ドイツが展開する中東外交

ミシェル・ヴェリエ(Michel Verrier)
ジャーナリスト、在ベルリン

訳・逸見龍生

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 ドイツは統一から12年を経て、国際的野心をあらわにし始めた。確かに「経済大国」としてはまだ息を吹き返してはいないものの、もはやかつての「政治小国」ではない。国連安保理事会の常任理事国に名乗りをあげ、また欧州連合(EU)内での主導権を強めようとして、あらゆる方面で活発に動いている。コソヴォ戦争は一つの転機だった。だが、ドイツ外交の際立った特徴は、なによりもその中東政策にある。[訳出]

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 駐独米国大使ダニエル・R・コーツによれば、ドイツは国際外交の舞台における大国としての地位を回復しつつあり、「米国とのパートナーシップの枠内で新しい政治的、軍事的な役割を担っている(1)」。平和を取り戻した欧州の中で自国の地位を築いてきたとはいえ、ドイツが冷戦を通じて米国と結んできた絆がなくなったわけではない。ドイツのジャーナリスト、ベルント・ウルリッヒが書くように、「米国は戦争を実施し、ドイツは平和を準備する(2)」という関係である。コソヴォ戦争の際に試みられ、アフガニスタンで本格展開されたこの図式は、米国の対イラク軍事介入の際に繰り返されることになるかもしれない。

 長い伝統に裏づけられたドイツの外交政策は息を吹き返し、舞台をバルカンから中東へ移して、その力をあますところなく発揮している。しかも、ウルリッヒ氏の見るところでは、「ドイツの過去が外交政策の分野でプラスのポイントになった」という。週刊紙ツァイトによれば、緑の党の幹部でもあるフィッシャー外相は「イスラエルとパレスチナがともに信頼を寄せる欧州連合(EU)唯一の外相(3)」である。

 ナチスの民族虐殺によって、ドイツはユダヤ人に対して払いきれない負債を抱えた。ドイツは1948年以来、他のどの国にもましてイスラエルへの財政的、政治的、精神的な支援を行ってきた。歴代のイスラエル政府は、今日のドイツの政治指導者の誰ひとりとして、イスラエルの利益に反する行動を取ることも、取ろうとすることもないと確信している。ショアー(大虐殺)の残した爪痕は深く、ドイツがイスラエルの政策に強く異議を唱えることすらあってはならないのだ。さすがに最近のイスラエルの「防御の壁」作戦に対しては、こうしたタブーもいささか揺らぎはしたが。

 ドイツ・アラブ協会会長でもあるユルゲン・メーレマン自由民主党(FDP)副党首は、イスラエルのシャロン政権の政策を批判し、自殺テロを擁護したばかりか、ユダヤ人中央評議会のミヒャエル・フリードマン副議長の「尊大さ」こそ反ユダヤ主義をかき立てているのだと非難して、数週間にわたりマスコミを賑わせた。フリードマン氏はメーレマン氏の発言に憤った。メーレマン氏はほどなく政界で孤立し、きたる9月の総選挙での票集めに極右支持者の同調をあてこんだと非難され、「反ユダヤ主義者」の烙印まで押されることになった。

 その一方で、すでに2002年4月25日の国会での討議の際に、何人かの有力政治家がシャロン首相の政策を実質的に批判する声をあげている。キリスト教民主同盟(CDU)議員グループ外交政策スポークスマンのカール・ラマース氏や、社会民主党(SPD)議員で下院外交委員、ドイツ・アラブ協会の会員でもあるクリストフ・モースバウワー氏らである。

 だがシュレーダー首相も、総選挙で彼の対立候補となるキリスト教社会同盟(CSU)のシュトイバー党首も、ドイツとイスラエルを結びつけている特殊な歴史的関係と、ドイツが絶対的に要請される慎みの姿勢がある以上、ドイツ政府のこれまでの方針は少しも変わらないと口をそろえて明言した。二人はそれと同時に、中東紛争には政治的解決が必要であり、持続的な国家をもつ権利がパレスチナ人にあることを強調した。彼らはこのような形で、イスラエルの建国以来ドイツが堅持してきた均衡外交を遵守したのだった。

オスマン帝国以来の関係

 アラブ世界がドイツに抱いてきたイメージは、20世紀初頭以降つねに肯定的だった。チュニジアの歴史家ヒシェム・ジャイトはその理由を次のように説明している。「過去にドイツがイスラムを侵略したことはない。アラブやムスリムの土地がドイツに植民地化されたことはない。ドイツはわれわれの敵の敵だった。しかもトルコの同盟国でもあり、そのことは様々な理由によって、アラブ=イスラム的意識にとってなおも何かしらの意味をもっていた」。第二次世界大戦中には「大衆の多くが植民地支配からの解放を期待して、ドイツの勝利を願った。(中略)そこにはドイツの勇気、ドイツの大胆さと才覚、巨大な連合国軍を相手にした孤立無援ともいえる戦いを讃える集団的心情があった(4)

