バスク地方を支配する二重の暴力

セドリック・グヴェルヌール特派員(Cedric Gouverneur)
ジャーナリスト

訳・近藤功一

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 スペインのバスク地方で、「バスク祖国と自由」(ETA)に対する政府の対決姿勢が常軌を逸しつつある。スペイン司法府は2003年3月中旬、この武装組織と結託しているとして、ETAの政治部門「バタスナ」を非合法化した。その1カ月前には、同様の理由により、バスク語のみで書かれている唯一の日刊紙「エグンカリア」を発禁処分とした。ETAによって生み出される恐怖に加え、自由の圧殺が拡大するなかで、あらゆる対話の展望は遠ざけられる。それは、スペインのアスナール首相が言うところの対テロ戦と、完全な呼応を示している。[フランス語版編集部]

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 「民主体制下で何よりも優先すべきは人身の保護である」と、ラモン・ムヒカ氏は言う。バスク地方のビルバオ市に住むこの弁護士は、1995年の地方議会選挙でスペイン与党の国民党(PP、右派)から出馬し、候補者名簿の第二位に記載されていた。そのために、彼はもう一つのリストにも名を連ねることになった。バスク祖国と自由(ETA)の標的リストである(1)。同様に命を狙われている国民党若手のビルバオ市会議員、エクトル・ポルテロも重ねて言う。「民主体制下の政党は、民主政治のルールを順守しなければならない。バタスナはそれとはかけ離れている」

 2003年3月17日スペイン最高裁は、「テロの糾弾」を拒否する政党を非合法化するという2002年6月の新政党法に基づいて、独立主義を掲げるバタスナの非合法化を決定した。異例の措置である。これまでにイギリスがアイルランド共和軍(IRA)の政治部門シン・フェインの非合法化に踏み切ったことはなく、ドイツの憲法裁判所はネオナチのドイツ国家民主党(NPD)の活動禁止を断念している。トルコだけが、イスラム主義の福祉党とクルドの人民民主党の非合法化を宣告した。

 ETAの政治部門は1978年に創設され、以後20年の間に3度名称を変えている。今回もAuBという代替組織を立ち上げたが、政府は来たる5月25日の地方議会選挙への参加を認めないと言明している。バタスナはバスク自治州(CAPV)の議会の1割にあたる7議席を占め、バスク自治州(バスク語でエウスカディ)とナバラ州の62の市町村議会で与党となっている。同党は法律によって非合法化され、さらにガルソン判事によって一連の司法措置が講じられた。毛沢東であれば、ETAと言う「魚」が育つ水を干上がらせるための措置と言うだろう。バタスナの事務所は封鎖され、銀行口座は差し押さえられ、インターネット・サイトは閉鎖された。バタスナの青年組織セギ、拘留中のETA活動家の支援団体、バタスナの名前を掲げるデモは禁止された。判事はさらに、セギのメンバーが市街で行った暴力行為の補償金として、バタスナに対して2400万ユーロを請求している。

 2001年9月11日以降の時流が、こうした攻勢を勢いづけている。西洋の民主主義諸国を通じて、「対テロ戦」という単純きわまりない見方が、自由を制限する口実となっている。グアンタナモの徒刑場の有り様や、フランスに亡命していた旧赤軍派メンバーのイタリアへの引渡しなどがその好例だ(2)。アスナール首相自身、イラク問題では(世論を敵に回してまで)米国防総省に追従し、ETAとアル・カイダの不毛な比較を繰り返している。

 バタスナの非合法化には、国民党の権威主義体質も関係している。国民党の姿勢には、フランコ主義の臭気が漂っていなくもない。アセベス内相は3月下旬、おそらく2月15日の各地のデモの成功に恐れをなして、反戦デモをことごとく「禁止」とした。これは無駄な抵抗でしかない。2月15日のデモは、民政復帰以降のスペインで、最大規模に達していた。アムネスティ・インターナショナルは、ETA活動家や移民に対して「拷問を行った事実の認められる警察職員が(中略)まるで罪を問われない状況の存在」を告発している。そこで問題視された警察官らは、行政府によって恩赦を与えられ、昇進までしている(3)。国民党がスペイン右翼の悪臭ふんぷんたる過去と完全には縁を切っていないことを明白に示したのが、2001年に故メリトン・マンサナスに対し、「政治的暴力の犠牲者」として勲章を授与した事件である。1968年、ETAの最初の犠牲者となったマンサナスは、フランコ政権時代にイルンの町で秘密警察を率い、大戦中はゲシュタポにも協力していた。彼は数百人のバスク人の拷問に直接的、あるいは間接的に関与している。

