フセイン体制の基盤はどこにあるか

ファーレハ・A・ジャッバール(Faleh A. Jabar)
社会学者、在ロンドン、ロンドン大学政治学・社会学カレッジ研究員

訳・逸見龍生、斎藤かぐみ

line

 フセイン体制から無条件降伏を引き出すとの決定をブッシュ政権が下した現在、秒読みを迎えたイラクへの軍事攻撃は、ガブリエル・ガルシア・マルケスの名高い小説に描かれた「死の予告」を思わせる。だが、フセイン体制打倒の代償は途轍もなく高く、泥沼化の事態に発展する可能性がある。何しろ相手は対イラン戦争(1980-88年)の失敗や、クウェート侵攻後、1991年初頭の手ひどい軍事敗北といった深刻な打撃にもめげなかった政治体制なのだ。この体制のしぶとさは偶然ではない。驚くほど複雑ながら、入念に計算された権謀術数のたまものである。

 若きサダム・フセインは母方の叔父ハイラッラー・トルファ譲りのヒットラー体制の賛美者だった(1)。後に共産主義の洗礼を受け、フセインはスターリンもお手本に加えた。フセインが後に築き上げる体制はこうした遺産を継承するものだが、しかし独自の特徴も兼ね備えている。イラクのバアス党体制は、ナチスドイツのモデルに倣って、全体主義イデオロギーと一党支配、社会主義を標榜した経済統制、そしてメディア・軍部の掌握の4つを支えとしている。

 だがバアス党はナチスと違って、都市周辺部、地方、農村部に今も強い影響力をもつ部族集団および氏族集団という伝統的な社会機構を国家の基軸に据えた。国防大臣、党軍事局長、国家安全保障局長の3つの戦略的なポストは、すべて支配的氏族集団へ振り当てられてきた。とはいえ、68年に樹立されたバアス党体制は、初期の数年間は国家部族主義にとどまっており、アル・ベジャート一族を中核とした支配エリート部族たるアルブ・ナーシルのみが重用された。だが後年になると、その他の部族集団も加えられる(2)。こうした仕組みにより、恐怖体制がしかれていった。その目的は権力基盤を固め、支配的エリートを作り上げ、そして58年から70年まで軍部や党政治を悩ませた内部分裂と権力抗争を抑え込むことにあった。

 バアス党による全体主義体制のもうひとつの要素は石油収入だ。国内に膨大な原油が埋蔵されているおかげで、公共サービスや様々な社会保障制度が飛躍的に発展した。西洋化した中間層は73年10月に勃発した第4次中東戦争に続く石油ブームで富裕化し、未来は明るいと感じていた。皮肉にも、上流層に予想外の繁栄をもたらしたのは計画経済下の制約であった。所得が100万ディナール(当時は1ディナール=3.10ドル)を超える世帯数は68年に53世帯であったのが、80年には80世帯となり、89年には3000世帯を超えた。だがこうした給与所得者層と不労所得者層、つまり中間ならびに上流層という新たな社会勢力の繁栄は、自由主義体制ではなく、専ら国家による雇用と契約に負うものであった。

 権力の中枢や上昇する諸階級の中で、部族集団や血族集団は重要な位置を占めていた。この「氏族階級」の覇権は軍隊や党組織、官庁や経済界に及ぶ。公式には反部族主義が唱えられていたにもかかわらず、その覇権はイデオロギー的紐帯や経済的利害、婚姻関係、そして親族秩序への深い信頼感によって揺るぎないものとなっていた。

 このバアス党の全体主義体制は近代的要素と伝統的要素の混交であり、権力機構を掌握するとともに、不穏な大衆を支配する目的で生み出された。イラクはアラブ系住民がスンニ派とシーア派に分かれ、大量の少数民族クルドを抱える多民族社会だからだ。フセイン体制の長寿はこのように近代性と伝統の融合に由来するが、同時にそれはアキレス腱でもある。

