ヒロシマからツインタワーへ

ジョン・バージャー(John Berger)
作家、画家

英文仏訳:ミシェル・フックス、仏文和訳:吉田徹

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 アメリカのアフガニスタンへの空爆によって「付随的」に殺された何の罪もない民間人の数は、ツインタワー攻撃による死亡者と同等の規模に達した。そうであれば、これらの出来事の悲劇的な性質を忘れることなく、それらをより広い展望のもとに捉え直してみてもよいのではないだろうか。そしてこう問うてみたい。故意に人を殺すという行為は、果たして無思慮に、あるいは機械的に人を殺すよりも重大な、あるいは非難すべき罪なのだろうか、と(ここで「機械的」というのは、アメリカが湾岸戦争から採用するようになった空爆戦略を念頭に置いている)。私はこの問いに対する答えを持ち合わせていない。B52爆撃機から降り注ぐクラスター爆弾の中、マンハッタンのチャーチ・ストリートに立ちこめた白煙の中のような現場に身を置けば、いかなる倫理上の比較も不謹慎なものとならざるを得ないだろう。

 2001年9月11日にみたテレビの録画放送は、すぐさま私に1945年8月6日のことを思い出させた。あの日の夜に、ヨーロッパの私たちはヒロシマ爆撃のニュースを知らされたのだった。

 2つの出来事には、いくつもの共通点がある。雲ひとつない空から、突如として火の玉が降ってきて、標的都市の住民が仕事に出かけ、店を開き、子供たちが授業に備える朝の時間を狙い撃ちにした。すべてが灰と化し、人体は空中に投げ出され、残骸となる。両方ともに、神をも恐れぬ行為であり、カオスである。それは、史上初めて用いられた新兵器による。60年前は原爆であり、昨秋は旅客機だった。爆心地では、死者を覆う布のように、あたりかまわず粉塵が降り積もっていた。

 規模と文脈が違うのは言うまでもない。マンハッタンの粉塵は放射能を帯びていなかったし、1945年のアメリカは、すでに3年前から日本と本物の戦争を繰り広げていた。しかし2つの攻撃が、いずれも警告の意を込めて行われたことは事実である。

 両方のどちらをとってみても、世界が変わったことを実感させる出来事だった。人生の至るところに潜む危険が、雲ひとつない新しい夜明けに、未曾有の変貌を遂げたのだった。

 ヒロシマとナガサキに投下された爆弾は、アメリカが世界最強の軍事大国となったことを意味した。9月11日の攻撃は、この軍事大国が自国の領土においてすら、もはや難攻不落ではないことを意味した。この2つの事件は、歴史のある特定の時期の始まりと終わりを告げている。

 9月11日に対するブッシュ大統領の報復は、最初は「限りない正義」と命名され、後に「不朽の自由」と改称され、大統領によって「対テロ戦争」と形容されている。これに関するもっとも衝撃的な、そして同時に苦悩に満ちたコメントと分析は、当のアメリカ市民によって表明され、書き記されている。現在のワシントンの政策決定者に決然と反対する者に向けられる反米主義の嫌疑は、私たちが問題視する政策と同じぐらい狭い視野から出てきたものでしかない。アメリカ市民にも、反アメリカ的で、私たちが連帯感を感じる人々は無数にいる。

 その一方で、ブッシュ大統領の政策を支持するアメリカ市民も大勢いる。例えば最近60人の知識人が、「正しい」戦争とは一般的に何であるかを述べた上で、アフガンでの「不朽の自由」作戦と対テロ戦争が正当化される理由を示そうとする声明を発表した(1)

 無垢な人間を悪から守ることを目的とした戦争は「正しく」、あるいは道徳的に正当化されると彼らは論じ、聖アウグスティヌスを引き合いに出した。そして、このような戦争では、あらゆる手段を尽くして非戦闘員の保護に努めなければならないと付言した。

 声明を素直に読めば(もっとも、これが自然な気持ちから素直に書かれたものでないことは言うまでもない)、忍耐強く博学で、穏健に意見を表明する専門家たちの会合で作られた文章という印象を受ける。大きな図書館(とおそらく会議の合間にはプール)を自由に使いながら、十分な時間をかけ、邪魔されることなく熟慮を重ね、それぞれの留保事項を討議した結果、問題についての集約的な合意をまとめあげた、というような。

 この専門家会合は、守衛と検問のいる厚い壁に囲まれた広大な庭園の中の(ヘリコプターでしかたどり着けない)人知れぬ6つ星ホテルあたりで開かれたものではないかと連想はふくらむ。そこでは、これらの思想家と地域住民とが接触する余地はなく、偶然の出会いが起こることもない。その結果、過去の歴史で実際に起きた出来事、そして現にホテルの壁の外側で起きている出来事は、考慮の対象とは見なされず、したがって顧みられることもない。そこから生み出されるものは、外界から守られた贅沢な滞在者のための倫理でしかない。

