部族紛争の種まくトーゴの長期政権

コミ・M・トゥラボール(Comi M. Toulabor)
ボルドー政治学院ブラックアフリカ研究センター研究員

訳・清水眞理子

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 コートジヴォワールでは、長期政権を敷いたウフェ=ボワニ初代大統領の死後、政情が急激に不安定化した。2002年秋に始まった内戦は、旧宗主国フランスをはじめとする国際機関の介入にもかかわらず収拾の気配を見せない。その根本には、人々が国民国家の一員としての個人であるのか、部族レベルで創り出される「我々」の一員であるのかという認識の差がある。こうした人為的な「民族問題」が、選挙でライバルを排除するため、あるいは低迷する経済への不満をそらすために利用されるのは、コートジヴォワール一国に限ったことではない。36年間政権の座にあるトーゴのエヤデマ大統領もまた、同様の手法により現在の地位を保持していると言える。しかし、それはいつ爆発してもおかしくない状況だ。[日本語版編集部]

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 トーゴのエヤデマ体制は、民族意識を政治問題化することと不可分の関係にある。トーゴでも他のアフリカ諸国と同様、問題は民族性そのものではなく、それをエリートが道具として用いることにある。複数の政治勢力が競う制度をもつ国であれ、そうでない国であれ、これらのエリートはいずれも権力の獲得や維持のために部族問題を利用してきた。エヤデマ大統領の場合は、国民の政治的な動員や参加の近代的で有力な組織化(政党、労働組合、市民社会など)を歓迎しなかったので、これらを公然と侮辱し、部族意識を基盤にするという方向を取るほかなかった。

 エヤデマは2度のクーデターによって権力の座に就いた。彼はザイール(現コンゴ民主共和国)のモブツ大統領とまったく同様、首長の神格化と崇拝、乏しい国内資源の略奪、極度の残忍性と暴力に基づく体制を築き上げた。1963年1月13日、第1のクーデターにより、オリンピオ初代大統領は殺害される。陸軍参謀総長となったエヤデマは、さらに67年1月、複数政党制を導入する憲法を制定しようとしていたグルニツキー大統領をクーデターで倒す。オリンピオ大統領暗殺以降、旧宗主国フランスとの関係が冷え切った中で、軍人あがりのエヤデマ大統領は、旧仏領アフリカ諸国の親分格だったコートジヴォワールのウフェ=ボワニ大統領に接近する。そしてウフェ=ボワニの死後は「アフリカ諸国首脳の最古参」という禍々しい称号を手にすることになる。フランスが支えるこの独裁者シンジケートには、カメルーンのビヤ大統領、ガボンのボンゴ大統領、ブルキナファソのコンパオレ大統領などが名を連ねている。事実、エヤデマ大統領は外国首脳との関係強化に力を注いでおり、特にフランスとの関係では左右両翼のいずれからも侮りがたい支持を取り付けている。

 内政では就任当初から、ウフェ=ボワニ大統領と同じような「部族地政学」を次第に実地に移し、自らの出身部族である「カビエ族」を重用してきた。またグルニツキー前大統領の殺害については、南部と北部の対立に原因があるとうそぶいてきた。ただしコートジヴォワールと違って、トーゴの指導者やエリートは知的に怠慢なのか創造の才に欠けているのか、「真正イヴォワール人」と同様の「真正トーゴ人」の概念を考え出すことはなかった。とはいえ、表現する言葉がないからといって、表現される中身がないわけではない(1)。概念としては貧弱であるにせよ、「真正トーゴ人」は実際の政治にとって「真正イヴォワール人」と同じぐらい危険で破壊的な力をもっている。

 「真正トーゴ人」の根底には、「大統領の部族」たるカビエ族が「天上から」移住してきたという言い伝えが据えられている。この建国神話によると、カビエ族は天からやって来て国の北部に広がり、他の部族は「地上づたいに」順次移住してきたという。この言い伝えは1974年以降、ザイールのモブツ政権にならって導入された真正性政策(2)のおかげ(というか所為)で政治の言説に持ち込まれるようになった。具体的には、ある特定の部族が歴史的に見て国の主であり、要するに国を治める当然の(正統な)資格をもつとされる。この部族の名はもちろん歌い継がれている。愚かしい官製神話が何十年にもわたり、エヤデマは政権に就くべくして生まれたのだと吹聴してきた。

