早春のバルカン半島北西部を行く

ジャン=アルノー・デランス特派員(Jean-Arnault Derens)
ジャーナリスト、ツェティニエ在住

訳・三浦礼恒、斎藤かぐみ

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 それらは現実のプロジェクトとして動き出すのだろうか、それとも発表の効果を狙っただけなのだろうか。欧州連合(EU)はこれまでに、道路や鉄道、水路の結合を通じて大陸内の貿易活動を刺激することで経済発展をもたらすという触れ込みの下、いくつもの「発展回廊」を設定してきた。その中にはバルカン半島を通過するものも多い。だが、これらのプロジェクトは特別な予算があるわけではなく、民間投資に大きく依存しており、地域格差の解消の解決にはあまり役に立たずに終わってしまうかもしれない。さらに、我々がウィーンからクロアチアの港町プローチェまで縦走した「回廊5c号線」予定地には、旧ユーゴスラヴィア戦争の爪痕が色濃く残っている。クロアチアは未だ戦争の歴史を閉じることができずにおり、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは1995年以来ずっと国際的な保護領に等しい状態にある。人や物の自由な移動という点についても、本決まりとなったハンガリーの加盟によりEU諸国とバルカン諸国の間に新たな境界線が構築されることになれば、状況は再び後退してしまうことになるだろう。[訳出]

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参考:



 ヨーロッパ発展回廊5c号線は、ブダペストからボスニア・ヘルツェゴヴィナを縦断し、クロアチアの港町プローチェへと至る。但しこれは地図の上には存在するが、未だ現実に目に見えるものとはなっていない。この回廊ができれば、数年前まで戦火の内にあったバルカン半島の域内貿易の集中と増大につながると考えられている。しかし、それが紛争によってできた傷口を塞ぐことになると信じているのは、おそろしく能天気な少数の先鋭的な人々だけにすぎない。経済発展という展望についても、多くの者は一笑に付す。

 いくつもの「発展回廊」が交わる予定のハンガリーの首都ブダペストは、ヨーロッパの交差点としての役割を改めて確認することになる。鉄道が横切る郊外の住宅街には、新たに生まれた中間層の平穏な繁栄が感じられる。2002年4月、右派民族主義者のオルバン首相は社会党、言い換えればハンガリーの経済自由化とEU加盟の熱狂的支持者に転じた旧共産主義勢力に敗北した。その数週間後、かつて政治警察への情報提供者であったというメッジェシ新首相の過去が表沙汰になり、大きなスキャンダルを巻き起こした。しかし、親EUというハンガリーの強固な方針が揺らぐことはなかった。

 ハンガリーは中央ヨーロッパに属することを自覚しつつ、その目を絶えず西方へ向けている。南方というのは、夏場の移動を別とすれば、ハンガリーにとっては優先順位が低い。ハンガリー人はダルマチア(クロアチア)からモンテネグロに至るアドリア海沿岸で、金を落とす旅行者として評判を高めつつあるが、ブダペストのビジネスマンたちの旧ユーゴ諸国への関心は極めて低い。回廊5c号線の終点にあたるプローチェの港湾責任者も、ハンガリーの国内市場が同港には全く依存していないことを認めている。ハンガリーは内陸国であって、その経済発展を支える交通手段はもっぱら陸路、また付随的にはドナウ川に依存する。

 ハンガリーと南方諸国の間の関心は一方通行に留まっている。2002年春、ボスニアのトラックが大挙してハンガリーに向けて出発した。ボスニアやクロアチアでは未だ自給できない農業用の種子をピストン輸送するためだ。ボスニア北部からハンガリーまでの道路そのものは数時間しかかからないが、国境越えを考えれば24時間は見ておかなければならない。クロアチアとハンガリーの国境で足止めされたトラック運転手たちは、回廊5c号線のことは聞き知っていても、その実現はあまり信じていない。「ボスニアでは、プロジェクトや発表があるばかりで、何一つ具体化しないのさ」とボスニア北部のブルチコから来た運転手、ミロシュは言い放つ。

