今日のフランスでユダヤ人であること

シルヴィ・ブレバン(Sylvie Braibant)
TV5 記者
ドミニク・ヴィダル(Dominique Vidal)
ル・モンド・ディプロマティーク編集部 による調査

訳・瀬尾じゅん

line

 「ユダヤ人社会」と聞いて何を思い浮かべるだろうか 。ユダヤ教に従い、ユダヤ人家庭に生まれ、あるいはユダヤの伝統に則って暮らしているフランス人、およそ70万人のことだろうか。それとも長老会議や在仏ユダヤ系団体代表協議会(CRIF)加盟団体を通じて組織化された、およそ10万人のコミュニティのことだろうか。CRIFの議長、ロジェ・クキエルマン氏の声明は、最大で7人に1人の在仏ユダヤ人を代表するにすぎない(1)

 週刊紙「ユダヤ・ニュース」によく寄稿し、厳しく戒律を守るユダヤ教徒のジャン=イヴ・カミュも、ほぼ同様の見方を示している。「まさに二極化といえる現象が起こっています。これまでにないほど強く、ユダヤ人としてのアイデンティティを主張する者がいる一方で、フランスに同化し、ユダヤ人であるという意識を持たなくなる者もいる」と言う。実際の数を正確に捉えるのは難しい。「我々の間では、数字はタブーなのです。トーラー(律法)でも、フランス共和国の法律と同様に、ユダヤ人の人口調査を禁じていますから」と彼は付け加えた。

 というわけで、大ざっぱな数字を見ていくことにしよう。パリの長老会議のジャン=フランソワ・ストゥルフは、次のような数字を強調する。ユダヤ教の安息日にあたる毎週土曜日にシナゴーグ(礼拝堂)を訪れる信者の数が、重要な祭日であるヨム・キプール(贖罪の日)の礼拝に参列する信者の4分の1あまりに達している(2)。ユダヤ人でない者との結婚が、2人に1人の割合に減っている。宗教系と無宗教系を合わせて、ユダヤ人学校に通う子どもが4分の1近くいる。

 コーシェル肉(ユダヤ教の規定に適合した食肉)の売り上げが減っているといっても、それは狂牛病の影響によるもので、2001年にはユダヤ人一人当たり平均20キロ以上が消費されている(3)

 ジャン=イヴ・カミュは言う。「シナゴーグやユダヤ人学校、コーシェルを扱う食料品店やレストランばかり集中している地区があるけれど、これでは自らゲットーを作り上げているようなものです。昔の『イスラエリット』(4)は、なるべく目立たないようにしていたものですが、それとは反対に、今の正統派は自分がユダヤ人であることを表に出しています。それはとてもいいことだと思います。が、なかには、いかにもイスラエル的なフツパ(傲慢な態度)をふりかざす者もいて、そういう人たちは彼らの考えに反対する人を誰彼かまわず反ユダヤ主義者呼ばわりするのです。あるいは、自分もフランス生まれだというのに、ユダヤ人以外の人たちのことを『フランス人』と呼ぶような者もいます」

 「自分と同じような人々にかこまれていたい」という願望は、イスラエリット同友会が経営するパリ郊外セーヌ・サン・ドニ県パヴィヨン・スー・ボワ市の学校でもはっきり感じられる(38年前の創立時には50人だった生徒数が現在は620人になる)。学校のまわりは花が咲き乱れ、瀟洒で閑静な環境で、中流階級の邸宅が建ち並ぶ世界である。郊外高速鉄道の駅からもすぐのところだ。警備は目立たないようにされているが、キッパ(小型の縁なし帽子)をかぶった生徒たちが毎日のように嫌がらせを受けるようになって以来、監視が強化されている。こういった緊張感は街の市場でも見られ、校長のラシェル・コーアンによると、同校への入学志願者が急増しているという。「いい成績をとって、いい学校へ進学したいからというだけでなく、自分のアイデンティティを探し求め、安全な環境にいたいという気持ちも働いています。ここは外の世界から守られていますし、『悪者』呼ばわりされることもありませんからね。公立学校の校長先生たちからも、自分のところの生徒を入学させてほしいと頼まれるぐらいです」