 有り体に言えば、バスタナを非合法化した狙いは選挙対策である。この決定に対してバスク人の4分の3が反発したとしても、テロ事件に愕然としたスペイン社会、メディア、政党は無条件に賛同している。こうして2002年8月、国会議員の90%がバタスナの非合法化法案に賛成票を投じた。「ここでは2000人以上がボディガードを付けて生活しています」と、ゴルカ・エシピアウ氏は語る。彼の属する「エルカリ」は、ノーベル平和賞受賞者である北アイルランド社会民主労働党のジョン・ヒューム前党首、グアテマラのリゴベルタ・メンチュウなどの後援の下、対話の道を模索している。彼は続けて、「この状況は対策を促す声をスペイン社会の中に生み出し」、世論と微妙な関係にある「アスナール首相が、バタスナの非合法化によって、世論の関心を治安問題に向けようとしたのです」と言う。それが紛争の解決にどのような影響を与えようと大した問題ではないということだ。ビルバオ市のムヒカ氏は次のように言う。「テロと決着を付けてみせるなどと豪語できる者はいない。しかし、バタスナの票がバスク民族党(PNV)に回るという効果はある」。キリスト教民主主義系のバスク民族党は、過去25年にわたってバスク自治州の与党となってきた。ムヒカ氏は同党が「自分たちにとって最小の悪となる」ことを期待する。しかし、この政治的な賭けにはリスクもある。バスク民族党は、革命主義と独立主義を掲げるバタスナの支持層からは、ナチスに協力したフランスのヴィシー政権同様の「対敵協力者」と見なされているからだ。

口を封じられるメディア

 「対テロ戦」の標的は、バタスナだけにとどまらない。2003年2月20日、全国管区裁判所のデル・オルモ判事は、エグンカリア紙を発禁処分にした。この新聞は発行部数1万5000、社員150人、バスク語のみで書かれた唯一の日刊紙である。ETAの「手先」として、「その紙面を通じてテロ思想を広めている」というのが司法府の示した嫌疑だが、同紙はこれまでETA活動家にインタビューする一方で、あらゆる反対意見も紙面に掲載してきた。この日刊紙の過去と現在の幹部10人が、ETAとの関係を疑われて取り調べを受けた。そのうち7人は保釈金を払って釈放され、治安警備隊による暴行について語っている。

 ラジオ・ポプラールの副局長で、イエズス会の修道士、またエルカリのメンバーでもあるチェマ・アウスメンディ氏は、2000年に取材した際にはETAの活動をはっきりと非難していた(4)。しかし今回の取材では、警察のせいで2人の友人を死んだものと思い込んでいたと明言する。1人はエグンカリア紙の前編集長ペイオ・スビリアで、拘留中に体調を崩して病院に収容され、そこで自殺を試みた。もう1人の友人、同紙の現編集長マルチェロ・オタメンディは、次のように語っている。「彼らは私を罵倒、脅迫し、目隠しをし、2度も窒息寸前になるまで頭からビニール袋をかぶせ、眠らせず、証言を曲げるようにと強要した」。内務省はこれに対して名誉毀損で訴えるとともに、「拷問とやらが行われていると組織的に非難する(5)」よう、ETAが活動家を鼓舞しているのだと述べた。国境なき記者団(RSF)やアムネスティ・インターナショナルも、事件の調査を要請している。

 エグンカリア紙の発禁処分は、ユネスコ、カタルーニャの市民たち、そしてスペインの一部メディア(エル・パイス紙やエル・ムンド紙など)から批判され、バスク地方に激震を引き起こした。統一左翼(IU)、知識人、大学教員、労働組合、文化団体、ジャーナリスト、スポーツ選手など、バスクのナショナリストは一斉に抗議の声をあげた。この事件は、表現の自由の侵害にとどまらず、バスクのナショナリズムに対する攻撃、バスクの言語とアイデンティティへの攻撃として受け止められた。「被害を受けたのは読者や社員だけでなく、エグンカリアが支えてきたバスクの文化活動全体なのだ」とオタメンディ編集長は嘆く。

