森林資源の合理的管理のために

ジェラール・スルニア(Gerard Sournia)
環境問題専門家

訳・安東里佳子

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 天然資源の保護は、大げさな会議を適当に開けば一丁上がりというわけにはいかない。去る4月にハーグで開かれた生物多様性条約についての会議の失敗に続き、8月26日から9月4日まで南アフリカで開催される持続可能な開発に関する世界サミットや、11月にチリで予定されているワシントン条約の会議も、大した成果を上げられないおそれがある。国際捕鯨委員会も行き詰まり、ゾウ狩りは再開後いっそう激しくなり、熱帯雨林はアフリカでさえも消滅している・・・。[訳出]

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 地球上には、アマゾン、東南アジア、そしてコンゴ盆地の森林地帯という三つの緑の肺がある。このうちコンゴ盆地は、先の二つに比べて比較的被害が少ない。いくつかの国では流れに逆行した現象すら起きている。ガボンや中央アフリカ、コンゴなどでは、人間が放棄したサバンナへと森林が前進しているのだ。

 それにもかかわらず、「自然保護」関係者の間では、手を付ければ森林は滅亡の運命をたどっていくと批判することが王道とされている。西洋からもたらされた新しい教えでは、商業目的のために木を切ることは、環境保護を冒涜する大罪となる。しかし、この緑の教えは、ある現実を見過ごしている。アフリカの森林諸国が自然界の天然資源に依存しているという現実を。

 例えば、これらの森林の中で生活し、生計を立てている人々がいる。彼らはたんぱく質の95%を野生動物から得ている。次々と新しい土地に向かう焼き畑農業は、それだけで森林が消滅する原因の9割を占めている。森林に伐採現場が設けられれば、農民たちが通行や運搬の拠点として使い、開発が終わり次第、どっと流れ込んでくることになる。

 森林開発の産物が、輸出収入の主要部分を稼ぎ出している諸国もある。森林開発は非難の対象となることを免れず、多くの場合には純然たる採集活動として行われている。 しかし、資源の合理的管理という概念が登場し、環境保護運動が盛り上がり、あるいは熱帯雨林の木材の不買運動が展開されることにより、多数のフランス企業を含む大手森林開発業者も徐々に自らの立場を見直し、議論に応じたり顧問を招いたりするようになった。そして非政府機関(NGO)、政府、林業関係者、アフリカ木材機関の間で協議体制が確立されるに至った。フランスや世界銀行、欧州委員会といった融資提供者は、合理的な管理・開発計画への出資を進めてきた。

 こうして、野生動物のための保護区域が創設された。開発業者は保護と調査のために伐採許可地の一部を保全することを受け入れ、業者団体は自然保護団体と合意を取り交わした。伐採現場で働く人々の食料として、狩猟動物を飼育することも計画された。

 こうした動きはまだ最初の一歩にすぎないが、生産国側の姿勢はどちらかといえば前向きである。第一の課題は、森林の豊かさを守るための管理規制を現地政府が遵守することにある。きわめて多くの現地政府が森林を銀行口座のように見なしている。つまり、個人的な財産を作るために、あるいは数年前にカメルーンで見られたように(1)、月末に公務員の給料を捻出するために、引き出せる金のある場所ということだ。

 さらに油断ならないのが、マレーシア、中国、インドネシアといったアジアの大手木材会社に与えられた便宜である。それは、伐採される林木の質と量についても、伐採許可地の面積についても、現行の基準を完全に無視したものだ。この動きは、アジア経済の危機によってかろうじて歯止めをかけられたとはいえ、恒常的な危機と紛争に揺さぶられる現地政府をいっそう弱体化させた。しかしアジアにおける木材需要は非常に強いため、この休止状態も一時的なものにすぎない。事態への警鐘を鳴らしたのは、フランスにある「開発のための農学研究国際協力センター」の報告書だけだった。この報告書は、社会や経済と環境保護を調和させるような枠組みの中で、木材会社と実務的な交渉を進めるための足がかりとなりうるものである。

センチメンタリズムを超えて

 自然保護という喜びのために森林を生物多様性の聖域とする、というのは確かに魅惑的な言葉だが、多くの発展途上国、とりわけアフリカが味わっている状況を目前にすれば無意味なものでしかない。コートジヴォワールのウフェ=ボワニー元大統領やマダガスカルのラチラカ前大統領は、フランスもかつては自国民の食糧を確保するために、森林を切り開き、野生動物の多くを消滅させたではないか、と皮肉な喜びをもって指摘した。

 ヨーロッパでは、自国から消えた大型野生動物(熊、ヒゲワシ、ハゲタカ、オオヤマネコなど)を外国から再導入せざるをえなくなっている。また、狼のような野生動物が勢いを取り戻せば、同じ自然空間を利用する人々が激しい反対運動を起こす。それなのに、ある自然空間、さらにいえば危険にさらされた自然環境を保全する措置が必要だと、周囲には説いて回ろうというのか。

 ヨーロッパで狩猟規制に関する議論が激烈に、時には腕力をともなって戦わされているのを見て、アフリカの友人たちは驚きを禁じえない。日本やノルウェー(持続可能な開発の力強い擁護者たるブルントラント女史の国)が、捕鯨権を拡大しようと繰り返し行っている企てをどう見ればよいのか。日本の例でいえば、小国から票の買収までして、その商業的で犯罪的な望みを満足させようとしているのだ。

 こういった疑問を通じて、議論の本質そのものが浮かび上がってくる。環境保護論者の主張の一部は、我々の西洋文化から出たセンチメンタリズムの産物であり、アフリカの政権や人々にとっては理解しにくいものだ。我々は暗黙のうちに、往々にして現地の実情にそぐわない環境保護主義的な干渉を行っている。しかも大抵の場合には、財政的な支援をすることもない。

 こういった疑問は真の交渉の鍵となりえたはずのものだが、それを聞いた一部の強硬論者は建設的な話し合いを拒否する姿勢を取った。この種の議論は、ばらばらに考えられている人間環境と社会環境、そして自然環境を関連付けるよう、資源とその利用者の関係を中心として再構築されなければならない。在来種を破壊する侵入種の除去をヨーロッパでは必要だと言いながら、同様の問題に直面したアフリカの人々にその権利を認めない根拠はどこにあるのか。そうした矛盾した主張よりも、知的で合理的、そして持続可能な資源管理を行うことにより、その資源で生計を立てている人々、その資源のある土地が第一に利益を得られるようにすることが大切なのだ。

 政治家がこれらの課題について短期的な視点でしか考えていないのは、まあ驚くには当たらない。さらに気がかりなのは、一部の環境保護関係者の姿勢である。天然資源の問題や開発のための資源管理という問題に目を向け、それが貧困にあえぐ国々では生活の糧であり、生存の基盤であるという認識をもって、発展途上国の開発の問題を取り上げるような議論は、最近フランスで行われた選挙の際にほとんど見られなかった。

 ヨーロッパの環境保護関係者の政治的活動、世論における彼らの主張の広がり、社会問題の的確な提起、そして消費の問題に対する彼らの疑問は、遠隔教育的な役割を果たすものとして、大きな関心をもってアフリカから見守られている。これらの活動家は「白人の嘆き」症候群に安易に屈することなく、アフリカの現実と課題に対して正しい手段を取るようにしなければならない。

(1) カメルーン政府は現金調達のために伐採許可を乱発した。国際的な圧力を受けた政府は、森林担当大臣を更迭した。


(2002年8月号)

All rights reserved, 2002, Le Monde diplomatique + Ando Rikako + Miura Noritsune + Saito Kagumi

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