードリヒ二世が「ドイツ・ロココの最高傑作」サン・スーシ宮を建て、そこに「友人の哲学者や学者たち」を迎えたというストーリーだ。性格に問題があり、戦争好きで冷酷無比、人民を殺人的な略奪戦争に駆り出した王侯という側面は黙殺されている。

 逆説的ながら、ゲルマン系の共和国よりも北欧の君主国の方が、過去の王政を明晰な目で見つめている部分がある。周知のように「宗教、それは戦争」である。「神の最高の栄光」に捧げられた憎しみと虐殺は、1618年から48年にかけてヨーロッパを引き裂いた三十年戦争で絶頂に達した。当時の虐殺者の一人、プロテスタントのスウェーデン王グスタフ・アドルフは、従兄でカトリックのポーランド王ジギスムントに対する戦争中に、天上的な信仰の名のもと、実際にはきわめて地上的な野望のために、スウェーデン艦隊の花形となるべき巨大戦艦ヴァーサ号の建造を急いだ。ところが王の取り巻きが船をあまりに高くし、大砲を積みすぎたために、ヴァーサ号は進水式当日の1628年8月16日、ほんの100メートルほど進んだところでそっくりそのまま沈没してしまった。

 ヴァイキング時代以来、海への愛着と海洋知識が第二の天性であるような国で、ヴァーサ号のエピソードは輝かしい類のものではない。他の国民なら早く忘れ去ろうとしたかもしれない。しかしスウェーデン人は違った。王の気まぐれには国の資産が費やされた。さらに沈没の333年後、ヴァーサ号を泥の中から引き上げて修復し、その名を冠したストックホルムの博物館に建造当時の状態で保存するために、改めて国の資産が費やされた。技術的な快挙として誇ったり、空前絶後の壮麗な戦艦を見せ物とするためだけではない。これを奇貨として、あの時代について語るためだ。君主と無能な取り巻きの責任、上官たちと比較した水夫たちの生活条件や、残虐な懲罰のこと。出征者の3分の1が戦場で命を落とし、3分の1が怪我や病気がもとで亡くなり、3人に2人が還らぬ人となった戦争の災禍のこと。神も法も恐れぬ傭兵をフランスやスコットランド、ドイツなどから雇い入れたこと。子どもや脱走した見習い水夫を強制労働に従事させたリッダーホルメン島の感化院のこと。

 1943年7月24日。チャーチル首相が目をかけていたイギリス空軍爆撃司令官ハリス大将、通称ボンバー・ハリスは、ドイツ第二の都市であり主要港を抱えるハンブルクに対し、史上初の絨毯爆撃を開始した。天からの火によって滅びた旧約聖書中の町の名を取ってゴモラ作戦と名付けられた爆撃は10日間に及び、5万5000人の民間人犠牲者を出し、町の半分を叩きつぶすことになる。300機から1000機の編隊による爆撃が、昼間はアメリカ軍、夜間はイギリス軍によって繰り返され、当時の大量破壊兵器である黄燐焼夷弾が数千トン投下された。それは時速300キロの爆風を引き起こし、燃焼温度は1000度に達した。戦争史上初めて火の玉が街路のアスファルトを燃やし、過熱した空に車や木々を吹き飛ばし、防空壕に襲いかかって避難民たちを生きたまま焼き殺し、別の者たちが安全だと信じて逃げ込んだ水路を数キロにわたって沸騰させた。

 60の主要都市部に対する大規模な無差別爆撃を通じてドイツ市民の士気や抵抗精神を打ち砕くことが、連合軍「テロリスト」の公然の目的であり、これにより戦争の終結が早まるはずだった。この作戦は、逆効果でしかなく、明らかに失敗だった。にもかかわらず、英雄扱いされていた中心人物たちが失敗を悟ることのないまま、最後まで執拗に続けられた。ドイツ降伏も間近な1945年2月13日から14日にかけ、被害を受けずに残っていた最後の都市ドレスデンとその歴史的な文化遺産が、爆弾の雨と炎の嵐を受けて壊滅した。この軍事的意義のない都市は、数万人の避難民で溢れかえっており、犠牲者総数は10万人を超えた。

