W杯と韓国のナショナリズム

トリスタン・ド・ブルボン(Tristan de Bourbon)
ジャーナリスト、ソウル在住

訳・ジャヤラット好子

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 2002年6月に開催されたサッカーW杯で、韓国は世界を驚嘆させた。大会の手際が特によかったわけでも、スタジアムが満杯になったわけでもない。サッカーの試合に熱狂する人々の姿が、なんとも意外であったのだ。「Be The Reds」とプリントされた赤いTシャツを着て、韓国代表チームの快進撃に声を張り上げる何百万人もの観衆は、世界中のメディアで大きく取り上げられた。ポーランドとの初戦の時点では、全国各地に設置された巨大スクリーンで試合を見守ったのは80万人にすぎなかったが、韓国人の熱狂は日増しに高まり、敗退に終わったドイツとの準決勝の時には700万人の熱狂的なサポーターが街に溢れ出した。

 この愛国精神の爆発に、地元メディアが果たした役割は大きい。1998年のフランス大会の時、報道ぶりが国粋主義的だと言われたフランスのメディアにさえ、これほどの熱狂は見られなかった。もはや韓国メディアは時事問題を棚上げにし、きわめて重要なはずの地方選挙でさえ短信扱いにし、「サッカー」という言葉しか口にしないようになっていた。子どもたちが韓国は「世界の新しい王者だ」と胸を張るのを見れば、この国がどれほど興奮していたかがよくわかる。

 しかし、韓国代表チーム「赤い悪魔たち」によって繰り広げられた見事なゲームだけが、この素晴らしい1カ月の心地よく平和なムードを作り出したわけではない。普段はサッカーのことなどまったく念頭にない韓国の人々は、自分たちの国がスポーツの「大国クラブ」の仲間入りを果たしたことに歓喜していた。1990年代末に経済協力開発機構(OECD)に加盟した韓国が、ここに来てまるで別の分野でも一旗揚げることになったのだ。とはいえ、それはまったく新しい現象というわけでもない。韓国の人々はスポーツに単なる娯楽以上の意味を常に見いだしてきたからだ。

 「対戦」という言葉が表わしているように、スポーツの試合は何よりも国民の一体感を高め、自国の対外イメージを強く打ち出すことに貢献する。1988年のソウル・オリンピックは、誰の目にも明らかな一例だった。1年前に朝鮮半島の専門家パトリック・モーリュ氏が次のような解説をしている。「あの頃の韓国は、世界の主要国となったことを内外に証明したいと願っていた。日本の後を追い、より効果的により迅速に成果を上げていた。『日本にはオリンピックが来た。我々のところにも来ることになったのだし、日本以上にうまく成功させてみせる』と考えていた」

 このような青写真を手にした韓国にとって、今回の大勝利(韓国代表チームの活躍はこの言葉に値する)は、国民の誇りをますます高める一方だった。しかし、政府によって大々的に展開された「歓迎作戦」をあまり意識しないまま、外国のジャーナリストたちが韓国人の開放性とお祭り気分に驚嘆していたにしても、同じムードが韓国外交にまで広がっていたわけではなかった。

廬武鉉候補の発言

 6月29日のトルコとの3位決定戦の数時間前、黄海上では北朝鮮の船によって引き起こされた銃撃戦が展開されていた。これによる韓国側の死者は5人、負傷者は19人。韓国政府発表の続報によれば北朝鮮側には倍の犠牲者が出た。メディア、世論、またそれに続いた各党の政治家らは、政府の対北政策を変更すべきだと主張した。現在は野党となっている右派勢力にしてみれば、北朝鮮を動揺をさせることを恐れる必要はない。新たな事件が繰り返されるようであれば戦争を真剣に考えるべきだという意見すら出た。