 これと呼応するように、来年は医学部へ進学する予定の利発な女子生徒も、「小学生のときから自分を守ってくれたこの居心地のいい学校を離れることなんてできるのだろうか。外の無宗教の世界に出るのが恐くてならないのに」と自問自答する。高校2年生になって転入してきた別の女子生徒は、「自分と同じ精神状態を共有し、同じ宗教を信じ、コーシェルを食べる生活をする人たちと一緒にいたかった」と力を込める。公立校でつらい体験をした後で中学4年生のときに転入してきた男子生徒は、「敬意と忍耐というユダヤ教の価値観」を強調する。

 パリ16区モンテヴィデオ通りのシナゴーグに40年いる正統派のラビ(律法教師)、ダニエル・ゴットリーブは慎重な見方をとる。「目を引くといっても、ユダヤ教回帰が少数派の現象であることは明らかです。ユダヤ人の90%がヨム・キプールの礼拝に参列するとしても、毎週土曜日にシナゴーグへ来る人はほんのわずかです。80%近くはユダヤ人以外の人と結婚しています。ユダヤ人学校に通っている子どもは4人に1人もいませんし、そもそも私立校は全般的に人気があります。コーシェル肉だって、大勢のイスラム教徒も買っているわけですから(5)

北アフリカからの引き揚げ者たち

 しかし、控えめな数字をとってみても、ここ数十年の「ユダヤ回帰」は否定できない。すぐに思い出されるのは終戦直後の状況だ。1942年から44年の間に、33万人の在仏ユダヤ人のうち7万9500人が強制収容所に連行された。生き残ったのはわずか2500人にすぎない。また、犠牲者の3分の2は非フランス国籍者だった。ドイツ占領からのフランス解放後、民族虐殺を逃れた者たちが、もはやユダヤ人であるということが何を意味するのかわからなくなってしまったというのも、このような心の傷を考えれば納得がいく。エリ・ヴィーゼルのように「神はアウシュヴィッツでどこにいたのか(6)」と問う者もいる。だが、ショアー(大虐殺)が一変させたのは信仰だけではなかったのだ。

 1973年に新生ユダヤ協会を作り上げ、1995年から2001年までCRIFの議長を務めたアンリ・アイダンベール師は言う。あの時代は「ぐらつくアイデンティティ」と向き合って、「自分と家族の立て直し」を迫られた「動乱期」だった、と。このつらい作業のなかで、大勢の人が「ユダヤ人という枠組みを超越する共産主義や社会主義の活動」を拠りどころにした。シオニズムの闘士になった者もいた。

 在仏ユダヤ主義財団の理事長、ネリー・アンソンは、自分の故郷で「ユダヤ人意識の薄まり」が起きていたことを覚えている。「フランスの反聖職者主義は、神父と同様ラビに対しても向けられていました。でも、コーシェルを食べないまでも、シナゴーグで友人に会ったりしていましたよ」。自由な思想の持ち主である彼女の父親にその辺のことを尋ねてみると、祈祷のためにはミニヤンと呼ばれる10人の男性がそろうことが必要であり、「たとえ自分が信仰していなくても、信者が祈祷できるようにしなければならないからね」と説明した。

 テオ・クラン師は「わたしは生と死をあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい」というモーゼの教えを引いて、戦後のフランスにおいて特に個人レベルでユダヤ主義が復活していることを解き明かそうとする。彼自身は、若い頃は「極端なユダヤ人意識」を持っていて、「共産主義者にもシオニストにも」なることなくユダヤ人レジスタンスに加わり、ユダヤ人学生連合の委員長から「階梯」を上って、1983年から89年までCRIFの議長を務めた人間だ。しかし、強制連行の思い出を忘れようとし、シナゴーグから遠ざかり、ユダヤ人でない者と結婚するような人々のことも尊重している。「ユダヤ回帰はそれぞれの心の奥底で起こるものなのです」と彼は見ている。

