フランス出版界を襲った異変

ジャニーヌ&グレッグ・ブレモン(Janine & Greg Bremond)
共著『影響下の出版業』リリス社、パリ、2002年

訳・渡部由紀子

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 対イラク戦争の話題がニュースを独占しているなか、フランスの二つの軍需企業ダッソーおよびラガルデールが、産業界の再編と「提携」の動きに乗じ、報道・出版界で支配的地位にのし上がった。系列の出版グループ(であると同時に書店経営および新聞・雑誌発行も手掛ける)アシェットを通じ、すでに出版大手となっていたラガルデールが、ヴィヴァンディ・ユニヴァーサルの傘下にあった多くの出版「ブランド」を買収することにより、フランスにおける書籍流通の70%を牛耳ることになったのだ。欧州連合(EU)の競争当局が介入しなければ、同グループは他の欧米諸国には見られない独占的な地位を得ることになる。こうして少しずつ、平和を最大の関心事とはしない巨大な影響力が形成されていく事態に対し、マスコミ各社やマスコミ露出度の大きい知識人たちは立ち上がろうとはしてこなかった。[訳出]

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 アシェットグループの書籍部門には、すでにアシェット、ファイヤール、グラセ、ストック、リーヴル・ド・ポッシュ、アティエなどの出版社が名を連ねていた。そこへさらに、ヴィヴァンディ傘下にあったプロン、ペラン、デクーヴェルト、ラルース、ロベール、10-18、ポケットなどが加わることになった。これにより同グループは、政治関連書籍でずば抜けた地位を占めるだけでなく、文庫および教科書の4分の3、そして辞書の90%を発行することになる。

 こうしてラガルデールの支配が、あらゆる出版関係者(書店、著者、マスコミ、その他の出版事業者)に及ぶことになる。マーケティングを中心に据えた戦略の効率性、すなわちこの多国籍企業にとっての採算性の向上に伴い、著者や原稿の選定基準にはじまる本の作り方が大きく変わる。そして供給は画一化する。

 マーケティングの手に陥った本とはどのようなものか。プロン社(当時はヴィヴァンディ傘下)発行の『コゼット、または幻想の時代』を例に挙げてみよう。この作品の出発点には、下敷きとなるヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』の誘引力、そしてマスコミが飛びつきそうな論争性があった。プロン社は、ある作家(フランソワ・セレサ)に原稿を注文し、本の宣伝に22万5000ユーロの予算を見積もっていた(1)。広告そのものは、マーケティングの目に見える一面にすぎない。実際にはそれに加え、出版社が狙いをつけたメディアのネットワークが総動員される。

 しかし、この本には、ジャーナリストが何か発言すべきような、良質の論争性など何もない。そこで議論は周辺事情へとすり替えられる。『コゼット』の刊行に対するユーゴーの子孫からの抗議が無料の広告となり、さらに他方では『レ・ミゼラブル』の続編を出すのは時宜を得ているとの論評が登場する(2)

 メディアはこんなふうに、ある本を時の話題とすることにより、タイトルを記憶させ、本の山の中から浮き出させ、買う気にさせるという起爆剤的な役割を果たしている。その本が多くの新聞記事やテレビ番組で取り上げられれば、出版社は書店に対しても、こうした広告キャンペーンの効果を売り込むことができる。

 年度始めの2002年9月、660点の新作小説がどっと市場に流れ込んだ。どんな書店員やジャーナリストも、そのすべてを読むことはできない。半ば強制的な配本、マスコミの協力、売り上げへの影響は必至の文学賞受賞など、なんらかのプロモーションの恩恵にあずかった作品のみが、人々に広く知られるようになる。消費者は自分の好みで自由に本を買っていると思い込んでいる。しかし、実際には書店に置かれていたり、マスコミが話題にしているものの中からしか選んでいない。

 したがって、本の売れ行きは主に、プロモーションの方法や力の度合によるところが大きい。ある本の成功は、もはや独立した個人(批評家、書店員、読者など)のさまざまな決定の集成ではない。読者への情報提供に関与する関係者全般に対し、出版社が行使する影響力の産物なのである。ヴィヴァンディ出版部門を買収したラガルデールは、書店に対しても、新聞・雑誌、その他の出版社、著者に対しても、著しく影響力を強化することになった。

