チェチェンの二重世界

グウェン・ロシュ特派員(Gwenn Roche)
ジャーナリスト

訳・青木泉

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 ロシアのプーチン大統領は2003年5月16日の一般教書演説で、その直前の数日間に連続自爆テロにより75人の死者が出ていたにもかかわらず、従来の対チェチェン政策を堅持すると明言した。治安維持を現地民兵組織に移管し、チェチェンの大統領と議会の選挙を行い、このカフカスの共和国とロシア連邦それぞれの権限を画定する条約を結び、恩赦を付与するという。しかし、チェチェンの新しい世代に復讐心をかき立てているロシア軍の恐るべき暴虐については、この演説では一言も触れられていない。[フランス語版編集部]

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 チェチェンの首都グロズヌイに到着して最初に目を奪うのは、検問所でもなければ装甲車に乗った覆面の兵士でもなく、自動小銃の連続射撃や瓦礫の山、ぼこぼこにされた道路、雷に打たれたような木、えぐられた家屋、ずたずたにされた建物の正面、焼き討ちの跡でもない。結局のところこういったものは、いずれも戦争の光景であって、ある程度は予想していたことだ。驚かされること、それは人々の生活だ。このゴーストタウンの中の生活の形跡、人々の活動のしるし、不意に現れる生きた人間だ。そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、 この町で、壁にぽっかりと開いた大きな穴に干された洗濯物や、窓代わりに吊るされたシーツ、飲み物を売るスタンド、道路に並んだ陳列台などを見ると、どうにも不条理なもののように驚かされてしまうのだ。

 グロズヌイは今から3年あまり前、1999年9月から2000年3月にかけて大規模な爆撃にさらされた(1)。住民の大半は逃げ出したが、踏みとどまった者もおり、あるいは帰ってきた者もいる。廃墟のただ中で、生活は続いた。あちらこちらで、時には勢いを増しながら。廃墟そのままに、砕かれ、切り刻まれ、ずたずたにされた生活。

 この小さな地域にとって、ここ10年で2度目の戦争だ。最初の紛争は1994年から96年にかけてのこと、民間施設の多くが破壊され、10万人の死者が出るという惨事だった。

 チェチェンは一つの転換期を迎えているのかもしれない。大規模な軍事作戦、つまり町や村への大量爆撃は、平野部では2000年春以降やんでいるが、山間部(シャトイ地区、イトゥム・カレ地区、ヴェデノ地区)では今なお続いている。更に、この国は陰惨な「一掃作戦」の対象にされてきた。一般市民の中から「テロリスト」を探し出すという目的の下に、略奪、虐待、恣意的な逮捕、拷問、裁判抜きの処刑が行われてきた。1999年以降の民間人の犠牲者は約7万人と言われている。

 にもかかわらず、ロシア当局は事態の「正常化」を謳い、続行中の「対テロ作戦」に関しては、その正当性を自国世論と欧米諸国に納得させようとしている。2003年2月11日、プーチン大統領はフランスのテレビ局TF1のニュース番組で次のように言明した。「武装組織の基盤は壊滅させた。今日では、テロ行為に走るいくつかの孤立した集団、それが彼らにとって唯一の手段ということだが、そうした集団が残るのみだ。我々の仕事は彼らを掃討することである」

 その一方で、一般市民への暴虐行為は現在も続いている。ここ数カ月、とりわけ2002年10月に発生したモスクワのドゥブロフカ劇場での人質事件以後、ロシア連邦軍は「狙い撃ち作戦」を強化した。この恣意的な逮捕によって、つかまった者は消息不明となるか、裁判抜きで処刑されることになる。こうした作戦は夜間、覆面集団によって実行される。彼らの正体はほとんど知られていないが、彼らの方では探す相手の身元を知っている。ロシアの人権保護団体メモリアルは、様々な軍事組織の人間を集めて「死の部隊」として活動する組織による犯罪であると見ている。

 ウルス・マルタン地区(グロズヌイの南西)にある村の住民、Kは言う。「私には息子が5人います。2002年10月20日から21日にかけての夜中、装甲車に乗った軍人たちが、うちの庭に乗り込んできました。彼らは覆面姿で武装していて、GRU(軍情報局)の者だと名乗りました。22歳から28歳の息子4人が、服を着る暇も与えられずに連れ去られました。それ以来、息子たちは『行方不明』になっています。FSB(KGBの後身組織)や警察、検察、軍などの機関に何度も働きかけているのですが、どこに拘留されているのかも分かりません」

