スーダンの難民キャンプにて

ファビエンヌ=ローズ=エミリー・ル=ウルー(Fabienne Rose Emilie Le Houerou)
フランス国立学術研究センター経済・法律・社会文書研究センター研究員(カイロ)、
強制移住と難民を専門とする歴史家

訳・三浦礼恒

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 「さあ、出ていってもらわないと。彼らはもう難民じゃないんだから」と、ある国際機関の職員が有無を言わさぬ調子で宣告する。彼らというのは、スーダンにいるエチオピアとエリトリアの難民たちのことだ。スーダンは世界で最も貧しい国の一つでありながら、北東部を中心として90万人を超える多数の難民を受け入れている(1)。何度も干魃にやられた上、1983年に「大規模に再開された」内戦(2)が重なって、以前から脆弱だった経済は相当な打撃を受けた。これらの危機で疲弊し、国外からの流入人口(難民)と国内の移動人口(避難民)への対処を迫られる社会には、最近の石油ブームもわずかな恵みにしかならない。難民と避難民の処遇は、受け入れ社会と海外援助機関にとって、実に悩ましい問題となっている。

 難民の3分の2はスーダンがエチオピア、エリトリアと国境を接する東部カッサラ地方に集まっている。12万人が難民キャンプの中(3)、56万人がキャンプの外で生活する。彼らの8割がハバシュ人(アビシニア人)である。エチオピア高地の住民のことを昔からこう呼んでいる。他にも、チャドやコンゴを追われてきた人々がいる。スーダン国内の避難民の場合は、西部のダルフール地方やコルドファン地方、また1983年以来戦争が続いている南部から逃げてきた(4)。内戦の被害者は180万人と言われ(5)、首都ハルツーム、オムドゥルマン、北ハルツームの周辺地域を膨張させている。続々とやって来た「避難民」だけで、ハルツーム地域の住民の半分に迫るほどの数になる。

 非政府組織(NGO)による開発プログラムの恩恵を新たに受けるようになったのは、これらの避難民たちである。その一方で、アビシニア人(エチオピア人とエリトリア人)に関しては、2年前から退去が勧奨されている。国際的な保護は無条件に与えられるわけではない。そこには一連の法的な基準が存在する。ジュネーヴ条約には、出国を引き起こした事情が消滅した場合は難民資格が停止されるという条項がある。1991年にエチオピアで起きた政変(メンギスツ独裁政権の瓦解)は抜本的な変化と見なされ、エリトリアの独立(非公式には1991年、公式には1994年)と同様、この条項を適用する根拠とされた。国連の立場からすれば、もはやアビシニア人は難民ではないのだ。

 メンギスツ軍事政権が瓦解すると、スーダンと国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)とエチオピアは難民の帰還プログラムに力を注ぎ、エチオピアへの帰国を呼びかけた。拡声器を取り付けたトヨタのピックアップがエチオピア人の多く住む地区を巡回し、母国に帰還することの効用を説いて回る。だが、恐怖によって萎縮した難民たちは、帰国予定者名簿に登録しようとしない。UNHCRによる圧力のかけ方は時として拙劣であり、ハルツームでは2001年3月にハンガー・ストライキが起きている。世界食糧計画(WFP)のある職員は次のように語っている。「資金的には、難民を帰還させる方が長年にわたって食糧を配給するよりずっと安上がりになる。なにせ、これまで10年間で1億3000万ドルも費やしてきたのだから。とはいえ、退去を強制することはしない。援助をカットするまでのことだ」

 それは現場では、毎週行われてきた食糧(小麦や砂糖、牛乳や穀物)の配給がなくなり、水道が止められることを意味している。こうした一掃(クリーンナップ)あるいは処分(クリアラップ)政策の目的は、言うことを聞かない人々に退去を余儀なくさせることにある。キャンプは閉鎖され、敷地は消毒される。地域一帯で「一掃」が実施されているわけではないにせよ、現場で国際機関が断水政策を行っていることは事実である。ハルツームで活動するNGOの責任者は苦々しい口ぶりでこう指摘している。「難民キャンプが閉鎖され、国内避難民のためのキャンプが開設される。しかも、新設キャンプはしばしば目と鼻の先だ。時には同じ敷地で『見てくれを変えた』だけのこともある。カッサラのあるキャンプで、UNHCRは水道を止めた。ところが数百人の難民が、本国への帰還の波に乗ることを拒み、その場に留まろうとした。UNHCRの事務所の職員から私のところに、キャンプを一掃してくれという要請があった。私はそれは我々の役目ではないし、我々は人道支援団体だ、と返答した」