 書籍流通の70%を牛耳ることになる同グループは、書店経営における選択の幅を狭めると同時に、系列出版社の本を優先するよう圧力を掛ける力を持つ。これにより、ヴァージンやフュレ・デュ・ノールと同じくラガルデール系列の書店チェーン、ルレで起きている事態が一般化するおそれがある。つまり、アシェットの本の氾濫である。

書店に並べられるのは

 ラガルデールは、新聞・雑誌(エル、ジュルナル・デュ・ディマンシュ、パリ・マッチなど)、ラジオ(Europe 1、Europe 2、RFM)、テレビ(Canal J、MCM、Match TV、CanalSatellite、MultiThematiques)においても巨大企業である。これほど多くのメディアが系列出版社の著作を優遇することになるだろう。そのうえ、この出版界の新しい盟主の広告予算はあまりに大きく、その出稿停止は報道各社にとって大きな脅威となる。系列出版社が抱えるジャーナリストや著者の数も、ヴィヴァンディ出版部門の買収によって倍増する。ジャーナリストと特別な関係にあり、マスコミにもてはやされるのは、アシェットのお抱え作家についても同様である。報道各社への影響力は、これまでに築かれてきた独立系定期刊行物とのパートナーシップにより、さらに強化されるだろう。たとえば、ル・モンドとの間では月刊誌『ル・モンド2』が発行されている(3)

 本の商品化の流れに抵抗する小出版社の立場は弱くなる。多くの独立系出版社が、取次をアシェットまたはヴィヴァンディに委ねていたからである。この二つがラガルデールに集約されることにより、同グループの力はさらに増幅する。本が売れるためには、書店で人の目に触れなければならない。著作の流通をコントロールするということは、書店に置くかどうかをコントロールすることである。ある書物が市場から消えるのは、「消費者」が評価しなかったからではない。取次会社が本の生命に絶大な力を加えているからである。

 たとえば出版社リリスは、ヴィヴァンディ系列の出版社と共同編集で、地理と歴史の教科書を刊行していた。ヴィヴァンディはグループ再編後、これらの教科書を市場から引き揚げるとの判断を下した。リリスや執筆者陣には単独で刊行を続ける力はない。ヴィヴァンディはこれらの教科書を許可なく出版することを禁じ、さらに流通に関しても圧力を掛けた。こうして2001年、教師たちが新しい歴史教科書の見本を受け取ったのは、採用を決めるには遅すぎるタイミングだった。

 著者が出版され読んでもらう機会を得たいなら、彼らもやはりラガルデールの規則に従わなければならない。著者がマスコミとの関係を理由に選ばれ、マーケティングの観点から原稿を修正させられるケースは増える一方だ。ピエール・ブルデューは、企業集中がいかに画一化を招くかを分析した。「製品の差別化と途方もない多様化の神話の対極に、国内および国外における供給の画一化を置くことができる。競争状態は多様化をもたらすどころか均質化を引き起こす。最大限の公衆を追い求める生産者はオムニバス製品を追求する。すなわち、差別化されることも差別化することも乏しいがゆえに、あらゆる界、あらゆる国の公衆に通用する製品である(4)

 画一化が意味するのは、刊行される本の数が減ることではない。新刊書の点数がこれほど多かったことはいまだかつてない。これが多様性の証だと信じるのは、マーケティングの論理というものが、盗作にならないよう注意を払いつつ、同じような作品やうり二つの作品を次々に生み出していることを忘れている。なぜ出版社は、ターゲットが同じで、片方を買った人はもう片方を買いそうもない二つの作品を市場に送り込むのだろう。マーケティングの答えはきわめて実際的である。2冊の本が書店に並べば、1冊だけのときよりも多くの場所を占拠するし、2冊目があれば新鮮な印象をもたらす。この考え方は、売れ行きの善し悪しから、ふつうに考えられるのとは逆方向への影響を受ける。つまり、もしある本が「うまくいかない」なら、似たような本を作るのは無意味であるとされ、逆に売れ行きがよければ、類似品を出したくなってくる。『ハリー・ポッター』シリーズは全世界で1億部を売り上げ、プロン社(旧ヴィヴァンディ系列)は第2の『ハリー・ポッター』とも言える『ペギー・スー』シリーズを刊行した。このようにして作品数が増えても、読者の選択を真の意味では広げず、混乱させるだけだ。教科書の場合、マーケティングの論理は「典型的な教師」にターゲットを絞り、同じ販売テクニックを利用する。そのため、さまざまな出版社の教科書が、互いに似通ったものになってくる。

