サウジアラビアが直面する外患と内憂

アラン・グレシュ特派員(Alain Gresh)
ル・モンド・ディプロマティーク編集長

訳・近藤功一

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 5月16日、モロッコのカサブランカで連続テロが起こり、40人以上の死者を出した。その数日前には、サウジの首都リヤドの中心地を狙った自爆テロにより、34人が犠牲となった。米軍のイラク侵攻は、紛れもない成果があったとは言い難いばかりか、過激派グループを刺激することになると予測されていたが、こうした暴力の奔流はそれを裏づけるものとなっている。新アメリカ帝国は、かつてない苦境に立たされているのだ。サウジアラビアでは、2001年9月11日以降アメリカと緊張関係にある中で、政府に対する社会的な圧力が強まりつつある。急進化したイスラム主義勢力に加え、少数派のシーア派などが訴える改革と開放という社会的な要求に、サウジ政府は対処していかねばならない。[フランス語版編集部]

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 両国の関係は順風満帆だった。しかしながら、サウジアラビア皇太子は米大統領に宛て、きわめて率直なメッセージを送りつけた。「もし私が貴方の立場だったら、我が国に置いた軍事基地を自主的にたたむことでしょう。必要となれば、また使わせてさしあげますから」。数年来、サウジ東部のダーラン米軍基地の存在は、中東全域で激しい非難の的となっていた。数年来というのは1960年の終わり、ケネディ大統領がファイサル皇太子からこの書簡を受け取った時のことである。それから数カ月後、アメリカはダーランから引き揚げることになる。

 サウジのある王子が語ったこのエピソードは、2003年末までに米軍がプリンス・スルタン基地から撤退するという決定に手がかりを与える。この決定は最近発表され、専門家が解釈に躍起になっている。両国の関係が根本的に見直されつつあるということなのか、と。

 我々の取材相手は、そのようなことはないと一蹴する。「1991年のこと、サダム・フセインは敗北しても依然として脅威だった。イラクに飛行禁止区域を創設することが決定され、アメリカ、イギリス、フランスが作戦に参加した。我々もサフワン合意に調印し、これら諸国の戦闘機が領内から飛び立てるようにした。それは、厳密な意味での『基地』とは異なっていた」。この王子は微笑みを浮かべて言葉を続けた。「しかし、我々には秘密主義がある。国民にはそのような説明はしていない。多くの者は、我々が米軍基地を常設したのだと素直に信じ込んできた」

 50年代には、ダーランの基地がアラブ民族主義者の批判の的となっていたが、90年から91年の湾岸戦争後は、サウジに展開する約4500人の米軍兵士が、急進イスラム主義組織やウサマ・ビン・ラディンの標的となった。95年11月、そして96年6月には米兵を狙ったテロが発生している(1)

 フセイン政権の崩壊以後、アメリカとサウジは、米軍の存在に対する国民の反発を考慮せざるを得なくなった。この反発は、第二次インティファーダの弾圧に直面するパレスチナ人への連帯意識によって、いっそう増幅されている。とはいえ、今回の米軍撤退が、両国政府の軍事協力の終焉を意味するわけではない。基地がアメリカに提供されていることに変わりはない。アメリカ人の軍事顧問は増員される見込みで、2001年夏以来開かれていない共同参謀会議も再開されることになっている(2)。サウジ政府の説明によれば、1990年以前は米軍基地というものはなく、「彼方に見える」米軍の存在が王国の安全を保障していた(3)

 公式には否定されているが、イラク戦争の最中にサウジがアメリカに対して密かに、しかし効果的な支援を行っていた事実も、両国の共謀関係を証明するものだ。開戦前の数週間に、王国内の米兵数は1万人近くに達し、プリンス・スルタン基地は航空作戦の総司令センターとなっていた(4)。これと並行して、サウジ北西部のアラール、タブーク両基地には精鋭部隊が配備され、ここを拠点としてイラク国内への軍事行動が遂行された。「サウジの支援なしには、対イラク戦争をこんなふうに運ぶことはできなかっただろう」と、ある米外交官は簡潔に述べた。