 復興した平和的な経済大国という戦後ドイツのイメージの下には、このように共犯者としての暗い共感が潜んでいた。さらにドイツでは文化的に宗教が重視されていることも、ムスリム諸国との対話を容易にしている。例えばCDUは、トルコの穏健派イスラム主義勢力にとって一つのモデルと見られている。憲法においてさえ宗教を排除しないドイツ流の世俗主義は、宗教と政治の関係のあり方が諸々の自由の確立と尊重を左右するような国々から手本とされる。

 東西分断後に弱体化したとはいうものの、かつての西ドイツはヴィルヘルム2世やビスマルク、ヒットラーが培った外交関係から大きな成果をあげてきた。「われわれの土地でドイツ人はつねに真摯に正しく働いてきた」とリビアのカダフィ大佐の息子、サイフ・アリスラム・カダフィ氏は語っている(5)。「ドイツとイタリア、リビアは歴史的関係によって結びついている」と語る同氏は、「革命指導者」たる父親が最初に入手した自動車がフォルクスワーゲンだったこと、独立前の1944年にリビアへ最初に軍事支援を行ったのがドイツだったことを挙げる。タリバンがドイツのNGO「シェルター・ナウ」のメンバー数名をカブールで拘束した際、同氏はドイツ政府とタリバンとの橋渡し役を務めている。

 「アフガニスタンはドイツの歴史的後継者だ」。2001年11月27日、国連主催でアフガニスタン復興のためにボンで開催された会議に際して、パキスタン人ジャーナリストのアハメド・ラシッド氏はそう強調した。

 ドイツはすでに1920年代、アフガニスタン国軍の基盤づくりに協力しており、独立後のアフガニスタン王国のインフラ整備にも参加することになる。当時のアミル・アマヌラー国王はワイマール共和国を何度も訪問した。次のザヒル・シャー国王は、第二次世界大戦中にドイツ人の国外追放を許さなかった。

 1980年代以後、ドイツは積極的にアフガニスタンへの人道的援助や、1996年に創設され、15カ国からなるアフガニスタン支援グループに関わった。アフガニスタン人の代表がドイツに何度も参集し、支援グループはアフガン危機を近隣諸国の支持のもとに解決すべく、2001年9月11日以前からベルリンで会合を重ねた。タリバン政権が崩壊した直後には、何人ものアフガニスタンの有力者が、カブールに派遣された多国籍軍をドイツ軍が指揮することを望んだ。結局その任はトルコが担うこととなった。

 トルコにとってドイツは最大の貿易相手国であり、ヨーロッパにおける最重要国である。200万人以上のトルコ市民がドイツに暮らし、ドイツ最大の外国人共同体を形づくっている。両国関係の重みには、文脈が大きく異なるとはいえ、フランスとアルジェリアのそれを思わせるものがある。

 ドイツとトルコの関係は数百年来のものだ。オスマン世界とゲルマン世界は16世紀に対決し、バルカン半島の例に見られるように中東欧一帯を暗黙のうちに分割した。オスマン帝国崩壊後、両者の緊張関係は同盟関係へと変わる。すでにオスマン帝国時代の1835年に、ドイツの将校ヘルムート・フォン・モルトケが軍事顧問として招かれている。さらに1888年には、ヴィルヘルム2世がアブデュル・ハミト2世と協約を結んだ。オスマン帝国軍は、ゴルツ・パシャ(太守)とあだ名されることになるコルマー・フライハー・フォン・デア・ゴルツを副参謀長として迎え、第一次世界大戦直後までドイツ帝国軍将校の統率下にあった。これらの将校はアルメニア民族虐殺の第一級の証人であり、それに加担したとすらいわれている(6)。トルコ共和国建国の父ムスタファ・ケマル自身はドイツの影響力を敵視したが、ドイツ・ナショナリズムと単一民族国家思想の影響は、ケマルを支えた青年トルコ党に深く刻み込まれることとなる。

イランとの「批判的対話」路線

 第二次世界大戦中、トルコは「中立国」として(1945年になって連合国側で参戦するまで)ヒットラーと経済協力関係を保った。戦後まもなく、両国の「特権的」関係は、北大西洋条約機構(NATO)体制下で復活した。ドイツは今やトルコにとって米国に次ぐ第二の武器輸出国となっている。駐西独トルコ大使を務めたエルジャン・ヴラルハン氏は、在職当時「両国はともにソ連の拡張主義に直接対峙している」と語っていた。