フランス大使すら懸念

 コートジヴォワールで、南部のアカン族とバウレ族が神話上の架空の「我々」の地位をうまい具合に占めているとしたら、トーゴでは、北部のカビエ族がこの役割を担っている。「先祖代々のトーゴ人」「正真正銘のトーゴ人」「本物のトーゴ人」といった言い方が生まれ、「にせのトーゴ人」「無国籍者」「売国奴」などに対置される。こういった言葉はことに深刻な政治危機が起こると多用され、糾合のスローガンとして、また鎮圧の道具として使われる。政府は現実というよりも想像上のクーデタの陰謀を言い立てて、驚愕すべき暴力をもって粛清と制裁を行う。というのも、国民の統一をうたう公式の言説とは別に、同じぐらい現実的で強力なもう一つの言説が存在するからだ。それは北部、特にカビエ族出身の幹部や知識人を集めた親睦会や団体で語られる。これらの創設を推進したエヤデマ大統領が熱弁をふるう演壇である。そこでは「南部の者」を「粉砕」しようと気炎が上がり、「北部の者」の手中にとどめるべき国家権力の維持をめざす戦略が協議される。この「崇高」な国家的大義のためには、軍の出動もいとわない姿勢である。

 「トーゴではいちばんまともに動いており、(中略)規律があり、かなり訓練され、よく統率されている(3)」とフランスのジャン=フランソワ・ヴァレット大使が弁護するトーゴ軍は、もっぱら「大統領の部族(4)」だけで占められている。この点はヴァレット大使も、外務大臣に以下の進言をしたときにはっきりと認めている。「トーゴ海軍に2隻の巡視艇を寄贈すべきである。これらは、いかなる場合でも国内鎮圧の目的に利用されてはならず、ロメ港の安全の向上に寄与し、軍の内部では現在少数派の南部の部族によって活用されるようにする(5)」。付言すると、トーゴは1963年7月10日付の防衛協定と1976年3月29日付の軍事技術協力協定によって、現在もフランスと結び付いている。

 1990年代初め、91年7月の国民会議で民主化要求に直面したエヤデマ大統領は、とりわけ軍部に依拠して、この要求は「彼の」権力を奪おうとする南部の策略だと非難した。そして重要官庁や準公共部門の幹部を「カビエ化」する急進部族主義へと走った。民営化されていない国営企業では、カビエ族が役職をほぼ独占するようになった。その中でも特に大統領の生まれ故郷であるピャ村の出身者が目立っている。リン鉱石公社、ロメ自治港、空港公団、宝くじ公社、トーゴ綿花公社、自由貿易特区、主要在外公館(米国、フランス、ドイツ、カナダ)などはピャ村出身のカビエ族の手中にある。職業についても部族による分断が見られる場合がある。弁護士のほとんどが南部出身なのに対し、司法官と判事は北部出身であり、任命者たる政府に大いに貢献している。

 トーゴの中で、コートジヴォワールのワタラ(6)に相当する人物が初代大統領の息子、ジルクリスト・オリンピオである。独裁者エヤデマに対する筋金入りの反体制派であり、1963年以降は国外で亡命生活を送る。トーゴ人らしからぬ発音の名をもつオリンピオは、「我々」に対する「彼ら」の完璧な体現となっている。92年5月5日に北部スドゥで起きた事件のようにたびたび襲撃され、何度も死刑宣告を受けている。このような状況では、大統領選挙にいつ立候補しても敗北に終わるほかない。93年8月の選挙では立候補を認められず(7)、98年6月の選挙では敗北を予感した政権によって手続が中断されている。彼が率いる変革同盟(UFC)は警察に弾圧され、ガーナが糸を引く不穏な動きがあると誹謗された。反対姿勢が「強硬」にすぎるとしてUFCにあまり好意的でないフランス大使ですら、こんなふうに「トーゴ人主義」を言い立てることに懸念を示している。大使は「国籍問題についてはコートジヴォワールのような行き過ぎを控えるようにとエヤデマ大統領に申し上げた」という(8)。2002年6月に解任され、反政府扇動的な公開状を書いたコジョ前首相の評判を落とすために、政府当局が彼の国籍疑惑を言い出したことは象徴的である。

国は貧血状態

 1970年代における「農地政策」の枠組みで、政府は土地がコートジヴォワールのように耕した者の所有になると宣言した。20年後、この措置は不幸な暴力事件を引き起こすことになる。エヤデマ大統領は、南部のコーヒーやカカオのプランテーションに出稼ぎに来るカビエ族の小作農たちを一夜にして地主に変えることで、「身内」に利益を与えようと考えたのだった(9)。しかし、91年から92年の民主化移行期に再び自由にものが言えるようになると、土地を奪われた地主たちは横領者を追い出そうと立ち上がり、これを利用して他の紛争をうやむやにしようとした。この頃、大規模な事件でなかったとはいえ、換金作物を栽培するプランテーション地域(クパリメやアタクパメ)で虐殺事件が相次いだ。首都ロメなど他の地域でも、民兵組織や武装集団に属する急進部族主義の若者たちが戦闘の拡大を試みた。なかでも目立ったのが、北部出身の若者や軍人を主体とする学生団体・運動高等評議会(HACAME)であり、南部出身者からなるライバル組織のエクペモグにはるかに勝る「腕力」を見せつけた(10)

