ベルルスコーニを生んだイタリア資本主義の再編

ピエール・ミュソ(Pierre Musso)
レンヌ第二大学情報科学教授

訳・安東里佳子

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 3月23日、イタリアで戦後最大のデモが行われた。マルコ・ビアージ労相顧問を殺害したテロを非難し、また10カ月が経過したベルルスコーニ政権の政策に異議を唱える200万の人々がローマの町を埋め尽くした。劇作家ダリオ・フォー、映画監督ナンニ・モレッティ、作家アントニオ・タブッキ、そして組合運動が立ち上がらなければ、眠り込んでいた知識人や左派の目は覚めなかったかもしれない。こうした政治的な火花の背後で展開されているのは、イタリア資本主義の抜本的な再編なのである。[訳出]

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 一人あたり国内総生産に基づくOECD(経済協力開発機構)諸国のランキングで、意外な結果が示された。イタリアがスウェーデンを追い抜き、その一方でイギリスやフランスは19位へと落ちこんだのだ(1)。しかしイタリアは、若年層のほぼ3人に1人という高い失業率で知られている。今回の調査により、「ライン型資本主義」の信奉者から「地中海クラブ」の一員と見なされていたイタリアが、実は豊かな国なのだという認識が広まった。

 となると、イタリアも「ライン型資本主義」の一員なのだろうか。むしろ「小人型資本主義」であるとアマート元首相は言う。一握りの同族企業が支配し、それを多数の活発な中小企業が取り巻いているというシステムだ。OECDによれば、イタリアの特徴は「産業構造が二元的で、少数の大企業が中小企業の広範なネットワークと共存している(2)」ことにある。

 2001年夏以降、イタリアの資本主義は大きく揺れている。イタリア最大で世界14位の資産家、シルヴィオ・ベルルスコーニが国政トップに就いたのもその一貫で、以降イタリア資本主義の再編成は加速度を増しつつある。ベルルスコーニ内閣には、26名の閣僚のうち、12名の企業(小企業)経営者が含まれている。要するに、マーケティングやマネージメントの技術を駆使して、「企業家総理」という旗印のもとに選挙戦を展開したメディア王ベルルスコーニの背後には、新たなラテン型資本主義のモデルが控えているのだ。

 一見したところ、イタリアの資本主義は、地下経済や株の持ち合いが錯綜していて、複雑なシステムのように見える。しかし、結局のところ、国内の大株主による寡占的な金融支配であると言える。

 問題の糸を解きほぐすには、イタリア産業の歴史の中で生み出されてきた多様なシステムに目を向ける必要がある。システム全体を一体として見るよりも、複数の資本主義があると見た方がよい。つまりイタリア資本主義とは、それぞれの地域に組み込まれた様々な生産システムの結合体なのだ。

 第一のモデルは、フォード主義である。これは19世紀末に取り入れられ、豊かな工業地帯の北西部と貧しい農業地帯の南部という二つのイタリアを分かつことになった。このシステムには、金融と工業という二つの心臓部がある。

 金融の心臓部は長い間、19世紀末から20世紀初頭にかけて設立されたイタリア商業銀行、イタリア信用銀行(BCI)、ヴァチカンに近いローマ銀行という半官半民の三大銀行から成り立っていた。この三行は1944年、イタリア金融システムの仕切り役であり、実業界のドンであるエンリコ・クッチャの主導のもとに、メディオバンカを通じて結び付いた。工業の心臓部については、フィアット(自動車)とピレッリ(タイヤ)の二極体制ができあがった。

 こうしてイタリア資本主義は、1960年代からはジョヴァンニ・アニェリ、さらに70年代からはカルロ・デ・ベネディッティという二人の企業家(コンドッティエーリ)、そしてメディオバンコのエンリコ・クッチャにより、フォード主義のもとに推進されていった。しかしこの三巨頭体制は、2000年6月のクッチャの死とともに崩壊する。その結果、全面的な業界再編が幕をあけ、イタリア資本主義のもつ柔軟性があらわになってきた。1970年代にはすでに、ポスト・フォード時代の新たな企業家となるジルベルト・ベネトンとシルヴィオ・ベルルスコーニが、非常に活発な中小企業から頭角を現していた。以来、地理経済的に異なる三つのイタリアが共存することになる。