 話を1945年の夏に戻そう。すでに日本の66の都市がナパーム弾の火の手によって破壊されていた。東京では100万人の民間人が焼け出され、10万人の死者が出た。焼夷弾による爆撃を指揮したルメイ空軍指揮官の言葉を借りれば、彼らは「焼き尽くされ、茹で上げられ、煮立てられて死んだ」。父親の相談役でもあったF・ローズヴェルト大統領の息子は、「日本の民間人をほぼ半減させるまで」爆撃を継続すべきだと明言した。7月18日に日本の天皇は、ローズヴェルトの後任となったトルーマン大統領に対し、改めて和平を求める電報を送ったが(2)、そのメッセージは無視された。

 ヒロシマへの原爆投下の数日前、ラドフォード海軍少将は「日本はもはや都市なき国民として、遊牧民になるしかない」と得意気に語った。

 市の中心地にある病院の真上で炸裂した爆弾は、瞬時に10万人を殺害し、うち95%を民間人が占めた。その後さらに10万人が被爆により、ゆっくりと死んでいった。

 トルーマン大統領は「16時間前、日本の重要な軍事基地であるヒロシマにアメリカ機が爆弾を投下した」と公表した。

 その1カ月後、勇敢なオーストラリア人ジャーナリスト、ウィルフレッド・バーチェットによって、検閲なしの第一報が伝えられた。彼は市内の仮設病院を訪れ、言葉を絶する犠牲者の苦悶を報じた。

 原子爆弾の計画と製造を任務とする「マンハッタン計画」の総指揮官であったグローヴズ陸軍准将は、議会の懸念を払拭しようと、放射能が「過剰な苦しみ」をもたらすことはなく、「実際は極めて心地よい死に方だと言われている」と述べた。

 1946年、日本に対する戦略的爆撃に関するアメリカの調査報告は、「原子爆弾が投下されなくとも日本は降伏したであろう」と結論づけた。

 一連の出来事を以上のように簡略に述べてみても、それは当然ながら過度の単純化でしかない。マンハッタン計画が開始されたのは、ヒットラーが勝利を収め、ドイツ人研究者による世界初の原爆製造が危惧された1942年のことだった。その危険がなくなった後に、なぜアメリカが日本に2つの原爆を投下するという決定を下したのかの背景は、日本軍が東南アジア全域で働いた蛮行と1941年12月の真珠湾奇襲に求めなければならない。しかしマンハッタン計画に携わっていた将校や一部の科学者は、かくも重大な結果をもたらす決定を思いとどまらせようと、あるいは少なくとも遅らせようと、あらゆる手段を尽くしたのだった。

 それでも最終的に、あらゆる言葉と方策が出尽くした後で、8月14日の日本の無条件降伏を長きにわたって待ち望んだ勝利として喜ぶことは不可能であり、また現実にも見られなかった。その核心に横たわっていたのは、苦悩と無思慮の感覚である。

 この小論により、人知れぬ6つ星ホテルに滞在する60人のアメリカの思想家たちが、自国の歴史上の事実にさえ、いかに疎遠であるかを理解してもらいたい。そして、1945年を起点とするアメリカの軍事覇権が、その埒外に置かれた者にとっては、非情で無関心な、遠方から行使される力の無思慮な誇示によって幕を開けたことを思い出してもらいたい。「なぜこれほど嫌われるのか」と自問するブッシュ大統領は、この事実を黙して考えるべきだ。しかし、どうしようもあるまい。彼は6つ星ホテルの支配人のひとりであり、そこを後にする日が来るとは考えられないのだから。

(1) 「アメリカからの手紙:ある戦闘の諸理由」(ル・モンド2002年2月15日付)、ルイ・ピント「マイケル・ウォルツァーの反テロ声明」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年5月号)を参照。[日本語版編集部補足:2002年2月12日に60名のアメリカ知識人が共同声明文「私たちは何のために戦っているのか」を主要紙に発表した。主な署名者は、フランシス・フクヤマ、サミュエル・ハンティントン、マイケル・ウォルツァーなど。原文は下記で参照可能。http://www.washingtonpost.com/wp-srv/nation/specials/attacked/transcripts/justwar_letter020102.html
(2) 7月13日に日本の在モスクワ大使が、前日付の外相訓電に示された天皇の意向をロシア語に訳した文章をロシア外務次官に渡した。その写しをスターリンがトルーマンに見せたのが7月18日である。[訳註]


(2002年9月号)

All rights reserved, 2002, Le Monde diplomatique + Yoshida Toru + Saito Kagumi

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