 支配エリートの結束、そして権力中枢の掌握という点から見ると、バアス党の実験は先行するどの体制とも大きく異なっている。クーデタによって王政を転覆させたアブデルカリム・カーシム将軍の体制(1958-63年)も、軍と血縁(ジュマイラート一族)に依拠したアブドゥルサラーム・アーリフ将軍の体制(1963-67年)も、安定した権力基盤を生み出せなかった。バアス党は、この軍と部族的連帯という基本的な枠組みに、新たな味付けをほどこした。この複雑な混合体制は、もともと矛盾した要素を孕んでいるだけに、徹底には時間がかかった。アラブ・ナショナリズムと社会主義を唱えるバアス党は近代政党としての規範を掲げるが、それでも党の内紛は避けがたい。しかも、この規範は他方では部族的な紐帯や連帯と相容れない。

 初期のバアス党体制では、党内の文民と軍人の共存に困難がつきまとったが、軍人は最終的に軍事以外に口出しできないようにされた。部族集団は権力と富をめぐる競争や血みどろの謀略によって引き裂かれつつも、体制に一定の結束をもたらした。世俗的ナショナリズムを唱える伝統をもたなかった支配的部族のエリート層も、結局はアラブ主義を価値観として取り入れた。そして石油収入が安定しない状況下で、別の原始的な経済統制手段が編み出されていった。

 67年6月の第3次中東戦争におけるエジプト、シリア、ヨルダンの敗北以後、アラブ・ナショナリズムの主張を支えていた地域環境と国際環境が変容する中で、その空白を埋める役割を果たしたのがイラク・ナショナリズムだった。様々な社会勢力や相容れない主張を力ずくで結びつけたことから、しばしば衝突もあったものの、こうして新たな共存体制が根付いていった。危機が起こるたびに、崩れたバランスを回復させる諸々の改革が導入された。サダム・フセイン大統領は、こうした微調整に飛び抜けて長けていた。

湾岸戦争後の5つの危機

 フセイン体制が恒常的な再編を迫られるようになるのは、対イラン戦争、そして湾岸戦争以降のことである。まず、8年間にわたった「イスラム革命」との対決を通じて、宗教が政治上の重要課題として浮上した。国内のシーア派アラブ住民の反抗と、ホメイニ師率いるイスラム共和国に向けられた彼らの視線は、イラク政府の大きな懸念となった。この長い戦争で疲弊した国家は多くの部族への支配力を失い、部族主義が強まっていった。また戦争は380億ドルの資金を食い潰し、500億ドルもの対外債務を残した。さらに兵員数100万人を数えるようになった軍には、不穏な動きがちらつき始めた。戦争を経験した世代は以前のように文民として豊かな生活を取り戻したいと考えており、兵士の統率は危険なほど失われた。権力機構も社会の調整機構ももはや機能しなかった。90年8月2日にクウェートに侵攻したイラクはこのような状況下にあり、侵攻によって国内の安定を回復させようと目論んでいた。

 91年の敗戦は、少なくとも5つのレベルでイラクに慢性的な構造的危機を引き起こした。統治機関としての国家の弱体化は重大だった。軍事機構は戦前規模の3分の1にまで縮小され、北部クルディスタンとシーア派主体の南部を筆頭に地域叛乱が続いた。しかも、米国は両地域に飛行禁止空域を設けている。91年春の民衆蜂起の際には治安機関が大きな打撃を受け、多くの情報資料と経験豊富な人材を失った。

 第2に、イデオロギー的統制制度、すなわちバアス党の機構が同様に衰退した。90年に180万人を数えた党員数は91年の第10回党大会前夜にはその40%を失っていた。96年の第11回大会、2001年の第12回大会で、この減少はさらに続いていく。党からの離脱は特に南部(バスラ、ナーシリーヤ)および中部(ヒッラ、ナジャフ、カルバラ)、そしてバグダッドで著しい。バアス党が国政を遂行し社会を統制する能力は大きく失われた。

 第3に、経済制裁により政府はかつての巨額の石油収入を奪われた。その結果、国民総生産(GNP)は82年に比べて75%以上も低下した。4219ドルだった住民一人あたりの年間平均所得は、93年には485ドルにまで落ち込んでおり、今日では300ドルを僅かに上回る程度だと考えられる。資金不足に陥った国家は税を引き上げ、貨幣を増刷している。バアス党体制は、社会サービスと経済への資金提供によって社会の広範な層から支持を取り付ける力を大きく失った。

