太陽が昇る国、ティモール・ロロサエの誕生

アニー・ブリエ(Any Bourrier)
ラジオ・フランス・アンテルナショナル記者、
2000年にUNTAETメディア復興指導担当者に就任

訳・ジャヤラット好子

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 2002年5月20日、きわめて悲観的な予測に反し、東ティモールの民主化は新国家「ティモール・ロロサエ」の創設をもって完了を迎えた。それに先立って4月14日に行われた初代大統領選では、抵抗派のリーダーだったグスマン氏が83パーセントの得票を勝ち取った。廃虚と化した領土の復興には時間が必要とされる。とはいえ、ほぼ3年にわたって東ティモールを暫定統治した国連の活動は、大きな成果をあげたといってよい。[訳出]

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 新しい独立民主国家が2002年5月20日に誕生した。首都ディリには2001年8月の総選挙以来、新しく作られた16政党のうち12政党の代表からなる議会が設置された。大統領は、限られた権限しかもたないとはいえ、民主的に選出された。憲法の起草が進められ、制憲議会は準大統領制度を選択した。議会与党「東ティモール独立革命戦線(フレテリン)」を基盤とし、アルカティリ首相に率いられる政府が発足した。要するに、東ティモールは政治的にふつうの国となりつつある。あと数カ月もすれば、スンダ列島にある島の東半分、面積1万9000平方キロメートル、人口73万7000人の東ティモールに対し、国際世論はもはや関心を向けなくなるだろう。この島は、東南アジアと南太平洋の境界に位置し、小さいながらも戦略的に非常に重要な役割を演じてきた。

 この3年間の道のりは様々な点で模範的であったといえる。この虐げられた島は、4世紀にわたりポルトガルに植民地支配され、第二次世界大戦のときは日本軍に占領され、1975年12月7日には島の軍事基地化をもくろむインドネシアに侵略された。その結果、人口の3分の1にあたる20万人のティモール人が虐殺された。この侵略は米国の同意なしには起こりえなかった。米国政府は20年以上にわたり、独立派をつぶそうとするインドネシア部隊に武器を供給し、訓練を行った。99年に防衛機密を解除された米国防総省と国務省の機密文書によって、スハルト大統領が東ティモールへの侵攻にあたり、フォード大統領と(直前にジャカルタを訪問していた)キッシンジャー国務長官の賛同を得ていたことが明らかになっている。

 99年の終わり、国連は国際社会の協調のもとに、インドネシア軍による大規模な人権侵害行為に終止符を打ち、ゼロからの建国を最終目標とした保護領を創設するというPKO史上初の成果をあげた。リスボン戦略国際研究所の所長アルバロ・バスコンセロス氏のように、国連の介入は「民族虐殺へと至ることを防ぎ、この種の介入を今後の国際社会の規範とするためにも必要だった(1)」と見る者もいる。

 99年8月の住民投票に続く血の海と、インドネシアへの統合を支持する民兵団による破壊行為(2)の後に、いかにして誰によって、このような再生が可能となったのだろうか。そこにはある男の意志が必要だった。国連のアナン事務総長である。99年1月にハビビ大統領によって独立をめぐる住民投票の実施が承諾されてから、9月20日にオーストラリアのコスグローヴ司令官率いる多国籍軍が到着するまでの間、アナン事務総長は東ティモールのためにほとんど孤軍奮闘した。その相手は、一方では反応の鈍い国連加盟諸国であり、また他方では往生際の悪いインドネシアのハビビ大統領とウィラント国軍司令官だった。この二人は、住民投票に続いて1万人のティモール人の命を奪った「全面掃討作戦」へ国軍が加わっていた事実を認めようとしなかった(3)

 「ティモールの人々を助けることは、これまで国連に与えられた最もすばらしい責務の一つである」。国連事務総長は2001年12月にオスロでこう演説した。国連と彼が受けたノーベル平和賞の受賞式に出席するためにノルウェーに滞在しているときのことだ。東ティモール独立のために尽力したのは正しかったという誇りが滲み出ていた。彼にとって、1999年10月25日の決議1272号によって創設された国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)の成果は、単に成功という以上のものだった。「これは、国連が世界で行うことを求められる将来の任務にとって、一つの模範となるだろう(4)」。アナン事務総長はこのときの演説のなかで、ティモール人自身の参加なしには何一つできなかっただろう(5)と認め、「ティモール人は罪を犯した者たちを許し、彼らの帰郷を受け入れるという懐の深さを示したのだ」と付け加えた。ティモールの人々が罪を許し、また参加型民主主義を実施する力をもっており、驚くほど政治的に成熟しているという点は、フレデリック・デュラン氏によっても指摘されている。トゥールーズ第二大学助教授で、ティモールの政党についての研究論文(6)を書いたデュラン氏は、こうした面が2001年8月の制憲議会選挙のときにも示されたという。「1999年の住民投票がインドネシア占領から逃れるおそらく唯一の機会として受け止められたのに対し、2001年の総選挙では住民の生死に関わるという意義は明らかに薄れていた。にもかかわらずティモール人が、もともとの目的さえ明確にわかっていない(多くの人々は自分たちの大統領を選ぶ選挙だと信じていた)投票に殺到した(投票率94パーセント)という事実は、なおさら鮮烈な印象を残した(7)