 同紙の社員たちは、直ちに新たな日刊紙「エグネロ」を創刊した。16ページのみであるが、発行部数は以前の5倍の7万5000部である。最近も、バスク語(エウシカラ)による週刊誌「アルギア」と学術雑誌「ヤキン」の編集部、そしてバスクの学校(イカシトラ)が家宅捜索を受け、社会不安がさらに強まっている。テロ対策として、いたずらに警察活動のみが重視され、弾圧の対象が拡大されているが、検挙の数がむやみと増えるだけで、テロ行為を終わらせるには至っていない。それはナショナリズムとテロリズムの同一視をもたらしているだけだ。

 バスク地方における報道の権利の侵害は、なにもエグンカリア紙の発禁処分が初めてというわけではない。2000年5月、ジャーナリストのホセ・ルイス・ロペス・デ・ラ・カジェは2人のETA活動家によって殺害された。「フランコはホセ・ルイスを投獄した。その30年後、ETAが彼を殺した」。ゴルカ・ランダブル氏は週刊誌「カンビオ16」にそう記した。そして数日後、彼自身も小包爆弾で負傷することになる。それから間もなく、日刊紙「エル・ディアリオ・バスコ」の財務部長サンチャゴ・オレアガも、サン・セバスチャンで銃弾に倒れる。それ以来、50人ものジャーナリストが護衛を付けるようになった(6)。さらにアンダルシア地方でも、国民党やスペイン社会労働党(PSOE)の議員を狙ったテロ事件が起きている。5月の地方議会選挙に向けた国民党の候補者名簿には、3月下旬になってもまだ全国で1500人が不足していた。出馬は危険すぎるのだ。

ETAを取り巻く小宇宙

 「誰が抑圧者であり、誰が被抑圧者であるのか」と、2人のボディガードに囲まれながら、モラ・ゴツォネ教授は問いかける。彼女はバスク人で、ビルバオ近郊のレイオア大学で社会学を教えており、フランコ政権下で投獄された経験がある。ETAにとってみれば、彼女は社会党員であり、テロ反対と自治賛成を謳う市民運動「バスタ・ヤ!」のメンバーであるという、二重の過ちを犯している。独立主義者の学生からは罵倒され、ETAからは死刑宣告を受けている。「私の人生は地獄になってしまいました。私があの人たちに何をしたと言うのでしょう。バスク社会で多元主義を支持することは、いけないことなのでしょうか」

 エグンカリア紙のオタメンディ編集長は、発禁処分に抗議しつつ、それを言論の自由の侵害だと言明することは避けている。「我々が論説で書いてきたのは、すべての紛争当事者が暴力を止め、対話を行うべきであるということだ」。彼はETAも「同じく」表現の自由を脅かしていることを一応は認めながらも、「バスク地方でいちばん最近のテロ行為は、私が受けた拷問だ」と言葉を濁した。

 例えば、彼らの名前を「イナキとミレン」としておこう。教養があり、仕事もうまく行っているこの若いカップルは、ETAを全面的に支持する数千人の中核的基盤に属している。ミレンによれば、ジャーナリストは「党派的」であるがゆえに、その処刑は「正当化」される。また、地方議員に関しても、「活動家の拷問、バスクの抑圧を支持している」がゆえに、処刑は「正当化」される。「ここは、(メキシコの)チアパスであり、パレスチナなのです」とイナキは断ずる。豊かなバスク自治州が(7)、独自の政府、議会、税制、警察を備え、ドイツの州よりも広範な自治を享受していようと、バスク語が重視されていようと、スペインが民主国家であろうと、2人にとって大した意味はない。「自治というのは、圧制者の意のままになる条件つきの自由でしかありません。武装闘争こそが唯一の解決策なのです」と、イナキは言う。彼らはバタスナの非合法化に尻込みなどしない。「もし我々の投票を邪魔するならば、こちらも向こうが投票できないようにするまでです」と彼らはすごむ。2人が勢い込む背景にあるのは、自分たちの政党、村、独自の歴史を備えた急進的な社会集団が形づくる小宇宙である。そこでは、政敵はすなわち敵と見なされる。彼らの世界の思想的整合を脅かすからだ。ゆえに、ETAによる抹殺も「正当化」されることになる。

