アメリカが行った予防戦争とは何か

ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)
マサチューセッツ工科大学(MIT)教授

訳・葉山久美子

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 2002年9月という月は、いくつかの密接に絡み合った重大な出来事によって記憶にとどめられることになった。人類史上最強の国家たるアメリカは新国家安全保障戦略(1)を発表し、世界的な覇権を握り続けると宣言した。いかなる挑戦を受けようと、冷戦後のアメリカには比肩するもののない軍事力をもって迎え撃つということだ。この新戦略が公表されたまさにその時、戦争を告げる太鼓が鳴り響き、世界はイラク侵略の準備へと駆り立てられていった。

 主要な高級専門誌が直ちに解説したように、アメリカはこの新たな「帝国主義的戦略」によって、「一時的に手にしたパワー面での優位を拡大し、自らが取り仕切る秩序に注入しようとする現状変革志向国家」となる。「いかなる国家あるいは国家連合も、グローバルなリーダー、擁護者、強制執行者としてのアメリカに挑戦できない」ような「単極構造世界」である。ジョン・アイケンベリーはそう論評して(2)、これがアメリカ自身にも危険な政策であると警告した。この帝国的な企図に激しく反対したのは、彼一人だけのことではなかった。

 世界中でアメリカに対する恐怖と自国の指導者に対する不信感が頂点に達するには、数カ月もあれば充分だった。ギャラップ社による2002年12月の国際的な世論調査は、アメリカのメディアにはほぼ無視されたが、「アメリカとその連合国による一方的な」対イラク戦争の計画がほとんど支持されていなかったことを示すものだった(3)

 ブッシュ大統領は国連に対し、「意味のある」機関になりたければアメリカの計画を是認せよと告げた。さもなければディベート・クラブでいることに甘んじろ、というわけである。ダヴォスで開かれた世界経済フォーラムでは、「穏健派」のパウエル国務長官がホワイトハウスの戦争計画に反対の立場をとる参加者に向けて、アメリカには「軍事行動を起こす国権」があると述べた。そして「アメリカは何かを確信した場合には必ずや、とるべき道を示していく」と明言した(4)。誰もついて来ないとしても、そんなことは大した問題ではない。

 戦争直前にアゾレス諸島で開催された首脳会談で、ブッシュ大統領とブレア首相は、国際法と国際機関の軽視ぶりをあからさまに見せつけた。彼らの発した最後通牒は、イラクではなく国連に向けられていた。二人が国連に対して言ったのは要するにこういうことだ。降伏せよ、さもなくば我々は君たちの意味のない賛同を待つことなくイラク侵攻を行うのみだ。サダム・フセインとその家族が国を去ろうが去るまいが、それに変わりはない(5)

 ブッシュ大統領は、アメリカには「国家の安全を保障するために軍事力を行使する主権」があると言い立てる。そのくせホワイトハウスは、世界の主要なエネルギー資源産出地域の中心部にあるイラクにアメリカの支配権を打ち立てて、「アラブの張りぼて」を据えておくつもりだったのだ。形だけの民主主義ならまったく問題ない。ただし、アメリカが膝元の国々に求めているように、従属的な体制を樹立しておかなければならない。

 2002年9月の「帝国戦略」はまた、アメリカに「予防戦争」を起こす口実を与えた。予防であって先制ではない(6)。まだ具体的でなく、想像にすぎない脅威、さらには作られた脅威を破壊することを正当化する戦争である。要するに予防戦争とは、ニュルンベルク戦争裁判で「最悪の犯罪」と断罪されたものにほかならない。

 アメリカで自国の将来を少しでも気にかける人々にはすぐに理解できることだ。連合軍がイラクに侵攻したとき、歴史家アーサー・シュレシンジャーは、ブッシュ大統領の帝国戦略について「真珠湾の時の帝国日本の政策に恐ろしいほど似ている。あの時の大統領の言葉のように『汚辱の印を永遠に押された』一日である」と記した(7)。そして「2001年9月11日以後にアメリカへ寄せられた世界的な同情の波が、アメリカの傲慢と軍国主義を前にして世界的な憎しみの波へと変わったこと」も、アメリカ大統領が「平和にとってサダム・フセインより大きな脅威」だと考えられるようになったことも、驚くには当たらないと付け加える。