国連の手からティモール人の手へ

 東ティモールの民主化への移行と復興が促進された背景には、現地の政治エリートが一丸となって関与したこともある。そこには、グスマン氏のような抵抗派の指導者や、ティモール人の民族自決への願いを広めるために亡命し、あるいは現地で闘争を続けた政治リーダーたちがいる。なかでも、1996年にベロ司教とともにノーベル平和賞を受けたホルタ氏は、カトリック教会とともに決定的な役割を果たした。彼らに大きな影響を与えたのは、70年代にラテン・アメリカのカトリック聖職者の間で一世を風靡した解放の神学であり、その主要な論点は多くがポルトガルの神学校で教育を受けたティモール人司祭たちに大反響を呼んだ。法律の専門家で、独立派の最大政党フレテリンの書記長を務め、初代民主政府の初代首相となったアルカティリ氏の場合も同様だった。彼はおよそ20年にわたりモザンビークで亡命生活を送っている。カトリック神学校を卒業し、リスボンへの留学組も多い独立運動家たちは、全員が教養あるインテリであり、ティモール人の歴史、伝統、心理に完璧に精通し、政治家であるばかりでなく実務的な人間でもある。

 しかしながら、UNTAETのメンバーとティモール人との関係は一筋縄ではいかなかった。国連が任務についた最初の数カ月、ディリでも13の県でも緊張と幻滅、そして欲求不満の声が上がった。過去の負債はあまりに大きく、この国の態勢を整えるのは容易なことではなかった。「我々が到着した当時、ティモールは瀕死状態にあった」と、UNTAET代表を務めるデ・メロ国連事務総長特別代表は述べた。彼は、UNTAETに与えられた多大な資金力(8)を活用して、まさに政府と呼ぶべき機構を設置した。ディリの中心部の海浜にインドネシアによって造られた細長い白亜の旧知事公邸を手に入れ、そこにおよそ1000人の国連職員からなる暫定統治機構を置いた。デ・メロ代表はまた、復興と治安、難民問題そして経済活動の再開をUNTAETの優先目標に定めた。グスマン氏率いる政党連合である東ティモール民族抵抗評議会(CNRT)に結集したティモール人指導者たちとの間には、常設の協議の場が設けられた。また、メンバー15人で発足した国民諮問評議会(後の国民評議会)のように、ティモール人を国の運営に参加させるための協議機関も創設された。この評議会が後のティモール・ロロサエ暫定政府へと発展する。ティモール・ロロサエとは、東ティモールの独立後の正式名称である。

 当初「復興する」ということはUNTAETにとって全てを手がけることを意味していた。飲料水の調達から保健衛生や教育制度、郵便の配達にいたるまで、仕事は山積みだった。しかしそれが復興の速度を遅らせ、ティモールの人々の苛立ちと失望を募らせることになった。バウカウのバシリオ・ナシメント司教の証言によれば「我々はこの独立に期待をかけすぎた。読み書きのできない民衆が集団で見た幻想だったのだ。全てが天から降ってくると彼らは信じていた」のだった。国連がもたらした二重社会に対し、ディリの路上では怒りのデモが繰り広げられた。その矛先は、国連職員の贅沢な乗用車や、カトリック教徒が98パーセントを占めるティモール人の家族重視の伝統を尊重しない暮らしぶりに向けられた。

 しかし2000年を通じて高まった社会の緊張は「ティモール化」の進行によって多少なりとも緩和された。徐々に国際的な専門家に代わって現地職員が採用され、国連安全保障理事会の同意のもとに全員がティモール人からなる暫定政府が創設された。荒廃した国土は少しずつ昏睡状態から抜けだしつつある。まだよちよち歩きとはいえ、いくつかの制度が2001年早々に動きだした。1万人以上の公務員が雇用され、1000人の警官と新しい国防軍の最初の部隊が基礎訓練を受けた。四つの裁判所が開設され、80パーセントの子どもが就学した。

 その年の終わり、UNTAETと世界銀行は東ティモールで得られた成果を誇らしげに列挙した。「政治、経済、社会、制度などあらゆる分野に驚くべき回復が見られた(9)」という。ただし「これらの成果はまだ不安定なものだ。特に公共財政、行政の能力、そして独立後の期間における経済援助の必要性という点に不安がある(10)」と指摘する。最も目覚ましい成果は、ティモール海の石油と天然ガスの採掘に関わる基本協定がオーストラリアとの間で調印されたことだろう。そこから得られる収益によって、ティモール政府は国の将来の発展に投資できるようになる。

 1999年9月の悲劇の後も、ティモールの人々は決してあきらめなかった。「数カ月もあれば我々は地獄を天国へ変えてみせる」と彼らは言い切る。独立宣言の後、天国にはまだ遠いにしても、生活を変えていくという希望は少しも輝きを失っていない。

(1) 「ティモールへの介入と困難な多国間主義」(ポリティーク・エトランジェール第65号、パリ、2000年4月号)135頁参照。
(2) ノーム・チョムスキー「見殺しにされた東ティモール」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年10月号)。
(3) シドニー・ジョーンズ(ディリ駐在の国連人権事務所の所長)、ル・モンド2000年9月2日付参照。
(4) 第5回東ティモール支援国会合の開会演説(オスロ、2001年12月)より。
(5) ロラン=ピエール・パランゴー「東ティモール、ゼロからの国造り」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年5月号)参照。
(6) アセアニー第8号(パリ、2001年12月)に掲載。同著者の『アジアと太平洋の交差点ティモール・ロロサエ、地史図』(マルヌ・ラ・ヴァレ大学出版/現代東南アジア研究所、マルヌ・ラ・ヴァレ/バンコク、2002年5月)も参照。
(7) 市民団体「ティモールのための行動」の会報(パリ、2001年11月)に掲載された発言。
(8) 1999年12月、東京に集まった支援諸国は3年間に5億2200万ドル(5億4200万ユーロ)を提供することに同意した。
(9) 国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)および世界銀行から支援諸国への報告書(オスロ、2001年12月11-12日)。
(10) 同上。


(2002年6月号)

All rights reserved, 2002, Le Monde diplomatique + Jayalath Yoshiko + Saito Kagumi

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