帰国を望まないエリトリア人たち

 スーダン北東部の埃っぽい砂漠の中に、打ち捨てられた難民キャンプが浮かび上がる。ここは法の空白地帯であり、なんの地位も認められない人々が集まり住んでいる。エリトリア国境からさほど遠くないカッサラ州のウム・グルジャにある旧難民キャンプも、こうした異様な空間の一つである。2001年12月、UNHCRは他の2つのキャンプ(ラッファ、ニューシャガラブ)とともにこのキャンプを閉鎖することを決定した。スーダンの情報筋によれば、この3つのキャンプで8000人の不幸な人々が命を落としている。病院は空っぽで看護士もおらず、水を汲み上げるポンプは解体され、学校も閉鎖された。キャンプは今ではそこかしこにかき寄せられた見すぼらしい残骸の山と化し、NGOの掲示板が遺物のように打ち捨てられている。

 ここでは数千人のエリトリア人難民が、渇きに苦しめられながらも、帰国への圧力に抵抗し続けている。その大部分は、スーダンとエリトリアにまたがる地域に古くから暮らす遊牧民、ベニ・アメル族である。エチオピアで初めてエリトリア独立を主義としたムスリム同盟の創設者や指導者はこの部族の出身者であり、カッサラには1962年に独立運動組織、エリトリア解放戦線(ELF)の最初の事務所が開設されている。2001年12月にここの難民キャンプが閉鎖されて以降、ベニ・アメルの死亡者数に関する信頼できる統計はない。生き残った人々に帰国を拒む理由について尋ねてみると、「我々はベニ・アメルであり、出発を望んでいないからだ」という答えが戻ってくる。だが、人道支援団体の専門家たちは、出身部族を考慮の対象とはせず、「部族の違いを考えた施策なんてことを始めれば、山ほどの困難にはまり込むだけだ」と述べる。こうした見解は、難民という法的な分類にあたって一切の政治状況を「カプセルに封入」し、ベニ・アメル族の特異な事情を覆い隠してしまう。

 だが、カッサラの難民の8割がエリトリア人で、そのうちの65%がベニ・アメル族であるという状況を認識するならば、政治的な側面を考慮しないわけにはいかない。ベニ・アメルはELFを広く支持しており、キャンプ内を取材して回っても、誰しも自分は党員であると言う。そして独立後のエリトリアでは、この組織を打ち負かしたライバルのエリトリア人民解放戦線(EPLF)が政権に就いている。打ち負かされた民族、難民として逃れた民族が現在のエリトリア社会へ戻ればどうなるかには、いささか疑問の余地がある。要するに、ウム・グルジャのキャンプにいる人々は単に難民というだけでなく、排除された社会集団に属しているのだ。

 エリトリアの首都アスマラにいるUNHCRの職員の一人は、「難民たちは落ち着き先を選択することができる。エリトリアで軟禁状態になるなどということはない」と保証する。彼によれば、そこで起きる真の問題は、非常に「スーダン化」した「帰国者」の社会復帰であり、文化的な再定着である。ウム・グルジャとワディ・シェリファのキャンプでは、これとは別の解説が聞かれる。ベニ・アメルは土地を没収され、民族隔離の対象となるだろうから、再定住は厳しいというのだ。いずれにせよ、彼らの再定住はエリトリアのイサイアス政権にとって社会的、政治的に大きな課題を突きつけている。

 エリトリア政府は、この在外者たちへのスーダンの影響、さらにはイスラム主義の影響を勘ぐっている。難民キャンプには、エリトリア政府にとっては不愉快な活動を行うイスラム主義者のNGOが入っていることもある。こうした嫌疑が「帰国者」の上に垂れ込めているが、ウム・グルジャのキャンプにいるのは遊牧民の女性と子供たちであり、政治意識は希薄である。彼らの社会的な基盤は、中産階級(商業に従事するプチブル層)の出身者が多いイスラム主義勢力の伝統的な基盤とは一致しない。イスラム主義に好意的な意見は、大量に物資が供給される豊かな難民キャンプで聞かれるものだと言ってよい。

 ワディ・シェリファでは広大なキャンプが巧みに運営されており、ハルツームにも引けをとらないほど豊かで多様な品物が揃った市場がある。カッサラは園芸地域であり、国中で最も見事で珍しい果実が出回っている。また、ここには衛星放送のアンテナが据えられた小屋もあり、難民たちがアル・ジャジーラの番組を見ている。彼らの多くは商売に携わっている。カッサラの山岳地帯の麓には、砂漠同然の地帯が数キロにわたって続いており、こことは著しく対照的な難民キャンプが並んでいる。ワディ・シェリファからウム・グルジャ、豊かさから極端な悲惨への急転だ。

終了に向かう人道援助

 UNHCRがエリトリア難民の帰還プログラムに組んだ予算は2400万ドルに達するが、アスマラのUNHCR事務所の一般予算は2800万ドルにすぎない。つまり、この帰還政策は、わけあって優先事項とされている。2年間で16万人を故郷に戻し、2004年にはプログラムを完了することになっているからだ。具体的には、「帰国者」それぞれに2ヘクタールの土地と1軒あたり200ドルの建築補助費が、国連によって支給される。

