フランスの傭兵集団と国家政策

バルバラ・ヴィニョー(Barbara Vignaux)
ジャーナリスト
フランソワ・ドミンゲス(Francois Dominguez)
ジャーナリスト

訳・ジャヤラット好子

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 冷戦時代が去った現在、傭兵集団が世界的に復活を見ている。傭兵という存在はこれまでも消え去ったわけではないが、現在そこに起きているのは戦略的というべき変化である。「間に合わせの兵士」や「戦争の犬」は姿を消し、それに代わって軍事コンサルティングと「保安」を売りものにする企業が登場した。これらの企業では、出身組織との関係をそのまま温存した退役軍人や元情報部員が、水面下で国家の手足となって動くことも少なくない。国家の方もまた、正規軍を動かして人員の損失や作戦の失敗があった場合の政治的コストを避けるべく、傭兵集団を利用しているという現実がある。[フランス語版編集部]

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 情報機関と傭兵の関係はちょうど「取り澄ました父親と非摘出子の関係によく似ている」。パリの傭兵業界では知られた存在で、自信にあふれた30代のジャック(1)は、こんなふうに表現した。10年前から、この取り澄ました父親は子どもの認知を渋るようになってきた。否認された息子はだんだんと騒ぎを起こすようになり、彼は彼で自分のイメージを気にして、世間的には親子の縁を切ったことにしているが、額面どおりには受け止められていない。一言でいえば、同じ傭兵のイヴが皮肉をこめていうように、「愛してる」「こっちだってヤだね」といった関係だ。

 ジャックとイヴの二人は経験を積んだ戦闘員であり、ボスニアやザイール、コンゴやコートジヴォワールの戦地を渡り歩いてきた。30代という彼らの世代は、上の世代に比べて理想主義だとも利益主義だともいわれ、ビルマ(ミャンマー)で少数派キリスト教徒のカレン人に味方したのが最初の戦闘、次いでボスニアではクロアチア側に付いて戦った。パリには、こうしたフランス人がおそらく80人から100人いて、これに若干の外国人も加わって、定期的に傭兵活動を行なっている。さらに、数は一定しないが、傭兵を自称する一群の人間がいる。「はったり屋は俺たちの職業にはありがちだからな」と、傭兵業界では顔役のステファンは言う。これらの男たちには上の世代と同様に、冒険と集団生活を好む気持ちが染み付いていて、時にはそれが政治的信条と混ざり合っている。

 自称の傭兵も含め、彼らの中で最多数を占めているのは極右思想、つまり極右団体オクシダンや王党主義、そして国民戦線などである。「だから、やばくなりそうな話は切り出さない」と、ジャックは言う。原則の正しさを証明するかのように、いくつかの例外も見受けられる。たとえばジェロームは、兵役のとき以外に軍事教練を受けたことはないが、2年間にわたり革命的共産主義青年団で活動していた経歴を持つ。

 傭兵という仕事において、他の仕事にまして金銭的な側面が決定的に働いているようには思えない。確かに月に4500から7500ユーロという報酬は魅力的ではある。しかし「外国で武力紛争に参加するよりも、フランス国内で危険なしに社会紛争の管理をやる方が稼ぎがいい」と、ジャックは言う。傭兵は任務の合間に、警備会社に雇われて国内外で用心棒もやるが、こうした文民活動もなかなかの高給だ。傭兵業界でも特に大きく稼いだ者の中には、たとえばポール・バリルのように、一つ上の世代で大統領府の衛兵あがりの人々がいる。彼らは豊富な人脈を利用してアフリカ屋に転業し、大量消費財や武器の取引、戦闘員の募集などで利益を上げた。

 「傭兵業界」という表現には異論がある。内部事情をよく知るシャルルによると、ある種の「親近関係」によって、まとまりのなさがどうにか抑えられていただけだという。こうした人間関係は「マルケス」「サンチェス」「ガリバルディ」といったアクの強い人物を中心に築かれていた。「大御所」の異名をとるロベール・ドナール(通称ボブ・ドナール)は、一般人にも広く知られ、60年代から70年代に傭兵業界の結束を固めるのに大きく貢献したが、後継者を残さなかった(2)。彼のように軍事教練、戦闘体験、人を訓練する能力や組織するセンス、具合のいい人脈など、傭兵の指導者として必要な資質を備えた人物は、今日ではほとんど見られない。