 それは、とりわけセファルディム、正確にいえばアラブ諸国出身のユダヤ人(7)の心の奥底で起こっている。「チュニジア、モロッコ、そして特にアルジェリアのユダヤ人が移住してきたことは、フランスのユダヤ人社会をひっくり返す出来事でした。それまで 多数派だったアシュケナジム(8)の立場が弱くなったのです」と、クラン師は述懐する。ユダヤ人社会の変化は数と質の双方に及んだ。これらの引き揚げ者たちは、アルジェリアで毎週あるいは毎日のように励んでいた「大衆宗教」の流儀をフランスに持ち込んだからだ。「彼らがフランスにおけるユダヤ教を蘇らせたのだ」と、ユダヤ教リベラル運動(9)を率いるラビ、ダニエル・ファーリは断言する。とはいえ、「彼らは活発で、儀式に熱心だったが、文化の面では大して見るべきものはなかった。彼らが移住してきたことで、長老会議は態度を硬化させた」と付け加えた。さらに、ジャン=イヴ・カミュによれば、「彼らはフランスに貸しがあった。フランスは、1940年7月早々にクレミュー法を廃止し(10)、1962年にはアルジェリア民族解放戦線に『降伏』し、フランスに『裏切られた』彼らが引き揚げてきたときに冷たく迎え入れたのだから」という側面もある。このフランスに対する「恨み」が第3次中東戦争のときに噴出したのだと、月刊誌「箱舟」の編集長であるメイール・ヴァントラテールは解説する。彼は「1967年に起こったことは、現代の在仏ユダヤ人意識の誕生を象徴する出来事だった」と見る。「あんなふうにユダヤ人が街頭で自己主張したのはそれが初めてでした」と、アイダンベール師も言う。

 しかし、社会学者のマルティーヌ・コーアンは、これらの出来事の相互関係がそれほど強いとは考えない。「ユダヤ人社会に新しい風が吹き始めたのは、北アフリカからユダヤ人が移住してきて10年ほど経ってからのことです。60年代終盤から70年代前半にかけては、文化とコミュニティの面で目覚ましい発展が見られました。宗教の占める割合は小さく、北アフリカから移住してきたユダヤ人は個人単位で社会に溶け込んでいきました(11)

 ネリー・アンソンも、「セファルディムが信心深いといっても、子どもや孫にあたる世代は親たちの世代とは違います。一般的にコミュニティ主義にありがちなことですが、宗教的アイデンティティという枠のなかに子どもたちを閉じ込めたりしない限り、かつてアシュケナジムの子孫たちもそうだったように、子どもたちは変わっていくものです」と述べて、歴史的経緯を無視した見方を警戒する。

二重の帰属意識

 歴史をちらっとでも振り返ってみれば、すぐに理解できるはずだ。60年代末に始まった「ユダヤ回帰」は、宗教、イスラエルとの連帯、ショアーの記憶を三つの柱としている。しかし、そのどれをより重視するかは人によって様々だ。「もし、ユダヤ人とは何かと30人のユダヤ人に質問したら、その答えは30通りになるだろう」とゴットリーブ師は我々に忠告した。

 「ユダヤ人であること、それはまず第一に、宗教的であるということです。つまり、人生の理想に従うということです」。ストラスブールに住むアルジェリア引き揚げ者の家庭に生まれた15歳のヨニは明言する。彼は、両親よりもずっと信心深く、宗教系の学校に通っている。そして、きちんとシナゴーグに通い、コーシェルだけを口にする。彼自身が奇妙にも「譲歩」と呼ぶような義務を己に課すのはなぜなのだろうか。「異端審問からショアーに至るまで、僕たちの先祖が堪え忍んだ事柄に対する敬意からです。フランスに同化してしまえば彼らの存在を否定することになってしまうからです」とヨニは答える。彼はこうした生活上の戒律を、将来は自分の子どもにも伝えていきたいと考えている。その子どもの母親はもちろん、同じユダヤ人であるはずだ。だからといって、自分の考えを誰に対しても押し付けるつもりはない。「なるべく多くのユダヤ人をまとめていくために、ユダヤ主義は寛容であるべきだ」という意見だからだ。彼はそれに、イスラエルに対してはほとんど共感を示さない。「僕にとってはイスラエルもほかの国と同じです。何が起ころうと僕はフランスに住み続けたい」と言う。

 パヴィヨン・スー・ボワ学校の最上級生たちは、ヨニと同じく、ユダヤ主義を宗教から切り離して見ることができない。しかし彼と違って、イスラエルは脅威にさらされていると見なし、移住を考えている者もいる。彼らはイスラエルに対し、ほぼ無条件の支持をためらうことなく表明し、それと同様にイスラム系の青年がパレスチナを支持することを容認する。ある若い女性が「イスラエルとの母と子のようなつながり」を感じていると言うように、ユダヤ人としてのアイデンティティが心のレベルに置かれるようになったのだ。

