王制をめぐるベルギー世論

セルジュ・ゴヴァート(Serge Govaert)
社会政治調査情報センター経営責任者、ブリュッセル

訳・三浦礼恒

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 ここ数十年は沈静化していた「王制問題」が、ベルギーを再び揺さぶっている。1993年の連邦制への移行によって王室が多くの特権を失ったことに加え、とりわけフランデレン地方に共和制支持者が増えてきている。1950年にまるで内戦のような状況を作り出したレオポルド3世の進退問題ほどではないにせよ、王室が今後もベルギー国家統合の最後の砦であり続けるかどうか、予断を許さない状況となっている。[訳出]

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 2002年2月のことだ。ベルギー北部、オランダ語圏フランデレン系のルーヴァン・カトリック大学(KUL)で創立575周年の記念式典が挙行され、他の大学のこの種の式典と同様に名誉博士号の授与が行われた。その中で特に目を引いたのは、旧ユーゴ国際刑事法廷のデル・ポンテ主任検察官やBP(旧ブリティッシュ・ペトロリアム)グループの最高経営責任者のブラウン卿と共に、現国王アルベール2世(在位1993年-)の長男のフィリップ皇太子が並んでいたことであった。KULの名誉博士号は彼の曾祖父にまでさかのぼる歴代の国王が授与されており、いわば伝統的なものと言えなくはない。

 このことが公になるやいなや、KULの教員たちは抗議声明を発表した。KULのオースタリンク学長はフランデレン系の新聞紙上で必死に弁明せざるを得なかった。つまり、フィリップ王子は「国内の異なった社会の間の関係を強化すること」に努め、「対外貿易分野の活動」を通じて「ベルギーの繁栄」に「有意義な貢献」を果たしたのだから、博士号の名誉に値するという。

 2月4日の名誉博士号の授与式には警察が介入し、小競り合いも起きる騒ぎとなった。デモ参加者のほとんどは、国会に議席を持つフランデレン系民族政党の党員だった。彼らは共和制への移行を求めるシュプレヒコールを声高に叫んだ。

 南部フランス語圏のワロン系の人々は、この事態に唖然とした。第二次世界大戦中、次いで1950年にレオポルド3世(在位1934-51年)の進退が問題になった際(1)、君主制を熱心に擁護したフランデレン系の人々がどうしたことなのか、と。

 これまで、そういう兆候が全く感じられなかったわけではない。王室費を子女のために増額するという議案が出たときも、かなりの私財を有する王室にそこまで寛大にするとは噴飯ものだと非難したのは、ワロン系の緑の党の一部議員のほかにはフランデレン系の議員だけだった。この議論はまだ終息しておらず、最近もフラームス・ブロック(フランデレン民族主義極右政党)の上院議員団が、改めて増額分の撤廃を提案している。2000年6月に上院で「国王大権検討委員会」の創設を提案したのも、フランデレン系リベラル政党の2人の議員だった。

 ベルギーの立憲君主制は1830年10月4日の独立に始まるが、これまでの歴史を振り返ると、王位空白期が何度かあった。1830年には国民会議がフランス王ルイ・フィリップの息子をベルギー王に選んだものの、ヨーロッパ列強からの拒絶に遭い、次の王を見つけるまでの代役が必要になった。シュルレ・ド・ショキエ男爵が摂政として選ばれ、1831年7月21日にザクセン・コーブルグ家のレオポルドが初代ベルギー国王として宣誓するまでの空白を埋めた。

 1944年のナチスからの国土解放後も、第二次大戦中にドイツに連行され、戦後の政府によって問題視されたレオポルド3世について、上下両院は「統治不能状態」を認定し、弟のシャルル王子を摂政に指名した。シャルル王子の摂政は5年以上に及び、その間の1950年に「王制問題」が発生した。

 さらに1990年3月30日には、国王ボードワン1世(在位1951-93年)が中絶合法化法への署名を拒否するという事件が起こった。キリスト教社会党のマルテンス首相は、国王の良心という問題に直面して次のような解決策を思いついた。法律の施行には国王による署名と発布が必須であるというのなら、新たな「統治不能状態」を認定し、その間の国王大権を内閣が担うこととすればよい。これが1990年4月4日にとられた措置であり、ボードワン1世は法律が内閣によって連署された後に復位することとなった。2日にわたりベルギーは理論的に言って、停止中の君主制国家という状態にあった。もし上下両院が1990年4月5日に統治不能状態の解除を拒否していたとしたら、どういうことになっていただろうか・・・。