 現在、何千人もの人々(多くは男性)が行方不明となっている。時には死体の山の中から発見されることもある。そうした山が存在すること自体、連邦軍の責任が問われるべきことだ。事実、これらは軍組織や警察、FSBに逮捕された人々の死体なのだ。

 ロシア軍はチェチェンで、犯罪を犯しながら罰を受けずにいる。戦争が始まってから今まで、民間人に対する違法行為のかどで裁かれた軍人は50人ほどにすぎない。一般市民の犠牲者の多いことで悲しくも有名なアルハン・ユルトの1999年12月、ノヴィエ・アルディの2000年2月の「一掃作戦」を例にとれば、これまで責任者は誰ひとり訴追されていない。

イスラム主義的な象徴の利用

 チェチェン側には2つの政府が並立している。欧州安全保障協力機構(OSCE)の支援の下、1997年1月に選ばれたチェチェン大統領アスラン・マスハードフは、「ロシア人侵略者」に対する抵抗運動の先頭に立ってきた。その一方で、2000年6月には親ロシア的なチェチェン行政府の長として、ムフティ(イスラム法学の最高権威)であったアフマド・カディーロフがクレムリンによって任命されている。

 数カ月前から、カディーロフ直属の民兵組織も夜間の恣意的逮捕を始め、住民たちを恐怖に陥れている。民兵組織の行動には、ロシア連邦軍を通常業務の一部から「解放」する意味もあるのかもしれないが、個人的報復や、更には単なる犯罪行為と化している側面もある。

 チェチェン人による抵抗運動は難しい状況に置かれている。2001年9月11日以来強化されたロシア軍の活動によって、抵抗運動の一部は壊滅した。独自の物資調達網も弱体化し、抵抗運動の資金や兵站を支えていたトルコとサウジアラビアからの援助も絶えた。更に、人々は3年半に及ぶ戦争で疲れ果て、ひざまずき、ロシア当局による形だけの和平を受け入れようとしている。結果として、抵抗運動への参加者は集めにくくなっている。

 抵抗運動は活気を失い、散り散りになり、小グループに分かれ、時に急進化しつつも、このところ相次いだロシア軍襲撃のように、軍を標的としたゲリラ活動を続けている。抵抗運動が孤立化するなかで、これまでイスラム主義勢力とつかず離れずを繰り返していたマスハードフは、彼らに接近する道を選んだ。彼は2002年の夏、チェチェンの司令塔としてイスラム流の評議会「マジュリス・アル・シューラ」を置き、その議長にシャミ−リ・バサーエフを任命した。それに伴い、モフラージ・ウドゥーゴフやゼリムハン・ヤンダルビエフのような急進的イスラム主義指導者も復権した。ある程度の政教分離を掲げていたはずのマスハードフ大統領は、その数カ月前から、とりわけマスメディアでの発言の中で、イスラム主義的な象徴を持ち出すようになっていた。

 同様の傾向はチェチェン人戦闘員の間にかなり広まっているようだ(人質事件の犯人の態度にも見られた)が、実際に急進化しているというよりも、あえてそう見せかけているように思われる。彼らはもう欧米から何も得るものがないと見て、イスラム主義的な象徴を利用しようとする。それはつまり、自身について思い描き、世界に向けても示そうとする自画像である。そこには、彼らをウサマ・ビン・ラディンの一派として位置づけようとする者たちの仕事を楽にしてしまう危険が、明らかに存在する(とはいえ、彼らが今さらそんなことを気にかけるものだろうか)。

 2002年10月のドゥブロフカ劇場での人質事件は、2001年9月11日以降「テロリストの脅威」をますます振りかざすようになったロシア当局にとって、思わぬ好機となった。ロシア当局はこの事件を利用して、マスハードフをアル・カイダの一味として切り捨て、チェチェン側との政治交渉の見通しはなくなった。あまりの都合のよさに、人質事件の犯人とロシアの諜報部が通じていたのではないかと疑う者もいた。ロシア人ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤは、週刊紙ノヴァヤ・ガゼータの中で衝撃的な情報を暴露している(2)。事件の犯人の一人が今でも生きていて、過去にはヨルダンにおけるマスハードフの代理人であったのが、今度はなんと、ロシア大統領府の報道官に転身したというのだ。

 同様に、1999年9月にモスクワおよびヴォルゴドンスクの住宅地で起こったテロ事件についても、チェチェン人レジスタンスのしわざだとして、プーチン大統領がチェチェン軍事作戦を再開する根拠としたものだが、いくつもの疑問が存在する。これまでに犯人とされたチェチェン人は一人もいない一方、多くの証言によりFSBの関与が示唆されている。現在はロンドンに亡命中だが、1999年当時エリツィン一家と親しかったロシアの有力者ボリス・ベレゾフスキーが、チェチェンの軍閥バサーエフや、イスラム主義者のウドゥゴーフに資金援助を行っていたのは周知の事実だ。しかし、真実は全ての人にとって好まれるものではなく、このテロ事件の調査委員の一人だったセルゲイ・ユシェンコフは、2003年4月17日に何者かによって暗殺されている。