 だが両国の関係は、一筋縄ではいかない歴史、接近と反発、共謀と暴挙がないまぜになっている。例えば、コール元首相が党首だった頃のCDUは、EUをキリスト教諸国のクラブとみなし、トルコの加盟に原則として反対する立場を取り続けた。CSUのシュトイバー党首も同様だ。トルコ・デイリー・ニュース紙のイルヌール・チェヴィック編集長は次のように書いている。「この20年間、数々のドイツ系財団がトルコに進出した。わが国の発展に、特にその民主化に、アデナウアー財団(CDU系)は大きく貢献した」

 ドイツにとって中東で第二の特権的な同盟国はイランであり、両国間の関係はトルコと同様に古い。「それは深く根づいたものだ」とイラン議会のカルビ議長は言う(7)。2002年2月26日にベルリンで、イランのハラジ外相とドイツ連邦議会のティールゼ議長は、両国の固い絆を確認し合った。フィッシャー外相は、北朝鮮とイラク、イランをひとまとめに「悪の枢軸」とするブッシュ米大統領のコンセプトを批判することを忘れなかった。

 1950年代初頭、ドイツと米国はパーレヴィ国王による独裁政権樹立を後押しした。だがイラン革命により、ドイツとイランの関係は冷え込む。ドイツは当時イラクとの関係強化の道を模索したが(8)、その後は貿易とともに人権問題も推進するという「批判的対話」路線を通じて、徐々にイランにとって第一の対話者の立場に復帰しつつある。こうしたドイツの態度は繰り返し米国と衝突することになる。

 1992年9月にはイランの諜報機関がベルリンで反体制派イラン・クルド民主党(KDPI)の指導者の暗殺事件を起こし、これに対し1997年4月にはドイツ司法機関がイランの最高指導部の関与を認定したが、それでも両国関係は揺るがなかった。しかしテヘランでドイツ人実業家が拘留され、死刑判決を受けたこと、イランの未来に関するフォーラムに参加するために2000年4月に訪独した知識人が帰国後に逮捕され、訴追されたことにより、両国の外交関係のもつれは少しばかり複雑化する。2000年3月にはフィッシャー外相が、2001年2月にはティールゼ議長がイランを訪問し、親独家でドイツ語を話すハタミ大統領と友好を深めた。2001年7月、ハタミ大統領はベルリンとワイマールを初めて公式訪問して注目を集めた。アフガン危機の際には、ドイツは米国とイランの仲介役を務めた。

 ドイツとイランの諜報機関は長年にわたって緊密な協力関係を維持している。レバノンのシーア派民兵組織ヒズボラの捕虜となったイスラエル軍兵士と、イスラエルに抑留されたヒズボラのメンバーの交換に際して、ドイツはイスラエルとレバノンとの重要な橋渡し役となった(9)

 最後に、中東へのドイツの影響力が兵器貿易によって補強されていることを指摘しておく。1980年代、ドイツは中東への最大の武器輸出国だった。特に、イランとイラク、リビアが化学兵器の製造技術を手に入れたのはドイツのおかげである(10)。湾岸戦争時にテルアヴィヴを攻撃したイラクのスカッドBミサイルも、ドイツ企業の技術で製造されたものだった。もっともちょうど同じ頃、ドイツがパトリオット・ミサイルとガスマスクを供給して、イスラエルの装備に手を貸していたこともまた事実である。

(1) Berliner Zeitung, Berlin, 21 January 2002.
(2) Bernd Ulrich, < < Neue Deutsche Rolle(新しいドイツの役割)>>, Der Tagesspiegel, Berlin, 29 December 2001.
(3) Die Zeit, No.36, 2001.
(4) ヒシェム・ジャイト『ヨーロッパとイスラム』(スーユ社、パリ、1978年)。
(5) Der Tagesspiegel, 7 January 2001.
(6) Wolfgang Gunst, Der Volkermord an der Armeniern(アルメニア民族虐殺), Hanser Verlag, Munchen, 1993. ヌレディン・ザザ『わがクルドの人生』(ラボール・エ・フィド社、ブリュッセル、1993年)も参照。
(7) 『トルコ、アラブとフランス革命』(エディシュッド社、エクサン・プロヴァンス、1989年)所収。
(8) Erich Schmidt-Eenboom, Der Schatten Krieger, Klaus Kinkel und der BND(影の戦争−クラウス・キンケルと連邦情報局), Dusseldorf, Econ, 1995.
(9) Haaretz, Tel-Aviv, 3 December 2001.
(10) See Jurgen Grasslin, Den Tod bringen Waffen aus Deutschland(武力がドイツにもたらすのは死だ), Knaur Verlag, Munchen, 1994.


(2002年7月号)

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