王室のメディア戦略

 そもそも、ベルギーは本当に今でも君主制国家と言えるのだろうか。10年ほど前に、ベルギーは3つの言語共同体(フランス語共同体、オランダ語共同体、小規模のドイツ語共同体)と3つの地域(フランデレン地域、ワロン地域、ブリュッセル二言語地域)から成る連邦国家となった。言語共同体と地域は、それぞれ個別の政府と議会を持っている。ベルギー全土を統治する連邦政府は、国王によって指名される組閣担当者の主導の下に構成され、連邦法は国王によって(署名の形で)承認される。この国王の実質的な権限は、言語共同体や地域については存在しない。言語共同体や地域の組閣担当者は、実際には政党の党首によって選出されており、法律(ワロンやフランデレンはデクレ、ブリュッセルではオルドナンスと呼ばれる)を承認するのも各言語共同体や地域の政府である。要するに、国王は言語共同体や地域に関してはもはや何の権限もなく、行政府の長による宣誓を受けるだけの象徴的な存在にすぎない。

 王室というものを、もはや世論は極めて象徴的な側面からしか見ていない。国王の政治的権限は縮小されたが、その役割についてはメディアに大きく報じられる。ボードワン1世は驚くほど国民感情を引きつけ、1993年の死去の際には国民が心から喪に服するほどだった。彼が教会と結びつき、国事や旧植民地のルワンダ問題にしばしば場違いな介入を行ったことを考えれば、かなり不思議な現象と言える。

 ボードワン1世の後を継いだアルベール2世もまた、強力な人気を醸し出すことに成功した。連続少女誘拐殺人事件の際に政治を批判するような声明を発表しても、その人気は衰えるどころかますます高まった。それだけでなく、2001年に過去の浮気やデルフィーヌという婚外子の存在が発覚したときも、巧みに同情を引きつけた。つまり、ミッテラン前仏大統領の婚外子マザリーヌに匹敵する存在がベルギーにも現れたわけだが、わが国の元首の方は、自らの過ちを暗に認めたうえで、国民の理解と寛恕を求める短い演説をテレビで行ったのだった。

 国王夫妻の態度は堂々たるものだった。アルベール2世は歴代国王と同様、婚外子を国民の前に出さなかったが、国王個人の「欠点」に極めて一般的な性格を与え、道徳と寛容の教訓を取り合わせるというふうにメディアを上手に使いこなした。フィリップ皇太子の結婚式の際にも、メディア対策が整然と繰り広げられた。王室は時代の風をうまく感じ取った。ベルギー王家はグラビアを飾るだけの存在ではない、ということだ。王室の力、とりわけ影響力は、薄れつつあるといっても、まだまだ後ろに引っ込むというよりは現実の力としてあるのだ。ことにメディア戦略は、君主制に関する議論を再燃させるという方向に働いた。これは格好の話題となり、今でも多くの著作が出版されている。2001年にはレオポルド3世の回顧録が『歴史のために』という題で(2)出版されてベストセラーになった。この本が出版されるとすぐさま、反レオポルド派による抗議パンフレットが出された。著者のセルジュ・ムローは、社会党の元議員であり、リベラル政党の大臣の息子である。彼は「王制問題」を積極的に取り上げ、レオポルド3世の第二次大戦中および直後の怪しからぬ振る舞いについて激烈な、しかし極めて党派的な調子で告発を行った。ムローは自著の最後で、レオポルド3世がフランデレンの世論に支持されていたことを強調している。1950年当時の君主制反対派は、特にワロン地方に多かったからだ。

フランデレンの状況

 それが現在では、君主制に反旗をひるがえす共和主義者にはフランデレン系の人物が目立つように思われる。フランデレン民族主義者の間では、既にボードワン1世の人気は低かった。彼らの目にはボードワン1世が、1950年の議論での君主制支持勢力の敗北をどこか体現しているように映っていたのだろう。次のアルベール2世はといえば、フランデレンの祝日には民族歌『フランデレンのライオン』をハミングするといった行動で、ワロンの世論を逆撫でしている。1994年に「国民的和解」を求める演説を行った際には、第二次大戦中の占領下における対独協力の罪に対して恩赦を与えようということかと、ワロン系の左翼から噛みつかれた。対独協力者に対する恩赦は、フランデレンの民族主義政党の前々からの主張であり、ベルギーでは非常に微妙な問題となっている。世論調査の結果を見れば一目瞭然だ。共和制への移行を支持する者は、フランデレンでは15%、ワロンでは12%、ブリュッセルでは20%にすぎない。ベルギー人の過半数は王制を支持しているのだ。但し、1950年の国民投票の結果とは逆に、共和制支持はワロンよりもフランデレンに広がっているように思われる。とりわけ、君主制支持者が今も国民の多数を占めているという事実から読みとれるのは、1950年代以降に国民の中に新たな亀裂が生まれているということだ。つまり、王室がベルギーの統合に大きな役割を果たしていると考える人はワロンでは69%に上るのに対し、この考え方に同意する人はフランデレンでは51%にすぎなくなっている(3)

