保護主義と自由貿易をめぐる歴史的考察

チャン・ハジュン(Ha-Joon Chang)
ケンブリッジ大学経済政治学部教授
著書 Kicking Away the Ladder. Development Strategy in Historical Perspective,
Anthem Press, London, 2002(2003年度グンナー・ミュルダール賞受賞)

訳・佐藤健彦

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 自由貿易こそ経済発展の決め手であるという見解は、国際通貨基金(IMF)、世界貿易機関(WTO)、世界銀行などの国際機関やEU機関の共通の了解事項となっている。しかし経済史を振り返れば、それがなんの根拠もない神話にすぎず、アメリカやイギリスをはじめとする自由貿易主義諸国が保護政策によって力をつけた後、今になってそれを糾弾するようになった事実が明らかとなる。[フランス語版編集部]

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 自由貿易主義者は過去20年にわたり多大な勝利を収めてきた。1982年に債務危機が起こり、国際通貨基金(IMF)と世界銀行が構造調整プログラムを強要して以来、多くの途上国は貿易を大幅に自由化してきた。91年に共産主義が崩壊すると、広大な自由貿易地域が新たに出現し、90年代には、カナダとアメリカとメキシコからなる北米自由貿易協定(NAFTA)など、多くの重要な地域協定が結ばれた。さらに最後のとどめとして、94年にガット(関税と貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンド交渉がマラケシュで妥結し、95年には世界貿易機関(WTO)が生まれている。

 いかに大きな成功を収めようと、自由貿易主義者たちはまだ満足していない。彼らは先進国を筆頭に、WTO体制の中で、さらに関税を大幅かつ迅速に引き下げるように、またWTOの権限を外国投資や競争法など当初は予定されていなかった分野にまで広げるようにと圧力をかけ続けている。

 自由貿易主義者たちは、歴史が味方だと信じている。彼らは先進国の繁栄の源が自由貿易政策にあると言い、このように効果が立証済みの方法を採用しようとしない途上国を批判する。しかし、これほど事実からかけ離れた主張もあるまい。紛れもない歴史的事実として、今日の先進国はまだ発展途上にあった頃、自分が現在推奨している政策をほとんど実施していなかった。そして、この歴史的事実と神話のギャップが最も著しいのが、イギリスとアメリカの事例である。

 まずイギリスについて見ると、自由貿易の模範例というイメージにはほど遠い。それどころか、戦略的産業の保護と育成のための統制政策をかなり強引に進め、また一部の分野については最初にこれを始めたのがイギリスだった。そのような政策は、範囲こそまだ限られていたとはいえ、14世紀(エドワード3世の時代)から15世紀(ヘンリー7世の時代)の代表的産業であった毛織物工業の時代までさかのぼる。当時、イギリスはオランダへ原毛を輸出する立場にあったが、歴代の国王はこの状況を変えようとして、国内業者の保護措置、原毛の輸出への課税、オランダの熟練工の「引き抜き」などを行っていた(1)

 初代首相ロバート・ウォルポールによる1721年の貿易政策改革から1846年の穀物法廃止までの時期、イギリスはきわめて関与主義的な貿易政策を実施した。この間イギリスは積極的に関税保護措置をとり、輸出品への投入資源にかける輸入関税を引き下げ、輸出品については国による品質管理などを行った。今日では日本その他、東アジア諸国のものと思われている政策である。

 イギリスは1846年の穀物法廃止とともに自由貿易に向け、不完全ながらも決定的な一歩を踏みだした(2)。この措置は一般的に、古典的自由主義が固陋な重商主義に対して最終的に勝利したものと考えられている。しかし、この時代を専門とする一部の歴史家は、これを「自由貿易帝国主義」の行為とみなし、その狙いは「農産物と原材料の市場を拡大することで、大陸の工業化に歯止めをかける」ことにあったとする(3)。この主張は、リチャード・コブデン議員のような当時の穀物法廃止論者たちにも共通する。