タブーと自己検閲

 書籍の画一化を招く過度の企業集中は、思想の表現をもふるいにかける。マーケティングは、商売人たちが短期的に採算が合わないと判断したテーマ(および著者)を排除する。(のちにノーベル賞を受賞する)サミュエル・ベケットの初期の原稿は、版元となったミニュイ出版が商品としての見込みだけを判断基準としていたら、決して出版されることはなかっただろう。公的な議論にとって基本的な著作、文学的創作や学術研究が、多国籍出版企業によって当然に重視されるこの種の基準に従う必要はない(5)。マーケティングのアプローチは、著者に原稿を修正するよう圧力を掛けることにより、著者の思想まで歪ませてしまうかもしれない。これにもっとも抵抗できそうな著者のほとんどは、マスコミによく取り上げられるおかげで、名前だけで本が売れるようになった人たちである。

 あらかじめ想定された需要に応じて思想にふるいをかけることは、民主的議論を妨げる。新しい独特の分析は、通念にぶつけてみることができなければならない。アルジェリア戦争の当時、もしミニュイ出版社長のジェローム・ランドンが、アンリ・アレッグ著『尋問』(1958年)やピエール・ヴィダル=ナケ著『オーダン事件』(1958年)を刊行する以前に市場調査に依拠していたら、これらの作品は日の目を見なかったことだろう。エリック・ホブズボーム著『20世紀の歴史−極端な時代』の出版をピエール・ノラ(6)が拒否したのは、売れる見通しがないという理由からだった。この本の仏訳はその後、コンプレックス社により翻訳され、5万部以上を売り上げている。

 ジョゼ・ボヴェ(マスコミの寵児であり、その意味ではマーケティングの論理にかなう著者)の本が、多国籍出版グループ(ヴィヴァンディ、次いでアシェット)によって出版されるとしても、それをもって多様性の表れだとは言えない。それはむしろ、政治分野や社会分野で活躍する人々が、多くの人に読まれることを望むとき(その価値はあるはずだ)、大手出版社を版元とせざるを得ない状況を示している。それを可能とする出版社がラガルデールだけになってしまえば、この企業は政治に関連して表に出る言葉をコントロールする絶大な権力を持つことになる。

 われわれが直面している極度の企業集中においては、この業界最大手がタブーとするテーマが増えることも懸念される。たしかに、右寄りや左寄りの本は、明らかに決まった買い手が付くから、今後も出版されるだろう。しかし、最大のタブーは、ラガルデールそのものを批判することだ。強烈な批判であれば尚更である(ラガルデールは軍需企業である)。おまけに、傘下のアシェットは多くの企業や政治家とつながりを持っており、彼らの機嫌を損ねたくはないだろう。逆に、しかじかの方向の意見、人物や企業に批判的な著作をこしらえるぐらい簡単なことはない。版元の利益とするところは、強制せずとも理解される。当然、それに沿った自己検閲も行われる。

 問題は、マスコミが言うように、企業集中の主役が「フランス系」多国籍企業グループか、よその国の年金基金かということではない。それよりも、法律の制定や業界団体の組織、規制手段や申立制度の創設を考えるべきだ。著者や小さな出版社、独立系書店を守るために。そして、出版が思想の表現という役割を果たすために。

(1) リーヴル・エブド、パリ、2001年5月4日号
(2) 2002年にはヴィクトル・ユーゴーの生誕200年を記念して、フランス各地でさまざまな行事が催された。[訳註]
(3) ル・モンド、2001年5月27日
(4) ピエール・ブルデュー『向かい火 2』(レゾン・ダジール出版、パリ、2000年)
(5) 「私はすぐさま、わが国の貴重な財産がごっそり外国に渡ってしまう危険を予感した」。ジャン=リュック・ラガルデール氏は、ヴィヴァンディ出版部門が資産を「アングロ・サクソンの投資基金」へ譲ってしまう危険を前に、これを自分が買収しようと決断した動機をこう説明した(レクスプレス誌、2002年10月31日号)。同氏は別の機会には、グローバリゼーションを賞賛し、フランスの閉塞状況を嘆いてみせていた。
(6) フランスの歴史家。また、名門出版社ガリマールの人文書部門で編集活動を行う。[訳註]


(2003年1月号)

* リード文の重複を是正(2004年5月31日)

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