 アメリカ政府にとって「世界的な憎しみの波」など大した問題ではない。重要なのは愛されることではなく、恐れられることだ。ラムズフェルド国防長官が、マフィアのアル・カポネの「優しい言葉だけよりも、優しい言葉と銃を使ったほうが得られるものは大きい」を座右の銘としているのも不思議はない。アメリカの指導者たちも、自らの行動が大量破壊兵器の拡散やテロの危険を増大させていることに気づいてはいた。だが、この手の危険を考えるよりも、ある特定の目的を達成することのほうが重要だった。その目的とは、世界にアメリカの覇権を確立することであり、国内的には20世紀を通じて大衆闘争が勝ち取った進歩的成果を解体する政策を実施することである。さらには、この反革命を恒久的なものにするために制度化することである。

 覇権国家はその政策を公式に宣言するだけでは満足できず、国際関係の新しい規範として押し付けようとするものだ。そこに大物解説者たちが登場し、決まりというものは柔軟であるからして、今後は新しい規範がモデルとなり遅滞なく適用されるようになると説く。しかし「規範」を定め、国際法を自分たちの都合のいいように改定できるのは、武力を持った者だけなのだ。

 新しいドクトリンで、アメリカが標的とする対象はいくつかの基準を満たす必要がある。それは無防備かつ懸念ももっともだと思われる程度に重要で、「死活的な脅威」というだけでなく「絶対悪」の様相を帯びていなければならない。イラクは彼らの青写真にぴったりだった。最初の二つの条件は問題なく満たしていた。残りの条件については、ブッシュとブレア、その相棒たちのご高説を思い出せば充分である。この独裁者は「服従させ、威嚇し、侵略する目的で、世界で最も危険な兵器を集めている」。これらの兵器を彼は「すでにいくつもの村を全滅させるために用い、何千もの自国民を殺害し、傷や障害を負わせた。(・・・)これが悪でないと言うのなら、悪という言葉にもはや意味はない」

 ブッシュ大統領によって発せられたこの雄弁な論告は、いかにも正しいように聞こえる。悪に加担した者が罰を受けずにいてよいはずがない。しかしその中には、こうした崇高な言葉を語る張本人、その現在の副官たち、そして恐るべき悪行を目にしてもなお彼らとともに絶対悪の化身を支え続けた人々も含まれる。これら西側の指導者たちは、怪物フセインが犯した残虐行為を並べ立てる一方で、ある決定的に重要な情報は言わずにいた。全ては西側の支援があって行われたのであり、それというのも彼らはこの種の問題を意に介してなどいなかったからなのである。昨日の友が初めて罪と呼べる行為を犯したとき、支援は断罪へと変わった。その罪とは、彼らに服従せずに(もしかすると命令を間違って受け止めて)クウェートに侵攻したことであった。制裁は恐ろしいものだったが、打撃を受けたのは独裁者の臣民だけだった。独裁者自身はまったく無傷のまま、それどころか、かつての庇護者たちが敷いた制裁体制によって権力基盤をさらに固めた。

 アメリカは第一次湾岸戦争が終わるとすぐにサダム・フセインへの支援を再開した。その時この独裁者は、政権転覆をもたらすことになったかもしれない反乱を叩きつぶしたところだった。当時ニューヨーク・タイムズ紙でトーマス・フリードマンが解説したところによると、ホワイトハウスにとって「何よりも望ましい」のは「サダム・フセイン抜きの強圧的なイラク軍事政権」ができることだった(8)。この目標は達成できそうになかったので、次善の策で満足せざるを得なかった。アメリカとその同盟国が「イラク指導者にいかなる罪があるにせよ、圧政に苦しめられる人々よりも彼のほうが、西側諸国と中東地域にとっては安定の保証となるという見事な意見の一致をみる(9)」やいなや、反乱は頓挫した。恐怖政治の犠牲者の死体の山によって今回の戦争を正当化する解説では、こうした経緯はすべて隠蔽されていた。トーマス・フリードマンが強調したのは「道徳的見地」という一点であった(10)

 アメリカ市民の反応は鈍く、戦意を高揚させるように煽り立てなければならなかった。2002年9月早々から、恐ろしい情報が雨あられと降り注がれた。サダム・フセインはアメリカにとって差し迫った脅威であって、アル・カイダとも関係しており、そこからすると2001年9月11日のテロにはイラク政権も関与していたという情報である。『ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ』誌の編集長が書いているように、ほとんどの証拠は「振りかざされても笑いを誘うばかり」であり、「しかしそれが滑稽であるほど、メディアは真に受けるのが愛国心の証だと言わんばかりに奮闘した」(11)

