アラブ世界に決着を付けるために

セリム・ナシブ(Selim Nassib)
ジャーナリスト

訳・斎藤かぐみ

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 アメリカがイラクを攻撃する(また、その余勢をかって「この地域に民主制を」樹立する)ために掲げる口実がどのようなものであるにしろ、この戦争が可能となるのは、アラブ世界が嘆かわしい状況にあるからでしかない。ベルリンの壁は崩壊し、ソ連はもはや記憶の彼方、世界は新たな時代を迎えた。なのに、アラブ世界は絶望的に変わらない。専制体制が圧倒多数を占めているのは何もこの地域特有のことではない。他の地域も、期間に長短はあれ、独裁政権の時代を経てきている。だがここでは、自由、民主制、近代を目指す大きな運動を社会が内側から生み出すことのないまま、年月が過ぎていく。時代錯誤の君主制と、多少とも文民政権を装った軍事政権が相変わらず権力を握り、イスラム主義の運動以外には一貫した反対勢力もない。アラブには、形だけはさまざまな抑圧しか選択肢がない宿命であるかのようだ。

 西洋では、これを見て反民主主義の芽はイスラムそのものに内包されていると論ずる者もおり、コーランの章句を証拠として引用してみせる。人種差別的なグループを越えて広まっているこの「基本見解」によれば、アラブの「後進性」はアラブ自身、そのメンタリティ、アラブが生み出し広めた宗教、政治文化の欠如などの為せるわざということになる。これに対してアラブの側は、それは断じて自分たちのせいではなく、自分たちを近代化の道からわざわざ締め出したのは西洋(植民地主義、帝国主義、イスラエル)じゃないかと言い返す。彼らもまた、自由の抑圧を生み出す章句をこちらは聖書や福音書から引いてみせ、十字軍や異端審問が現代のイスラム主義と比べて特にましなわけではないことを指摘する。そして、アンダルシアで黄金時代を迎えたアラブ帝国が、寛容と科学と文化の比類なき模範であったことを強調する。威勢のいい手拍子はそこまでだ。

 しかしアラブの側、西洋の側、あるいは双方ともに過ちがあるにせよ、次の問いに答えることが何としても必要である。なぜアラブは、これほど長い間、過去(栄光ある過去とはいえ)に絡めとられ、現在に足を踏み入れることができずにいるように見えるのか。この問題は言葉のあやにとどまるものではない。それは世界の平和を脅かしている。数カ月前、フランスのある新聞に、世界はその最大の産油地帯の停滞状態を長きにわたって許容するわけにはいかない、とする軍事専門家の論説が掲載された。彼の予測によれば、この不均衡がいずれ爆発を起こすことは必至であり、したがってヨーロッパはアラブ世界に介入できるよう、軍事戦略の見直しを迫られる。支離滅裂なことに、この理論をブッシュ大統領が実践に移そうとしている。ただし、それは「予防」と銘打たれた(要するに先制攻撃である)。 

 ウサマ・ビン・ラーディンは、彼の声を録音した数あるカセットのうち、ほとんど注目を引かなかった一節の中で、アラブ世界が「80年前から」衰退の途上にあると断じている。なぜ80年なのか。計算してみればよい。それは1920年代初めとなる。第一次世界大戦が終結し、オスマン帝国が崩壊し、英仏がアラブ一帯を委任統治領とした時期だ。アラブは4世紀に及ぶトルコの庇護下から離れ、それ以来、異教徒に支配されるようになった。この事実がビン・ラーディンの言葉を説明する。イスラム政体(カリフ制)なくして救済はない、と。