 実際、傭兵業界では、40年前のアルジェリア戦争終結のときよりも将校が少なくなった。「中隊の指揮をとれるような傭兵はフランスにはいない」とイヴは言う。一般的に言って、フランスの傭兵集団の技量は小隊を展開するレベルにとどまる。彼らが外国で展開する作戦は小規模で、非常に限定的なものとなる。その特徴が最もよく表れた例は大統領の警護である。この傾向は、この4月3日に可決された傭兵禁止法(3)によってさらに強められるだろう。法律を墨守する高級将校たちは、今や犯罪となった民間活動に身を投じることに、以前よりも慎重になるだろう。

官と民との「グレーゾーン」

 フランスの傭兵活動の第一の特色は要員の訓練と配置にある。「多くの正規軍の兵士たちがうらやむほどのノウハウ」を持っていると、ある事情通は言う。第二の特色は専門性だ。通信、情報収集、ヘリの操縦、砲撃、特殊作戦の企画などを得意とする。「欧米部隊や傭兵集団はかれこれ30年や40年前から、アフリカ諸国の軍隊の育成をやってきた。現時点で、兵卒の育成はできている。大ざっぱに言って、行進と射撃ならできるということだ」と、傭兵の歴史についての著書(4)があり、ボブ・ドナールと手を組んでいた(彼と同じく国民戦線と結び付いてセーヌ・サン・ドニ県で選挙に出た)フランソワ=グザビエ・シドは述べている。フランスの傭兵集団の強みは、フランス語圏のアフリカを知りつくしていることである。また、英米の傭兵が「産業力」を持つのと対照的に、ジェロームが言うところの「職人技」を持っていることである(5)

 米軍に比べて装備に劣り、兵站支援も不安定なフランス軍を古巣とする傭兵たちが、一般的に機転が利くのは当然だろう。ジェロームの言葉を借りれば「当意即妙に対応できる」ということだ。その一方で、10年以上にわたりフランス正規軍のアフリカからの撤退が続いてきたなかで、軍事サービスの新たな需要が生まれている。ジャン=フィリップ・ダニエルによれば「軍事技術支援の民営化」が起きたのだ(6)。これは「国家退廃の市場」であると、この左翼シンパの若い研究者は解説する。

 フランスの傭兵が特殊部隊や情報機関と曖昧な関係を保っているのは、古巣が軍隊にあるせいだ。傭兵の主要な供給源は、落下傘部隊、(旧植民地における)海兵隊、そして外人部隊である。彼らは20歳、25歳、30歳といった年齢で、あまりに官僚的な軍隊を離れ、もっと小規模な作戦集団の幹部となる道を目指す。この点についての当事者の証言は、いずれも次のジェロームの告白と大同小異である。「あのまま軍隊にいても伍長どまりだったろう」

 こうして、予備役であれ「正真正銘」の傭兵であれ、多くの者が官と民との「グレーゾーン」に身を置くようになる。「この種の活動に終わりはない」と、対外保安総局(DGSE)の局員だった大佐は述べる。昔の同僚とコンタクトを保ち、過去の身分の曖昧さを利用する傭兵もいる。傭兵禁止法の立案を担当した国防省のある官僚によれば、この法案が4月3日に可決された理由の一つはそこにあるという。「ある人間がどこかの国の情報機関に属していないと証明することは決してできない。(・・・)そのうえ傭兵は、DGSEや大統領府アフリカ政策室の職員と個人的な関係を保ち、それで顧客の信用を獲得している。これはフランスのイメージを悪くする」。その一例は、ジャヌー・ラカーズ元参謀総長だ。彼は、1982年にDGSEに改組された外国文書・防諜部(SDECE)のメンバーとして、ボブ・ドナールと親交があった。これをアフリカから見れば、ジャン=フィリップ・ダニエルの言うように「ジャヌー・ラカーズが絡んでいるならフランスが絡んでいるということ」になる。

 フランス軍の職業軍人化は、この傾向をさらに強めていく。幹部ポストはますます稀少になり、軍歴は短く幅の限られたものとなり、戦闘は例外的にしか起こらない。兵卒や下士官は傭兵の道に走るようになるかもしれない。