 この「二重の帰属意識」という問題はとても重要だとファーリ師は考えている。「私は今の紛争に胸がつぶれそうです。自分がフランスの社会に溶け込み、フランスの文化を身につけたことは誇りに思っています。そして、自分がユダヤ人であることと、(無条件ではありませんが)イスラエルへの思いも誇りにしているのです。ですから、フランスが急にイスラエルに敵対する姿勢をみせるようになったことで、頭のなかが真っ白になっています。自分がどのような立場をとればいいのか全くわからないのです」と彼は言う。

 他方、イスラエルとの無条件の連帯を論理的に説明しようとする者もいる。アリエル・シャロンの政策がイスラエルやユダヤ人にとっていかに危険であるかという議論が高まっている最中に、あるコミュニティの責任者は、できれば匿名にしてほしいと言いながら、「ここにも、シャロンの政治は危険だと考えている人は大勢います」と打ち明けた。ここ、つまり統一ユダヤ社会財団で、そのような意見を聞くとは驚きだ。しかし、それならなぜ、彼らは堂々と意見を言わないのだろうか。それは、「イスラエルは人口が増えた結果、ユダヤ人の中心地になりました。そしてフランスに住むユダヤ人にとっても、ある種の後ろ盾となっているのです。だから私たちは、イスラエル政府が何をしようと批判することができないのです」というわけなのだ。ソ連との連帯感が高じたあまり、「現実の社会主義」がゆっくりと崩壊しているのに気付かなかった共産主義者と似ているのではないかと示唆したところ、この人物は心外だという顔をした。

 70年代半ばに新生ユダヤ協会を設立した者たちは、アイデンティティの確立よりも政治活動に重きをおいた。当時、パリ第一大学トルビアック・キャンパスで極左と交流のあった弁護士は次のように語った。「私が熱狂的な反シオニスト運動を初めて目の当たりにしたのはあの頃でした。でも、その裏に反ユダヤ主義がひそんでいることは、まだ見えていませんでした。あの頃は、あらゆることについて議論ができましたが、反ユダヤ主義についてだけは別でした。ですから、政治的ユダヤ主義というものを復活させ、アラブ寄りのフランスの政策にぶつけていく必要があったのです」

 あれから30年経った今、アイダンベール師の見るところでは、「フランスに住むユダヤ人の意見は、イスラエルのユダヤ人よりも現実的でないことが多いのです。イスラエルの人たちは中東の現実に直接向き合っているからです。パレスチナ国家の創設という展望は、フランスよりもイスラエルにいるほうが逆に受け入れやすいように思えます。それに、フランスでは、穏健派の声よりも活動家の声のほうが大きいのです」。そして、「シャロン首相に反対する声明に署名しておきながら、急進派の声が目立つユダヤ人コミュニティの内部では何もしないユダヤ人」を非難し、コミュニティの中よりも外で傾聴されている「ユダヤ系の著名文筆家たち」のことも同じように批判した。

文化という四つ目の柱

 アラン・レネ監督の『夜と霧』やクロード・ランズマン監督の『ショアー』を次々に見ていけば、長い間、第二次世界大戦の記憶のなかに押し込められていた民族虐殺の記憶がどのようなもので、それがユダヤ人にどれほど特別な意味を持っていたかが、人々の意識のなかに強烈な印象をもって蘇っていることがわかるはずだ。「初めてショアーのことを知ったのは8歳のときでした。『ホロコースト』という連続テレビ番組を見たときです」と、パリの高校でヘブライ語を教える30代のヴァレリー・ゼナティは回想する。「ものすごいショックで、恐ろしい悪夢を見ました。こうしてあのナチスの民族虐殺は『私自身の歴史』になってしまいました。これは、北アフリカ系のユダヤ人には珍しいことなんですけどね」と彼女は微笑んだ。

 エステール・バンバッサとジャン=クロード・アティアスは『ユダヤ人に未来はあるか』という本でスキャンダルを巻き起こした(12)。「ショアーの宗教」という表現は、いかにも強烈である。バンバッサは、「民族虐殺は未来に向かうアイデンティティとなるものではない」と言う。アティアスは、「迫害の一語では括れない何千年という歴史にふたをして、ユダヤ人と非ユダヤ人の間に壁を作っているのだ」と付け加える。ユダヤ教をショアーの体験と同一視してしまうなら、在仏ユダヤ人の60%はその体験のない北アフリカの出身であるがゆえに除外されることになる。ネリー・アンソンは、「ユダヤの歴史は悲劇ばかりではなく、創造や知識、倫理、それに多元性教育の歴史でもあるのです」と考えている。