  • 自動車産業(トリノのフィアット、ミラノのピレッリ)から派生した大規模な工業と、それを囲む下請け中小企業の発達した北西部の工業三角地帯。

  • 大農園に立脚した経済や、貧困、助成金、官僚主義、マフィアや地下経済の活動など、すでにアントニオ・グラムシが「南部問題」と名づけていた固有の特徴を呈する南部イタリア諸州。しかしこの現実は、小企業の活力によって変わりつつある(3)

  • 高度な技術をもたず、労働力と天然資源を集約する型の産業に特化した「産業地区」。例えば繊維(プラート、ビエッラ、コモ)、貴金属(アレッツォ)、家具(バッサノ)、特殊機械(モーデナ)、めがね(カドーレ)、靴(マチェラータ、ヴィジェヴァーノ)など。
 産業地区における独立企業にせよ、北西部の大会社の下請企業にせよ、これらの中小企業の無数の活力が、現在のイタリア経済の基盤となっている。およそ400万社のうち、従業員10人以下の小企業が半数を占め(EU全体では35%)、従業員250人以上の企業は全体の20%にすぎない(EU全体では35%)。また、全体の1.7%に当たる中企業も、同じように非常に活力にあふれ、柔軟な組織と国際的な展開をうまく融合して、まさに「小型多国籍企業」といった様子を示している。

 これら三つのイタリアに加え、四つ目のイタリアとして、マフィア経済までも含めた地下経済がある。1998年の段階で、外国人も含めた不法労働者や未登録労働者を雇い入れる産業部門は22.6%にのぼった。そのうち18%が工業とサービス、73%が農業である。

2001年の激動

 若干の大規模な同族企業と多数の活発な中小企業との共存は、この10年間に二つの段階を経て抜本的に再編された。まず民営化を通じて、政府の債務軽減(4)、それに企業管理や金融業を営む大企業の「自由化」が試みられ、続いて2001年には、政治経済権力の再分配が行われることになる。

 1929年の恐慌の後、ファシズム色の強い「国家資本主義」がイタリアに登場した。33年にはイタリア産業復興公社(IRI)が創設され、工業部門の株式会社の40%と金融部門を支配した。戦後もなお、国はIRI、イタリア電力公社(ENEL)、イタリア炭化水素公社(ENI)という三つの強力な持株会社を介して、経済の主導権を握っていた。90年代に入ると、イタリアの産業資本の50%を保持していた国は、EUの方針に従ってその半分を手放すことになる。民営化は、635億ドルの国庫収入をもたらした。この規模は、自由主義が非常に発達したイギリスに匹敵する。放出された株式の半分が、貯蓄を証券投資へ移した個人(5)、3分の1が外国投資家、残りが機関投資家によって引き受けられた(6)

 この金融化政策は、1997年に民営化されたミラノ証券取引所の大成功をもたらした。1992年から2000年にかけて、民営化はミラノの株式相場を押し上げ、国際市場が2倍止まりだったのに対し、ミラノでは5倍につり上がった。同じ時期、金融部門の統合も進んだ。インテーザ銀行とBCIが合併し、またイタリアの二大保険会社ジェネラーリと全国保険公社(INA)の合併により、アリアンツとアクサに続く欧州第3位の保険会社が誕生した。

 産業再編は、多くの公営銀行の民営化や、外資系銀行の増加をもたらした。OECDによれば、「民営化の急速な進行は、企業の買収や合併の急増と相まって、証券市場における大企業の支配的地位を強化することになった。(中略)1998年の終わりには、民営化された企業は株価時価総額の50%を超えていた」。イタリア資本主義が非常に機動的であることは、モンテディソン・グループとテレコム・イタリアをそれぞれ防衛するために、2001年の真夏に経済・金融分野で展開された二つの早業によって改めて示された。これは、メディオバンカの再編を促すことになった。同年末には、フィアット内部でも再編が始まった。

 こうした状況の過熱は、主に次の要因によっている。エンリコ・クッチャの死が、ちょうど民営化の終局段階に重なった。また、フォード主義時代の「旧」企業家と新世代の企業リーダーとの勢力が均衡しつつあった。さらに、ベルルスコーニ率いる「自由の極」が6月に政権に就いたことで、企業活動や企業再編に有利な環境が提供されることになる。

