イタリア左翼の再建に向けて

アントニオ・ネグリ(Antonio Negri)
マイケル・ハートとの共著『帝国』著者
(邦訳は2002年に以文社より刊行予定)

訳・吉田徹

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 政治哲学者であり、既成左翼と一線を画する労働運動(アウトノミア運動)の理論的指導者として知られたアントニオ・ネグリは、極左テロ組織との関係を疑われ1983年にフランスに亡命、97年に服役を決意してイタリアに帰国する。その後に刊行された共著『帝国』は、ネグリ自身による解説によれば、グローバル市場での秩序形成の本質が、国民国家の枠組では制御できなくなった労働運動に対する資本の再編による「帝国」の構築にあるとし、プロレタリアートに代わる運動主体として“multitude”という概念を用いつつ「帝国」の理論化を試みた著作である。その具体的実践が「ジェノヴァ」以降の社会運動の中にあると彼は見る。[日本語版編集部]

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 2001年5月に行われた総選挙でのベルルスコーニの勝利の後、政治に興味あるものなら誰しもが次のように言っただろう。「左翼は総崩れになった」と。左翼は、議席を多数失っただけでなく、信頼をも失った。社会民主主義の躍進は限界に達し、偉大で輝かしかった旧イタリア共産党の改良主義への変節は、歴史的な敗北で締めくくられた。勝者による皮肉な、そして冷酷な視線のもとで、中道左翼の政治勢力は互いに論争に明け暮れることとなった。

 その後に起きたのが、2001年7月のジェノヴァの出来事だった。ダンボールの盾とプラスチックの剣を携えた反グローバリゼーション運動は、G8サミットに立ち向かった。様々な政治社会勢力の新たな結集である。

 政治勢力としては、一方では「トゥーテ・ビアンケ(白いつなぎ)」と呼ばれるアウトノミア的(自律的)極左運動、他方ではカトリックのボランティア団体が構成主体となっていた。いずれも規模の大きさと積極主義のもとに、雑多なグループを先導していた。

 社会勢力としては、ジェノヴァの多数性(multitude)は、ポスト・フォーディズム革命によって社会化された労働における新たな疎外者たちを初めて、そして十全に体現していた。街頭に繰り出した彼らは、自らの力を実感してはいなかった。しかし彼らは、政権に就いた右派からにせよ、ましてネオ・リベラリズムに対する労働者の抵抗運動の破壊を促し、新たなプロレタリアの形成に愚かにも貢献した中道左翼からにせよ、何ひとつ恩恵を被っていないことは確信していた。彼らはまた、新しい形の窮乏が形作られつつあることに気付いていた。まさにそこに、非物質的な知的労働の内部にこそ、他のどこよりも鮮やかに、解放の予兆が表れていたのだ。このように、ジェノヴァは、巨大な衝突を体現していた。警察はイタリアの歴史上初めて、何のためらいもなく、イスラエルがしばしばパレスチナで用いた「低強度紛争」の技術を使用した。カルロ・ジュリアーニという若いデモ参加者が、同じ歳の警察官によって、顔面に弾を打ち込まれて殺された。その24時間後の夜、興奮した警官グループによって数百人のデモ参加者が寝込みを襲われて負傷した。

 デモの計画段階にすら参加しなかった社民主義左翼は、この惨劇を前にしても手をこまねいているだけだった。議会野党もまた、恥ずかしいまでに弱気で微動だにせず、ベルルスコーニ政権によって生まれた民主主義の大きなゆがみに抗議する力を持たなかった。

 こうして、新しいシナリオが動き出した。草の根の活動家、知識人、教師や女性が、左翼の指導部の無定見と政治担当者の無能に対して反旗を翻した。これは「モヴィメント・デイ・ジロトンディ(人間の鎖の運動)」と呼ばれた。彼らの抗議対象は社民主義そのものではなく、無気力で無内容な幹部である。こうした声が人々によって表明されており、何人かの高名な知識人も加わっている(1)。 

 イタリアの社会運動は、こうした知的批判運動と並行して展開されており、抵抗のデモが相次いでいる。2001年9月11日の事件の後、右派は11月10日に「星条旗との連帯」、つまり、長期にわたり世界規模の戦争を行うとする米国の決定との連帯をうたうデモを組織しようとした。この計画に対し、数万人の人間が、平和を願って抗議のデモを実施した。

 同じように、移民もローマなどの都市で抗議活動を行っている。その対象は、移民の権利(特に滞在許可証の付与)を就労証明書の保持と関連付け、厳しく制限するボッシ=フィニ法案(2)である。同法案には、ヤミ労働と政府による暴力的措置ではヨーロッパで一番と言われるイタリア社会の欺瞞が、あますところなく露呈されている。移民たちは、今年になってイタリア北部の業績好調な産業で初めての「カラー・ストライキ」を実施するに至るほど、激しい抵抗運動を開始した。