住民投票の実態

 あらゆる妥協案を拒否するロシア政府に残された「代わりの道」はただ一つ、敵方との交渉を抜きにした「政治的手続き」を考え出すことだった。2003年3月23日、新憲法(チェチェン共和国の領土はロシア連邦の一部をなすと第一条に明記)の採択の是非、および2003年末の議員選と大統領選の実施の是非を問うチェチェン住民投票を行ったのは、まさにこれを意図したものだ。

 この住民投票が反民主的なやり方で実施されたことは、いくつもの要因を考えれば明らかだ。3月23日のグロズヌイの通りは無人に近かった。ただ廃墟の中に掛けられた色とりどりの横断幕だけが、「住民投票、生き残りのチャンス」「運命を自分で決めたいなら住民投票へ」「どうしようもない無法状態よりは頼りなくとも合法性を」といったように、ものによっては極めて威嚇的な文句で、住民投票への参加を呼びかけていた。人目を忍ぶように投票所に足を踏み入れる者はほんのわずかだった。

 「勝利」などという馬鹿げた名前の付いた、荒涼とした大通りに沿って、何十人かの勇気ある者たちが、死亡あるいは行方不明になった親族の写真を振りかざしながら、住民投票に反対するデモ行進を行っていた。奇妙な雰囲気だ。一方では緊張と不安と脅威が張りつめ、他方では検問が緩められ、治安部隊が緊張緩和を装っている。ロシアのメディアが伝える祝賀ムード(歓喜に沸くチェチェンの人々、ダンス、音楽、ものすごい活気)と、自動小銃の爆音や連射音があちこちで響き渡る空っぽの町との、実に驚くべき落差。

 住民投票の直前には、何人もの市民が地雷や砲弾の爆発の犠牲となった。3月22日、「世界の医療団」がグロズヌイに開設している診療所のスタッフは、郊外の自宅で中庭に落とされた砲弾の破片で負傷した少女の手当てをした。同じ日に第9病院では、地雷による2台の装甲車の爆破で重軽傷を負った4人を受け入れたが、うち1人は病院に着いた直後に死亡した。更に、投票日前の数日間には、いくつもの投票所がチェチェン人レジスタンスによるテロの標的となった。

 チェチェンはNGOとフリーランスのジャーナリストしか入り込めない土地となっている。大小の道にくまなく置かれた検問所のせいで移動も厄介だ。3年間の戦争で人々は、出歩くことをすっかり怖がるようになっている。3月23日には軍の検問を「緩める」という指令が前々から出されていたと見えるが、この日も人々は家にこもる方を選び、道を走るバスは空っぽだった。

 この住民投票に操作があったという証拠はまだある。有権者を投票所に行かせるためにかけられた圧力、投票数が少なかったら集団単位で報復するぞという脅し、個々人に対する威嚇、そしてありとあらゆる約束の類だ。このように、危険に満ち、外部から閉ざされ、圧力と脅しのかかった状況に、いったい表現の自由があるなどと言えるだろうか。

 にもかかわらず、ロシア当局は当日朝に早速、多くの人が投票所に押し寄せたとの歓迎声明を出している。夜には既に公式集計が出され、投票率は85%、うち96%の圧倒多数が新憲法に賛成票を投じたとする。

 しかし現実とこの数字には食い違いがある。グロズヌイの住民たちは怯え、通りや投票所は閑散としていた。見え透いた不正が行われていたことは、スタロプロミスロフスキー地区のある投票所の選挙管理委員、Yの証言からも分かる。「自分の席に座ったままで、誰とも口をきくなと言われました。私は他にすることもないので、投票に来る人の数を数えていました。午後3時までに243人が投票に来ました。しかし投票所の委員会は午前11時の時点で、1457人が投票したと中央委員会に報告していました。午後3時以降に投票したのはたった20人ほどなのに、委員会は最終的に、この投票所での投票者数を2185と伝えました。何度も投票した人がいましたし、身分証明書を一抱え持ってきて15人分か20人分の投票をしている人も見ました。どっちにしても、『賛成』欄に印の入った投票用紙は前もって用意してありました」

 チェチェンのNGOと国際NGOは、実際の投票率を30%程度と見積もってる。多くのチェチェン人は、この見え透いた不正行為以上に、民主的と銘打たれた手続きの下に住民の意思が無視されたこと自体を屈辱、更には戦争行為だと受け取った。その目的は何か。それは住民を徹底的に打ちのめすことだ。

