アフガンの砂漠の砂の下に

ジェイミー・ドーラン(Jamie Doran)による調査
BBCを経て独立したTVプロデューサー。
チリの行方不明者やビルマ(ミャンマー)の政治体制についてのドキュメンタリー、
S・キューブリックについてのドキュメンタリー << 2001 >> : The Making of a Myth
など多数製作。近作は10月中旬に公開予定の『マザリ・シャリフの虐殺』

訳・斎藤かぐみ

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 何世紀も前からあったかのように、白骨化した骨が転がる。しかし、経過した時間はわずか数カ月にすぎない。ジュネーヴ条約による保護を受けることもままならず、窒息や処刑によって凄惨な死を遂げた千人単位の青年の変わり果てた姿である。

 近寄ると、夜な夜な砂漠を徘徊する野犬のつけた歯形がたやすく捉えられる。顎骨、肋骨、頸骨、砕けた頭蓋骨が、50メートルほどにわたって不自然に盛り上がった砂山の上部に点在する。ちぎれた衣服はまるで羊皮紙のようだ。さらに近寄ると、カラチ、ラホールといったラベルの文字が読みとれる。

 アフガニスタン、ダシュテ・ライリ。最大3000人がここに眠る。ある者は地獄の道行きの途中で窒息死した。またある者は捕虜仲間の死体の間に転がされ、絶叫と懇願のあげくに銃殺された。彼らはこの呪われた地に、自分たちの神に敵対する異教徒の討伐にやって来たはずだった。信仰を守るためには命を捧げてもいいと熱狂的に信じていた。この巡礼行のために大挙してパキスタン、チェチェンやウズベキスタン、あるいは様々なアラブ諸国を旅立ったとき、それがこんなふうに終わるなどと誰が考えたろうか。

 アフガニスタン、そこは汎イスラム主義の夢のかなめだった。数十年間の対外戦争と内戦で荒れ果てた国は、タリバン政権の下、コーランの文言を信奉する人々すべてのメッカとなった。神の言葉についてのタリバンの特異な解釈は、ブルカで覆い隠された女性たちが西洋では罰されないか微罪にすぎないことを「罪」に問われ、カブールの大競技場で処刑される様子を写した映像の国外流出により、広く世界に知れわたっていた。世界はまた、この国がタリバン政権下でヘロインの主要生産国となったことも知っていた。

 2001年4月のある日、私はウズベキスタンとアフガニスタンの国境を流れるアム・ダリヤの岸辺にたたずんでいた。中央アジアを貫く新たな麻薬の道を調査している最中だった。そこからものの200メートルほど、かつてソ連の武器と兵士を大量に送り出す拠点に用いられ、今ではコンクリートの瓦礫と化していたハイラタン港のあたりに、何人かの国境警備兵の姿が見えた。東には、皮肉にも「友好の橋」と名づけられた橋が架かっていたが、その真ん中は大きな岩でふさがれていた。数カ月後の2001年11月、私は現地協力者の手引きで早朝ひそかに橋を渡り、岩と岩の間に狭い通路があることを知った。これらのウズベク人「ガードマン」の案内で、私は北部同盟の兵士に迎えられた。北部同盟がハイラタンに加え、川岸から車で50分ほどの要衝マザリ・シャリフを奪った時期に当たる。

 マザリ・シャリフの戦いは、今回のアフガン戦争の勝敗を決定的にした戦いだった。これを制したのが、卓越した戦略家でありアフガニスタン全土で最も恐れられる軍閥、現国防次官のアブドゥル・ラシッド・ドスタム将軍である。彼は前時代的な戦法に立ち戻り、西方の山地を1000人の騎兵で占拠して、タリバン軍の重砲陣地を切り崩した。「やつらの虚を突いたのさ」とドスタムは解説する。「歩兵を出していたら砲弾で全滅だからな。騎兵にしたから重砲の射程範囲に素早く突入できた。タリバンは逃げ出しちまったよ」。この突撃で300人以上の騎兵が死んだが、もはやタリバン政権は崩壊に向かっていた。マザリ・シャリフの戦いで、米軍機が敵の前哨陣地を攻撃したのは周知の事実だが、地上戦にも米軍関係者が参画していたとドスタムは明言した。

 この戦いの2週間前、ドスタム将軍によるマザリ・シャリフ制圧から数時間以内に最終攻撃を開始するつもりだと、北部同盟のハッサン司令官が漏らしていた。計画は予定通りに運ばれたが、タリバン政権の崩壊の速さは予想を完全に超えていた。カブールはほぼ無抵抗で陥落し、北東部のコクチャも、要衝タロカンとマザリ・シャリフも放棄したタリバンは、南方を目指してクンドゥズへ敗走した。数千人の外国兵を含む1万5000人のタリバン軍は、そこで倍の規模の北部同盟軍に包囲され、身動きがとれなくなった。南へ通ずる細い回廊づたいに逃げた者や、命を惜しんで(今回の戦争でよくあったように)寝返った者もいたが、残りの者の運命は仲介者の手に委ねられることとなった。