 この男の考えていることはさておいても、アラブがこうした時代の移り変わりになかなかなじめなかったことは事実である。彼らはそれまで、オスマン帝国に組み込まれた国境なきアラブ世界の中で暮らし、考え、行き来していた。君主はイスラム教徒といっても、外来のトルコ人である。自分たちの過去と独自性を鼻にかけていたアラブ社会にとって、それはかなりの屈辱だった。だが彼らはこの支配に甘んじた。オスマン帝国(俗界と超越界の間の「至高の扉」という実に美しい異称をもつ)は、時に乱暴な真似をすることもあったものの、帝国内の臣民に余計な手出しはせず、貢租・賦役とひきかえに日常生活は放任しておく良さがあった。ベイルートやダマスカス、エルサレムの普通のアラブ人たちは、税金を払い、息子を兵隊に出してしまえば、あとは自由放免だったと言ってよい。政治権力はよそにあって、自分たちが気に懸ける必要はなかった。彼らは家族や親族、共同体や地域、主従関係によってまとまり、パレスチナのアラブ人、レバノンのアラブ人、シリアのアラブ人などとして暮らしていたのであり、それぞれの出身の「国」とは彼らにとって国籍を意味するものではなかった。

二つの大戦の後に

 知識人は、オスマン帝国が不可避的に衰退しつつあり、明白な優位と野心をもつ西洋に有利な時勢であることを理解していた。彼らはこの状況に立ち向かうために、すでに19世紀末から「ナフダ」と呼ばれる大規模な文化的、政治的な復興運動を唱導していた。そこには、イスラム改革の意志、社会変革の意志、そしてアラブをやがては世界の一員とならしめるための活力の源を回復しようという意志が入り交じっていた。これを政治的な言葉で言えば、オスマントルコの支配から解放されることが必要だった。トルコ帝国もまたイスラム教国であったから、この解放はイスラムの旗印の下では為し得なかった。それは必然的に、構想途中のアラブ民族主義の名の下に、イスラム教徒もキリスト教徒も無宗教者も結集させる形で進められていく。

 イギリス(アラビアのローレンスを通じ)とフランスによって巧みに利用されたアラブの独立志向は、時が満ちればイスラム教徒の君主に反旗を翻し、オスマン帝国の崩壊に荷担するほど強かった。だが、その見返りに約束された独立の大アラブ国家が期待通りに実現しないことは明らかだった。イギリスは「ユダヤ民族の安住の地」をパレスチナに創設することに助力すると約束して、いっそう立場をまずくした。だまされ、打ち負かされ、傷つけられたアラブは、あれほど望んだ近代に向け、苦い気持ちを抱えて歩み出すことになる。

 ほどなく彼らの土地の上に国境線が引かれ、いくつかの国が作り出された。彼らは自分たちについて、君主の臣民であるという意識を捨て、別の意識をもたなければならなかった。それは(英仏の委任統治下にある)国民国家の市民という意識である。なぜ委任統治というものが行われていたのか。表向きは、やがて独立する予定の若い諸国の手をとり、教育し、統率し、民主的な機構を与えて、徐々に近代へ導いていくためだとされていた。

 このように分断された狭苦しい枠組みの中でも、ナフダの起こした風が吹き止むことはなかった。近代主義者にして自由主義者であり、エジプト独立の「父」と仰がれるサアド・ザグルールも、自分の活動を明白にその流れを汲むものと位置づけていた。エジプトの大作家ターハー・フセインは20年代に、東洋と西洋はギリシャ文明という同じ一つの幹から出た二つの枝であると述べた。ギリシャ文明の遺産はアラブ支配下のアンダルシアのおかげで西洋へと至り、西洋はそれを糧として発展した。それにひきかえ、東洋の枝の方は外国(トルコとイギリス)による占領下で抑えつけられたから、アラブ世界は失われた時間を取り戻し、西洋の近代に伍していける「東洋の近代」を強行軍で発展させる必要があった。

 みながみなターハー・フセインのように考えたわけではない。アラブの復興たるナフダとはイスラムの厳格な解釈に回帰することであると考えた者すらいた。しかし主流となったのは進歩主義的な解釈だった。アラブはこぞって、自分たちも世界をつかみ取ることができるということを懸命に示そうとした。