 「イラクへの侵略を糾弾する」というサウジの公式見解と、実際の行動の間に横たわる矛盾は、フランスの立場に対する二面性にも表われている。世論はアメリカの命令への屈従を拒否するフランスを盛大に歓迎したが、政府レベルでは非難を繰り返した。あるサウジ高官はこう説明する。「イラクに関する第二の安保理決議への賛同を拒否することによって、フランスはアメリカを一方的軍事行動に追いやった。アメリカは国連の束縛から抜け出てしまい、もはや彼らを抑えるものはいない」。もし決議が成立していたらアメリカ支援に法的根拠を見出せたか、という点に関しては、彼は明言を避けた。サウジは決議なしに、「離れ業」に挑まざるを得なかった。

 選択肢は存在しなかった。2001年9月11日以後、王室がとれる政策の幅は狭まった。15人のサウジアラビア人がテロに関与していたという事実は、アメリカ世論を動揺させた。サウジはイスラム主義テロの主要輸出国と化したとして、激しい非難の的となった。アメリカのジャーナリストたちは血眼になって調査を進め、サウジが民主国家ではなく、人権が尊重されておらず、女性がベールの着用を強制されていることを発見して仰天した。新保守主義者やキリスト教原理主義者に近い有力者たちは、イラクの次の標的をサウジとすることを求め、さらには国を分割し、石油産出地域の東部に「シーア派共和国」を創設せよとさえ訴えた。

相互の無理解

 このような状況下で、サウジがイラクに関してアメリカの要求に「ノー」と言うことは自殺行為であったし、1945年2月14日に引かれたサウジ外交の基本路線を揺るがしかねなかった。この日、スエズ運河の大ビター湖に浮かぶUSSクインシー艦上で、王国の創設者イブン・サウード王とルーズヴェルト米大統領が会見した。以降、確固たる共通の利害の上に立った長期的な同盟が形作られていくことになる。イブン・サウード王は王国の領土を保全するために、アメリカを後ろ盾にしようとした。40年代はハシミテ家の、50年代はナセルの野望に対抗し、79年以降はイラン革命の侵入を防ぐ必要があった。この「保証」は90年8月、50万の米兵がクウェート侵攻後にサウジに上陸するという形で具現される。このような保証が他のいかなる国からも得られないことを、サウジ上層部は熟知している。

 アメリカにとって、サウジへの関心は第一に石油である。1938年、同国で初めて石油が発見されたのは、米企業によるものである。世界の埋蔵量の25%を擁するサウジは、瞬く間に主要輸出国となり、欧米に安価な石油を送り込んできた。必要とあらば、日量数百万バレルの追加供給を実現できるのも、唯一サウジだけである。9・11以降、そしてイラク危機の間、サウジは大幅な増産を実施した。向こう10年間、イラクも含め他のいかなる国も、このような役割を果たすことはできないだろう。

 ある知識人はこう主張する。「しかし、サウジとアメリカの同盟関係を『石油と引き換えの安全保障』という取引に限定することはできない。冷戦時代を通じて、サウジは反ソ陣営で特別な地位を占め、およそイスラム的とは言い難いアンゴラのUNITA(全面独立民族同盟)やニカラグアのコントラ(反革命軍)にも資金援助を行っていた。アフガニスタンではムジャヒディン支援において重要な役割を果たし、80年代のソ連敗退に大きく貢献することになる。しかし、ソ連の崩壊とともに、サウジの役割の一部は失われてしまった」

 9・11によって、それまでごく少数の政府関係者によって処理されてきた両国間の問題が、にわかに公のものとなり、相手に対する相互の無理解が、ありとあらゆる誤解を生み出している。リヤドにあるキング・サウード大学で文芸批評を講ずるアブドルハミド・アル・ガサミ教授は、ジャック・デリダやミシェル・フーコーを好んで引用する。アメリカ文化についての本も書いている彼は、この国で90年代に自分が目撃したことを驚きをもって語る。