 真正トーゴ人なる言説は、この国を揺さぶる経済危機の中からも理解することができる。構造調整計画が採用され、確かな成果もないまま原理主義的な熱意をもって実施されて以来、トーゴは根底からルンペンプロレタリアート化した。エコロジーの観点から見ても(ロメは不衛生で荒廃した都市になった)、社会学的に見てもそう言える。事実、ロメや内陸部の都市からは公務員、商人、若干の富農といった少数の中産階級が完全に姿を消した。彼らを圧迫した経済運営は災いと略奪をもたらし、国内外の債務を悪化させ、国家の支払い能力を低下させた。

 しかもトーゴは1993年の選挙の茶番劇以来、多国間援助と各種の二国間援助の最大出資者である欧州連合(EU)から、年間およそ7500万ユーロの援助金を絶たれている。フランスはその後も甘い支援を続けているが、EUはフランスの猛烈な反対にもかかわらずトーゴに対する経済制裁を決定した。この国は貧血状態にある。経済はマイナス成長(たとえば2000年はほぼマイナス2%)、インフレは公式発表で2001年には2.9%に達し、国内総生産(GDP)は低下の一方である(11)。ところが政府は、この悪しき統治の責任を野党に帰してはばからない。

 エヤデマ大統領はアフリカ中を駆け回り、コートジヴォワールなどで紛争の調停役を演じているが、その足元にはコートジヴォワールのような爆発をもたらしかねない不安材料が出揃っている。たとえば野党の有力指導者の一人、ヤオヴィ・アボイボル弁護士はセネガルに行き、ワッド大統領に介入を要請している。トーゴは恐怖、諦め、疲労感、怒りを混ぜ合わせた一種の錬金術によって、不自然な均衡を保たれた状態にある。この錬金術は今のところ、現行体制を守る微力な盾となっている。しかし政府はそれでもまだ足りないと見て、昨年12月の議会で、大統領の再選に関する制約を外す新憲法を採択させた(12)

(1) ウェンサー・オグマ・ヤグラ『トーゴ国民の確立』(パリ、ラルマッタン社、1978年)、アクリマ・コゴエ、A・カダンガ 『トーゴ軍と治安部隊に対する反体制派民兵の暴行』(カラ、グラフィック・エクスプレス出版)、バサール・チャム『1990年以降のトーゴにおける社会政治紛争』(カラ、グラフィック・エクスプレス出版)参照。
(2) アニュル・M・エディ『さらばモブツ、グバドリテの「天才」よ−真正独裁制から「全面民主制」へ』(ジュネーヴ、DS出版、1991年)、 B・カブエ「ザイールの経験」(ABC社、パリ、1976年)。
(3) 「駐トーゴ仏大使ジャン=フランソワ・ヴァレットの行動計画」(外務省アフリカ・インド洋局西アフリカ課、パリ、2000年2月15日)8頁。
(4) 「トーゴのエヤデマ将軍『最終決戦』」(ル・モンド・ディプロマティーク1993年3月号)参照。
(5) 前掲「行動計画」9頁。
(6) ウフェ=ボワニ死去時の首相で、北部の出身。後継大統領によってイヴォワール人たることを否認されて失脚、その後も大統領選から排除されている有力な野党指導者。[訳註]
(7) 1993年に複数政党制による初の選挙が行われたが、野党はボイコット、エヤデマが高得票率で再選される結果となった。[訳註]
(8) 前掲「行動計画」2頁。
(9) アンヌ=マリー・ピエ=シュヴァルツ「トーゴにおける国土整備と人口移動−カビエ地方の事例」(カイエ・デチュード・ザフリケーヌ、26巻103号、パリ、1986年)。
(10) コミ・M・トゥラボール「トーゴの若者、暴力、民主化」(アフリク・コンタンポレーヌ、180号、1996年10-12月)116-123頁参照。
(11) 経済運営に関しては、コジョ前首相による「今こそ希望の時だ」と題された文書(ロメ、2002年6月27日、ウェブサイト http://www.diastod.org/Nouvelles/nouvell946.htmlhttp://www.letogolais.com/article.html?nid=85 に掲載)を参照。
(12) Cf. Ebow Godwin, << Togo : After Eyadema, who ? >>, New African, London, July 2000 、および「エヤデマの後継について」(トーゴフォーラムのウェブサイト http://www.togoforum.com/SuccessionEyadema.htm に掲載)


(2003年3月号)

All rights reserved, 2003, Le Monde diplomatique + Shimizu Mariko + Jayalath Yoshiko + Saito Kagumi

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