 双方からの信頼を受ける地元の軍閥アミール・ジャーンが交渉の中心に立った。「クンドゥズの司令官はみな私の盟友であり、私の友人であり、数年前には肩を並べて戦った仲だ。彼らは戦闘よりも交渉によって決着をつけようと、北部同盟との仲介を私に頼んできた。マルジ・ナスリ、アギ・オメール、アルバブ・ハシャムのような何人かの司令官が、アル・カイダなどの外国人グループを説得した」

 北部同盟に示された最初の提案は、タリバンの司令官が一定の保証と引き換えに、国連あるいは他の多国籍軍に武器を引き渡すというものだった。「(タリバンの)ファイサル師とノリ師が仲間を連れてドスタム将軍、マカク将軍、アッタ将軍に会いにカライ・ジャンギにやって来て、そこに私も同席した。アメリカ人、それに若干のイギリス人もいた。この会合で、クンドゥズのアフガン人は武器を置けば故郷へ帰ってよいが、アル・カイダなどの外国人は国連に引き渡すということに決まった」

 カライ・ジャンギはマザリ・シャリフの近郊にある大規模な要塞で、タリバンと同じくドスタムも司令部に使っていた。ここが取引の実施場所となるはずだった。ところが、示談がまとめられている最中に、アメリカのラムズフェルド国防長官が介入してきた。交渉によって包囲が解かれれば、外国兵が勝手に立ち去ってしまうのではないかと案じたらしい。「アル・カイダやチェチェン人などのようにアフガニスタンでタリバンに協力してきた外国人が解放され、他の国に行って同様のテロ行為を続けるようになれば、極めて遺憾である」と彼は述べ、その数日後に「彼らは殺すか捕虜にするかしてもらいたい。ひどいことをやってきた連中なのだから」と念を押した。

 最大の援軍にして出資者がそう言っている以上、北部同盟の司令官たちは聞かなかったことにするわけにいかなかったし、どちらかといえば同意見だった。復讐(インティカアム)はほとんど国技と化しており、町には血に飢えた気配がただよっていた。虐殺は不可避と思われた。

鋼鉄製の密閉コンテナ

 危急を察知したアミール・ジャーンは、両陣営の間を何度も往復し、最悪の事態を防ごうとした。結局11月21日に合意が成立した。命は助けるとの約束で、タリバン全軍が北部同盟に投降することになった。

 470人ほどの外国人タリバン兵(アル・カイダへの所属を疑われる者も多数)がカライ・ジャンギに連行され、巨大な構造物の下にあるトンネルの中に閉じ込められた。11月25日に2人のCIA(米中央情報局)要員がやって来て、個別尋問を開始した。この尋問の最中に反乱が勃発した。タリバン兵が看守を襲い、武器を奪って発砲したのだ。数分のうちにCIAのジョニー・スパン、通称「マイク」と北部同盟の兵士およそ30人が殺害された。銃撃戦が始まり、タリバン兵が閉じ込められていた同じ構造物の内部にあった武器庫を占拠すると、戦闘は一段と激化した。地上にいた米軍特殊部隊が空爆を要請する一方、英軍特殊部隊(SAS)が反撃を開始した。3日間の戦闘の後、要塞内にタリバン兵の生き残りは一人もいなくなった。これは驚くべきことだ。どんな軍事作戦の後でも、たとえ重傷者であれ、若干の生存者は見つかるものである。

 クンドゥズ降伏の取材に来ていた数百人の西側のジャーナリストは、カライ・ジャンギに駆けつけた。そして隣接する構造物の内部、あるいはさらに離れた場所に陣取って、センセーショナルな速報を発信した。国際メディアの注目はカライ・ジャンギに集中した。しかも、トンネルの中からアメリカ人タリバン兵のジョン・ウォーカー・リンドほか、86人の生存者が発見された。

 非常に信じがたいことだが、この間に、クンドゥズで降伏した他の兵士の運命を気に懸ける者はいなかった。この数千人の青年の運命こそ、私がストラスブールの欧州議会で部分上映したフィルムを通じて、独立調査団による国際調査を求めているものだ。彼らの身に起こったことは、北部同盟と国連、アメリカ政府と米軍のイメージを真っ黒に染め上げる。まったく別の要塞の中で、西側メディアの関心をまるで引かないまま、最大3000人の捕虜の命を奪うことになる殺戮が始まっていた。

