旧ユーゴ国際戦犯法廷から学ぶべきこと

グザヴィエ・ブガレル(Xavier Bougarel)
国立学術研究センター研究員

訳・三浦礼恒

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 2002年4月、国際刑事裁判所の設立条約の7月発効が確定した。この歴史的な事件が祝われるなかで、いくつかの大国が加わっていないことが問題視されている。アメリカとロシアは未批准、中国と日本は未調印である。その一方で、進行中の手続の停止を国連安保理が求めることができるという微妙な規定が注目を引く。これは、例えば和平交渉を阻害するおそれなど、政治が司法に優越すべき場合があるとの見地による。逆に見れば、司法が政治に干渉される懸念もつきまとうことになる。両者の難しい関係は、すでに旧ユーゴ国際戦犯法廷の前例にも示されている[日本語版編集部]

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 旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)でのミロシェヴィッチ裁判が始まるやいなや、この法廷をめぐる2つの見方の対立が鮮明に浮かび上がった。

 一方では、ミロシェヴィッチ氏自身、彼の支持者、そしてセルビア世論の大半は、ICTYが本質的に非合法的で不公平なものであると非難する。1999年春に北大西洋条約機構(NATO)によって行われた可能性のある戦争犯罪の審理が拒否されたのは、この法廷の目的が、大国のバルカン半島への軍事介入を正当化し、流血に満ちたユーゴ解体における大国の責任を隠すことにある何よりの証拠であるという。

 その一方で、セルビアの犯罪行為によって直接被害を受けた地域、そして欧米の政治家やマスコミは、ミロシェヴィッチ裁判の開廷を歓迎し、ICTYは正義と和解に向けた実に素晴らしい機構であるとの賛辞を繰り返した。この法廷が歴史的真実の試される場となると考える者さえいる。開廷日のリベラシオン紙には次の見出しが踊った。「ミロシェヴィッチ、歴史に対峙する(1)」。

 この点については、ICTY幹部の態度自体にも非常に曖昧なところがある。彼らはユーゴ紛争史を確定しようとするつもりはないと言明し、こうした留保を付けることで厄介な問題を回避しようとする。だが、彼らがニュールンベルクとエルサレム(アイヒマン裁判)の前例、そして自己の「歴史的使命」の呪縛につきまとわれていることは明白である。2002年2月12日の冒頭陳述において、デル・ポンテ主任検察官は、「この裁判が歴史を作ることになる。我々はこの任務に対し、歴史の光に照らして取り組んでいく」と、はっきり述べたではないか。

 それでも多くの場合にありがちなように、見たところ対立する2つの議論は多くの点で一致を示している。ミロシェヴィッチの追従者たちは、ICTYが出資国に依存した臨時法廷であり、それゆえ「ダブルスタンダード」を避けられないと非難する。この点は、ICTYを熱烈に支持し、その資金や活動の自由の拡大を求めるとともに、常設の国際刑事裁判所という理念を訴える者たちと一致する。両者とも、その原則自体には異論の余地がないはずの国際刑事司法が存在しないことを突いている。両者のいずれにとっても、「真の」独立性と普遍性をもつ限りにおいて、国際刑事司法こそ民族を和解させ、歴史的真実を表明するための最良の手段となると見られている。

 しかし、ICTYの活動を見るに、あらゆる国際刑事司法というものは、ことに和解と真実を任務として期待されるという点で、そもそも問題を抱えているのではないだろうか。紛争の解決と集合的記憶という側面で国際刑事司法に前向きな役割を期待するためには、それがはらむ限界とアポリア(2)を容認し、批判的な見方と節度ある利用を心がけることが必要であるように思われる。

駆け引きと打算

 つまり、ユーゴ紛争がもたらした犯罪を罰することの必要や、その裁判をICTYが行うことの合法性に対し、異論を述べようというつもりは全くない。それどころか、主要戦争犯罪人に対する刑の宣告は、この法廷が付与され、あるいは自認する任務の中でも、最も問題のない部分である。被害者たちには、自分の苦しみを認知させ、補償させる権利があるというだけでない。ユーゴスラヴィアにおける最小限の安全と信頼の回復には、戦争犯罪人を退場させ、いくつかの原則をはっきりと再確認することが必要である。この点からすれば、ICTYはかけがえのない役割を果たしているのであり、他所では国家犯罪の責任者が安穏としているからといって、その評価が変わることはない。