 ボスニアにとって農業用の種子の輸入は死活問題だが、ハンガリーにとってボスニア市場は二の次にすぎない。農業はボスニアでは戦争の痛手から回復しておらず、クロアチアでは公平を欠いた民営化のせいで破滅的状況となり、地元産品よりも競争力のあるEUの在庫農産物に国内市場が大きく開放された。現在、消費者に提供される食品類は高価で、大概は品質も悪いものでしかない。そしてクロアチアの国内農業は壊滅してしまった(1)

 ハンガリー国境の向こう側、クロアチア北東部スラヴォニア平原一帯には大規模農業コンビナートが広がっているが、かつての活況はもはや見る影もない。まだ先行きがありそうなのは遺伝子組み換え作物だけだ。県庁所在地オシエクから数キロのところには、数百ヘクタールにわたって有刺鉄線で囲まれた穀物畑が広がり、ザクレブの農業研究所の立て札が立てられている。

 もう少しだけハンガリー側を見てみよう。南部の大都市ペーチュまで来ると、例の回廊への関心が少しは見られるようだ。市の中心部の豪壮な建物の中にあるEU情報担当部を訪ねると、そこの役人がハンガリーのEU加盟に関する文書の束を振りかざしてみせた。しかし例の回廊に関する文書はなかなか出てこなかった。彼らの大きな関心事は、それよりもペーチュとクロアチアのスラヴォニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのトゥズラを結びつけるEUの地域間協力構想である。「ペーチュとスラヴォニアは同じ文化を持っており、長い間オーストリア・ハンガリー帝国という同じ共同体に属していました。そしてどちらも人々と宗教の入り交じった地域となっています。ペーチュにもスラヴォニアと同様、クロアチア人、セルビア人、ルテニア人(2)、スロヴァキア人、ウクライナ人が住んでいます」と解説した後に、この役人は残念そうに付け加えた。「言うまでもありませんが、ボスニアとの文化的なつながりはそれほど強くありません」

夢を見る人々

 クロアチアに入ると、スラヴォニアの県庁所在地オシエクには、EUの地域間協力構想の熱狂的支持者が何人もいる。その一人が、トゥジマン大統領時代(1990-99年)の民族主義に断固として反対し、現在は地方民主局の責任者を務めるミリエンコ・トゥリャスキ氏だ。地方民主局は、芽生えたばかりの民主的文化を育み、独裁体制の復活を抑えることを目指している。「もちろん、我々はお互いに理解できる言葉を話すセルビアやボスニアと特別に強い関係を持っています。EUの地域間協力構想は、歴史のみならず地理によっても結びついた広範な地域というものを改めて定義しようとする試みなのです」とトゥリャスキ氏は言う。

 EUの地域間協力構想を第一に支えてきたのは、民族主義体制の猛威を免れた地方行政当局である。ボスニアでトゥズラが社会民主主義勢力の牙城となっているのと同様、オシエク市はずっとトゥジマン政権下の反体制派の拠点となってきた。オシエク商工会議所の会頭もまた、地域間協力構想を支持しているが、南のボスニアとの貿易を強化するよりもドナウ川を通じた関係を発展させる方がよかろうと考えている。2001年2月、オシエクの地方民主局は「発展回廊7号線」に相当するドナウ川沿岸地域の代表者を集めた円卓会議を開催した。ユーゴ地域の民主化によってセルビアのヴォイヴォディナ自治州との関係が回復したとはいえ、ドナウ川を通じた貿易は未だ非常に限られたものに留まっている。