 2001年の激動の発端は、フランス電力公社(EDF)とフィアットがモンテディソンに仕掛けた株式公開買付(TBO)だった。モンテディソンの事業分野は、農産食品、造船、化学、エンジニアリング、薬品、金融、そしてエネルギー(エディソン社とソンデル社の61%を保有)と、広範囲にわたる。エディソンは、ENELに次ぐイタリア第2位の電力会社だ。電力事業はモンテディソンの売上総額の19%を占めるにすぎないが、このTBOの狙いは電力部門だけにさだめられ、他の部門は切り捨ててかまわないという姿勢だった。

 すべては2001年5月、EDFがモンテディソンに資本参加したことから始まった。これをきっかけに、イタリアは防戦態勢に入った。このフランスの公営企業がモンテディソンの筆頭株主になるのを避けるために、アマート政権は緊急政令を出し、EDFが行使できるモンテディソン系列各社の議決権を2%に抑え込んだ。

 6月、モンテディソンは欧州委員会に対し、EDFの行為が支配的地位の濫用に当たるとする申立を行った。イタリア側が反撃に出たのだ。モンテディソンの伝統的な大株主であるローマ銀行、サンパオロ・IMI銀行、インテーザ・BCI銀行の三大銀行は、各自の持分を協調して管理するとの協定を交わした。そこへ、EDFと手を結んでイタレネルジア社を設立したフィアットが、同社を通じてモンテディソンとその子会社、とりわけエディソンに対するTBOを仕掛けてきた。最終的には、7月にモンテディソンがTBOを受け入れた。イタレネルジア社の持株比率は、EDFとフィアットが合わせて58%、残りはポーランド系フランス人資本家のロマン・ザレスキ、そしてイタリアの銀行連合という配分である。このTBO成功により、メディオバンカの影響力は低下することになった。売却益を手に入れたとはいえ、15%を保有していたイタネルジア株を譲渡せざるをえなくなったのだ。

新世代の企業リーダーの君臨

 第二の大規模な再編は、テレコム・イタリアをめぐるものだ。すでに1999年、民営化されていたテレコム・イタリアは、株主を外資の手から守る必要に直面していた。オリヴェッティの会長ロベルト・コラニンノは、当時の中道左派政権のダレーマ首相とメディオバンカの支援を得てテレコム・イタリアを買収し、経済・金融界から大きなひんしゅくを買った。ところが、2001年夏、テレコム・イタリアは再び買収の脅威にさらされる。今度の相手は、ひとつはスペインの電話会社テレフォニカと電力会社エンデサ、もうひとつはドイツ・テレコムだった。

 ベルルスコーニ政権は中立を保つと言いつつも、この戦略企業がイタリア人の手中に留まることを望んでいた。2001年7月27日、ピレッリの会長マルコ・トロンケッティ・プローヴェラとベネトン一族の持株会社エディツィオーネが、7億ユーロ(約800億円)の資金を準備した。そしてこれにより、テレコム・イタリアとその携帯電話会社TIM、電話帳会社、および第7テレビ局(旧TMC)を傘下に収めた。

 2001年12月のフィアットの組織再編まで含めた一連の展開は、イタリアの企業リーダーが戦略企業の資本を守るためにいかに立ち回るかを示している。これらの再編は、少数の同族持株会社による金融支配を維持しつつ、経済活動を活性化させることに役立ってきた。

 これらの再編によって、「イタリアの第二の支配者」と呼ばれる終身議員の「弁護士」アニェリや「工学士」デ・ベネデッティのように、フォード主義時代の資本主義を担っていた旧世代の同族企業家は、新興企業家とその権力を分かちあわなければならなかった。1970年代に出現した新世代の企業家は、ベルルスコーニのように、あるいは家族経営のセーター製造会社を多角的な国際大企業に作り替え、今やエディツィオーネ・ホールディングを率いるジルベルト・ベネトンのように、小企業から出発して強大な帝国を築き上げた。この二人は、イタリア企業家の新しい可能性を象徴している。フォード主義時代の企業が生産量を重視していたのに対し、新しい企業では、技術やメディア、マーケティングを駆使し、消費者の「期待」を基準とした経営を行っている。