 つまり、優れた経済史学者ポール・ベーロシュが言ったように、イギリスの自由貿易への転換を可能にした技術的優位は、通説とは反対に「長期にわたって維持された高関税障壁の陰で」獲得されたのである(4)。間違って「幼稚産業」保護論の創始者とされる19世紀ドイツの経済学者フリードリッヒ・リストも同様の観点から、イギリスが自由貿易を唱えるのは、一番上までたどりついた人間が梯子を蹴りとばし、他人が追ってこられないようにすること(kicking away the ladder)と同じだと述べていた。

20世紀初めまでの関税率

 イギリスが大規模な幼稚産業育成戦略を成功裏に開始した国だとすれば、この戦略の論拠を最初に構築したのは、ポール・ベーロシュが「保護主義の祖国であり牙城である」と呼んだアメリカである(5)。その論者にはアメリカの初代財務長官アレクサンダー・ハミルトン(1789-95年)や、現在は忘れられている経済学者ダニエル・レイモンドなどがいる。近代の幼稚産業保護論の生みの親とされるフリードリッヒ・リストがこの理論について知ったのも、1820年代にアメリカに亡命していた時だった。アダム・スミスやジャン=バティスト・セーなど当時の著名な経済学者は、アメリカが自国の製造業を保護せず農業に専念すべきだと論じたが、19世紀のアメリカの多くの知識人や政治家には、自由貿易が自国向きではないことがよく分かっていた。

 1830年代から第二次世界大戦終結までの間、アメリカは輸入工業製品に世界有数の高関税をかけていた。アメリカが1870年代まで高額の輸送コストによる「天然」の保護を享受していたことを考え合わせれば、この国の産業は1945年まで文字通り最大限に保護されていたと言える。1930年に作られたスムート・ホーレー関税法も、アメリカ経済の保護主義のレベルを少しばかり引き上げたにすぎない。同法に基づく平均関税率は48%と高いとはいえ、南北戦争以来のアメリカの平均関税率から突出したものではない。1913年から29年にかけての短い「自由時代」に比べれば保護主義の強化と言えるが、とはいえ上昇率は平均で37%から48%と11%にすぎない。

 こうした背景のもと、南北戦争が奴隷制廃止と少なくとも同程度に、関税問題をめぐる戦争でもあったことに留意しなければならない。これら二つの問題のうち、南軍は奴隷制廃止以上に関税問題を脅威と感じていた。エイブラハム・リンカーンは、インフラ整備と保護主義に依拠する「アメリカ方式」を唱道していたホイッグ党のカリスマ的政治家ヘンリー・クレイ(6)のもとで政治を学び、貿易保護主義者として知られていた。これが「アメリカ方式」と呼ばれたわけは、イギリスの国益に合致するのは自由貿易の方だったからである。しかもリンカーンは、黒人が人種として劣等であり、その解放の提唱はすぐに実現される見込みのない理想にすぎないと考えていた。奴隷をただちに解放せよと主張する新聞論説に応えて、リンカーンはこう書いている。「もし奴隷を解放せずに北軍を救えるのならそうするだろう。また、もし奴隷を全員解放することで北軍が救えるのなら解放するだろう。そして、もし奴隷を一部だけ解放して他をそのままにしておくことで北軍を救えるなら、そうもするだろう(7)」。1863年1月1日の奴隷解放宣言の布告は、道徳的信念によるものではなく、内戦に勝つための戦略の一環であった。

 アメリカが(19世紀半ばのイギリスほど明瞭ではないながら)貿易を自由化し、自由貿易の旗手となるのは、産業上の優位を確立した第二次世界大戦後になってからだ。ここでもまた、F・リストの見立ての正しさが証明される。南北戦争の英雄で1868年から76年まで大統領となったユリシーズ・グラントの次の言葉にも、その後の変化の予兆を見てとることができる。「イギリスは何世紀もの間、保護貿易に依拠し、これを徹底的に推進し、満足のいく結果を引き出してきた。2世紀後、もはや保護貿易から得るものはないと考えたイギリスは、自由貿易を採用する方が都合がいいと考えた。そこでだ、紳士諸君、わが国についての私の所見から言えば、アメリカもまた200年以内に保護貿易から得るものはなくなり、自由貿易を採用するようになるだろう(8)