 「民間」の兵士(傭兵という言葉は不名誉だということで代わりによく使われる言葉)を利用することは、国家にとって二つの大きな利点がある。第一に、世論を逆撫でする危険なしに、あらゆる民主的な統制を免れることができる。好きなように「使い切り、使い捨てられる」から「痕跡も残らない」と、当の傭兵の一人が言う。DGSEにいた退役将校は「一人の有権者を失うよりも一人の傭兵を失う方がよい」と、まじめくさった顔で口を滑らせ、さらにDGSEの現役将校は「おまけに軍が退職金を払う必要もない」と付け加えた。もし、核実験に反対したグリーンピースのレインボー・ウォリアー号の撃沈に派遣されたのが傭兵集団であったなら、あの危機の政治的管理ははるかに容易になっていたことだろう。

 国家はこれらの「私掠船」(7)と組織的なつながりはないという建前のもと、代理政策を展開できるようになる。実際に、第五共和制の大統領たちは皆、傭兵集団による作戦を起こさせたとはいえない場合も、少なくともそれを放任した。ド=ゴールとポンピドーはカタンガ(コンゴ民主共和国)やビアフラ(ナイジェリア)、ジスカール=デスタンはコモロやベニン、ミッテランはチャドやガボンでそうしてきた。シラクの時代になってからも、ザイール(1997年)、コンゴ共和国(1997〜98年および2000年)、コートジヴォワール(2000年および2002年)など、いくつもの作戦が黙認された。政治責任者が自分は聞いていなかったなどと言っても「誰一人だまされはしない」と、DGSEの元幹部は言い放つ。

 政府が段階的に政策を繰り出していくうえで、傭兵集団による作戦は、これまでに使い込まれた図式によく合致する。ある元特殊工作員の言葉によれば、軍事支援、傭兵、そして正規部隊という図式である。これは、コートジヴォワールで2002年9月19日のクーデターの直後に見られた事態にも当てはまる。フランスのド=ヴィルパン外相はまず同国のバグボ大統領に、体制側に付いていた傭兵の本国送還を要請した。それを受けて、停戦協定を遵守させるために正規軍が展開された。フランスとしては、「死の部隊」の設置に見られるように人権尊重を気にも留めず、フランスに好意的でもないような体制を助けるために、公然と介入するようなことは難しかったのだ。逆に言えば、メディアがあらかじめ期待どおりに蛮行だと騒ぎ立ててくれた傭兵集団と入れ替わるということなら、そうした問題は起こらない。

いざというときの煙幕

 さらに、傭兵を送り込めば、たとえ最小限でしかなくとも、相手を支援しているという政治的な表明になる。その一例は、1996年末から97年初めにかけてのザイール情勢だ。30人ほどのフランス人傭兵の任務は、旧体制側のモブツ軍を立て直すことだった。同軍は、ルワンダとウガンダの支援を受けた反体制派(当時)のカビラ軍の攻撃を受けて敗走中だった。この作戦は悲壮な条件のもとに展開された。備品は乏しく故障だらけ、ザイール人部隊の士気は低く、フランス人傭兵部隊とセルビア人傭兵部隊が対立し、フランス政府が二系統から送り込んだ工作員が互いに競合していた。それでも、この作戦は、もはや余命の短い体制にフランス政府が送った最後の好意的なシグナルだったのだ。

 民と官との明らかな共謀関係は、前者による「工作」が後者によって問題視されることは一般的にないという事実にも示されている。老いたボブ・ドナールが1995年9月にコモロで行なった作戦は、手に余る独裁者となったジョハル大統領の失脚をもたらした。翌月にはフランス軍が介入したが、失脚した大統領が再び権力を手にすることはなかった。

 傭兵を送り込んでおけば、いざというときの煙幕にもなる。「がっちりした体型でスキンヘッド、頭から足の先まで入墨をした12人の野郎どもが、とんでもない場所で観光だなどと抜かしていれば、そりゃ注意を引き付けることになるだろうよ」というのがステファンの説明だ。要するに、どこか別の、もっと興味深い何かが起きているはずの場所から、人々の注意を逸らすことになる。2002年6月18日、マダガスカルに向かおうとしていた騒々しい一団の目的が、そこにあったのかは現時点では分からない(8)。これは傭兵業界が過去にやってきて、今後も続けていくつもりの独自企画の「ドタバタ」作戦にすぎなかったのか。それとも、多くの徴侯が示唆するように、マダガスカルのラチラカ前大統領が傭兵を呼んだものなのか。