 それが成功しなかった理由は確かに多岐にわたる。だがアラブが重視したのは、イギリスの計画した「ユダヤ民族の安住の地」が、国際連盟によって同国の委任統治領、パレスチナに組み入れられたことだった。イスラエルはまだ建国されていなかったが、すでに仮想現実にすぎないうちから愛しき西洋をめぐる宿命のライバルとなっていた。アラブ人たちは、ヨーロッパのように装い、教養を身に付け、投票を行い、選挙された議会に従い、法を尊重する必要があった(その心構えは大いにあるつもりだった)。そのかたわら、言語道断な法の否定であり、なしくずしのパレスチナ強奪と思われる現実を(大なり小なりイギリスに身を売った指導者たちの下で)おとなしく堪え忍ばなければならなかった。

 1948年にはイスラエルの樹立が宣言される。アラブ人はまたもや世界の外に追いやられたと感じた。パレスチナ人の評判は、当時の指導者ハジ・アミン・アル・フセイニが大戦中に行ったヒトラーとの恥ずべき妥協のせいで、地に落ちていた。この状況下では、国際社会の同情(と負い目の意識)がホロコーストの不幸な生き残りに向かったのも当然で、イスラエル建国によって人口の4分の3が何らかの形で国外脱出を強いられたパレスチナ人にはまったく向けられることがなかった。こうして、第一次世界大戦後に裏切られたというアラブの古くからの恨みの上に、さらに激しい恨みが重なっていく。世界の一員になろうとするアラブの最初の大きな試みであった復興運動「ナフダ」の挑戦は、「ナクバ」というパレスチナの破局を前に挫折したのだ。

 この衝撃は甚大で、パレスチナの敗北に責任があると見られた政権や君主の大部分は、その後10年の間に消え去ることになる。口火を切ったのはエジプトである。革命によって、ナセルの率いる軍人集団が政権に就く。ナセルはアラブ統一、パレスチナ解放、そして(やや劣るが)社会主義の名の下に、新たな地勢図を描き出してみせた。アラブ世界は、一方にソ連と結んだエジプト、他方にアメリカと結んだサウジアラビアの二極に分かれた。 

第三次中東戦争とイラン革命

 現実には、相対的に世俗傾向の強いナセルの体制が、他のアラブ諸国でもある程度まで模倣され、近代の仲間入りをしようとする第二の大きな試みの出発点となる。エジプトは「アラブ連合共和国」を国名とする。そこには、この枠組みを徐々に他のアラブ諸国へも拡大し、国民国家の桎梏を打ち砕き、「湾岸から大西洋まで」広がる大規模な独立国家という「自然」な形をやがて取り戻すことで、アラブがようやく世界の一角を占めるようになるという期待がこめられていた。さしあたり、ナセル率いる「進歩陣営」は、その名の通り進歩(タカッドゥムというアラビア語が愛用された)の実現のため、あるいは少なくとも当時は進歩の象徴と見なされた国営化、農地改革、富の管理、近代化、教育、所得分配などの実現のために尽力した。ただし民主主義には往々にして「ブルジョワ」という形容詞が冠された。とはいえ、西洋とその生活様式に感じる魅力、西洋に受け入れられたいという願望がなくなるはずもない。ここでもやはり、反帝国主義的な言辞とは裏腹に、相手にされない悔しさが依然として主調低音をなしていた。

 逆説的なことに、自由と民主主義という価値を標榜するアメリカは、サウジ王室のサウド家をこの地域の主要同盟者とする。サウド家は家族的、社会的、宗教的な基盤をもつ専制君主制を敷き、石油収入でのうのうと暮らす一方で、国境を超えたイスラム主義者の宣教活動に資金を提供する。当時は共産主義打倒しか頭になかったアメリカは、「進歩主義者」を不信心者、共産主義者、無神論者、神の敵として描き出し、それに対抗すべくイスラム原理主義者に加勢するという戦略を手広く採用する。

 ナセルの興した運動が失敗した原因は確かにいろいろあるが、ここでもまた、アラブの世論はたった一つの原因しか見なかった。それは「ナクサ」、67年6月の第三次中東戦争における歴史的な軍事的敗北である。またしても世界から締め出されたアラブは、あらゆる失敗と不幸の元凶はイスラエルにあるのだと改めて痛感する。それに、そう思えば自分には問題がないのかと考える必要もない。敗北したアラブ民族は「陰謀」を叫び、自己批判を拒絶し、一切の反対の声を封じ、生まれたばかりのパレスチナの抵抗運動を希望のよりどころとする。70年、ナセル体制はその創始者の死とともに消滅するが、同様の体制はアサドのシリアとフセインのイラクに引き継がれ、両国は冷酷な軍事独裁体制として生き延びていく。