 1959年にフランコ政権による弾圧に抗して創設された当初より、ETAは工業化の進んだバスクの状況を第三世界の植民地と同一視してきた。植民地化されたアルジェリアが、この粗雑な基本認識の理論的モデルを提供した。現在もなお、それが社会政治的な現実と相反していようと、ETAは「入植者」を暴力的に追放することしか考えていない(8)

 2003年1月、ETAはチアパスのマルコス副司令官宛てに、調停の申し出を辞退するとの公開書簡を送った(9)。このバスクの武装グループはその中で、ヨーロッパの「先住民」の「抵抗」を謳い、自らをマルコス率いるサパティスタ民族解放軍(EZLN)になぞらえている。この文章を読むと、とてもフランコが四半世紀以上前に死んでいるとは思えなくなるだろう。バタスナの気負いは、こうした認識の落差に発している。彼らは10%から18%の支持率をもってバスク人の名の下に語り(10)、大衆的な正統性に欠ける軍事路線を至上のものと考えている。しかし90%のバスク人が武装闘争を拒否しており、その中にはバタスナ支持者13万人の半数も含まれているのだ(11)

 彼女の名前を「ラケル」としておこう。この労働者は1990年代、何人かのETA活動家をかくまったために、4年間の獄中生活を送った。「私はETAを支持している。決して後悔することはありません」と彼女は明言する。彼女の村はバタスナの地盤である。「今では、私はもうあの党に賛成票を投じようとも思いません。棄権を選びます。停戦の破棄によって、私たちの議員は半分に減ってしまった(12)。私は武装闘争を非難しませんが、現在の戦略ではどこにも行き着くことができません。何もかもを失ってしまわないためには、変わらなければならないのです。私はバスク民族党には絶対に投票しませんが、独立に向けて彼らと協力していかなければなりません。といっても、こんなことを公には口に出せませんが」

民主主義の後退

 サビノ・アイエスタラン氏は、サン・セバスチャン大学の心理学の教授である。独立主義者であり、急進派の社会を専門分野とする彼は、ETAの標的がでたらめに選ばれているわけではないことを説明する。「一つの例を出しましょう。2000年に殺されたバスク社会党(PSE)党首フェルナンド・ブエサは、社会党とバスク民族党の接近を望んでいました。両党はETAの背後で政治的合意を交わそうとしていました。テロ行為の目的は、諸政党の内部に亀裂を作り出すことなのです」。政治家たちの発言内容を追ってみると、この目的は達成されたと言わざるを得ない。以下は数日分の新聞から拾ったものである。国民党の重鎮が、バタスナの非合法化に反対したバスク民族党を「訴追」すると恫喝した。中央政府の法相が、バスク自治州政府を「ETAの弁護人として振る舞っている」と非難した。バスク社会党が、バスク民族党とバスク連帯(EA)の選挙協定を「独裁体制の辞」と評した。市民運動「バスタ・ヤ!」が、バスクのナショナリズムを「民族主義、部族主義」(13)であると決めつけた。バスク民族党は、「バスタ・ヤ!」が「汚い戦争の雰囲気を作り出そう」としていると言い立てた。こんな調子である。罵倒と恫喝が、議論と提案にとって代わっている。まるでETA活動家の暴力が、バスク社会全体に伝染して、一色に塗りつぶしてしまったかのようだ。

 「それぞれが偏見に基づいて互いに相手を恐れているのです」と、エルカリのエシピアウ氏は溜息をつく。時勢は妥協を許さない方向に傾いているが、対話を信じる者たちは粘り強く働きかけている。エルカリは2001年10月から2002年にかけての和平会談において、出席を拒否した国民党を除いたすべての政党代表団の橋渡し役を務めた。自治州議会のヘンマ・サバレタ議員は、バタスナの非合法化に反対した数少ないバスク社会党議員の一人であり、「法治国家に非があってはならない」と言う。北アイルランドの例に倣って協議を始めるべきだと主張する彼女は、自分が危険を冒していることも自覚している。2000年には、対話路線を唱えるカタルーニャ社会党(PSC)党首のエルネスト・ジュックが、ETAの凶弾に倒れている。それは望まれざる調停者への警告であった。