 地方民主局を創設したダミール・ユリッチ氏は、現在クロアチア議会でスラヴォニア・バラニャ地域主義党に所属する唯一の代議士である。彼もまた、多民族性こそが地域の持ち味の一つだと考えている。オーストリア・ハンガリー帝国軍がスラヴォニアをオスマン・トルコから奪回したのは18世紀のことだ。そして、この領土には様々な民族が住み着いた。これらの入植者には各地から来た農民や、ウィーンの政府から送り込まれたセルビアの軍人などがいた。地域主義勢力はスラヴォニアと同様に多民族が混在するイストリア半島などでも強力で、クロアチア民族だけに依拠する民族主義に対し、経済発展と民主化の構想を軸として地域の全住民を結集させる地域主義をはっきりと打ち出している。

 地域主義的な考え方は隣接するセルビアのヴォイヴォディナの自治主義者たちにも見られ、ルーマニアのトランシルヴァニア地方でも広がっている。こうした動きは、オーストリア・ハンガリー帝国の歴史と文化が色濃く残る多民族地域だけに限られたものなのだろうか。それとも、国民全体の中で相対的に恵まれた状況にあり、他の地域からエゴイズムだと非難されることを承知の上で、独自の発展を目指そうとする地域全般に特有のものなのだろうか。

 しかしながら、スラヴォニアが戦争の歴史を閉じるに至ったと言うことはできない。ハンガリーとの国境近くには、「東スラヴォニア・西スレム・バラニャのセルビア人自治区」に属していた小さな町、ベリ・マナスティルがある。クロアチア政府が地域一帯の統治を回復したのはエルドゥト追加合意の後の1998年1月になってからのことだ。町の広場には、かつてチトーのパルチザンが足を踏み入れる以前にこの地を解放した赤軍の栄光を称える記念碑が建っており、60代の力強い女性マリヤが孫娘の遊びを見守っている。彼女はクロアチア系で、アドリア海沿岸で8年間の避難生活を送った後、ようやく1999年に自分の町に戻ってきた。「あちらでは、私たちは難民として最低限の生活支援を受けていました。ここには仕事も、人道的援助も何もありません」

 戦争の爪痕は、かつて「東スラヴォニア・西スレム・バラニャのセルビア人自治区」の首都とされたヴコヴァルでは、今でもはっきりと目に見える。復興計画が本格化したのはここ2年来のことで、町は未だかなり寂れている。戦争前は約6万人が暮らしていたが、現在では1万人ほどのセルビア系住民が住んでいるほか、僅か数千人のクロアチア系住民が戻ってきたにすぎない。

 スラヴォニア各地の村では、よく「売り家」の看板を掲げた家があるが、これはセルビア系住民の脱出が今なお続いていることを意味している。地方民主局のトゥリャスキ氏は、こうした村の一つ、テニヤに居を定めた。そこの不動産価格が魅力的だったからだ。戦争中、この村はセルビア民族主義勢力の重要な戦略拠点として、オシエクの町を砲撃するのに使われた。トゥリャスキ氏の隣人はセルビア系だが、生まれ故郷を去ろうなどという気持ちは微塵も持ち合わせていない。2人の隣人たちは一緒に蒸留した果実酒を味わいながら、スラヴォニアに平和が訪れる日の夢を公然と語り合っている。

 ダルコ・ヴァラガ氏もまた夢を見ている。ハンガリー系であり、長い間クロアチアの民族主義政党HDZ(クロアチア民主同盟)の党員だった彼は、1998年にクロアチア政府による統治が回復された後、ビリエの町長になった。ビリエはドラヴァ川を挟んでオシエクに隣接する小さな町だ。ドラヴァ川を境として(オシエクのある)南側が歴史的にスラヴォニアとされ、(ビリエのある)北側がバラニャと呼ばれる。ビリエは住人の大半がハンガリー系で、広大な湿地帯が広がるコパツキ・リット自然公園で知られている。ヴァラガ氏はこれを再び魅力的な観光地にしたいと考えている。