 ハンブルクには、町の住民の受難を想起させるよう記念碑はない。ガイドブックにも載らず、大聖堂の跡地の奥まった場所に立つ聖ニコライ塔だけが、あの惨劇をひっそりと物語っている。塔の番人は、驚くべきことに60年経った今もなお、戦争犯罪の犠牲になった同胞について語ることをはばかっている。当時は子どもで、数キロ離れたところからハンブルクの町が燃えるのを目にし、そこで多くの家族を失ったという老いた番人はこう打ち明ける。「ご存知でしょう、私たちはそんなことをしてはいけないのですよ。私たちはみな、2500万人のソ連人、ポーランド人口の5分の1、600万人のユダヤ人を殺した責任を負っています。だから私たちの不幸について語るわけにはいきません。それは・・・不謹慎なことです」

 こうした態度はベルリンでもうかがわれた。この町には1237年の誕生から今日までの歴史をたどれる素晴らしい博物館がある。そこでは、火の雨が降り注ぐ中、連合軍による破壊的な爆撃に続き、ソ連軍によって占領され、数万人の民間人が瓦礫の中で命を落としていった過去については、きわめて控えめにしか触れられていない。記憶は選別されている。ナチスの過去から逃げまいとするドイツ人の意思を表す場所ならば、このドイツの首都の近辺にいくつもある。建設中のホロコースト記念館、10万人近くのユダヤ人が亡くなったオラニエンブルクのザクセンハウゼン収容所の跡地に1961年に開館した記念館、1933年のあの夜に2万冊の本が焼き捨てられたベーベル広場に建つ焚書記念碑、1942年1月に「最終解決」が計画されたヴァンゼー会議の場所にユダヤ人に対する迫害の記憶のために建てられた記念館、近年になって開館された印象深いユダヤ博物館、ナチスによる弾圧に関する情報センターを兼ねた博物館に変わる予定の常設ゲシュタポ展、等々。

 いつの日か、ヨーロッパの国々のうち、アメリカ・インディアンの虐殺、アフリカ黒人の売買と奴隷制度、植民地での迫害行為の責を負うべき国、つまりほとんどのヨーロッパの国に、「白人による恐怖政治」の記念館が建てられることはあるだろうか。

 織物会館に囲まれたクラクフの中央広場には、歓喜に満ちた穏やかな雰囲気が漂っている。小さな国旗を手に、カフェのテラス席で一休みしたり、家族で散歩がてらといった様子で、いろいろな人が入り交じり、きちんと整列するでもなく、なんだか古めかしい感じの行列を作りながら、ブラスバンドを先頭にして広場を横切っていく。今日は国の祝日、憲法記念日なのだ。現行憲法ではなく、ヨーロッパで最古の1791年5月3日憲法、ついに法が専制に取って代わったことを記念する日だ。ある国が隣国に対する軍事的勝利ではなく、法の勝利を祝するとは、それだけですでに嬉しい驚きだ。その国がポーランドだということで、さらに別の意義が付け加わる。なぜなら、その4年後にポーランドは独立を失って、強大な隣国オーストリア、プロイセン、ロシアによって分割されてしまうからだ。二大戦間の1918年から39年を除けば、ポーランドは独立を回復するまで2世紀にわたり、占領者に対して反乱、武力闘争、消極的または積極的な抵抗を続け、数百万人の血を流さなければなければならなかった(第二次世界大戦中の犠牲者は600万人を数える)。そして、すんなりというわけではないが、EUに加盟する運びとなる。こんなふうに数々の抹殺の企てを生き延びてきた民族を迎え入れる側としては、歓迎以外の態度はふさわしいものではない。

 オランダのリンブルグ州庁舎には、マース川を見晴らす荘厳な円形の議場がある。1992年2月7日にマーストリヒト条約が調印された議場を訪れる人影はあまりない。州庁舎内は自由に見学できるが、ここで積極的に提供される情報はといえば、州政に関するものだけだ。条約って、いったい何の条約のことなのかと言わんばかり。欧州統合の大きな山場の一つとなったマーストリヒト条約は、町の住民の記憶に忘れがたい痕跡を留めることなく過ぎていった。安閑とした中心街は新築同様に整備され、改修された建物と手入れの行き届いた庭園を備え、高級ブティックが建ち並び、別のタイプの訪問者を待っている。あまり過去を振り返るような姿勢のないこのマーストリヒトには、しかしながら重い歴史がある。確かに、スペイン人に続いてフランス人も、この町に良い思い出を残しはしなかった。1673年にはルイ十四世の軍と、この時に戦死することになるガスコーニュ出身の銃士隊長ダルタニヤンに包囲された。1748年にはルイ十五世軍と戦って8000人の死者を出した後に陥落し、1815年にいたるまで最初は王政、次いで共和政、さらに帝政となったフランスの領土とされていた。やがて、この町にミッテラン大統領が乗り込んで、マーストリヒト条約の交渉を強引に進めることになったのだ。