 きわめて保守的なハンナラ党に所属し、2002年12月19日の大統領選で本命と言われた李会昌(イ・フェチャン)候補は、7月1日の記者会見で「我々は軍事政策を全面的に見直す必要がある」と公言し、「厳しい対処で臨むことが北朝鮮の軍事的挑発を止めさせる唯一の手段である」と述べた。金大中(キム・デジュン)大統領によって結成された新千年民主党の党員でさえ、「太陽政策」と呼ばれる対北緊張緩和政策に背を向けている。同党から大統領選に出馬した廬武鉉(ノ・ムヒョン)候補自身も、7月23日に次のような批判を述べている。「太陽政策は限界に達し、南北どちらの民衆からも支持を失っている。もはや『太陽政策』という言葉は使わない方がよいと思う。もし大統領に当選したら、私はもっと別の路線、国民の総意に沿った路線をゆく」

 韓国外交が変化を見せてきているのは、北朝鮮に対してだけではない。日本政府もこれを実感させられることになった。W杯の共同開催によって両国は近づいたと言われていたが、韓国は決勝戦の日が終わって以来、この隣国と衝突を繰り返している。8月初旬には一部の議員グループが、両国間で領有権を争う日本海の独島(日本名:竹島)に上陸する意思があると発表した。日本の歴史教科書に関しては幾度となく批判が投げかけられている。さらに、「日本海」という名称の変更を求める議論も高まっている。韓国側は「日本による植民地時代に付けられ、日本民族中心主義から発した」この名称を拒絶し、「東海」と呼ぶことを望んでいる。

 また長年の同盟国である米国に対しても、ナショナリズムが現れ始めている。「我々は米国と全体的に合意している」。新千年民主党の廬武鉉候補はこう言いながら、「しかし米国が国際秩序を確立しようと意欲を見せ、核兵器開発の脅威があるからと北朝鮮を悪の枢軸に含めるという点で、我々は見解を異にしている」と語る(1)。このような苛立ちは、3月のブッシュ大統領訪韓に際した金大中大統領の顔つきにも滲み出ていたが、このアジアの同盟国は基本的に沈黙を守っている。北朝鮮に対する米国政府の強硬路線への韓国の違和感が、公式の席で金大中大統領の口から漏れたことはない。

 中国との関係も同様である。8月26日、中国へ政治亡命を願い出ようとして中国外交部の門前で逮捕された7人の北朝鮮住民を「彼らの意思に反して北朝鮮へ」送還することのないようにとの要請が、初めて韓国外務省のスポークスマンの口から発せられた。それまで韓国政府は政治的リスクの高いこの問題について、明確な態度をとってこなかった。強力な隣国である中国が、これらの「脱北者」を「不法移民」とみなしているからだ。

 とはいえ、韓国は中国が2番目の貿易相手国であることを忘れたわけではない。中国に対する批判はまれで、程度も限られている。たとえば韓国政府はアシアナ航空に対し、ダライ・ラマ14世がインドから韓国、次いでモンゴルに向かう二つの便に搭乗することを拒否するようにと命じた。しかも韓国政府は、中国政府の不興をかわないよう、このチベットの政治的、宗教的指導者へのビザ発給を過去にも認めていない。また9月中旬、ある建築賞の授与式をソウル市が直前に取りやめている。受賞者が1989年の天安門の学生運動に参加していたことが理由だった。

経済的野心の回復

 ナショナリズムの高まりは経済の分野にも表れている。企業も政府と同様に、国の規模や能力を顧みずに過大と思われるような目標を立てている。W杯で掴み取った順位を意識してか、政府は1997から98年の金融危機以前には世界貿易で第13位にランクしていたこの国を「あと10年で世界第4位の経済大国にする」と表明した。