 この情報爆撃には効果があった。アメリカ人の大部分がサダム・フセインはアメリカにとって「差し迫った脅威」であるとみなすに至ったのである。半数近くの人々がイラクは9月11日のテロに関わっていると信じ、イラク戦争の支持へとつながった。ブッシュ政権が中間選挙でかろうじて過半数を獲得できたのも、こうしたプロパガンダのおかげといえる。有権者は悪魔のような敵から権力に守ってもらおうとして、当座の関心事は二の次にしたのだった。

 2003年5月1日、ブッシュ大統領は空母エイブラハム・リンカーンの艦上で、6週間にわたった戦争の終結をうたうスペクタクルショーを演出した。彼は「アル・カイダの協力者を抹殺し、テロとの戦いに勝利した」とうそぶいた(12)。サダム・フセインと仇敵ウサマ・ビン・ラディンとの関係を裏付けるいかなる証拠もあがってはいなかった。イラク侵攻と占領というこの「テロに対する勝利」において、文句なしの効果といえる点は一つしかない、あるアメリカの当局者も認めたように、アル・カイダの志願者を増やしたことで「『テロに対する戦い』に大きな後退」をもたらしたと思われることだ(13)

 ウォールストリート・ジャーナル紙は、空母リンカーン艦上のショーが「2004年に向けた再選キャンペーンの幕開き」だったとみる。ホワイトハウスは選挙キャンペーンを「できるだけ国家安全保障の問題を軸として展開」させたいと望んでいる(14)。ブッシュ陣営の選挙参謀を務めるカール・ローヴは2002年の議会選挙の際にも、安全保障問題に集中せよと共和党員に指示を飛ばし、ホワイトハウスの不評な国内政策を有権者に忘れさせようとした。20年前にレーガン大統領もまったく同じ手を使った。1983年のグレナダ侵攻が翌年の再選に役立ったのだ。

 この徹底的なプロパガンダは若干の成功をもたらしたはしたが、根本的な問題に関して世論を動かすには至っていない。アメリカ市民は依然として、国際危機がアメリカ政府ではなく国連によって管理されることを希望しており、3分の2の人々がイラク復興を担うべきは国連であってアメリカではないと思っている(15)

 占領軍がかの有名な大量破壊兵器を見つけ出せずにいる中で、政府の立場はイラクの保持が「絶対確実」だというものから、イラクに対する非難が「兵器製造に使われる可能性のある設備の発見によって正当化(16)」されたというものへと変わった。政府高官たちはそれに伴い、アメリカが「大量の殺戮兵器を持つ国」に攻撃を加える権利があるとする予防戦争の概念の「調整」を提案した。この修正は「大量破壊兵器を開発する意図と能力を持っていそうな敵対政権に対し、アメリカ政府が行動を起こすことを提唱」するものである(17)。こうしてみると、侵攻を正当化するためにイラクに向けられた非難の根拠が崩れた最大の影響は、軍事力の行使を認める基準が緩和されたことだといえるだろう。

 しかしアメリカのプロパガンダの最大の成果は、ブッシュ大統領が中東に民主主義をもたらしたいと言明した「ビジョン」にこぞって向けられた讃辞であった。実際にはまさにその時、彼は民主主義の概念に対するすさまじい侮蔑を投げつけていた。さもなくば、嘲弄されるべき「古いヨーロッパ」と勇気を称えられるべき「新しいヨーロッパ」というラムズフェルド国防長官による区別はどうにも考えようがない。基準は明確である。市民の大半と立場をともにした国家は全て「古いヨーロッパ」とされる。対する「新しいヨーロッパ」は、ほとんどの場合は他の諸国以上に戦争に反対していた自国の世論を気にもかけず、テキサス州クロフォードの牧場からの命令に従っていた。

 クリントン政権で国務次官補を務め、アメリカ政界ではリベラルとされるリチャード・ホルブルックが、ある「非常に重要な事実」を強調している。「新しいヨーロッパ」8カ国の人口は「古いヨーロッパ」より多いという点だ。彼によれば、ゆえにフランスとドイツは「孤立」しているという。これに反論を加えようとすれば、民衆の意見が今なお民主主義において何らかの役割を果たすとする左翼急進主義的な異端を口走るぐらいしかなかっただろう。他方、ニューヨーク・タイムズ紙のフリードマン論説委員は、フランスを国連安保理の常任理事国から外すべきだと主張した。なぜならフランスは「幼稚園」の子供のように振るまうだけで、「他人とうまくやっていけない」からだ(18)。その伝でいえば、様々な世論調査の結果を見る限り、「新しいヨーロッパ」の民衆もまだ保育園を卒業していないということになる。