 バスク自治州政府の社会担当大臣ハビエル・マドラソ(統一左翼)は、次のように述べる。「ETAの社会基盤を弱体化させていかなければならない。この武装グループを10月1日反ファシスト抵抗グループ(GRAPO)のように(14)、孤立化させ、簡単に解体できるような集団に変えていくのだ」。この戦略に基づいて、投獄中のETA活動家がバスク自治州に集められつつある。彼らは現在スペインの刑務所(508人)とフランスの刑務所(115人)に分散されている。親族は面会のために数百キロの道のりを移動しなければならない。バタスナによると、すでに13人が交通事故で命を落としている。「スペインの刑法では、このような分散は違法とされている」と、マドラソ大臣は強調した。ピレネー山脈の向こうのフランス側では、拘留中のコルシカのナショナリストの一括化が近日中に実現される予定であり、それに勢いづけられたETA活動家の家族がフランス政府に圧力をかけている。

 しかし、この戦略を実現するには、1979年の自治規定によって否認された民族自決の権利を承認させる必要がある。この自治規定は住民投票にかけられ、当時のバスク地方の有権者の6割が賛成している。そのため、バスク自治州の連立与党(バスク民族党とバスク連帯のナショナリストおよび統一左翼)は、「共存のための提案」の準備を始めている。この新たな「主権主義的」政治協定は、バスクとスペイン中央政府が自由連合を結ぶとする。協定は対等の関係に基づくものであり、バスクがスペインという「諸民族の国」の一部をなすとしても、それはバスク人の過半数の同意によることをスペイン政府は認めるとする。バスク民族党のスポークスマン、ヨセバ・エギバル氏は次のように説明する。「法的には、中央政府だけが、住民投票を実施する権利を持っている。だからといって、住民の意思を確認することが妨げられているわけではない。スペインが民主国家であるならば、意思確認の結果を受け入れなければならない」。これは、ケベック問題の解決策と同様の発想に立つものである。

 急進的な独立主義者は、この計画に反対している。独立主義を掲げる日刊紙ガラの社説は、バタスナの非合法化とエグンカリア紙の禁止処分により、「フランコが樹立した君主体制との共存協定」が実現した際に「我々を待ちうける将来が明らかとなった」と記している。「バスク人の意思に反し、自治州政府が行使できる介入手段もないまま、中央政府によって決定されたバタスナとエグンカリアの処分は、すでに我々が知っていたことを確認させたにすぎない。自治は幻想であり、民主主義など存在しないのだ」と、エグンカリア紙のオタメンディ編集長も言う。弾圧の危険に直面したガラ紙は自問してみせる。「いったい我々に何が残されているのだろうか」と(15)

 多くの武装集団のように、ETAは活動=弾圧=活動というサイクルによって成り立っている。テロ事件を起こすたびに、中央政府による反撃は高まっていく。ETAの考えでは、この弾圧によって、「民主国家のマスク」が剥がれ、「武装闘争」へと向かう人々が増大するはずだ。このバスクの武装グループは、警察の圧力によって弱体化しながらも、中央政府の非妥協的な姿勢を逆手にとっている。識者の一致した見解によれば、法治国家から逸脱し、ETAの支持層に犯罪者の烙印を押すならば、「スペインのファシズムに対する闘争」を訴えるETAの術中にはまるだけだ。テロを無条件に支持する層を結束させ、ETA活動家への彼らの服従を促し、ETAへの後方支援を強化してしまう。要するに、ETAを取り巻く小宇宙を非合法化すれば、あらゆる対話の道を閉ざし、民主主義への統合を図るべき市民たちを逆に排除し、非合法活動へと差し向けてしまうことになるのだ。