 民族虐殺の記憶を保ち続けるというが、それはどの記憶なのか。ユダヤ人主流派勢力から「恐るべき従兄弟たち」として毛嫌いされるエイアル・シヴァンとロニー・ブローマンは、この疑問に映画をもって答える。シヴァンが製作した『イズコール』のなかでは、哲学者のイシャヤフー・ライボヴィッツがイスラエルにおける若者の精神的動員を激しく非難している。1999年に、二人はアイヒマン裁判の映像資料をもとに『スペシャリスト』を製作した。ブローマンは「記憶を放棄することは知的にみて愚鈍であり、道徳的にも弁護の余地はない。記憶は我々にとって肺臓と同じくらい欠かせない。記憶が我々を人間にするのだ」と考えている。とはいえ、ショアーもまた、そのほかの歴史上の大事件と同じく、「人類の歴史のなかに位置付けられなくてはならない。イデオロギー的な理由から記憶が操作されることがないように、過去の歴史から未来への教訓を引き出すために」

 宗教、過去の記憶、イスラエル。この三つの柱に加え、数年前から「雑誌を読んだり、ラジオを聴いたり、コミュニティ・センターに通ったり、歴史や言語の講座をとることを通じて、文化という四つ目の柱が現れている」と、マルティーヌ・コーアンは主張する。

 この「文化の柱」という支柱は、「スペイン系ユダヤ人の目を覚ますもの」となっているとアイム=ヴィダル・セフィアは語った。かつて教鞭をとった国立東洋言語研究所にスペイン系ユダヤ人の言語の講座を開講した彼は、自らもアウシュヴィッツからの帰還後、その言語を学ぶことでユダヤ人としてのアイデンティティを再び取り戻したという。「スペイン系ユダヤ人は強制収容所への連行を免れたという偏見が広まっていた。イディッシュ語を話していたユダヤ人(アシュケナジム)だけがそうした運命をたどったというのだ。でもそれは大間違いだ(13)」。彼の弟子や学生には北アフリカから移住してきた家庭の出身者が多い。とはいえ、誰もが自分はセファルディムだと言いたがる昨今の風潮に対し、そんなふうに一括りにしてはならないとセフィアは言う。「在仏ユダヤ人の大半はアラブ諸国出身のユダヤ人たちで、セファルディムの儀式を行っています。しかし『本当』のセファルディムとはスペイン系ユダヤ人の子孫だけです。あれこれ一緒くたにしてしまうよりも、アラブ諸国出身のユダヤ人の言葉を復権させるべきです。ユダヤ人にはいくつもの言語があるのですから」

 メニ・ヴィヴィオルカも、ユダヤ人の多言語性を守ろうと懸命になっている。彼はメデム・センター(会員数700人)のリーダーの一人であり、この機関はイディッシュ語(民族虐殺によりほぼ壊滅した)を守ること、革命的ブンド(14)の精神を継承することを規約に掲げている。「イディッシュ語をこの世から消滅させたくありません。この言語はイスラエルでもアメリカでもヨーロッパでも、全く話されなくなっています。イスラエルでは、死者、敗者、臆病者の言語であるとさえ見なされています。今でも使っているのは超正統派のルバヴィッチ派ぐらいのものです。でも、我々はむしろ啓蒙の伝統を踏襲したいのです」と彼は言う。

 しかし、覚悟することも必要である。教育には限界がある。四つ目の柱を加えたとしても、これまでに述べた柱だけで、我々が取材した多くの人たちの考え方を捉えきれているとはいえない。いや、もはやいえないというべきか。たとえばゴットリーブ師は次のような異論を唱える。「ユダヤ教(ユダヤ主義)とは宗教ではないのです。そのような単語はそもそもヘブライ語には存在しません。『ダット(宗教)』という単語はマイモニデス(15)を翻訳するために『考案された』ものです。ユダヤ教とは神、人間、事物、価値、歴史に対する関係なのです」。クラン師によればユダヤ性とは、聖書やタルムード(口伝)にも依拠するとはいえ、ミシュパト(裁き)とツェダカ(正義)というアブラハムの教えを中核としたものである。「言い換えれば、ユダヤ教とは、正義を目標とした社会の組織化」だということになる。しかしこの定義は、ユダヤ独自のものだといえるだろうか。「新約聖書と違って、トーラーは愛の原則を立ててはいません。正義の原則を立てているのです。キリスト教社会では、告解により罪が消えますが、ユダヤ社会ではその逆で、我々は常に自分の責任を思い起こさなければならないのです」