 18世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパは石炭を主要エネルギー源として工業を発展させた。その後、石炭は石油に取って代わられ、古くは800年前にさかのぼる炭鉱のほとんどが閉鎖された。ベルギーのリエージュ近郊にあるブレニー炭鉱もその一つである。ここは1981年に閉鉱された後に産業考古学博物館に生まれ変わり、かつての炭鉱労働者がガイドを務めている。他の炭鉱と同様に、ここでもまた、搾り取られたのは石炭だけではなく、それにもまして、労働者の状況を歴史的に象徴するような「坑夫」たちだった。奴隷と大差のない冷酷な搾取、想像を絶する重労働。地下数十メートルから数百メートルのところで、息苦しい粉塵、不安をかきたてる薄明かりの中、暑さや湿気がまとわりつき、トロッコ、コールピック、削岩機、圧縮機の恐ろしい騒音が響く。坑道の先端は狭く、落盤、浸水、窒息、可燃性ガス発生の危険が常に存在し、珪肺症に徐々に冒されてほぼ確実に50歳前に死を迎える。

 昼となく夜となく、三交代の班になって、採掘量による出来高払いの低賃金で働く。雇い主は採掘のスピードを上げることしか頭になく、事故や災害を未然に防ぐための安全策を取ろうとしなかった。近年になって機械化の進展により労働条件が改善されるまで、何世代もの炭鉱労働者たちが数世紀にわたって、互いの間に培った比類なき連帯だけを自らの尊厳としながら、この非人間的と言える労働に従事してきた。最も立場の弱い者たちの境遇が目に浮かんでくる。その筆頭が子どもたちだった。子どもたちは長い間、狭い坑道や先端の採掘現場にうまく潜り込めるために重宝がられたが、身の丈に合わせたような賃金しかもらえなかった。

 ブレニー鉱山で、10歳未満の子どもの利用を中止したのはようやく1940年のこと、しかも最低年齢は14歳に引き上げられたにすぎなかった。自分たちの生活を守る手段に乏しい移民労働者の利用も行なわれた。まず19世紀初頭にはポーランド人、その後スペイン人、トルコ人、ハンガリー人、ギリシア人などが続き、1945年以降はイタリア人だった。イタリア政府が戦後、ベルギーとの間で交わした「石炭と肉体」の物々交換協定にしたがって、4万5000人の自国民を臆面もなく売り渡したのだ。イタリアが石炭供給を受けるのと引き換えに、イタリア移民は5年間ベルギーの炭鉱で働く契約を結ばせられた。賃金は非常に低かったが、戦時中にドイツ人捕虜が使っていたみすぼらしい掘っ建て小屋で、寝食が提供された。国境なき欧州が建設される以前から、移民労働者は資本よりも簡単に域内を行き来していた。以後、両者の状況は逆転した。

 労働者階級の博物館なるものがあるらしい。プロレタリアという歴史的に特異な存在が、いつの間にかブルジョワより先に消滅してしまったとでも言うのだろうか。とすれば、革命家にとっては士気に関わる大変な衝撃だ。これはぜひ見学してみる必要がある。場所はコペンハーゲン、社会的に最も進んだ国以外ではあり得ない。門のところにはレーニン像が立っていて、この博物館をのぞいてみようという数少ない訪問者のために、伸ばした腕で入り口を指し示している。続いて現れるのは、デンマークの労働者階級の誕生から今日までの変遷を、教育的かつ実用的に解説してくれる見学コースだ。ここでは何もかも、徐々に向上した住宅環境の実物大の復元までも見ることができる。農村からの人口流出、結核やくる病のために脱落した1940年以前の若年労働者たち、組合闘争、修正主義者と革命主義者の激論、1924年の社会民主党による政権獲得など、多くのことを学ぶことができる。