 「アメリカ人はサウジのことを何も知らない。ベドウィンが暮らす砂漠の国ぐらいに考えているのだ。都市があることも知らなければ、中間層が存在することも知らない」。アル・ガサミ教授は言葉を継ぐ。「9・11以降、彼らは我々のことを悪の権化と見なしている。サウジ社会全体をテロリズムと同一視しているのだ。日本赤軍のテロ行為に対し、日本全体の責任を問うようなことがあっただろうか。こうした短絡がテロリズムを助長させるのだ。というのも、アメリカが標的にしているのはテロリズムではなく、我々の社会全体であり、アラブでありイスラムであると、急進派組織に言わしめることになるからだ。そのうえアメリカからは、メッカに原爆を落とせと主張したり、預言者ムハンマドをテロリストと決め付けるような声さえ聞こえてくる」

 9・11の犠牲者の600の遺族により、サウジを中心として相当数の有力者が告訴されている。その中には強大な力を持つ国防相スルタン王子の名前もある。請求額は1兆ドルに及ぶ。告訴の対象は最近、サルマン・アル・アワーダハ師、サファル・ハワーリー師などの有力な急進的宗教指導者にも拡大された。4500億ドルと見積もられるサウジの対米投資は、今や迫りくる危険に晒されている。押収の可能性である。大幅な引き揚げという噂には根拠がないように思われるにせよ、追加の投資は保留されている。その結果、リヤド株式市場と不動産のブームが起こっている。現在のサウジ王国は石油の海に浮かんでいるだけでなく、だぶついた資金の大海の上を漂っているのだ。

 サウジはイメージ回復に向け、大々的な広報キャンペーンに乗り出し、2002年上半期には1460万ドルをコルヴィス・コミュニケーション社に支払っている。あるサウジの実業家はこれを「無意味な出費」と切って捨てた。それよりも効果的なのは、アブドラ皇太子の取り組みである。彼は2002年3月、ベイルートで開催されたアラブ首脳会議の席で、パレスチナ国家の創設と引き換えにイスラエルとの包括的和平を受け入れるという大胆な和平案を承諾させた。イラク戦争中は「密かな協力」を進めて米国防総省のタカ派を牽制した。米軍がイラクと湾岸各国に軍事基地や施設を手に入れた現在では、タカ派もサウジを「手放す」つもりになっている。

 「我々は長い間、9・11の衝撃がアメリカ社会にとって何であったのかを理解しなかった」と、あるサウジ高官は認めている。内務省高官の中には事件から半年後もなお、サウジ国民の関与を示す証拠の存在をぬけぬけと否定する者もいた。公式見解が変わった後も、庶民は米政府に対して距離を置いた感情を持っており、以前より自由にものを言えるようになった新聞も同様の論調を示している。これまでも好意に支えられていたわけではなかったアメリカとサウジの関係は、深い不信感に染められるようになった。

「ジハード組織」の社会的土壌

 シャルク・アル・アウサト紙グループの役員で、マジュリス・アル・シューラ(諮問評議会)の議員でもあるアブドル・モフセン・アル・アッカース氏も、それを認める。「サウジアラビア人はアメリカへ行くことを尻込みし始めている。様々な風説が飛び交っており、虐待を受けたという話もある。乗り継ぎ客は拘束され、計画とやらの遂行を阻むべく、予定の便に乗れないようにされるという。こうした話の信憑性をどうやって確かめればよいものかね」

 サウジの人々はそれを身をもって確かめることができる。ビザ取得の所要時間は長くなり、アメリカの入国管理はいっそう厳しくなった。不安感が覆い、アメリカ行きを躊躇させる。学生はカナダ、オーストラリア、そしてヨーロッパに移っていく。メディアはグアンタナモに拘束されている130人のサウジアラビア人について、アメリカの標榜する理想に全く反する取り扱いを受けていることを伝える。さらに、パレスチナ人の蹂躙を目の前にして、最も「西洋化」した者も含めてサウジ中が憤慨していることを考えれば、アメリカ製品の不買運動の呼びかけが広がっているのも当然である。とはいえ、アメリカ煙草やマクドナルドのようなフランチャイズ店を別とすれば、その効果のほどについては何とも言い難い。