 同様のことは他の先進国の歴史にも言える。より先を行く諸国に追いつこうとしていた時代、ほとんどの国が関税保護や補助金などの措置による自国産業育成策をとった。興味をそそることに、関税保護を最も積極的に使ったのはフランス、ドイツ、日本のように国家介入主義的とされる諸国ではなく、自由貿易の牙城とみなされているイギリスやアメリカであった。19世紀から20世紀初めまでの関税率は、フランスやドイツでは相対的に低く(15%から20%)、日本では不平等条約のあった1911年まで最大5%にとどまっていた。同じ時期、工業製品に対するアメリカとイギリスの関税率は平均40%から50%のレベルにあった。

 こうした歴史に当てはまらない唯一の例外がスイスとオランダである。ただしこれらの国は、18世紀の時点で技術先進国となっていたため、強力な保護策を必要としなかった。また、オランダが17世紀まで様々な介入政策を展開して、貿易および海洋上の優位を築こうとしたことも指摘しておく。スイスの場合、1907年まで特許法が存在しなかった。この事実は、現在の主流派が論ずる知的所有権保護の重要性を一笑に付すものだ。さらに興味深いことに、オランダは1817年の特許法を1869年に廃止している。特許というのは国家によって作られる独占であり、自由市場の原理にそぐわないとの理由からだ。こうした考え方は、WTOの知的財産権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS)を支持する自由貿易主義の経済学者たちには見受けられないように思われる。オランダが新たに特許法を設けたのは1912年のことである。

 関税保護は、多くの国にとって発展戦略上の重要な要素ではあったものの、唯一の要素でも必ずしも最重要な要素でもなかった。輸出補助金、輸出産業が必要とする輸入品に対する関税の緩和、独占の付与、企業カルテル、政策的融資、投資や労働力の計画的利用、研究開発の支援、官民協力推進機構の奨励など、数々の手段が用いられてきた。これらの措置は第二次世界大戦後に日本や他の東アジア諸国によって生み出されたと思われがちだが、その多くには長い歴史がある。さらに、先進諸国では同じ原則を共有するとはいえ、貿易分野と産業分野のポリシー・ミックスはきわめて多彩である。自由貿易主義の経済学者の大半が信じるところとは反対に、産業発展のモデルは一種類に限られないのだ。

自由化時代の経済成長

 今日の先進国が過去に保護主義政策をとっていたことを知るごく少数の学者によれば、そうした政策は好ましい効果をいくらか(ほんのわずか)もたらしたかもしれないが、グローバル化された現代の世界では有害になっている。貿易自由化が進められた最近20年間の経済成長率を見れば、自由貿易が優れていることがよくわかるという。先進国が保護主義政策をとっていた過去数十年間に比べて経済成長率が高かったというのだが、彼らにとっては残念なことに、これは事実とかけ離れている。

 もし自由貿易にそれほど効果があるのなら、貿易の自由化措置が進められた最近20年間の成長率はそれ以前より高いはずである。しかし、事実がどうだったかと言うと、保護や規制が今よりも多かった1960年代から70年代にかけ、世界経済は現在よりずっと速いペースで成長していたのだ。世界の一人当たり所得は、この「昔の悪い時代」には年3%程度の割合で増えていったが、この20年間の成長率は2.3%にすぎなかった。一人当たり所得の成長率を1960-80年と1980-99年で比べると、先進国では3.2%から2.2%に下がり、途上国では3%から1.5%に半減した。この20年間の平均成長率については、自由主義の処方箋に従ったとはとても言えない中国とインドの高成長を除外すれば、さらに低くなっていただろう。

 その上、この数字は過去20年間に多くの途上国を襲った危機の深刻さを十分に伝えていない。この間、中南米では、1960-80年には3.1%あった一人当たり所得の成長率が0.6%のゼロ成長にまで落ち込んだ。同様の急下降は、中東・北アフリカにも(年間2.5%からマイナス0.2%へ)、サハラ以南のアフリカにも(年間2%からマイナス0.7%へ)起こった。旧共産主義国の多くは資本主義の導入を始めて以来、現代史に類がないほど急激な生活水準の低下を見た。