 しかし、この地にも歴史の爪痕が重苦しく残っている。自然公園のかなりの部分は地雷が撤去されておらず、ビリエから数キロのところには、セルビアのミロシェヴィッチ大統領(1990-97年)とクロアチアのトゥジマン大統領が1991年当時、何度も会談に使ったティクヴェシュの狩小屋がひっそりと佇んでいる。この建物は後にセルビア人民兵の休憩所として使われた。回廊5c号線ができれば、外国人観光客がビリエに戻ってくるだろうと期待されている。だが、クロアチアではエコツーリズムは未だ黎明期にあるにすぎない。

開通しないままの橋

 ボスニア・ヘルツェゴヴィナに入ろうとする地元の人々は、ジューパニャの大きな検問所を通過するよりも、両国の国境となっているドナウ川の支流、サヴァ川を横切る渡し船を使って回り道を避けようとする。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内の「セルビア人共和国」たるスルプスカ共和国の中にあるクロアチア系の飛び地オジャクにも、こうした渡し船で向かうことができる。この小さな町は戦争によって破壊されてしまった。クロアチア系住民とモスレム系住民がセルビア人勢力によって追放され、次いで今度はセルビア系住民が追放された。町の復興は国際社会の寄付によって順調に進んでいるが、ボスニアではありがちなように、若干の国境地帯の密貿易を除いて経済活動は壊滅状態にある。

 サヴァ川にはもうすぐ新しい橋が開通する。回廊5c号線の予定地にはスルプスカ共和国の小都市シャマツがある。この町は理論的には交通の要所となる条件を備えている。河川港に案内してくれたシャマツの市長は、「これはボスニア最大のものですが、戦争が始まった時から完全に活動が止まっています」と述べた。そこから見えるのは、建設用の砂や砂利を採取するために川底をさらう数隻のクロアチアの浚渫船だけだ。

 鉄道駅にもまた荒廃した風景が広がっていた。「昔はシャマツがサラエヴォからの列車とバニャ・ルーカからの列車の合流地点になっていました。ここからクロアチアに向かい、国境を越えるとすぐに分岐点があって、列車はベオグラード、ザグレブ、ブダペストへと向かいました」。今ではシャマツはスルプスカ共和国の鉄道の終着駅でしかなく、バニャ・ルーカからの列車が1日2本到着するにすぎない。

 市長はサヴァ川にかかる立派な橋を示し、EU諸国の融資によって建設されたものだと語る。この素晴らしい橋は2002年2月に完成しているが、未だに開通を見ていない。ボスニア側では一人の警察官が所在なさげに警備に立っている。クロアチア政府の側では、橋から数キロのところでザグレブとベオグラードを結ぶ高速道路に接続するというメリットもあり、この新たな国境を開放する手はずを既に整えている。橋が開通しない原因はひとえにボスニア側にある。

 「ボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境は、2つの統治主体が共同管理する連邦警察によって警備されています」と市長は教育的な口調で説明する。「それに対して税関は管轄が分かれ、関税がそれぞれの大きな財源となっています。ここではサヴァ川から200メートル幅の帯状の地帯は(モスレム系とクロアチア系のボスニア・ヘルツェゴヴィナ)連邦の管理下にあり、それゆえ連邦は税関の専権を主張しています。しかし、この国境の詰所はボスニア最大規模となるはずで、スルプスカ共和国領内でも大規模な税関事務所の建設が予定されています。共和国政府は関税の分配について連邦と話し合いたいと考えていますが、連邦は全部を独り占めしたがっているのです」

 シャマツの経済は他に比べればずっとましな状況にある。歩行者用の広場を新設し、1992年から95年の戦争に参加したセルビア人戦闘員の記念碑を建てたほどだ。スルプスカ共和国の物価はクロアチアに比べ、また連邦に比べてもかなり低く、シャマツの店には「敵地」からも得意客がやって来る。市長は回廊5c号線については何の幻想も抱いていない。「経済による和解なんて言いますけど、ビジネスにはやっぱり相互理解が必要です。なのにEUは我々の地域に大して投資するつもりがない。ここはヨーロッパの忘れられた片田舎でしかないのです」