 降伏交渉を仲介したアミール・ジャーンの話に立ち戻ろう。「私は一人ずつ数えてみた。全部で8000人だった。生き残ったのは3015人で、そこには最初の捕虜の数に入っていなかったクンドゥズのパシュトゥン人も含まれている。残りはどこへ消えたのか」。その答えの少なくとも一部は、ダシュテ・ライリの砂漠の中、50メートルにわたる砂の下に埋もれている。

 計算は簡単だ。5000人が足りない。逃亡に成功した者、自由を買い取った者、あるいは出身国の治安当局に身柄を売られ、死んだ方がましという運命をたどった者もいるだろう。しかし、6カ月にわたる調査を通じて集めた重要な証言によれば、彼らの大半は砂の下に葬られている。証言してくれた人々は、我々から謝礼を受け取ったわけではない。そして全員が、このフィルムに登場することで大きな危険を冒している。

 物語は、マザリ・シャリフとシバルガンを結ぶ道路の途中にあるカライ・ザイニの要塞で始まる。アフガンの基準からしても巨大なこの要塞は、クンドゥズで捕虜になった数千人の一時収容所として用いられた。公式には、これらの捕虜はシバルガンの収容所に移されて、アメリカの専門家の尋問を受けることになっていた。そこで目をつけられた者は、さらにキューバのグアンタナモにある米軍基地に移送される。

 カライ・ザイニの広大な敷地の中で、捕虜たちは地面に横並びに座らされた。ほどなく、荷台に鋼鉄製コンテナをくくりつけたトラックの一群が到着した。捕虜は一列縦隊になってコンテナに詰め込まれた。ある北部同盟の将校が、匿名を条件にその続きを語ってくれた。「我々は捕虜の移送を担当した。カライ・ザイニでは、シバルガンに向かう25個のコンテナを調達し、1個につき約200人の捕虜を乗せた」

 30度を超える気温の下で、空気も光も通さない金属製の箱にぎゅうぎゅう詰めにされたタリバンは、情けを懇願した。間髪を入れずに応答があった。自分も何人かの捕虜を殺したという別のアフガン兵の言葉を聞こう。「コンテナを撃って空気穴を開けてやった。死人も出たさ」。そこで「コンテナに穴を開けようと自分で撃ったのですか。誰かが命令を下したのですか」と聞いてみる。答えは「司令官の命令だ」

 この男の正直な物言いには、しかしながら凄まじい残忍性が隠されている。我々が見たコンテナの弾痕には、上の方ではなく、下の方や中ほどについていたものも多々あった。上の方を撃っていれば、確かに換気を確保して、捕虜に生き延びるチャンスを与えることもできたはずだ。

 あるタクシーの運転手は、幹線道路沿いに続々と出現中の即席ガソリンスタンドで停車していたという。「捕虜がカライ・ザイニからシバルガンに運ばれた日、俺は給油のために車を止めていた。変な臭いがしたんで、何があったんだ、と整備員に聞いてみた。後ろを見ろよ、とやつは言う。3台のコンテナつきトラックがいた。そこらじゅうで血が海になっている。頭の毛が逆立った。ぞっとした。立ち去りたかったが、トラックの1台が故障したせいで足止めを喰らってしまい、それもできなかった」

 その翌日、彼はシバルガンの自宅の前で、同じぐらい恐ろしい光景に目が釘づけになった。「3台のコンテナつきトラックが走っていった。やっぱり血を垂れ流していた」。密閉コンテナの中には、死による解放を意味する銃弾を受けなかったものもあった。捕虜は5日間にわたって苦しみぬき、窒息や飢え、渇きによって死んだ。扉がようやく開けられたとき、そこにいた人間の痕跡として残っていたのは、尿と血、糞便と吐瀉物、溶けかけた肉塊の山だけだった。

米軍の関与を思わせる証言

 シバルガン収容所に足を踏み入れて最初に頭をよぎるのは、次のような疑問だ。最大500人の収容能力しかない施設に、その15倍の人間を入れておけると本当に思っていたのだろうか。ここに移送されるはずの人間の大半が永遠に到着しなかったのは、本当に偶然なのだろうか。

 解体された人肉を積み荷とするコンテナが、収容所の前に整列する。収容所を担当する将校が作戦の証拠を速やかに隠滅するようにとの命令を受け取ったとき、輸送に同行した兵士の一人がそこに居合わせている。「ほとんどのコンテナに弾痕があった。どのコンテナにも150人から160人分の死体があった。まだ息をしていた捕虜も少しいたが、ほとんどは死んでいた。アメリカ人たちはシバルガンの兵士に向かって、これを衛星に撮影される前に町から遠ざけろと指示した」

 アメリカが共謀していたという告発は、今後調査が行われた場合に非常に重要な意味を持つことになる。この件に関連する国際法でも、国内法あるいは軍法でも、犯罪が起きた際の命令系統を確認することが、大きな基本となる。言い換えれば、誰がシバルガンの作戦を指揮していたのかが問題となる。