何が生み出されるのかは誰にもわからない

 メイール・ヴァントラテールは制度を重視する考え方から、「在仏ユダヤ人という一貫したアイデンティティのモデルがない」ことを嘆く。彼はここ数十年の宗教的、知的、政治的な再生を喜び、オルセー幹部養成学校のような施設や「マニトゥ」の異名を持つレオン・アシュケナージのようなまとめ役が果たした役割を振り返る。「が、現在ユダヤ人たちが言っていることはてんでばらばらで、『だま』だらけの練り粉のようなものだ。無宗教者にも信者にも納得のいく最小限の共通項が必要だ。しかし残念ながら、それぞれがその最小限を自分にとって最大限になるように考えているのが現状といえる。我々にとっての第二ヴァチカン公会議(16)はいつになったら実現するのだろうか」

 歴史家のアネット・ヴィヴィオルカは徹底した無宗教の人間であり、アイデンティティの探求ということを違った角度から考えている。彼女は専門家として、ことが民族虐殺に及ぶや必ず講演に引っ張り出される。「学会やセミナー、委員会などに私が呼ばれるのはそういうこと、私がユダヤ人だからです。でも、私は確かにユダヤ人ですが同時に女性であり、フランス人であり、そして研究者なのです」。現代社会は「それぞれの人のなかに出自、職業、思想、信仰などが入り混じった複数のアイデンティティ」を作り出す。「その混じり方は、年をとるにつれて変わっていきます。ユダヤ人であることは私たちのほんの一部にすぎません」。そして、同じように「それは特に重要ではない」と言うロニー・ブローマンも、現代は「アイデンティティの再編」が求められる時代だと確信している。

 パリ第七大学文学部の助教授であるアニー・ダヤン=ロザンマンは、ユダヤ人のこうした側面を強調し、かつての「イスラエリット」のように「スーツケースを持たない旅人にはなりたくない」と言う。ではいったい、彼女はスーツケースに何を詰めるのだろうか。それは「ユダヤ的な広がりのある共通の文化遺産」だ。在仏ユダヤ人の多くが無宗教であると確信するダヤン=ロザンマンは、10年ほど前に作家のアルベール・メンミとともに人道的・無宗教的ユダヤ主義協会を設立した。「文化はもはや一括方式ではなく、『お好み』方式で伝えられていくものなのだから」と彼女は言う。

 この大学研究者は、預言書に見出される価値だけにとどまらず、「それぞれのやり方でユダヤ主義にこだわる若干の作家」といったテーマについても研究している。これは、「無宗教のユダヤ人が自分たちで引き継ごうとする文化的伝統を選びとることを手助けする」方法のひとつなのだという。彼女はさらに、ユダヤ人以外の人との結婚の「問題」に対する単純な解決方法を提案する。「ラビが父系も認めればよいのです(17)。そうすれば、彼らが人口の損失と考えていた現象が、新たな実りをもたらすものとなるのですから」。ユダヤ教リベラル運動は、外の世界に向けて扉を開けようという願望を先取りしてきた。ファーリ師は言う。「ユダヤ人の父、あるいは母によって、ユダヤ教のなかで育てられた人は誰でもユダヤ人です。我々はそれぞれの体験に配慮して、彼らの教育に欠けている部分を補ってほしいと他の人々に頼むのです」

 「後ろ向きな問題で在仏ユダヤ人を動かそうとするよりも、21世紀におけるユダヤ主義の定義、ディアスポラ(民族離散)のなかで築かれる真のユダヤ文化について、前向きに考えさせるべき時代だと思う」とジャン=クロード・アティアスは力説する。この野心的な目標の実現には、「組織化されたコミュニティの内部で多元性を回復すること」が必要になってくる。正統派と右派が厳しい縛りをかけている限り、前進は不可能である。正統派は異民族との結婚、女性のラビ、他の宗教への改宗、同性愛などと聞くだけで震え上がり、右派はイスラエル政府を批判する者すべてを反ユダヤ主義者だと決め付ける。今は「批判勢力がひとつに結集すべきとき」なのだ。