 反対陣営では、依然としてサウジがアメリカの重要な駒にとどまっていた。しかしナセルに勝利するとともに、石油価格が73年には4倍にはね上がった結果、サウジが介入と宣教に振り向けられる資金は急増した。サウジのドルによって買収され、イスラム主義勢力が浸透し、無力化されたアラブ世界の中で、やがてイラクとシリアが(遠方のアルジェリアとともに)アラブ民族主義の砦として浮上する。77年にはイスラエルとサダトのエジプトとの間で個別の和平合意が交わされ、アメリカはイスラム化全面支援戦略が功を奏したのだと自負するようになる。

 だが、それも長くは続かなかった。79年に勃発したイラン革命は、イスラム主義でありながら反米という、これまで知られていなかった取り合わせが充分にあり得ることを突如として見せつけた。イスラム共和国の建国宣言にも等しい大使館人質事件により屈辱を被ったアメリカは、フセインがこの聖職者体制に戦いを仕掛けるのをまんざらでもない様子で見守った。だがイランは抵抗し、流れを逆転し、脅威的な存在となった。シリアを除くアラブ諸国は確執を捨ててフセイン支持で結束し、ペルシャのシーア派イスラム主義の波が湾岸の油田地帯に押し寄せてくるのを抑え込もうとした。アメリカもフセインを後押しし、昨日までの敵を同盟国に数えるようになった。

 他の地域、特にアフガニスタンでは、旧来の戦略がそのまま維持された。アメリカはさまざまなイスラム原理主義グループを全面的に支援し、ソ連の占領軍とその息のかかったカブールの政権を打倒しようとした。支離滅裂である。対イラン戦争では、ほとんどのアラブ諸国がアメリカと結んでイスラム主義に敵対しているのに、アフガニスタンでは何千人ものアラブの義勇兵が、同じアメリカの支援を受けるイスラム主義勢力に加勢したのだ。

 88年、イラクはイスラム共和国との戦争で表向きの勝利を収める。しかし8年にわたる紛争で疲弊し、消耗し、復興を必要としていた。湾岸諸国がほとんど感謝を示さないことに傷つけられたフセインは、アメリカが大目に見ると信じてクウェートに手にかけ、その後、ブッシュにそれを見逃す気がさらさらなかったことを思い知らされるはめになる。イラクは第一次湾岸戦争で打ち破られるが、その政権が打倒されることはなく、アメリカはサウジに部隊と装備を置くようになる。そしてまさに、この聖地そばの「異教徒」の駐留が、元々は同じくアメリカによって訓練を受けた男、ウサマ・ビン・ラーディンの「反逆」に火を点けた。

殺戮という外科手術

 ビン・ラーディンが反対勢力の雄として登場した事実は、極めて重大な転機を示している。目標は、もはや「近代世界」に追いつこうと空しく走り続けることではなく、これを破壊することによって復讐し、その瓦礫の上に理想のイスラムの国を再建することだ。こうした黙示録的な言葉を語る(そして喜々として実行に移す)男は、どこかの馬の骨ではなく、サウジの特権階級に属する名家の大金持ち息子である。にわかに、この聖域中の聖域、アメリカがすべてを注ぎ込んだサウド王家に疑惑の目が向けられた。アメリカの調査官は恐るべき事実を発見する。9月11日の19人のテロリストのうち15人までがサウジ国籍であり、この国の機構の上層部から下層部に至るまで、無数の責任者が右手で親米を標榜しつつ、左手で「テロリズム」に資金援助していたのだ。