 UNHCRとエリトリア難民救済委員会(ERREC)は、高地に住んでいたキリスト教徒のティグリンヤ族の大部分に対しては、スーダンを離れるよう説得することに成功した。しかし、低地に住んでいたイスラム教徒のベニ・アメル族については、集団の指導者たちが帰国を決定したとはいえ、ELFへの関与という要因のために帰還は微妙な問題となっている。

 ELFの創設に関わった部族指導者の一人は、2001年11月にカイロで取材した際、ベニ・アメル族がスーダンへの亡命によってエリトリア社会でルーツと居場所を失っていたことを挙げ、自分は帰還政策を支持すると述べていた。彼によれば、ベニ・アメルはまず物理的な実体として、ついで政治的な実体として、エリトリア社会で自らの居場所を取り戻さなければならない。だが、この青写真では、難民キャンプの人々が実際に生きている世界も彼らの懸念も考慮されていない。ここでもまた、人権活動家たちによる情報キャンペーンは失態を重ね、渇ききった難民キャンプに取り残された人々は、どうもその説明は信用がおけないと考えた。間近に迫った帰国という展望は、これまで封印されていた1961年から91年のエチオピアとの戦争の記憶に加え、度重なる飢饉の記憶を彼らのうちに蘇らせた。年輩者たちはスーダンを離れることになおも躊躇し、その一方で、若者たちは帰国予定者名簿への登録に殺到した。

 帰還事業に携わる国連の専門家たちは、これまで心理的な要因を全く考慮してこなかった。UNHCRは、エチオピアとエリトリアの政治的変化(独裁政治の終焉、独立の達成)という合理的な見解のみに基づいて、難民資格の停止条項の適用を正当化した。しかし、よるべのない難民たちは、劇的な過去の記憶に立ちすくんでおり、帰還プログラムは滞っている。我々がスーダンで実地調査を行った際(6)、多くの難民たちは「自国に政治的変化が起こった」などということは信じないと語っていた。難民に対する情報提供プログラムでは、たとえ不合理なものであるとしても、彼らの恐怖感を考慮に入れるべきだった。そうすれば、弱者の中の弱者たちが頑なに帰国を拒絶することはなかっただろう。

 難民資格を失った者たちは、NGOが彼らを見捨てようとするのをどうすることもできず、防水シートの切れ端の下に身をひそめている。渇きで動けなくなっている者も多い。苦しみが一定の限界を超えると誰しもそうなるように、金縛り状態に陥っているのだ。ここ2年間で平和が回復しつつあるように見える現状を前に、彼らは「エチオピアとエリトリアの戦争は終わっていない」と繰り返し、自分たちの住む砂漠に侵入する国連のランドローバーを目にして怯えるばかりだ。乾期に入る前の2002年3月に日本から視察団がやって来て、キャンプの惨状を把握しようとした時も、打ち捨てられた人々は何の反応も示さなかった。視察団は年輩者を病院の跡地に集め、彼らの陳情を受け付けようとしたが、飢餓、渇き、病気によって衰弱していたウム・グルジャの人々は、うまく言いたいことが言えなかった。

 彼らは今では、役人が自分たちの運命を決め、人道援助の恩恵にあずかれる者とあずかれない者を決定するに任せている。優先順位の論理に沿い、厳格な条件に縛られた援助。法律の運用と行政のルーチンに従った援助。法の名の下で、意味のない秩序の支配を重んじる理論家たちによって閉塞した援助。ベニ・アメル族でもスーダン国籍を持っていれば、国民として支援を受けることができる。つまり国内避難民の資格で援助物資を手に入れることができる。その一方で、難民資格を失った者たちは、たとえ数千人に達するとしても、取るに足らない人数と見なされる。誰の良心に恥じることもないまま、人道援助の扉が閉じられようとしている。

(1) 難民の大多数はスーダン東部に集まっている。それに対してダルフールの受け入れセンターに登録された難民の総数は5271人にすぎない。
(2) ディダル・ファウジ=ロサノ『渦中のスーダン』(ラ・ターブル・ロンド社、パリ、2000年)に寄せたアラン・グレシュの序文を参照。
(3) 難民キャンプの人口は頻繁に調査されていることから、この数字は信憑性の高いものである。
(4) ジェラール・プリュニエ「スーダン和平はまだ遠い」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年12月号)参照。
(5) マルク=アントワーヌ・ペルーズ=ド=モンクロ『強制移民と都市化』(フランス人口開発センター、パリ、2001年9月)。
(6) 「時間と亡命:亡命に関わる記憶の病理」と題し、2002年2月にハルツーム大学で発表。筆者がカイロの経済・法律・社会文書研究センターで行っている研究のテーマである。


(2003年5月号)

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