 端的に言って、過去20年における新自由主義の実験は、急速な成長という最大の約束を果たすことができなかった。だが、公平性から環境まで他のすべてを犠牲にすることを求められたのは、そのためだったはずだ。この惨憺たる失敗にもかかわらず、自由貿易の美徳という新自由主義の教義は、中世ヨーロッパの法王庁ぐらいしか比べるもののないほどの規模と権力を備えた経済的、政治的、思想的装置のおかげで、今なお圧倒的な力を保っている。

 新自由主義者たちは、アメリカやイギリスを筆頭に大きな影響力を持つ先進国の政府を掌握しており、それを通じて多国間機関、中でも「三位一体」のIMF、世界銀行、WTOの政治的な問題設定に甚大な影響を及ぼすことができる。彼らは世界中の主要メディアを意のままに左右することで、悲惨な成長率をはじめとする不都合な情報を小さく見せ、場合によっては握りつぶしてきた。世界中の有名大学の経済学部で重要なポストを占める彼らは、反対派の経済学者がそこに入り込んで大学の名声を利用したりしないようにと目を光らせている。

 途上国では新自由主義の締め付けがさらにひどい。多くの途上国政府はIMF、世界銀行、また主要融資国からの資金援助なしでは立ちゆかず、たとえそれが経済依存の元凶にある開発危機を引き延ばすだけにしかならなくても、彼らの政策に従わざるを得ない。また、この政策に関しては、一次産品の輸出業者や外国企業相手の専門サービス業者など、現地にも強力な利益集団がある。途上国の知識人は主流派に挑戦する自信を失っているため、現状に代わる政策の提案はますます出にくくなっている。向こう側に寝返る知識人もいる。IMFや世界銀行の顧問料が、途上国の大学教員の給料の数年分になることを考えれば、それも不思議ではない。

 このように政治的および知的な問題設定を支配する新自由主義者にとって、彼らを批判する者たちは、長期的な万人の富裕化のための短期的な不平等の創出を恐れる小心な軟弱者にすぎない。さらに言えば、現在の事態を理解できない経済音痴でしかない。こんなふうにして、真剣な議論は回避され、反対派は組織的に無視され、新自由主義の支配が強化されてきた。

WTOの二つの道

 以上をふまえると、自由貿易の将来はどうなるだろうか。自由貿易主義者が言うこととは反対に、生産力に大きな差がある国の間で自由貿易を行えば、貧しい国は短期的には輸出市場が拡大するという利益を得るが、長期的には生産性の低い分野に釘付けになって発展を阻害されてしまうと考えられる理論的根拠がある。18世紀のウォルポールやハミルトンから1960-70年代の日本や韓国の官僚まで、自分たちの先を行く国に追いつこうとしていた国々で自由貿易路線をとろうとしなかった政策決定者は、このことをよく知っていた。

 生産力に大きな差がある国の間で結ばれる自由貿易協定は、やがて貧しい国の方がそれでは発展につながらないことに気付くため、長期的には失敗することになる。加盟国の多くが途上国である南米南部共同市場(メルコスル)や東南アジア諸国連合(ASEAN)など(9)、発展レベルがほぼ同じ国々の間で結ばれる自由貿易協定の方が、ジョージ・W・ブッシュがなんとしても推進しようとする米州自由貿易圏(FTAA)より成功する可能性が高い。F・リストは、ドイツ関税同盟を支持しながら「幼稚産業」の保護を唱えることに、まったく矛盾を感じていなかった。ドイツ諸邦の発展レベルは十分に接近していると考えたからである。

 発展レベルに大きな差がある国の間の自由貿易協定がうまくいく唯一の方法は、欧州連合(EU)のように、豊かな国から貧しい国への富の移転が制度化され、貧しい国から先進地域へ労働力が移動するタイプの統合である。これが実際に可能になるのは、貧困国が小規模で、富裕国に比べて少数の場合に限られる。さもなければ、富裕国は協定を結んでも割に合わないと感じることだろう。EUの拡大がトルコやウクライナの手前で終わる見込みが高いのも、こうした理由による。