 ベルルスコーニ政権が押し切ろうとする教育制度改革に対しても、抵抗運動が組織された。数週間にわたって数十万人の学生と教師が、街頭で抗議運動を繰り広げた。

目を覚ました労組

 要するに、2001年の夏を起点として、戦争に対し、またイタリア社会へのネオ・リベラリズムの導入拡大に対して、絶え間ない闘争の季節が始まっているのである。ジェノヴァはその根底にあり、現在に至るまで原点となり続けている。

 同じくジェノヴァ以降、このような闘争の多数性の周縁で、労働組合も復活を遂げつつある。労組もまた、ベルルスコーニ政権誕生以降、指針を失っていたのだ。イタリア労働総同盟傘下の金属労連(FIOM−CGIL)のような一部の労組や多くの教員組合が反グローバリゼーション運動に加わる一方、大労組の執行部は左翼民主主義者(DS、旧共産党)の執行部と同様の混乱に陥っていた。彼らは中道左翼政権への支持と引き換えに得た「現状維持の利益」に慣れきっていた。しかし、2つの契機によって、こうした惰性は打ち破られることになる。

 ひとつは、敗北した社民主義が、左翼再構築の軸を右寄りに移そうとしたことだった。2001年11月にペザロで行われたDSの大会では、CGILとの激しい路線闘争が起こった。この旧共産党の指導部は、鉄面皮とブレア主義をもってグローバル権力に寄り添うことに、何のためらいも見せない政治エリートと化していた。しかし、CGILの側は、この路線に乗るわけにはいかない。若い労働者が、古い左翼の旧来型コーポラティズム(協調組合主義)よりも、ジェノヴァのデモ参加者に親近感を抱いていることを理解しているからだ。それゆえ労組は、中道左翼のネオ・リベラリズム傾斜に対し抵抗する必要に迫られている。

 もうひとつは、ベルルスコーニ政権の傲慢な姿勢によるものだった。同政権は、「正当な動機」のない解雇を禁止する労働法第18条を廃止しようとした。この権利は、実際には死文化していたが、きわめて象徴的な意味合いを持っていた。

 この2つの挑発的行為を受けて、労組執行部は、「ジェノヴァの人々」と「人間の鎖」によるアウトノミア的運動の現場へと向かうようになり、戦争や教育改革、移民差別に反対する運動に加わるものも増えた。2002年3月23日のローマでは、前年にジェノヴァで始まった長い道のりが、300万もの人々の集会となって結実した。現政権だけでなく、野党に対しても異議を唱え、左翼の名に相応しい再構築を掲げた素晴らしい運動体が再編されつつある。いまやイタリアの有権者の2割を占めるこの運動体は、当然に複雑な要素から成り立っており、その行く手には様々なシナリオがある。第1のシナリオは、大手メディアの支持を受けている「ブレア主義者」がなおも中道左翼の執行部にとどまるというものである。この場合には、組合闘争が発展し、さらには暴力的な抵抗運動が展開されることになるだろう。しかし、第2のシナリオも考えられる。それは現在のCGIL執行部が内部に路線対立を抱えつつも、カトリック急進派と連携し、短期的に選挙を戦えるようなレベルの左翼民主主義の中核勢力をつくり上げるというものである。

 この可能性は、かなり好意的に受け止められている。何故なら1970年代以降、社会運動を抑圧し、労組を骨抜きにし、代議士を官僚化し、現在の反動的イデオロギーへの転回を招き、共産主義の伝統を裏切ったポスト共産主義者を周辺へと追いやることを可能にするからである。カトリックのCISL(イタリア労働組合連盟)や穏健派のUIL(イタリア労働連合)が同意したイタリア産業連盟との7月5日付の労働協定に、CGILが調印しなかったのも、こうした方向性を示している。しかし、我々の考えでは、第2のシナリオには大いに慎重にならざるを得ない。このシナリオで最も懸念されるのは、CGIL執行部の誠実さでも一貫性でもなく、労働者主義的とでも称することのできる文化的欠点である。彼らの政権構想は現実から乖離しており、労働者階級が依然としてグラムシのいうような「ヘゲモニー的」価値の担い手であるという古い理念に立脚しているからだ。

 これは残念ながら実態に即していない。現に起こっている運動の多くは、左翼の再建には全く新しい人々に依拠することが必要だと考えている。正規労働者だけでなく、疎外者や貧困にあえぐ者。工場労働者だけでなく、知的労働者。そして白人男性だけでなく、女性や移民たち。これらの人々を含まなければならない。これが、現在の運動の最大勢力である反グローバリゼーション運動が描く第3のシナリオだ。つまり、新しい福祉国家と所得保証、普遍的な市民権、移住の自由を基本プログラムとし、エコロジーにおいて、生産生活において、そして「バイオポリティックス」において擁護・促進すべき共通善を定義し直すことにより、左翼の再編を目指すのである。