 ユダヤ人としてのアイデンティティのなかのどういった要素が、これから1世紀後も残ることになるだろうか。「結局のところ、私にとってはどうでもいいことだ」と、ロニー・ブローマンは答える。「ユダヤ主義もまた、様々な帰属意識の解体と再編という大きな流れを免れるものではない。ユダヤ人とは何かという問いへの答えをゲットーのなかに押し込めることは不可能だ。外の世界と混じり合っていくことは避けられない。そして、そこから何が生み出されるのかは誰にもわからないのだ」

 それはおそらく、ジョルジュ・ペレックが詩的に述べたように、「平凡で明白な事実」にすぎない(18)。「ひとつの沈黙、不在、問い、問いかけ、ためらい、不安、不確かな確信・・・」といったものだ。あるいは、メニ・ヴィヴィオルカの穏やかな確証かもしれない。「私にとっては、誰かがここにやってきて、自分はユダヤ人だと言うならば、彼はユダヤ人なのです」

(1) クキエルマン氏は我々の取材に応じてくれなかった。
(2) キリスト教でいえば、クリスマスや復活祭のミサに集まる信者の4分の1が毎週日曜のミサに出席するという比率になる。
(3) フランスにおける肉の消費量は、2000年で一人当たり25キロ。
(4) “israelite”は古代以来のユダヤ人の別称。[訳註]
(5) 今年6月初めにパリで開かれた第4回ユーロコーシェル見本市では、ユダヤ人以外によるコーシェルの消費量は60%と推定された(雑誌『キリスト教徒のあかし』2002年6月13日号)。
(6) 『夜』(村上光彦訳、みすず書房、1995年)参照。訳文は仏文による。
(7) セファルディムはスペイン、次いで北アフリカなどに離散したユダヤ人のこと。この言葉は聖書のなかで用いられており、かつてはスペインとポルトガルを指すとされていた。[訳注]
(8) アシュケナジムはドイツ、次いで東欧などに離散したユダヤ人のこと。この言葉は聖書のなかで用いられており、かつてはドイツを指すとされていた。[訳注]
(9) アメリカでは多数を占めるこの潮流は1977年にフランスに入ってきたが、少数派にとどまり、「公式」のユダヤ教からはややもすると白眼視されている。
(10) アルジェリア植民地に住むユダヤ人にフランスの市民権を付与した1870年の政令が、1940年6月の対独降伏直後に廃止されたことへの言及。[訳注]
(11) 「フランスのユダヤ人の現在−宗教モデルからコミュニティ・モデルまで」(『ミグラシオン・フォルマシオン』誌82号、1990年9月)
(12) ラテス社、パリ、2001年
(13) ヨーロッパや小アジアに散らばっていた37万5000人のスペイン系ユダヤ人の半分近くが、強制連行され、ほぼ皆殺しにされた。
(14) ブンドと呼ばれる「ユダヤ人労働者の社会民主主義組織」は、1897年にロシアで誕生した非合法組織であり、1917年のロシア革命におけるボリシェヴィキの勝利を導くに至ったグループのひとつである。
(15) マイモニデス(1135-1204年)はスペインに生まれ、アラビア語圏で活躍した中世屈指の哲学者であり、ユダヤ法学の最高権威。[訳注]
(16) 第二ヴァチカン公会議は、1962年から65年にかけ、現代世界における教会のあり方を討議するために開かれたカトリック聖職者の世界会議。[訳注]
(17) ユダヤ人は母系であり、ユダヤ人の母親から生まれた子どもがユダヤ人ということになる。[訳注]
(18) 『エリス島物語』(酒詰治男訳、青土社、2000年)。訳文は仏文による。


(2002年8月号)

* 改訳の上『力の論理を超えて』に収録、NTT出版、2003年8月

* 小見出し「文化という四つ目の柱」から二つ前の段落「弁護士は次にように語った」を「弁護士は次のように語った」に訂正(2003年4月4日)
* 小見出し「文化という四つ目の柱」直前の段落「偉大なユダヤ人作家」を「ユダヤ系の著名文筆家たち」に訂正(2003年4月5日)
* 後ろから二つ目の段落「ユダヤ人してのアイデンティティ」を「ユダヤ人としてのアイデンティティ」に訂正(2003年6月12日)

All rights reserved, 2002, Le Monde diplomatique + Seo June + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)