 経済の落ち込みによって一度はブレーキのかかった韓国の野心が、回復する時を迎えたのだ。しかも、この国は素早く立ち直り、再び国際競争に打って出た。企業の基本的な姿勢は変わっていない。「W杯効果はまだ完全に表れたわけではない。このような自らへの信頼と自信は、もともと韓国に存在していたからだ」と、コンサルタント企業ハイドリック・アンド・ストラグルズのソウル支社長フィリップ・ティロー氏は言う。そして、「三星(サムスン)の21世紀戦略は、世界のあらゆる分野でトップに立つことだ。それ以上でも以下でもない」と述べる。たしかに7月中旬、三星グループの幹部である李潤雨(イ・ユンウ)氏が「2005年までに第3世代の電話、デジタルテレビ、コンピューター部品の各分野を制覇する。そして『世界をリードする』製品を10種類そろえ、800億ドルの売上を達成する」との意気込みを語っている。現在の売上高は250億ドルである。

 外国市場の征服が、韓国財閥の中心テーマに返り咲いた。政府が掲げた支出と投資の引き締め政策に従う企業はもはやない。三星は毎年宣伝に4億ユーロ、マーケティングと研究開発にそれぞれ20億ユーロ相当を使っている。基本事業を軸とした再編など、もはや視野の外だ。このグループは現在も64の関連会社を傘下に置いている。財閥企業は非常に高いところまで、非常に短い時間で這い上がろうと考えているのだ。わずか5年足らず前に危機をもたらした過ちは、あっさりと忘れられた。

 懸念を呼ぶような要因も現れているだけに、韓国経済の見通しには暗雲が漂っているように思われる。多くの専門家が新たな危機を予測している。今回危険視されているのは国民の借金だ。国民経済は完全に信頼に足る状態にあり、国民はそれをめいっぱい享受すべきだと思わせるような言葉が飛び交う中で、人々は金融機関から今までとは桁違いの金額を借り入れるという無茶をするようになった。9月25日に発表された韓国銀行の報告書によれば「各家庭の借金の平均額が平均年収に近づいている」という。

 W杯は韓国ナショナリズムに拍車をかけたが、それを作り出したわけではない。それは中国と日本という二つの大国に挟まれたこの国の歴史と渾然一体となっている。13世紀にモンゴルによる最初の侵略を受けて以来、朝鮮半島は常にこれら隣国の統治または支配の下に置かれてきた。日本による植民地支配の始まった1905年は、国民意識を誕生させる重要な契機となった。さらに1945年、米国とソ連による解放と南北分断が、「コリア」という一つの同じ国への帰属意識を強固なものとした。

 その時から、統一は南北双方の目標となった。「冷戦時、二つの陣営はそれぞれ自分の側が正統な政府であるとして互いに中傷し合ってきた」と、延世(ヨンセイ)大学で国際関係論を教える金達中(キム・ダルチュン)教授は語る。「こうした中で、学生や知識人たちは韓国政府を強く批判した。韓国政府のナショナリズムが北朝鮮のそれに劣ると見たからだ。こうした国内事情は日本との関係にも反映され、それほどではないにせよ、他の友好国との関係にも影響を与えている。ナショナリズムを高く掲げることが、国民に対して指導者のイメージを強化したのだ」

 具体的に言えば、政府は国民に対し、政府の活動と国民の支持があったからこそ、韓国は世界の主要国の一つになれたのだと信じ込ませようとした。メディア、そして国の教育制度が、こうした考えを伝達する完璧なメッセンジャーの役割を務めてきた。学生が国外に出て(2)、そこで現実を知ることになった今では、その役割がますます必須になっている。「これまで常に、我が国は世界の主要国の一つであると聞かされていました」と、韓国人のジョンホは言う。「僕がフランスへ来て思い知らされたのは、世界地図の上で韓国の位置を示すことのできる人が一人もいないということでした」

(1) 9月10日、ソウルで行われたアジア・ヨーロッパ・プレス・フォーラムでのスピーチから。
(2) 1989年まで、韓国人は国外渡航を認められていなかった。


(2002年12月号)

All rights reserved, 2002, Le Monde diplomatique + Jayalath Yoshiko + Saito Kagumi

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