 サラエヴォまでの道は素晴らしいとは言いがたいものだった。寒々しい風景の中に、破壊された家や焼かれた家が今なお残っているのが見える。サヴァ川沿いのポサヴィナ平原を抜けると、少しずつ起伏が増えてくる。かつてボスニアの鉄鋼産業の中心地だった近代的な大都市ゼニツァは、独特の戦争体験を秘めている。ボスニアの大都市の中では最も前線から離れており、戦闘による直接の被害は被らなかったが、ボスニアに新たな聖戦を求めて外国から来たイスラム義勇兵、ムジャヒディンたちの拠点となったのだ。

 戦争終結後の数年間、周辺のいくつかの村には猫の額ほどの「イスラム首長国」が並び立っていた。これに関して寛容な姿勢をとっていたボスニア政府も、国際社会の圧力によって厳しく臨むようになり、ゼニツァに戻ってきたムジャヒディンも人目をはばかるようになった。

 ゼニツァのイスラム共同体の事務所のそばには、最新型のベールやコートを陳列したブティックもあるが、ボスニアの他の地域と同様、戦闘的なイスラム主義を目に見えて感じさせるようなものは少なくなった。市場に入ると、顎髭を長く伸ばした何人かの若者がCDやDVDを売っている。ボスニア軍「イスラム正規部隊」で戦争に加わっていたとのことだが、今はソフトウェアやアメリカ映画の海賊版を売って暮らしている。

 かつてトゥズラで宗教指導者を務めたボスニア「進歩派イスラム」の有力指導者、ムハンマド・エフェンディ・ルガヴィッチによれば、急進派は少し息をひそめて長期戦略を考えようとしているという。「彼らはイスラム共同体の教育組織と機関を手中に収めています」と語るルガヴィッチ師は、現在ボスニアのイスラムの主流となった厳格主義に反対したために、あらゆる役職を解かれている。

変わりゆくサラエヴォ

 ゼニツァとサラエヴォの間は、回廊5c号線の工事が最も具体化している区間であり、高速道路が形を成しつつある。但しボスニアの速さで、つまり非常に緩慢に。工事を続ける資金は既に底をついた。2002年3月15日には、回廊5c号線の国際高速道路に関する国際セミナーがサラエヴォで開催された。シャマツからドボイ、ゼニツァ、サラエヴォ、モスタルを通り、クロアチア国境にまで至る道路プロジェクトは全長328キロに及び、その総コストは24億6128万ユーロに上る。それに引き換え、南東ヨーロッパ安定化協定の枠組みで現在までに出資が約束されたのは、サラエヴォ東南の若干10キロ区間の改良工事、それにチャプリナの町とヨーロッパ幹線道路E73号線を結ぶ高架の修復工事についてだけ、合わせて僅か5700万ユーロにすぎない。

 サラエヴォに近づくと、相変わらず工事中のE73号線は、経済発展めざましい地区にさしかかる。もう少し先、空港に向かう道路の脇には、「アンテレクス」の看板の掛かったスーパーマーケットが店開きしている。ボスニアに3店舗を展開するフランス企業「アンテルマルシェ」系列の店だ。バニャ・ルーカへの「アンテレクス」の進出は、「スルプスカ共和国最大の外国投資」ともてはやされた。しかし、店に並ぶ商品はボスニアのどこでも手に入るような質の悪い輸入品だけで、ほとんどのボスニア人にとっては高すぎる値札が付いている。

 サラエヴォの中心部へと向かうスナイパー通りには、数カ月にわたる砲撃を受けた日刊紙オスロボジェーニェ本社のすさまじい残骸を除き、もはや戦争の爪痕を留めるものは何もない。目に映るものと言えば、修復されたアパート、広告の看板、「日本国民の寄贈による」といったロゴの描かれたピカピカの路面電車、それに湾岸諸国のイスラム主義者がバルカンでも採用させようと目論んでいる基準に適った巨大モスクだけだ。