 国家と社会との新たな関係が形成されつつあり、国家はもはや富に関わる権力の独占者ではなくなっている。石油収入によって支えられていた計画経済に亀裂が走った。まだ萌芽段階にあるとはいえ、市場の力が国家権力を侵食しつつある。

 第4に挙げられるのは、これまでバアス党の最大支持層であった中間給与所得者層の凋落だ。彼らはハイパーインフレで仕事を失い、きわめて僅かな社会保障でやりくりしている。戦争前に1ディナールは3.10ドルだった。96年には1ドルが3000ディナールにまで上がった。為替レートはその後2000ディナールと1万2000ディナールの間を揺れ動き、2000ディナール前後で落ち着いた。人びとは生き延びるために、衣服や家具、書籍、宝石、そして生活に必要な日用品まで売らざるをえない。中間層はかつての幻想を完全に失った。バアス党内でイデオロギー・宣伝工作を担当するジャッバール・ムフシンが「われわれが失った中間層」について公に嘆いてみせたほどだ(3)。数百万のイラク人がヨルダン、ヨーロッパ、米国へと移民している。

 第5に、一党支配と国家管理経済の根拠とされてきた「革命的正統性」は、ソ連をはじめ東欧の一党モデルの終焉、さらに中東で僅かながら進行している政治的自由化の動きにより大きな衝撃を受けた。

 そして、無益さの極みであった2つの戦争の壊滅的結末により、大衆レベルの愛国主義と政府の掲げるナショナリズムに乖離が生じ、流血の惨事となった91年春の蜂起以後、大量の叛逆者を生み出している。停戦条件と国連安保理の一連の決議の結果、イラクの体制には前例のないほどの制約とハンディが課せられている。こうした状況で、支配エリートによる権力機構の掌握は緩むばかりであり、組織化されていないとはいえ、不穏な動きを示す都市部の大衆を管理するには国家はあまりに弱体化した。政権上層部の分裂は不可避となり、それは中心的一族たるアル・マジード家の内にまで及んだ。軍も党も慢性的に内部の叛逆に脅かされ、1500人以上の高級・中級将校が欧米に逃亡し、多数の党幹部が外国に亡命した。

権力中枢の入れ替え

 この前例のない重大な事態に直面した体制は、10年にわたって生き残り戦略を展開することになる。それは次の5点に集約される。中心的一族アル・マジード内の綱紀を粛正すること。軍を再編すること。国内全土で様々な部族を復活させ、党組織と置き換えること。イデオロギー的な道具立てを刷新すること。新しい経済統制手段を駆使すること。

 最も困難な課題は、権力を握る一族の綱紀粛正と、後継者問題の解決である。国家の頂点にある部族主義は、ベジャート一族を中心とするスンニ派の氏族による広範な同盟の上に成り立っている。このベジャート一族の中には、さらに10の閥族がある。彼らは68年までは地方の伝統的権力をめぐって競い合い、78年以降は国家権力をめぐって競い合ってきた。閥族間の表面的な連帯の陰で権力中枢はめまぐるしく入れ替わり、各氏族が党や国家と結ぶ関係は転変を重ねた。10の閥族のうち7つまでが粛清され、連鎖反応を引き起こした。

 79年に、それまでも政権の中心にあったサダム・フセインが、ハサン・アル・バクルに代わって大統領の座に上ると、アルブ・バクル(アル・バクルの出身一族)は追い落とされ、アルブ・ガフォール(サダム・フセインの一族)が実権を握るようになった。

 ティクリーティ(4)も同様の運命をたどることになる。80年代には、サダム・フセインは主に3つの親族に基盤を置いていた。3人の異母兄弟(アルブ・ハッターブ)、母方の従兄で義兄でもあるアドナーン・ハイラッラー・トルファ元国防大臣(アルブ・ムッサッラート)、そしてアルブ・ガフォール内の閥族たるアル・マジード家の出身者である。アルブ・ハッザ(オマール・ハッザ将軍の一族)、アルブ・ナジャム(ファーディル・バッラーク将軍の一族)、アルブ・ムウニム(マヘール・ラシード元帥の一族)のような他の閥族も引き立てられたが、要職は与えられなかった。これら3つの閥族は、イランとの戦争の最中から直後にかけて失脚した。族長は処刑され、一族は権力から遠ざけられた。