 トルコのケースはさらに示唆に富んでいる。国民の95%の意見を無視してでもアメリカの命令に従って「民主主義の姿勢」を示せというアメリカの強い圧力に対し、トルコ政府は抵抗した。アメリカの政治評論家たちの中にはこの頑固さに激怒し、1990年にトルコ政府がクルド人に対して犯した犯罪のことまで持ち出す者もいた。この弾圧はアメリカも共犯者であったことから、かつてはタブーとされていた。もっとも、アメリカの果たした役割については、注意深く沈黙が通された。

 アメリカの新ドクトリンの真髄を示したのはウォルフォウィッツ国防副長官である。彼はトルコの軍部が政府に対し世論を踏みにじるようにと迫らなかったことについて、「我々が当然ながら期待していた真の指導的役割を果たさなかった」と非難した。トルコは努力を重ねて次のように認めるべきだった。「我々は間違いを犯した。(・・・)しかし今後どうすればアメリカの役に立つ存在になることができるのか考えてみよう」と(19)。ウォルフォウィッツは「中東の民主化」を目指す十字軍の中心人物の一人とみなされているだけに、この発言は注目に値する。

 「古いヨーロッパ」に対するアメリカ政府の怒りには、単に民主主義に対する侮蔑という以上に根深いものがある。旧大陸の統合に関し、アメリカは常に曖昧な立場をとってきた。今から30年前、ヘンリー・キッシンジャーは「ヨーロッパの年」と銘打った演説の中で、ヨーロッパがアメリカの定める「世界秩序の全体的な枠組み」の中で「地域的な責任」を果たすようにと助言している。独自の道を行くことは、とうの昔に禁じられていたのだ。同じ要請が今では東アジアにも向けられている。膨大な資源と近代的な工業経済によって世界で最もダイナミックな成長を遂げているこの地域もまた、アメリカの規定する世界秩序に異議を唱えようという考えを抱くかもしれない。だがこの秩序は永遠に、必要なら軍事力をもってしても、維持されなければならないのである。

(1) George W. Bush, The National Security Strategy of the United States of America, Washington, 20 September 2002. http://www.whitehouse.gov/nsc/nss.html
(2) John Ikenberry, Foreign Affairs, New York, Sept.-Oct. 2002.(『論座』2002年11月号)
(3) 27カ国における調査。Cf. << A Rising Anti-American Tide >>, International Herald Tribune, Paris, 5 December 2002.
(4) The Wall Street Journal, New York, 27 January 2003.
(5) Michael Gordon, The New York Times, 18 March 2003.
(6) 「先制」戦争が法的に認められる否かは、危険の切迫や行動の必要性を示す物的証拠の有無による。予防戦争は反対に、差し迫った侵略の懸念ではなく、もっと遠い恐怖、戦略上の脅威に根拠を置く。リチャード・フォーク「人質にとられた国連」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年12月号)参照。
(7) Los Angeles Times, 23 March 2003.
(8) Thomas Friedman, The New York Times, 7 June 1991.
(9) Thomas Friedman, op. cit. and Alan Cowell, The New York Times, 11 April 1991.
(10) Thomas Friedman, The New York Times, 4 June 2003.
(11) Linda Rothstein, Bulletin of the Atomic Scientists, Chicago, July 2003.
(12) Elisabeth Bumilier, The New York Times, 2 May 2003.
(13) Jason Burke, The Observer, London, 18 May 2003.
(14) Jeanne Cummings and Greg Hite, The Wall Street Journal, 2 May 2003 ; Francis Clines, The New York Times, 10 May 2003.
(15) Program on International Policy Attitudess, University of Maryland, 18-22 April 2003.
(16) Dana Milbank, The Washington Post, 1 June 2003.
(17) Guy Dinmore and James Harding, Financial Times, 3-4 May 2003.
(18) Thomas Friedman, The New York Times, 9 February 2003.
(19) Marc Lacey, The New York Times, 7-8 May 2003.


(2003年8月号)

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