 このようなトップ経営者間の権力の移行は、活力ある中小企業にとっても好都合に働いた。経営者団体であるイタリア産業連盟の新しい会長となったのは、アニェリとデ・ベネデッティから支持されたカルロ・カリエリではなく、北東部の中小企業の応援を受けたアントニオ・ダマートだった。もうひとつの勝者は、新世代の企業リーダーたちである。例えばテレコム・イタリアの新しい会長となり、イタリア財界のナンバー2としてアニェリの王座を狙うトロンケッティ・プローヴェラ、そして、イタレネルジアによるモンテディソン買収を指揮したフィアットのパオロ・フレスコ会長、パオロ・カンタレッラ社長などがいる。

 しかし、もっとも強烈な現象は、これら新世代の企業家の一人が、直接政府を掌握するようになったことである。企業が国を統治し、トップに立つベルルスコーニが、イタリア資本主義の法王として采配を振るう。選挙運動の際に、「イタリア経済の夢」の化身として売り込んだベルルスコーニは、あらゆる経営者を自分の味方につけることに成功した。ダマート新会長のイタリア産業連盟も、彼を積極的に支援した。ずっと難色を示していたアニェリもついに折れた。新しい企業リーダーや株主たちは、こぞってベルルスコーニに投票した。

 前回の総選挙で30%を獲得し、第一党となったフォルツァ・イタリアの党首は、フィニンヴェスト(7)の総帥であり、全国区の民放3局を抱える巨大テレビ会社メディアセットの会長でもある。ベルルスコーニは、企業的な効率重視を打ち出すことにより、人々を政治に引き付けることに成功した。「私が政治に関心をもつようになったのは、企業経営者という仕事を続けたいからにほかならない(8)」と彼は述べている。ベルルスコーニがビジネスの制覇テクニックを政治に当てはめることができたのは、危機に陥っている伝統的政党や国家とは対照的に、メディア産業のモデルを徹底的に体現しているからである。メディアの巨人は、政治権力の生き血を文字通リ抜いてしまったのだ。

 ベルルスコーニは、イタリア資本主義の変容の化身である。その出自である中小企業の主張と価値観を前面に出すことにより、多くのイタリア人が夢みる「立身出世」の象徴となっている。とともに、北東部ロンバルディアの企業家として、北西部ピエモンテの古いフォード主義モデルとは異なった経済の金融化を体現した存在でもある。

 こうしてイタリア資本主義は、旧世代の指導者たちの隠然たる支配を振りほどき、新しいリーダーたちの賑やかなメディア政治へ切り替えることに成功した。グローバリゼーションと欧州統合のさなかでイタリアモデルを生き残らせるには、ともかくも企業家が経済のトップで君臨を続けることが重要だったのだ。『山猫』の作者ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサが語ったごとく、「なにひとつ変わらないために、すべてが変わらなければならないのだ」

(1) 2000年、フランスが一人あたり2万3200ドルだったのに対し、イタリアは2万4500ドルで16位。出典:『OECD諸国に関する統計』(パリ、2001年)。2001年10月の失業率は、労働力人口の9.3%で、若年層では28%にのぼる。
(2) 『イタリア 1999−2000年』(OECD発行、パリ、2000年5月)より。特記しているものを除いて、この記事の中で用いた統計はすべてここから引用。
(3) この地方での起業の割合は2年以上前から中心部を上回っており、失業率は労働力人口の20%を切り、輸出総額は27.3%増である(全国平均は16.5%)。統計機関チェンシス(ローマ)の2001年版レポートによる。
(4) 大きな成果はあがっていない。国内総生産に対する債務比率は、ここ10年間ずっと100%を超えており、マーストリヒト条約で求められている60%にはほど遠い。
(5) 1975年の段階では、株式は一般個人の金融資産の1.7%を占めるものでしかなかったが、99年には、投資信託と株式が半分を占めるようになった。
(6) 『1992年以降のイタリアにおける民営化』(メディオバンカ・R&S、ミラノ、2000年10月)。この調査によれば、株価時価総額が国内総生産に占める割合は、1990年の12.7%から99年の65.2%へと増加した。
(7) フィニンヴェストは、2000年には売上総額43億ユーロ(約5000億円)、利益総額3億ユーロ(約350億円)に達している。
(8) ユージェーヌ・サカマノ『ベルルスコーニ 真実の書』(第一出版、パリ、1994年)。


(2002年4月号)

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