 女性の権利の拡大や、1920年代に7人1組にされ、1トンごとの出来高払いで雇われた(1日あたり100キログラムの袋をのべ300袋、50キロの距離にわたって担ぐ)港湾労働者については、とくに詳しく解説されている。それに続けて、1950年には工業部門への歩合給導入に対する抵抗運動が起きたこと、生産性追求に伴って労働災害が増加したこと、1960年代には若年労働者が「より良く、より速く」を掲げるアメリカ式生産モデルを拒否したこと、近年には高い給与水準と手厚い社会保障の回避策として工場が海外に移転されたり、ユーゴスラヴィアやトルコ、パキスタンからの移民が利用されたりするようになったことが示される。

 つまるところ、経営者が他所から労働者を連れてきたり、外国で現地の労働者を利用したりしている以上、もはやデンマーク人のプロレタリアなるものは存在しないということだ。多分そうなのだろう。しかし先々まではわからない。労働者博物館は、資本家ブルジョア博物館が開館するより先に、時代遅れの存在になってしまうかもしれない。

 フランスのトゥレーヌ地方に生まれたカルヴァン派のクリストフ・プランタンは、宗教迫害を逃れて1550年にアントヴェルペンに移住し、当時の冒険的事業の一つであった印刷業を始めた。彼はコンパス・ドール(金の羅針盤)という屋号の印刷屋を開き、最高の腕をもった職人たちに最先端の技術を駆使させた。それは、活字の父型、母型、活字の鋳造所、植字工が使う活字ケースの保管室、印刷機と組み版の部屋、校正室、教育図書の目録と発禁図書のリストを掲示した書店を備えていた。彼は数々の成功作を世に送り、中でも5カ国語聖書でひと財産を築き、ヨーロッパ中に知られる名士となった。彼はルネサンスの進んだ気風に理解を示し、時代にしたがって宗教書を手がける一方で、植物学、天文学、医学のような学術書、アリオストの『狂えるオルランド』のような文学作品、楽譜なども扱った。

 プランタンは晩年に、厳格なカトリックのスペイン国王フェリペ二世の制裁により打撃を受ける。フェリペ二世は、寛容の度が過ぎたアントヴェルペンの町を罰するために血に飢えたアルバ公を派遣し、容赦ない検閲を課してカトリック的でない書物の印刷を禁じた。プランタン印刷所は、うまく言い逃れたり、主流となった反啓蒙主義を誓ったりすることで、どうにか廃業を免れた。そして、娘婿ヤン・モレトゥスが知識の灯火を引き継ぎ、その息子バルタサールが地図の印刷に力を入れ、友人の画家ルーベンスに本の挿し絵を描かせるなどして、プランタン印刷所をさらに発展させた。

 彼らの冒険的事業は3世紀にわたって続けられた。無傷で残った印刷所は現在、プランタン・モレトゥス印刷所の偉業をたどる博物館となっている。王朝や国境、宗教の枠を超えようとした文化と芸術、科学のヨーロッパの生きた証拠である。中世以来、写本装飾に長けた修道士、建築設計家、画家、音楽家、作家、哲学者、学者たちがヨーロッパ大陸を縦横に行き来していたことを、現代の我々に伝えてくれる。

 ヨーロッパの人々の共通の記憶を探すためには、彼らを抑圧した者たちを礼賛する場所ではなく、彼らのおかれた社会的境遇、隠蔽された苦しみ、自由と正義を勝ち取るための闘いの歴史を物語る場所に行かなければならない。後者よりも前者の方がはるかに多いのは、単なる偶然なのだろうか。

(1) ミュンヘン、ザルツブルク、ウイーン、ブラチスラヴァ、クラクフ、プラハ、ベルリン、コペンハーゲン、ストックホルム、オスロ、 イエテボリ、ハンブルク、マーストリヒト、リエージュ、アントヴェルペン。
(2) 数ある中でも忘れられないのは、ミュンヘンのピナコテーク、ウイーンの美術史美術館とレオポルト美術館、ベルリンの絵画館と国立美術館、コペンハーゲンの国立美術館、オスロのムンク美術館、アントヴェルペンの王立美術館などだ。
(3) ナポレオンも1805年から1809年にかけてここに滞在した。


(2003年8月号)

All rights reserved, 2003, Le Monde diplomatique + Okabayashi Yuko + Saito Kagumi

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