 我々は2人のトラック運転手を見つけだした。それぞれ別の地域からやって来て、別々の日に砂漠の中の同じ場所に我々を連れて行った。彼らはこの事件で自分が果たした役割に明らかに動揺しており、カライ・ザイニからシバルガンを経てダシュテ・ライリへと至る、身の毛のよだつ旅のことを語ってくれた。

 運転手1「コンテナは25個ぐらいだった。捕虜は息ができず、ひどい有り様だった。そこでコンテナに向かって発砲だ。たくさんの捕虜が死んだ。シバルガンでは、まだ生きている気配のある者が降ろされた。でも、怪我をしたり衰弱がひどかったりして、気を失っているタリバン兵もいた。そいつらはここ、ダシュテ・ライリと呼ばれている場所まで運ばれて処刑になった。俺は3回ここに来て、毎回150人くらいの捕虜を連れていた。やつらは撃たれている間じゅう泣き叫んでいた。こうしたドライブをやらされた運転手は10人から15人ぐらいいた」

 運転手2「俺のトラックはマザリ・シャリフで、一文ももらえずに徴発された。コンテナを一杯にされて、カライ・ザイニからシバルガンまで捕虜を運び、お次がダシュテ・ライリで、兵士がやつらを処刑した。怪我をしたり気を失ったりで、生きているやつもいた。そいつらはここに連れて来られ、手をしばられて処刑された。俺は捕虜を連れて4回往復した。全部で550人から600人の人間をここまで運んだ」

 アメリカ政府はニューズウィーク誌8月26日号のスクープを受けて、ダシュテ・ライリで虐殺が行われ、米兵がシバルガン収容所にいたことをようやく認めたが、しかし何も見なかったと言う。この主張は明らかに信じがたい。アフガン政府に対して調査開始を求めるというのは、あまり真剣な態度とは思われない。軍閥に従属したカブール当局には、そのための資金も能力もない。

 運転手1「シバルガン収容所にはジュンビシュ(ウズベク系アフガン人)もいた。このダシュテ・ライリではアメリカ人は見なかったけれど、収容所では見かけたし、トラックから降りてこなかったということかもしれない」

 運転手2にもアメリカ人がいたかどうかを聞いてみた。「ああ、一緒にここ、ダシュテ・ライリにいたよ」「人数はどれぐらい」「すごくたくさん、たぶん30人か40人だ。最初の2回は一緒に来たけど、後の2回は見なかった」

 それから数カ月、ダシュテ・ライリの殺戮の場所には、まだ生々しいブルドーザーの跡が残っている。死体が穴の中に放り込まれ、大量の砂の下に隠されたのだ。

 目撃者の話によれば、カライ・ザイニからシバルガンまでの道中を生き延びた者は米兵に引き渡され、砂の下に埋められた仲間よりましとは言いがたい運命をたどることになった。他のタリバン兵をおどして口を割らせるために、ある米兵が捕虜を一人殺すのを見たというアフガン兵もいる。「シバルガンに駐屯してたとき、米兵が捕虜の首を折るのを見た。またある時には、酸か何かを捕虜に浴びせていた。アメリカ人たちはやりたい放題で、こっちに止める力はなかった。何もかもが、アメリカの司令官の管理下にあった」

 当時シバルガンにいた北部同盟の将軍の一人も次のように証言した。「私はそこにいた。彼らはナイフを脚に突き立て、舌を切り落とし、髭をそぎ落とした。楽しむためにやっているのではないかと感じることもあった。彼らは捕虜を外に連れ出し、ぶちのめしては中に戻した。しかし戻って来なかった捕虜もいた」

 我々のフィルムに登場した証人は全員、彼らが語った内容に基づいて事件が国際調査委員会や国際法廷で取り上げられることになった場合、証言台に立つ心づもりがあるし、もしその機会が与えられたなら、問題の米軍関係者を名指しする心構えでいる。

 シバルガン収容所内部での殺戮や暗殺を告発するのは、事件が風化してからではおそらく困難だろう。だが、収容所から4キロのところに、おそらく千人単位の捕虜が埋まった集団墓地がある。もし米軍関係者が捕虜の始末に加担したのなら、多くの証言にあるように命令系統の頂点にいたのなら、数百人の人間が即決で処刑されるのを見過ごしにしたのなら、それは戦争犯罪である。

 1968年のミ・ライ(ソンミ村)の虐殺と、それによるウィリアム・カリー中尉に対する軍法会議が、遠い過去のことのように思われる。世界はあれから変わってしまったのだろう。しかし、法の一般原則は同一だ。無実の者が真実を恐れるいわれはない。


(2002年9月号)

All rights reserved, 2002, Le Monde diplomatique + Miura Noritsune + Saito Kagumi

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