(1) ETAは、2000年は23人、2001年は15人、2002年は5人を殺害し、さらに数十人に傷害を負わせている。1968年以来、ETAは約850人を殺害しており、うちフランコ政権下での犠牲者は100人弱である。
(2) See Human Rights after September 11, report of The International Council on Human Rights Policy, Geneva, 2002.
(3) Amnesty International, annual report 2001. 民兵集団の反テロリスト解放グループ(GAL)による暴力行為(1983年から87年までに27人の犠牲者)に関与したスペイン政府の幹部職員は刑期前に釈放されている。
(4) 「バスク過激派の孤立した武闘路線 」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年8月号)参照。
(5) 2003年3月11日にビルバオのエル・コレオ紙に掲載された1998年3月19日付のETAの内部文書。しかしながら、アムネスティ・インターナショナルは何件もの拷問があったことを確認している。
(6) 国境なき記者団の報告書、2000年6月。
(7) ヨーロッパの生活水準の平均を100とすると、バスク自治州は101、スペイン全体では82となる。失業率はスペインで最も低い8%。とはいえ1970年代に、産業の転換期を迎えていたバスクの経済は大きな落ち込みを体験している(http://www.eustat.es の統計を参照)。
(8) グルツ・ハウレギ『ETA、ある一つの歴史』(ドノエル社、パリ、2002年)
(9) 2003年1月1日付のETAの公開書簡。http://www.lahaine.org/paisvasco/respuesta_eta_ezln.htm で閲覧可。
(10) バタスナのスポークスマン、アルナルド・オテギ氏は「我々には、我々が尊重する唯一の正統性、すなわちバスク人民という正統性がある」とエル・コレオ紙2003年3月18日付で語っている。2002年4月にフランス側バスク地方のサン・ジャン・ド・リューズで開かれた公開会合において、オテギ氏は「ETA万歳!」と絶叫した。
(11) エル・パイス紙2001年9月23日付に掲載された世論調査による。
(12) 停戦が実現していた1999年からテロ再燃後の2001年の間に行われた選挙で、急進派の支持率は18%から10%へ下がり、バスク自治州議会での議席数は14から7へ減少した。
(13) バスクのナショナリズムはETAも含め、創始者サビノ・アラナ・ゴイリ(1903年没)の人種差別思想にもかかわらず、少なくとも言葉の上では統合主義を唱え、国籍に関しては生地主義を基本に置いている。ジャン=マリー・イスキエルド『バスク問題』(コンプレクス社、ブリュッセル、2000年)参照。
(14) スペインの武装集団であるGRAPOは2001年にパリで解体された。
(15) ガラ紙2003年3月19日付を参照。


(2003年5月号)

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ETAの歴史

1959年フランコ独裁政権下、バスク民族党内の保守派と対立した青年党員らが、運動組織「バスク祖国と自由」(ETA)を創設。スペイン領バスク(およびナバラ州、フランス領バスク)の独立を勝ち取ることを目的とする。
1968年ETAによる初の計画的暗殺。犠牲者はフランコ時代のサン・セバスチャン市の秘密警察幹部であったメリトン・マンサナス。
1973年フランコの後継者と目されていた政府首班、カレロ・ブランコ海軍大将の暗殺。
1978年4月ETAの「政治部門」と見なされる極左連合エリ・バタスナ(HB)の結成。
1979年バスクが住民投票によってスペイン国家内で「ゲルニカ協定」と呼ばれる自治州の地位規定を獲得。
1980年「流血の年」となる。ETAの作戦活動により全部で118人が殺害される。これより23年が過ぎた現在、犠牲者の総数は850人に上る。
1987年6月バルセロナのスーパーマーケットに仕掛けられた爆弾により21人が犠牲に。バスク分離主義勢力はこの「失策」に対して弁明を発表。ETAの歴史で死者数最大のテロとなった。
1997年7月国民党の地方議員であるミゲル・アンヘル・ブランコがETAによって誘拐され、殺害される。スペイン全土で500万人以上が独立主義勢力の暴力に反対するデモを行った。
1998年9月〜1999年12月ETAと中央政府の間で停戦が成立。しかし、1年2カ月後、停戦は破られる。
2002年6月4日、政治団体に関する新法が成立。テロと関わりのある政党の非合法化が可能となる。
2003年2月20日、スペイン司法府は、バスク語日刊紙「エグンカリア」の発禁処分を決定。3月17日、スペイン最高裁は、テロ組織ETAを支援しているとの理由で、バスクのバタスナ党を非合法化。

[訳・近藤功一]

(2003年5月号)

* 筆者情報部分の形式の乱れを修正(2003年7月27日)

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