 今の状況に対する町の住民は評価は強烈だ。現在は最悪の時期だという。「戦争中は悪夢のようでした。でも、悪夢はいつか終わるとわかっています。戦後すぐの時期には、国は快復期にあると考えられていました。快復期というのは微妙なものです。でも今はもう、私たちは希望を失いつつあります」と、市の中心部にある洒落たカフェにいた若い女性グループがコメントした。

 分裂した政治と低迷する経済に押され、新たな人口流出が始まっている。戦争で追われた難民がようやく避難先から戻りつつある一方で、若者をはじめとする多くのボスニア人は、外国で生活をやり直すことを夢見ている。

 町を見渡してみても、こうした人口移動の実態はなかなかつかめない。サラエヴォの人口は、戦争前も現在も約50万を数えるが、かつて15万人いたセルビア系住民のほとんどは、その間に町を離れていった。ある地元のジャーナリストは次のように語る。「多くのセルビア系住民は、サラエヴォ包囲の間もモスレム地区に踏みとどまり、町の防衛と行政に加わりました。この人々は、平和が戻った後に出て行ってしまいました。仕事をクビになったり、住んでいたアパートがモスレム難民に割り当てられることになったと告げられたりしたせいです」

 極めて不正確な統計によれば、サラエヴォに残るセルビア系住民は最大2万人ほどにすぎないという。サラエヴォに住んでいたクロアチア系やモスレム系の住民も、戦争中に相当数が町を去っていった。平和が戻った後も、経済低迷による人口流出が続いている。現在50万人の住民のうち、昔からの住民は10万か15万を数えるにすぎない。他は、よそから町にやって来た避難民だ。昔からの住民の中には、「サラエヴォの精神は戦争中も息絶えることはなく、むしろ平和が致命傷を与えたのです」と苦々しげに言う者もいる。

別々の鉄道会社

 サラエヴォを出るとモスタルへと至る道路が始まるが、「高速道路」のはずの10キロほどの区間も速度制限がある。道路は既にパシャリッチの手前から、再び穏やかな国道といった趣を取り戻す。パシャリッチは、サラエヴォ包囲の際に激戦地となったイグマン山の麓にある小さな町だ。モスタルに近づくにつれ、道は大きなカーブを描いていく。辺りは農村地帯で、春の草木が生い茂り、戦争で破壊された家々を隠している。タルチンとコニツの間には、路傍で蜂蜜や果物を売るテントが何十個も連なっていた。車を止める者はめったにいないが、売り子たちは雑談やチェスをして時間をつぶしている。

 モスタルより南では、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦はもはや名ばかりのものとなる。道路上方に張り渡された鉄線には、公式には廃止されたはずのクロアチア分離主義者の国、ヘルツェグ・ボスナ共和国の旗が踊っていた。大都市モスタルは今なお東のモスレム地区と西のクロアチア地区に峻別されている。クロアチア系住民は町を掌握したことを示すために、大聖堂の鐘楼のそびえ立つモスタルを見下ろす丘の上に、巨大な十字架をしつらえた。しかし、1993年11月にクロアチア側の砲撃により破壊された16世紀オスマン・トルコ時代の橋の再建は、ようやく緒に就いたばかりにすぎない。

 モスタルから数キロ南に行った丘の麓にある小さな町ポチテリにも、戦争の爪痕がはっきりと残っている。5つの小さなドームを戴いたイスラム教の「シシュマン・イブラヒム・パシャ神学校」は、ユーゴスラヴィアに観光客が押しかけた古き良き時代に、レストランに作り替えられていた。この建物は修復中だが、扉はいずれも南京錠で固く閉ざされている。そこから少し下ったところにあるポチテリ唯一のカフェにいたのは、真っ昼間から酔っぱらった近隣の若者たちだけだった。「ここはクロアチアさ」と一人が言う。ちょっとでも反論しようものなら、一悶着になりそうな口ぶりだった。