沈黙する国際社会

 ロシアの公式発表がなおさら厚かましく感じられる。住民投票の翌日、プーチン大統領は投票が多数に上ったと喜んでみせ、チェチェンがロシア連邦への残留希望をはっきり表明したことで、ロシアの領土保全に関する問題は完全に解決したと言い放った。クレムリンの支配者の目から見れば、この住民投票の結果、マスハードフは公式にチェチェンの大統領ではなくなったことになる。「武器をまだ捨てていない者たちは、間違った理想のため、自らの人民に逆らって戦っているのだ(3)

 現実には、プーチンの言う「解決」とは、一切の人民主権をあらゆる水準において否定することを意味している。彼は、人々に民主的な意見表明を認めることも、人々に選ばれた代表者と対話することも拒否している。そんなことは顧みるに値しない。重要なのはロシア世論向けに、カフカス地方におけるロシアの植民地的な権益を擁護しつつ、紛争の「政治的解決」を推進する大統領というイメージを示すことである。ただし彼は「テロリスト」たちと交渉はしない。事実、これまでにマスハードフ政権の閣僚が亡命先から提案してきた和平プランは、どれもそのまま捨て置かれた。例えば、国際的な委任の下にチェチェン暫定行政機構を設置するといった提案である。

 こうしてみると、3月23日の住民投票は、何カ月も前からの展開の続きであると言える。親ロシア的なチェチェン「政府」の擁立や、正常化が進んでいるという数々の声明を経て、チェチェンには2つの世界が並立するようになった。一方には現実の戦争状態があり、軍を狙ったゲリラ活動に応じる形で、占領軍が一般市民に対して大規模な報復を行っている。そしてもう一方にはロシアの公式発表があり、現実とかけ離れているようにしか見えないながらも、同じくチェチェンの日常に定着するに至っている。

 そこで言われる正常化は、はたして現実となるだろうか。何とも言い難い。どちらにしても、住民投票はロシア当局にとって、現地情勢を変えるための第一歩と捉えられている。4月21日にチホミロフ内務次官が発表したように、2001年1月にFSBに委ねられたチェチェン作戦の責任は、今後は内務省に移される。この決定はおそらく、紛争を「チェチェン化」しようという意向によるものだ。何カ月も前からの流れに従って、連邦軍は少しずつ作戦から手を引き、現地の警察が後を引き継いでいくようになるだろう。

 ここで危惧されるのは事態の泥沼化だ。一方には、チェチェンの政権を代弁する武装グループがあり、犯罪者と同一視されている。もう一方には、散発的な抵抗運動があり、組織力も手段も失いつつあると思われるが、中にはまだ活動的なグループも残っている。こうした状況の背景となっているのが、うわべだけの「正常化」である。

 この「正常化」戦略を助長しているのが、これまでチェチェンに関する会合や調停、交渉を何ひとつ提案してこなかった国際社会であるのは明らかだ。確かに国際社会は様々な使節団を通じてチェチェンの現状を監視しているが、政治面や外交面での働きかけはしていない。OSCEはロシア当局の要請により、2003年3月にチェチェンから退去した。国連は何ら強制力を行使せず、現地の事務所(難民高等弁務官事務所、世界食糧計画、世界保健機関)は人道的支援に甘んじている。国連人権委員会は2003年4月の第59会期中、前年に続いてチェチェンにおけるロシアの犯罪行為を非難する決議案を否決した。

 欧州評議会の議員会議でも、やんわりと不興が示された(2000年4月から2001年1月にかけてロシアは議決権を剥奪されていた)ものの、その後の2年間は沈黙が続いている。一番最近の会期では、チェチェンにおける犯罪行為に関する国際刑事法廷の設置を求める決議が採択されたが、実質的な内容はない。というのは、こういった法廷は国連安保理の承認なしでは設置できないが、ロシアは安保理に拒否権付きの議席を持っているからだ。

 欧州議会の一部の議員が設置を願ってやまない独立した国際調査委員会は、いったいいつになったら設置されるのだろうか。国際社会はロシア当局に対し、この紛争の第一の被害者である一般市民への犯罪行為が不問にされているという問題に、本気で取り組むことを要求するぐらいはできるはずだ。

(1) ヴィッケン・チェテリアン『チェチェンの消耗戦』(ル・モンド・ディプロマティーク2002年3月号)参照。
(2) 2003年4月28日付。
(3) 2003年3月24日の政府会合におけるプーチン大統領の声明より。


(2003年6月号)

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