 90年代になってアル・マジード家が勢力を伸ばすと、大きな問題が持ち上がった。党と軍を貫いていた能率主義、業績主義、年功序列の原則に反したからだ。

 たとえばフセイン・カーミル、サダム・カーミル(2人とも大統領の娘婿)、アリ・ハサン・アル・マジードの3人が、それぞれ軍需産業相、特殊機関の長、国防相の座を占めた。一族には他にも、大統領の侍従武官となったロカンのように重要なポストに就く者がいた。大統領の2人の息子、ウダイとクサイが台頭すると、アル・マジード家の地位もまた危うくなった。この紛争が頂点に達したのが、カーミル兄弟がその父母や姉妹とともに95年にヨルダンに逃れ、96年2月に帰国して処刑された事件であった。

 この血なまぐさい事件はアル・マジード家を激しく揺さぶり、大統領を動揺させた。彼はアル・マジードという直近の一族に背を向けて、広くアルブ・ガフォール全般に基盤を置くようになった。そこにはアル・マジードの他にアルブ・スルターンが含まれる。カマル・ムスタファ(アルブ・スルターンの中心人物で、大統領の父方の親族)には、二個軍団から成り、フセイン体制の近衛部隊となっている共和国防衛隊が委ねられた。その弟のジャマールは、大統領の末娘と結婚した。アル・マジードとアルブ・スルターン両家の間は、大統領の2人の息子の間と同じぐらい緊張した関係にあると見てよい。

 2人の息子のうちで後継者に選ばれたのはクサイである。彼は諜報機関と治安機関の再編を任され、2000年には非常時の大統領臨時代行に指名された。それ以前から、彼は共和国防衛隊の前身となった「全戦母体部隊」の「監督者」に任命されていた。2001年4月には、党の地域指導者(5)に選出されている。こうして新たな権力中枢が築かれた。ただしそこには、クサイとカマル・ムスタファの2人が並立されている。

社会的部族主義の伸長

 国家機構に部族集団を組み込むことにより、脆弱な支配エリート集団の権力を補強するという国家部族主義のシステムは、今でも機能しているとはいえ、使い古されたものとなっている。これと対照的なのが社会的部族主義で、農村からの移住者や地方都市の住民の間に残る血縁ネットワークを通じ、部族構造を復活させ、操作し、あるいは再構成しようとする。

 バアス党は、クルド人特有の軍事的部族主義を発見し、その利用も図ってきた。すでに1974年に、ソルチー、メズリ、ドスキ、ヘルキといった諸部族の長(アガー)を傭兵として、クルド・ナショナリズムと戦わせるために雇い入れている。イランとの戦争が始まると、バアス党体制はイラン軍と勇ましく戦った南部のアラブ系部族を大いに評価し、中央政府に招き入れた。80年代末には、近代的な市民組織がふるわなくなったこともあり、部族指導者の社会的地位が上昇した。

 党組織が弱体化するにつれ、昔ながらの血縁ネットワークがそれに代わるようになってきた。由緒ある一族は公序維持への関与を政府から求められ、この仕事に真剣に取り組んだ。改めて再構成されたものであれ、前から実在するものであれ、部族的紐帯が各地で固められていった。大統領は92年に諸部族の長を大統領府に迎え、過去の農地改革について詫びるとともに、和解を約束した。彼らはそれぞれの旗を掲げ、大統領への忠誠を誓った。大統領はこうして「族長の中の長」に生まれ変わった。

 部族は軍役を免除され、軽火器と輸送・通信機材の提供を受けた。スンニ派を主とした大きな部族は国の治安に当たり、小さな部族は地方レベルで警察・司法や紛争解決、徴税を担当するようになった。これらの部族は今や国家機構の一翼として機能している。言い換えれば、部族構造が社会勢力として再生したのは、市民社会の制度が破壊され、治安や司法の提供と国民の生命や財産の保護を担うべき国家そのものが衰退したからであり、そこに生じた真空状態を埋める必要があったからである。こうして新たに復活や再構成をみた部族の活躍場所は、農村地帯という本来の生活地ではなく都市部であったため、文化的に発達した都市社会の構造は崩れかけている。