「絶対民主主義」のために

 共産主義革命のより進んだ段階に向けたこの新しいプログラムは、多くの市民と新左翼の活動家の意識に深く刻まれている。おそらくスピノザなら「絶対民主主義」と呼び、マルクスが実現を願ったプログラムである。目指されているのは、市民による可能な限り広範な協働と、共通善の発展を基盤とした共和国である。万人の自由が実現されるかは、この一点にかかっている。それ以外の道は参政の放棄、市民の不満に満ちたネガティブな離脱へと行き着いてしまうだろう。

 そこで、イタリアの課題となるのは、この新しい運動を構成する様々な人々と左翼労組との間の開かれた討論である。いずれの側にとっても最初に取り組むべきことは、社民政党の現執行部を放逐し、社会運動を窒息させる官僚主義路線を打ち破り、グローバル市場に対抗する新しいプログラムのもとに社会勢力を結集させることである。そして、棄権という受身の形で選挙に抗議を表明している20%の有権者を、この参加と市民性を原理とする動きの中に連れ戻すことである。これらの有権者は、変革のための素晴らしい起爆剤となり得るからだ。

 このような展望のもとで、参加型行政という問題群が、そして一般的に協同主義という問題群が、きわめて重要性を帯びてきたことは強調するまでもないだろう。これらの問題群は、政治という概念そのものの刷新を必要とする。政治はもはや代表という観点ではなく、表現という観点から構想されるべきである。積極主義の概念の刷新も必要だ。そうすれば、これら問題群は意味あるものとなるだろう。

 2002年3月23日以降、これらの運動と闘争は拡大を続けたあまりに、政治的強度を失ったようにみえる。この過渡期の不安定性は、労組による4月16日のゼネスト呼びかけを前にして、反グローバリゼーション運動が「全員参加ストライキ」を呼びかけつつも、具体策を定めなかったことで表面化した。このスローガンが実行に移された場所で見られたのは、小規模のストライキにすぎなかった。これは労働者がスクラムを組む工場ストと違って、力関係に大した影響を与えるものではなかった。疎外者、社会化された労働者、変動的で流動的な人々は、経営者に十分な「打撃を与える」ことができなかった。その結果、信頼感が損なわれ、CGILの昔ながらの代表交渉方式に固執するムードが生まれている。しかし、これは無為な試みだ。問題は、幹部の顔ぶれではなく政治的方針のレベル、希望の再生というレベルにある。社民主義は、もはやその歴史的使命を終えた。社民主義路線からの脱却、工場労働者と他の労働者や社会的に排除された者との団結、社会化された「プレカリアート(疎外者層)」と生産の知的諸力が持っている多大な政治的役割の認知により、運動を再建しなければならないという声が、いまやどの集会でも聞こえてくる。

 さらに多くの場所で強く表明されているのは、抗議勢力の新たな団結を体現できるような新しい社会闘争の形態を模索する、知的で強靭な意志である。非物質的労働の職場でのストライキ、インターネットを通じた闘争の告知、主要都市に対する指令系統の解体などが試みられている。このような方法により、このような方法によってのみ、左翼の再構築は可能となる。

 要約しよう。ヨーロッパで、社民主義左翼の失敗の後に、イタリアほど意味ある抵抗活動が生まれた事例はない。ここで見られるのは、ある種の意識の跳躍である。それは名状しがたいものではあるが、闘争と世界の変革のために、多数性がもはや社民主義を必要としないということを裏付けている。「諸運動の運動」は理論的地平と具体的運動の双方で新しい表現方法を求め、新しいヘゲモニー装置を作動させようとしている。イタリアという実験場が再び動き始めたのである。

(1) 映画監督ナンニ・モレッティは、2002年2月初めにローマのナヴォナ広場で開かれた中道左翼の集会で即興の演説を行い、「左翼の人々」全体の意識を覚醒させた。彼らは、国営放送局(RAI)本社や裁判所など、ベルルスコーニ政権の改革に脅かされる様々な機関を人間の鎖によって取り囲んだ。
(2) ウンベルト・ボッシは、「分離主義」と外国人差別で知られる北部同盟のリーダーである。ジャンフランコ・フィーニは、ファシスト政党であったイタリア社会運動の後身で、90年代以降に右派リベラル政党となった国民同盟を率いている。両者ともにベルルスコーニ政権の閣僚となっている。


(2002年8月号)

All rights reserved, 2002, Le Monde diplomatique + Yoshida Toru + Saito Kagumi

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