 両国関係の決定的な試金石となるのは、テロ対策だろう。しかしながら、この問題は一筋縄ではいかない。サウジのあるジャーナリストはこう説明する。「過去数十年間、サウジ王国は独特の厳格なイスラム主義の拡大に努めてきた。アフガン戦争はその最たるものだった。冷戦の終焉とともに、それまでに張り巡らされた支援ネットワークは『用無し』となってしまった。そこで一部の者は、別の『異教徒』たるアメリカに対する戦いに身を投じた」

 1990年から91年の湾岸戦争の直後、サウジ政府は援助先の整理を開始した。それまで支援してきた組織の中に、サダム・フセインを支持していたものがないかどうか。送金は、高位宗教指導者からなる大ウラマ評議会に任されていたが、議長のアブドルアジズ・ビン・バズ師は送金先の性質については無頓着だった。彼は93年7月、閣僚待遇の大ムフティ(イスラム法学の最高権威)に任命され、資金援助に関わる権限は、新たに創設されたイスラム指導省に移されることになった。しかしながら、この新設の国家機関も有能とは言い難く、現行制度にはまだ多くの欠陥が認められる。

 9・11以降、アメリカは執拗に圧力をかけている。「送金先を追跡するための協力体制が敷かれ、両国にとって有用なものとなっている。我々はこれに沿った新法を準備している」と、アル・アッカース議員は言う。5月中旬、サウジ当局は、米政府より再三問題にされてきたアル・ハラマイン財団の海外事務所を閉鎖すると発表した。海外送金の管理は厳格になった。米政府もこれを前進としつつ、サウジが「まだ徹底的な対策をとるには至っていない」と述べている。

 治安問題以上にサウジ政府が取り組まなければならない課題、それは社会問題である。2003年5月13日のおぞましいテロ以前から、「ジハード組織」の勢力拡大を許すような土壌があることを非難する声もあった。

 マンスール・アル・ヌジダン氏の細い眼鏡の下には、皮肉な視線が隠されている。彼は1970年、王国発祥の地であるネジド地方の非常に保守的な町、ブライダに生まれた。中学校を中退して宗教学校に通い、コーランを暗記した。そしてイスラム主義組織に接近していき、ビデオ店の放火未遂という形で「行動に移る」ことになる。投獄された彼は自らを省み、急進的宗教思想の手厳しい批判者となった。「我々の危機とは、何よりもまず思想の危機である。我々はテロ組織と関係がないと言い張っているが、これらの組織を育てる土壌は我々のうちに、ウサマ・ビン・ラディンや9月11日のテロさえも擁護する説教をする一部の宗教指導者たちにあるのだ」

 アル・ヌジダン氏は、いかなる異端者もタクフィールに処す、すなわち「破門」にするという風潮を非難する。彼自身も槍玉に挙げられ、4人の宗教指導者によって公に告発された。この「ジハードとタクフィール」の思想は、イスラム教国の政府機関に対する暴力手段も認めるところまで来ている。それが、テロリストと警察部隊との衝突が繰り返されるようになった原因である。何故、サウジ当局はこういった過激主義者たちを野放しにしているのか。彼はこう嘆息する。「新聞が一面に5段抜きで、警察の指名手配を受けた19人の(大半がサウジアラビア人の)テロリストの顔写真を掲載したのと同じ日、スレイマン・アル・アルワーン師に説教の再開が許可された。彼は公然とビン・ラディンの勝利を求め、トゥルキ・アル・ハミドとガジ・ゴサイビ(4)の『破滅』を呼びかけてきた人間だというのに」。タリバンを糾弾しておきながら、数千人のサウジアラビア人が2001年9月11日以降にアフガンに戦いに行くのを黙認するとは、一体どういうことなのか。