 WTOは途上国の産業に関して一定の保護を認めており、完全な自由貿易協定となるには至っていない。しかしながら、2015年までにすべての関税を撤廃するというアメリカの提案のように、大きな関税引き下げ圧力が働いている。もしそうした方向に動けば、WTOはNAFTAやFTAA以上に途上国の発展を妨げるものとなるだろう。これらの協定にもまして加盟国の生産力の差が大きいからだ。

 この機構は従来の自由貿易協定と比べ、知的所有権、政府調達、投資など、従来の自由貿易協定よりもはるかに広い分野にわたっている。そのため、途上国にとって危険も増えている。それでも、途上国の多くはWTOへの加盟を望んでいる。WTOは理論上は一国一票制をとっているため、国際貿易体制の運営に自分たちの意見を反映させることができると考えられ、次善の選択とみなされているからだ。また、アメリカをはじめとする先進国からの貿易自由化に向けた二国間協議を求める圧力に対し、WTOによって最低限の保護が得られるという利点もある。

 WTOの実態に対する途上国の不満を考えれば、こうした状況は長続きしないかもしれない。表向きは「民主的」とされるWTOは、実際には一握りの先進国によって運営されている。先進国には弱小国をなだめたり脅したりする裏の力があるというだけではない。それなら、力に差がある者から構成される民主制にはよく見られることだ。WTOの問題は、先進国が見せかけすら取り繕おうとしていないことである。例えば、いわゆる「グリーン・ルーム」の会合には途上国は出席を求められず、中に入ろうとすればドアの前で制止される。

 もしこんなふうに途上国から経済発展の手段を奪い続けるなら、彼らが大挙してWTOを脱退する可能性もある。あるいは逆に、WTOの民主的な決定手続きを最大限に利用して、基本事項の再交渉を迫るかもしれない。その場合には、近年とみに単独主義の傾向を深めているアメリカをはじめとする大国は、投票で負ける前に脱退することを選ぶかもしれない。どちらに転ぶにせよ、これまでの自由貿易体制は終わりを迎えることになるだろう。しかし、過去20年間の嘆かわしい成果からすれば、それは必ずしも不幸なことではあるまい。

(1)『ロビンソン・クルーソー』の作者ダニエル・デフォーは、現在ではほとんど忘れられている書物『イギリス経済の構図』(1728年)の中で、チューダー朝、特にヘンリー7世(在位1485-1509年)やエリザベス1世(在位1558-1603年)が国家の計画的な介入を通じて、長らくオランダへの原毛の輸出に甘んじていたイギリスを世界一の毛織物大国に作り替えた経緯を記述している。
(2) 一連の穀物法は地主階級の後押しにより、産業資本家や都市ブルジョワ層の反対にもかかわらず、1815年に議会で可決され、大陸からの穀物輸入に高率の関税をかけた。
(3) Charles Kindleberger, << Germany's Overtaking of England, 1806 to 1914 >>, in Economic Response : Comparative Studies in Trade, Finance and Growth, Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, 1978.
(4) Paul Bairoch, Economics and World History - Myths and Paradoxes, Wheatsheaf, Brighton, 1993.
(5) Ibid.
(6) ヘンリー・クレイは1817年創設のアメリカ植民地委員会の幹部で、解放奴隷のための国をアフリカに作ることを発案した。1820年に始まる西アフリカ共和国に新たに付けられた「リベリア」の名はここに由来する。
(7) John Garraty and Mark Carnes, The American Nation. A History of the United States, 10th edition, Addison Wesley Longman, New-York, 2000.
(8) Ibid.
(9) メルコスルにはアルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、そしてウルグアイの4カ国が加盟している。ASEAN自由貿易協定にはブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー(ビルマ)、フィリピン、シンガポール、タイ、ヴェトナムの10カ国が参加している。この中でシンガポールだけが真の先進国で、ブルネイの富はひとえに石油による。


(2003年6月号)

* 小見出し「WTOの二つの道」直前の段落のタグごみを除去(2005年10月2日)

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