 ビン・ラーディンが開始したジハードでは、過去数十年にわたってサウジが築いてきた巨大な慈善事業ネットワークが養成所、アフガンからの帰還兵が先兵となった。その基盤となる神学的な主張が反啓蒙主義的であるにせよ、このとらえどころのない集団を動かすために用いられる手法は、グローバルで、領土にとらわれず、洗練されたサウジ金融帝国の経営手法によく似ていた。とどのつまり、アメリカが行ってきたイスラム化全面支援戦略が、アメリカ自身に強烈にはね返ってきたわけだ。社会の最大の敵だった共産主義者がいなくなったアメリカは、新たな敵を見つけて後がまに据えた。それは自らの手で作り出し、もはや手に負えなくなったフランケンシュタイン、すなわちイスラム主義者である。これまでの戦略をことごとく反転させたアメリカは、こうしてイスラム化全面敵視の十字軍を宣言し、全世界に参加を求めるようになる。

 この劇的な転換はまたしても、アラブというだけで標的にされているという印象をアラブに与え、彼らを帰属意識に凝り固まらせ、独立した個人の思考を完全に阻害してしまう。しかし、この地域に民主主義者がいないなどということはまったくない。社会に知られず、多くの場合に乱暴な弾圧を受けながら、彼らはほとんど外部からの支援なしに、極めて困難な闘争を行っている。だが、その主張は聞き入れられず、具現もされない。彼らは自分の属する社会を引っぱるには至らず、勇気ある孤立した個人にとどまっているように見える(1)

 しかし、アラブの民衆(ことにイラクとシリアの民衆)は、フセイン体制が血も涙もない独裁であり、アサド体制も父子二代を通じて、それよりましなわけでないことを知っている。流血の惨事とならない限り、これらの体制の崩壊は喜びをもって迎えられるだろう。だが今のところ、攻撃を前にして、独裁者は民衆と同じ言葉を語っている。彼が西洋の嘘の約束、二枚舌、イスラエルに与えた免罪を非難すると、民衆もそれに賛同する。アラブの団結とパレスチナの大義の正しさを語る時も、やはり賛同だ。結局のところ、自分たちはアラブ人であり、ともかくもアラブの共同体に属しているのだという感情の方が、手の届かない夢に思われる民主制への希求よりも強固だということだ。

 アメリカは今日、油田地帯に原理主義的な王室、軍隊、イスラム主義者がひしめき、アラブ世界が手に負えない錯綜した世界になってしまったことを発見した。この末なしの流れの中からは、混乱と紛糾だけしか出てこない。アラブのもつれた糸を解きほぐすためには、最低限の正義と人道をもって、彼らの想念の中核にある問題を解決することから始めてしかるべきだった。パレスチナである。確かにそれだけでは充分でなかったことだろう(イスラエルだけが問題ということは決してない)。しかし、独裁体制や共同体的思考、内閉的な姿勢、排除されているという感情、そしてあらゆる不幸の元凶にある「悪いのは他人だ」という反射的な弁明は、それによって根拠を失っていたはずだ。

 もう一つの解決法は、殺戮という外科手術によって決着を付けることだ。イラクを攻撃することで、アメリカはこの国に戦争を仕掛けるだけではない。世俗体制もあればイスラム主義体制もある現在のアラブ世界をそのまま相手とすることになる。これは蟻塚に蹴りを入れるに等しい真似であり、何が起こるかはごろうじろだ。孤独な全能感に酔いしれたブッシュは、イラク(世界第二の油田地帯をもつ)を従わせて、そこに「友好的」政権を打ち立てれば、どうも信用のおけないサウジ(世界第一の油田地帯をもつ)から自由になれると想像している。独裁政権をひっくり返し、油田を手中に収めさえすれば、イランも含めたこの地域一帯に、輝かしい民主的な未来が奇跡のように開けるというわけだ。今や問題は、次の一点に収束する。地球は(イギリスとイスラエルは別として)、この新たなストレンジラブ博士の企てに歯止めをかけるだけの重みをもっているのか否か。

(1) ジルベール・アシュカール「民主制から一人はぐれたアラブ世界」(ル・モンド・ディプロマティーク1997年6月号)参照。


(2003年3月号)

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