 「サウジ政権のどっちつかずの姿勢を理解するためには体制の根底にまで、つまり1744年にムハンマド・イブン・サウードと、宗教改革家ムハンマド・イブン・アブドルワッハーブの間で交わされた盟約にまで立ち返ってみなければならない」と、あるジャーナリストは説明する。「この合意によって、宗教界と政権の間で同盟関係が確立されるとともに、国事はサウード家が担い、宗教は宗教指導者層に任せるという線引きがなされた。この宗教指導者たちが奉じるハンバル派は非常に保守的なものだが、社会平和を何よりも重視しているため、散発的な危機もあったとはいえ、万事がうまくいっていた」

踏み越えるべき一線へ向かって

 そこに変化が起きたのは1960年代のことである。サウジ王国はエジプトのナセル大統領、アラブ民族主義者や進歩主義者に立ち向かわなければならなかった。しかし、サウジにはそれに対処できるほどの理論武装がなかった。そこで、アラブの進歩主義諸国で幹部が弾圧を受けていたムスリム同胞団を呼び寄せたのだ。サウジに腰を落ち着けた彼らは、教育機関を押さえ、伝統的な宗教指導者層に政治意識を植え付けていった。このワッハーブ派とムスリム同胞団の融合の中から、アフガン戦争の後、少数派ではあるが非常に活発な潮流が生まれた。「ジハードとタクフィール」を唱えるこの集団は、暴力的な手段へと傾いていく。先ほどのジャーナリストは言葉を続ける。「問題は、ジハード組織の主張と一部の宗教指導者の主張の間に、思想的な連続性があるということだ。それは、反西洋主義であり、キリスト教徒やユダヤ教徒への敵意といったことだ。サウジ王室は、宗教指導者層と対決せずしてジハード組織を壊滅させることができるのか。また、王制の宗教的正統性を問われずに済むものだろうか」

 2003年5月8日、サウジのすべての新聞の一面に、指名手配された19人のテロリストの顔写真が掲載された。手榴弾55個、爆薬377キロ、弾薬、偽造書類、変装用品などの隠匿が、警察の捜査によって発覚したからである。それまでは検挙の発表などされたためしがなかったのに、何故こうした突然の公表が行われたのか。「我が国にも過激思想が存在することを認めなければならない」と、日刊紙「アル・ワタン」は論説で書いている。2002年11月、内相であるナエフ王子は初めて公にムスリム同胞団を問題視した。しかしサウジ政権は、イラク戦争に先立って何人かのイマム(宗教指導者)の職を解いたものの、対決に入るのは躊躇した。最近になって、ナエフ王子は国内にテロリスト網が存在することを否定しているが、すでに数百人が検挙されていることも、様々な情報筋によれば容疑者のうち100人ほどはアル・カイダのメンバーだと見なされていることも、周知の事実ではないだろうか。

 30人以上の死者を出した5月13日のリヤドでのテロ事件は、ひとつの転機となるのだろうか。メディアの張った論陣を見ても、アブドラ皇太子の断固たる声明を聞いても、そう期待される。皇太子は言った。「我々は特に、宗教の名においてこれらの犯罪を正当化する者に対して警告する。それを試みようとする者は誰であろうと、テロリストの共謀者と見なされ、そのように取り扱われるだろう」。日刊紙「アル・ハヤト」の論説委員ダウード・アル・シェリヤンは、内相が今度ばかりは、これらの事件がサウジの社会や思想と無縁であるとは言わなかったことを歓迎し、次のように書いた。「我々の社会の中に『ジハード組織』への共感が存在することは、誰にも否定できない(6)