 国家部族主義と社会的部族主義という2つの戦略は、動員と統制のための数々の補助手段を伴っている。たとえばイデオロギーの刷新である。アラブ以外の民族も取り込むために、アラブ愛国主義に加え、バビロンのような古代の歴史も持ち出したイラク愛国主義が唱えられる。きわめて部族的な観点から血族を称揚する血縁イデオロギーは、党の宣伝工作担当部門によってアラブ主義の中心に据えられた。先祖代々の家系なしには、アラブ主義はまったく意味をなさない。また、イスラム正統学派のひとつのハンバル派に属するサウジのワッハーブ派が、治安機関のお目こぼしの下に南部の国境をすり抜けてくるのも、この宗教イデオロギーがシーア派活動組織の対抗勢力として歓迎されているからだ。

 イラク現行体制の存続を可能にした最後の要因は、経済制裁である。体制は「石油と食糧の交換プログラム」(6)を統制している。食糧の配給を受けるためには配給証が必要とされ、これが人心操作の道具となっている。95年の大統領選の際には、配給証を得たければ投票することが義務とされた。そして配給証は、叛逆者やそう見なされた者には出されなかった。これほど強力な社会統制手段を体制が手にしたことは今までにない。この戦略は「飢餓政策」と呼ぶことができる。上流層の体制支持は、市場の規制緩和という別の手段によって獲得される。バグダッドの高級クラブでは、新旧の金持ちが夜な夜なバカ騒ぎを繰り広げ、あの伝説の『千夜一夜』も色を失うほどだ。

 このようなナショナリズム、愛国主義、部族主義、スンニ派の混合により、イラク政権は生き延び、脅威となる障害をこれまでのところ全て乗り越えてきた。しかし米国がイラクに侵攻する時、これまでの政策がこの国に何をもたらすことになるのかは、誰にも予測できないのだ。

(1) トルファはアラブ主義の断固たる支持者だった。1941年にバグダッドからラジオで流され、70年に刊行されることになる演説を聞けば、彼がいかにマハト(力)、ライヒ(帝国)、フューラー(総統)を崇拝していたかがわかる。
(2) 図式的に言えば、部族の構成は以下のようになる。部族は氏族に分かれ、これは閥族(afkhad)に分かれる。さらに血族(hamula)、親族(beit)と続く。最後の2つのレベルは、部族制度の解体につれ、混同されやすくなってきている。
(3) Babil Daily, Bagdad, 20 December 1994.
(4) ティクリーティは、中北部ティクリート地方の地域集団を指す語。「ベジャートとティクリーティは、1950年代、1960年代には同盟しほとんど区別がなかったが、少なくとも1970年代以降はそうではない」(ファーレハ・A・ジャッバール「イラクにおける国家、社会、血縁集団、党、そして軍」酒井啓子編『イラク・フセイン体制の現状』所収、アジア経済研究所、1998年)[訳註]
(5) バアス党の地域指導部はイラクを担当し、アラブ世界全体については諸国出身の幹部から成る民族指導部が統括する。
(6) 「石油と食糧の交換プログラム」と呼ばれる1995年の国連決議986号は、最終的にイラクによって翌年5月20日の国連との覚書への調印という形で受け入れられた。同決議によると、イラクは半年毎に20億ドルの石油を輸出することができる(この上限は98年2月に52億ドルに引き上げられ、次いで撤廃された)。輸出所得は国連の特別口座に預けられ、うち58%は食糧、医薬品その他の民生品の輸入に、13%は中央政府の統治の及ばない北部3州(クルディスタン)に、残りは対クウェート戦の犠牲者への賠償金(25%)と、経済制裁および国連業務に関連した諸経費(UNSCOMを含む)に充てられる。イラク政府は2002年9月2週に石油輸出を倍増させ、一日あたり91万4000バレルに引き上げた。これは推定生産能力の半分近くに相当するが、その比率は夏の間は3分の1程度にとどめられていた。


(2002年10月号)

* 七段落目「アブドゥルサラーム・アーリフ将軍の体制(1963-68年)」を「アブドゥルサラーム・アーリフ将軍の体制(1963-67年)」に訂正(2002年12月2日)

All rights reserved, 2002, Le Monde diplomatique + Hemmi Tatsuo + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)