 ポチテリから数キロばかり先にあるチャプリナの町には、昔は多くのセルビア系やモスレム系の住民がいたが、クロアチアの民族主義勢力が容赦ない民族浄化を進めたために、モスレム系の難民は一人も戻ってきていない。この町の駅は、プローチェとボスニアを結ぶ輸送のターミナルの役割を果たしている。クロアチアから来た列車が、ここでボスニアの機関車に接続されるのだ。

 ぼろぼろの建物の中では、鉄道員が話に花を咲かせていた。以下は駅長の説明だ。「我々は今でもヘルツェグ・ボスナ鉄道に属していますが、現在ではボスニア・ヘルツェゴヴィナ鉄道と接続する必要も生じています。我々は人員削減を敢行し、ボスニアよりはずっと競争力がありますけれど、協力はうまくいっています。しかし、スルプスカ共和国鉄道とは何の関係も持っていません」。つまりボスニアには、全長1000キロそこそこの鉄道に関して、3つの別々の鉄道会社があるということだ。モスタル近郊の状況は異様としか言いようがない。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの会社とヘルツェグ・ボスナの会社が、数キロ毎にそれぞれの区間の保守管理を担当しているのだ。「これがボスニアですよ」と駅長は言う。「でもご安心ください。事故は一度も起きていませんから」

 メトコヴィッチの町は、ボスニアとクロアチアとの国境の主要な通過ポイントとなっている。しかし国境の両側に立つ警察官はいずれもクロアチア系であり、通常は警察の検問も税関の審査もなしで通り抜けることができる。大型トラックはもっと西にある山あいの小さな検問所を利用する。こうした税関のあり方は、回廊5c号線の計画のおかげで輸送量が現に増えてきた以上は見直すべきだろう。だが、ボスニア側の税収の大半は、連邦に納められる代わりに、今でもヘルツェグ・ボスナの裏金に回されている。

 回廊5c号線の終点は、湾の奥深くに位置するクロアチアの港町プローチェだ。海岸沿いには、とても観光客の足を止めさせそうにないオンボロ団地が並んでいる。港湾管理機関の副長を務めるスヴェミール・ゼクリッチ氏によれば、港では以前は5000人を雇っていたが、現在はせいぜい2000人にすぎない。建築用の大きな材木を積み込んでいる船が見える。ボスニアの数少ない輸出品の一つであり、主にアラブ諸国を仕向地とする。1989年には449万5000トンに達していた取扱貨物は、2001年には92万1000トンにまで落ち込んだ。大規模な拡張計画が立てられているとはいえ、近い将来に貨物量が大きく増える見込みはない。それでもゼクリッチ氏は、毎朝クロアチア、ボスニア、セルビアの新聞をインターネットでチェックする。港の将来は地域貿易の発展にかかっていると確信しているからだ。

(1) ドラゴ・ヘドゥル「クロアチア農業の崩壊」(AIM通信2002年9月9日付、『クリエ・デ・バルカン』のサイト http://www.balkans.eu.org に掲載)を参照。
(2) ウクライナ人のうち、オーストリア・ハンガリー帝国時代に移住したものの子孫で、東方典礼カトリックのグループのこと。[訳注]


(2002年11月号)

* 小見出し「夢を見る人々」から十番目の段落の「ズパーニャ」を「ジューパニャ」に、随所「バニャ・ルカ」を「バニャ・ルーカ」に、小見出し「変わりゆくサラエヴォ」から三つ目の段落の「オスロボジェニエ」を「オスロボジェーニェ」に、訳註(2)「西欧に住むウクライナ語族のこと。」を「ウクライナ人のうち、オーストリア・ハンガリー帝国時代に移住したものの子孫で、東方典礼カトリックのグループのこと。」に訂正(2003年6月2日)

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