 テロ事件以後、サウジ政権はこの勢力を孤立させる絶好の機会を手にしている。この勢力は大きな力を持ってはいるが、新世代の間では衰退傾向にあるように見える。アル・ガサミ教授は以下のことを語ってくれた。「私は大学で最終学年向けの講義を行い、20年前から毎年50人の学生を見てきている。イスラム主義者は80年代半ばには6人ほどだったが、80年代後半から90年代初頭にかけて増え続け、やがて多数派となった。その後は減少が著しく、今年度の授業ではたった1人になった」。この退潮傾向は何によるものなのか。ひとつには幻滅だろう。アフガンの戦いから戻った多くの者は失望していた。中には、部族の手でアメリカに引き渡された者さえいる。それに加え、サウジは都市化し、世界に向けて開かれつつある。若者への精神的な影響力という面で、教育制度による独占は衛星放送やインターネットによって突き崩された。

 改革を告げる鐘が鳴ったのだろうか。まだ多くの抵抗勢力がある。宗教指導者層がいる。治安部門も含めた国家機関では、90年代にジハード組織の影響力が強まった。憎しみへの呼びかけによって毒された上に、イラクやパレスチナに対するアメリカの政策に憤慨した一部の民衆もいる。このような中、米政府の民主化要求は疑念をもって迎えられた。マジュリス・アル・シューラのある議員は次のように説明する。「アメリカの圧力は、我々のためではなく、彼らの利害に即したものでしかないと誰もが確信している。アメリカのせいで、開放を訴える者は信用を失い、外国の手先であるとして非難される」

 リヤドから10キロほど離れた休憩所に目を移してみる。椰子の木が植えられているこの大きな庭園では、経済学者アブドルアジズ・アル・ダヒル博士が講演している演壇の下に20卓ほどのテーブルが並べられていた。「全く初めてのことだ。初めて我々は『外に出て』、公共の場で会合を開いているのだ」と、参加者の一人が言う。そこにいる人々の多くは、1月にアブドラ皇太子に宛てられた通称「104人からの請願書」の署名者だ。自由主義者や穏健イスラム主義者が連署したこの請願書は、地方選挙を開催すること、マジュリス・アル・シューラの議員を選挙にすること、市民や少数派の権利を保障すること、女性の権利を拡大することなどを要求している。代表団がアブドラ皇太子から接見を認められたこともあり、この文書は大きな反響を呼んだ。

 「我々は時間との闘いに乗り出した。目の前には、次第に激しさを増す社会的、経済的、政治的問題がある」と博士は語り、貧困や失業者の増加、道を見失った若年層などの問題を挙げる。「我々はアメリカの巨大な圧力に晒されている。それには二通りのやり方で応えることができる。アメリカに近づき、美辞麗句を述べ、本題には触れない方法がひとつ。しかし我々自身で判断を下し、自由と人権の拡大に向けた改革に踏み出し、腐敗と闘っていくこともできるのだ。たとえ限られたものであろうとも、決定を迫っていこうではないか。マジュリス・アル・シューラの議員の4分の1は選挙にする、地方選挙を実施するなどだ。まだ踏み越えるべき一線までの道のりは遠いが、勇気をもってそれに向かって進んでいこうではないか」

(1) 1996年6月のアル・ホバールで起こった第二のテロ事件は、急進的シーア派グループによるものと見られている。アラン・グレシュ「サウジの対米軍テロをめぐる不協和音」(ル・モンド・ディプロマティーク1997年9月号)参照。
(2) アラン・グレシュ「サウジアラビア世論の芽生え」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年5月号)参照。
(3) イラク・イラン戦争の最終局面の1987年より、湾岸における米軍の駐留は著しく拡大された。
(4) Michael Dobbs, << US-Saudi Ties Prove Crucial in War >>, Washington Post, 27 April 2003.
(5) アル・ハミド氏はリベラル知識人。現在は水電力大臣となったゴサイビ氏もリベラルと見なされている。
(6) 2003年5月15日付。


(2003年6月号)

All rights reserved, 2003, Le Monde diplomatique + Kondo Koichi + Ikeda Asami + Saito Kagumi

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