 情報機関にとって、問題はコントロールである。DGSEの元将校は、これを「よい傭兵とはコントロール可能な傭兵である」と要約する。国防省では、軍保安局を前身とする国家防衛保安局(DPSD)の一部門が、特に傭兵活動を追跡する任務を負っている。だが、状況は少々悪くなっているように見える。別の退役軍人は述べる。「チャドの作戦のときには、プロとして能力があることが分かっている傭兵がいて、彼らを信頼することができた。現在では、傭兵の一部はコントロールが利かなくなっている」。傭兵の側でも、次のジャックの言葉のように、同じことを別の言い方で言っている。「この市場には馬鹿が多すぎる。一つか二つの任務しかこなしていないのに、あることないこと誰彼かまわず話しやがる。国は、こういうコントロールの利かない連中に真っ青だ」

 この現象にはいくつかの要因がある。たとえば、傭兵業界の組織性が薄れ、その一方で規模は拡大していること、彼らの利用が政治的および道義的な理由で困難になってきていること、また国家の側でも決定中枢が分裂していること、競合する部門の間に小競り合いがあることなどだ。

 国家(あるいは部局)への忠誠というのは、結局のところ個人の問題でしかない。傭兵の中には、いかなる行政組織にも忠誠を誓っていないと大見えを切る第11落下傘強襲連隊(DGSEの武装部門)の予備役と同様、「古巣の部局(多くの場合はDGSE)におうかがいを立てずには何もできない」ような者もいる。逆に、「何でもやってのける」とステファンが述べるような者もいる。この指摘はまったく的を射ていて、傭兵業界の顔役の一人イヴも、「10人を超えると作戦の秘密は守れなくなる」と語る。政府組織とつながりを持っておけば、時たま収入が得られるうえに、危ない作戦にはまり込むのを避けることができる。ある種の微妙な「工作」の場合には「諜報屋抜きでは何もできない」と、ステファンは言う。

傭兵禁止法の目的はどこにあるのか

 さらに、誰が彼らをコントロールするのかという問題がある。DGSEなのか、国土保安局(DST)なのか、外務省なのか、首相なのか、大統領なのか。政策決定中枢の分裂は、保革共存政権の時代に頂点に達した。それは、DGSEの元高級将校によれば「非常にやりにくい」時代だった。2000年初め、大統領府のある顧問の発案により、コートジヴォワールの大統領として短命に終わったゲイ将軍のもとに6人の傭兵が送り込まれた。反体制派の組織を解体し、大統領警備隊を立て直すためだ。6カ月後、この作戦は首相官邸からの要請によって潰された。ジャック・フォカール元大統領顧問がアフリカ政策の全体を支配していたのはもはや過去のことである。

 このように政府内部にも対立があるうえに、たとえばパスクワ元内相や、SDECEのアフリカ局長と駐ガボン大使を歴任したモーリス・ロベール大佐のように、独自のネットワークを持った政治家が個人的に立ち回ることもある。あるDGSEの元将校は「政治家が企てた馬鹿げた作戦を潰さなければならないことが、少なくとも一度はあった」ことを、それ以上は何も言わないまま認めた。というのも、関係部局(DPSD、DGSEまたはDST)が知らないうちに作戦が組織されることはほとんどあり得ないからだ。「黄信号が出ている場合でも、政権サイドのコントロールは抜かりがない」と、フランソワ=グザビエ・シドは見る。

 つまり政治責任者は知らせを受けており、常に介入できるということだ。ある担当者の場合、これまで自分が知らなかった作戦は一件だけだったという。2001年12月のコモロ作戦である。彼の説明では、その原因は、雇われた連中が傭兵業界の者ではなかったことにあった。

 最悪の場合には、関係部局が作戦を阻止することも禁止することもできる。2002年6月にマダガスカルに向かおうとしていた遠征隊は阻止された。禁止になったのは2年前のこと、コンゴ民主共和国(旧ザイール)に向かう傭兵100人を募集していたまとめ役が、DGSEの局員から投獄すると脅された例だ。カビラ大統領の転覆を謀ったこの作戦は、実行に移されずに終わった。