 では、フランデレンの共和主義者というのは実際どこにいるのだろうか。それは主に民族主義政党の支持者の中だ(4)。民族主義を掲げる(そしてフランデレンの独立を望んでいる)2つの政党、フラームス・ブロックと新フランデレン同盟は共和制支持に傾いている。むろん、フランデレン共和国ということだ。このうちフラームス・ブロックについては、原則論というよりも日和見主義的な発想に立っている。同党の議員たちは、「ベルギー内のあらゆる権限からオラニエ・ナッサウ家を恒久的に排除する」ことを規定した1830年11月の政令(5)の廃止を要求している。国王がいてもかまわないが、「人民集団」出身であることが条件だという。「人民集団」とは、この極右政党によればフランデレンの住民を含み、同じ言語圏に属する隣国オランダと結びつけるものとなる。

 これらの共和主義者たちの第一の特徴は、現在のベルギー国家の枠組みに反対だということである。ワロン語圏で多くの人々が理屈としては君主制を支持するというのも、これで説明がつく。つまり、王室は彼らにとって国家統合に必要なセメント、ことに左翼から見れば必要悪のような存在なのだ。ボードワン1世が死去したとき、ワロン系の中で最も急進的で、最も連邦主義的な大臣は、次のように述べた。何のかんの言っても、フランデレン系から大統領が出るよりは、国王がいる方がまだしもだ、と。

 この件に関しては、対立軸はフランデレンとワロンという枠だけには収まらない。1950年におけるレオポルド3世は、ワロン系の左翼指導者が言うような単なる「フランデレンの王」ではなく、カトリック教徒の王でもあった。というのも、当時のフランデレンの地方議会で圧倒多数を占めていたのはキリスト教社会党だったからだ。なんと、フランデレンの全ての州で与党の座にあったのだ。今ではキリスト教社会主義勢力はフランデレンの第1党の座を失った。前回1999年の総選挙ではフェルホフスタット現首相率いるリベラル政党に敗北を喫している。

 さらに社会学者の調査によれば、フランデレン社会では教会離れの動きが見られる。つまり、教会に通う者、洗礼を受ける者、聖職者を志す者がだんだん少なくなってきている。これまで絶対だったキリスト教的な価値観も絶対ではなくなりつつある。宗教的実践が緩み、キリスト教社会党の影響力が下がっているなかで、君主制にこだわらない人々が増えていても、当然ではないだろうか。

 それに加え、ますます豊かになるフランデレン地域では、個人主義がものすごい勢いで広まっているという要因もある。ワロン地域が『ロフト』の流行に巻き込まれる前から、フランデレン地域では『ビック・ブラザー』(6)が放映されていた。政治の世界も同様で、価値観の代わりに表面的な派手さ、候補者名簿を膨らませるスポーツ選手や芸能人といったものに頼るようになっている。

 ワロンよりもフランデレンに共和制支持を表明する者が多いのは、旧時代的なイデオロギーの締めつけが緩み、50年前と比べて国王の人となりや役割に対する敬意が薄れてきたからだろう。さらに(今でも)王制を支持する人々の場合も、実際に王室制度に傾倒しているというよりも、知的に感じるものがあるからだと言うことができよう。その意味で、王位の行方はまさにベルギー国家の行方と結びついている。国の共通の未来を語るときや、王制をどう思うかと質問されたときに、フランデレンの人々とワロンの人々はようやく意見が一致するようになった。というのは、両者は同床異夢のうちにあるからだ。

(1) 国王レオポルド3世は第二次大戦時、政府と共にロンドンに亡命する道を選ばず、国軍最高司令官として独断でドイツ軍に降伏したのみならず、ドイツからオーストリアに移され、祖国解放の時に不在だったことから国民感情を傷つけた。1950年に国王は復位を断念し、長子ボードワン1世に国王大権を譲り、翌年退位した。[訳註]
(2) 同書はオランダ語版では「主要な証人」を意味する“Kroongetuige”という気の利いた題名を付けられたが、この“Kroon”には「王権」という意味もある。
(3) De Standaard, Groot-Bijgaarden, Belgium, 9 April 2002.
(4) その一方、ベルギー王室の廃止を目指して活動している「共和主義サークル」も2001年11月に「共和主義者宣言」を公表した。そこに名を連ねたのは、どちらかと言えば左翼に属するフランデレン系の人物であった。
(5) 1815年から1830年にかけて、ベルギーはオランダ国王ウィレム1世の下、オランダとの間で政治連合を結んでいた。
(6) 『サバイバー』のように、参加者が視聴者監視の中でサバイバル生活を競う番組。フランスでは『ロフト』がそれに当たる。[訳註]


(2002年10月号)

* 一段落目「ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)」を「BP(旧ブリティッシュ・ペトロリアム)」に訂正(2003年11月26日)

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