 要するに傭兵集団は、役割を大きく制限されているとはいえ、いざというときにフランスの対外政策の道具となる立場に変わりはない。フランスにも他の国々と同様、この種の求人の中継地と化している専門集団がいくつかある。著名な民間の警備会社、防災会社、危機管理会社は、この種の活動にはいっさい関わりがないと主張しているが、民間の軍事会社との境目は判然としない。ある関係者は匿名で専門誌に次のように打ち明けた。「顔を隠すべきではない。どこだって、被介入国の関係当局の同意のもとに、グリーンをやっているのだから(戦闘服の色から来た表現で、武力を行使することを指す)」(9)。とはいえ、サンドライン・インターナショナル、ディンコープ、ディフェンス・システム、ミリタリー・プロフェッショナル・リソース(MPRI)、ワッケンハットのような英米系の大企業とは比べものにならない。これらの企業は、きわめて短期間のうちに、機材や人材を高度に展開する態勢を整えている。

 フランスは傭兵禁止の道を選んだと宣言しているが、疑わしさは残る。戦闘への参加を禁じるだけでは、作戦の要員配置、教練、そして専門性の問題は解決しない。これらはフランスの傭兵活動の主要部分を占めている。2003年4月3日にアリオ=マリー国防大臣が上院で法案の趣旨説明を行なったとき、どうも歯切れが悪かったのもそのせいかもしれない。大臣は「傭兵の実際行動にしばりをかけることにより、行き過ぎを処罰するのが適切だ」と述べた。その目的はどこにあるのか。今後は民間の兵士を利用することを自戒するためか。それとも、もっとコントロールしやすいように傭兵集団を再構築するためなのか。

(1) 傭兵の個人名はすべて仮名。
(2) ボブ・ドナールはインドシナ戦争に海軍の砲手として参加した後、1952年から57年まで保護領モロッコの警察に身を置き、さらにアルジェリアではフランス政府の特殊工作を請け負った。引き続き、イエメン、コンゴ、ナイジェリア(ビアフラ)、アンゴラ、ベニンで活動し、75年からはコモロに赴き、そこで絶頂と敗北を知ることとなる。1999年5月、コモロのアブダラ元大統領の暗殺事件に関してフランスで開かれた裁判で無罪放免となった後、彼の姿は表舞台から消えた。
(3) リシャール前国防大臣が提出したこの法案は、今回の会期中に満場一致で可決された。傭兵(または傭兵組織)が「戦闘行為に直接加担」すれば、罰金と投獄刑(5年から7年)を科するものであるが、非常に拘束的であるため、適用は難しいように思われる。
(4) フランソワ=グザビエ・シド『自由な兵士、傭兵の大いなる冒険』(アンクル社、パリ、2002年)。
(5) フィリップ・シャプロー、フランソワ・ミセール『傭兵株式会社』(デクレ・ド・ブルヴェール社、パリ、1998年)参照。ピエール・コヌザ「安全保障を請け負う現代の傭兵たち」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年4月号)も参照。
(6) ジャン=フィリップ・ダニエル「サハラ以南におけるフランスの軍事政策、ラ・ボール演説からハデス作戦まで:引き揚げから民営化まで」(パリ第四大学、国際関係学DEA論文、2000年)参照。
(7) 帝国主義時代に政府公認で外国船に海賊行為を働いた武装船を指す。[訳註]
(8) 小規模の警備会社アクティヴ・プロテクション・インターナショナル・サービス(APIS)に雇われた12人の傭兵を乗せ、パリからマダガスカルに向かっていたファルコン900型戦闘機が、ダル・エス・サラーム(タンザニア)に一時着陸中、フランス外務省の介入を受けた事件を指す。当時、大統領の任期の切れたラチラカ氏と、新たに大統領に選出されたラヴァルマナナ氏の対立により、マダガスカルはきわめて危機的な状況にあった。
(9) パスカル・ル=ポートルマ「企業の安全確保の新たな立役者」(雑誌『急襲』199号、パリ、2002年12月)参照。この問題については、特集「傭兵、戦争の犬から国策企業へ」(同196号、2002年9月)も参照。


(2003年8月号)

All rights reserved, 2003, Le Monde diplomatique + Jayalath Yoshiko + Saito Kagumi

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