 しかし、ICTYの裁判の現状を見ると、その活動の真の影響力については慎重にならざるを得ない。事実、それは一面では政治上の複雑な駆け引きと打算に左右されており、大国を筆頭とした一部の国々の決定的な影響力を嗅ぎ出すのに、いちいちCIA(米国中央情報局)の工作を持ち出す必要はない。1995年、ボスニア紛争中(1992〜95年)に犯された犯罪について、ミロシェヴィッチ氏とクロアチアのツジマン大統領(当時)が起訴されなかったのも、この紛争の国際処理に彼らが重要な役割を果たしたからである。

 その反対に、デイトンで和平交渉が開始された1995年11月、ヴコヴァル攻略(1991年11月)に関与した3人の士官が起訴されたのは、明らかにミロシェヴィッチ氏に対する警告だった。また、ボスニアの報道機関を信じるならば、ボスニア中部のクロアチア人司令官だったダリオ・コルディッチ氏に対し、2001年2月にかなり寛大な判決がなされたのは、当時ボスニアの体制を揺るがしていた危機(3)を煽らないようにするとともに、1995年8月の「嵐(オルヤ)」作戦(4)に関与したとして起訴されていた数人の司令官の引渡しに消極的なクロアチア政府の立場を強化しようとしたためだ。

 このように司法の出方が読めないことから、裏取引があるのではないかと感じる者もいる。とはいえ、ICTYが大国の意向を受けているという証拠は何もない。第一に、大国はICTYの活動に影響を与えるために直接支配を及ぼす必要はない。情報部が関係書類を渡したり隠したり、部隊が被疑者の逮捕を組織したり阻止したりすれば事足りるのだ。例えば、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、何人かのセルビア人戦争犯罪人がフランス管轄区に潜伏していることを示唆する証拠が、繰り返し挙がっている。また、2001年9月11日のテロ以降、反イスラム的な風潮との「バランス」をとる必要があると考えたアメリカは、スレブレニツァの虐殺(1995年7月)の容疑で起訴された当時のセルビア人指導者、ラドヴァン・カラジッチ氏の捜索を再開した。

 第二に、旧ユーゴの関係者自身も、ICTYの活動に影響を与える複雑な駆け引きに積極的に関わっている。例えば、この法廷の合法性をセルビア当局が認めないせいで、クロアチアやボスニアの犯罪に関する調査も遅れている。旧ユーゴ諸国はICTYと取引したり、協力に対して金銭的な見返りを求めることをやめないし、被疑者自身、保身のためには政治的議論に訴えればよいことを知っている。起訴を受けて2001年7月に地下に潜ったクロアチア人司令官アンテ・ゴドヴィナは、自分を逮捕すれば「嵐」作戦の際のアメリカ情報部の役割をばらすと脅迫した。1999年11月には、スレブレニツァの虐殺に関与し、その後にフランス情報部によって内戦下のザイール(現コンゴ民主共和国)へ送り込まれた5人のセルビア人被疑者が、ベオグラードで逮捕されるという奇妙な事件が起きた。これは明らかにフランス当局に対する警告であり、ある種の戦争犯罪人の逮捕が必ずしもフランスにとって利益にならないことを思い起こさせた。

微妙なさじ加減

 ICTYの活動に政治的な打算と駆け引きが働いているとしても、それはこの法廷が大国の言いなりになっているからではない。おそらくすべての司法機関がそうであるように、ICTYもまた一定の力関係のただ中に置かれた機関の一つとして、固有の活動範囲を維持し拡大するためには、そうした力関係を考慮せざるを得ない。NATOによって犯された可能性のある戦争犯罪の審理拒否は、受動的な従属関係という見方ではなく、こうした見方から再考する必要がある。しかし、このように避けられないばかりか、必要であるとすら言える司法の政治への傾斜こそ、まさにICTYがはらむ限界とアポリアの原因であるように思われる。その証拠に、繰り返し示されてきたように、司法の論理の優位を明確にしようと試みれば、ICTYの決定は和解と記憶という側面において非建設的なものとなってしまう。それを実感するには、次の2つの例を挙げれば十分だろう。

 1996年1月、デイトン合意が調印された直後のサラエヴォで、はっきりしない事情によりボスニア地区に「迷い込んだ」セルビア人司令官ジョルジェ・ジュキッチが、ボスニア警察によって逮捕された。この逮捕は和平協定に反していたが、当時のICTY幹部は、「大物」をようやく手に入れる思いがけない好機到来と考えた。そこで、この逮捕を合法化するために、スレブレニツァの虐殺への関与を理由として事後的に彼を起訴し、ハーグへの移送を手配した(5)。この決定は、検察の視点からは筋が通っていたとしても、政治的に見ればずさんとしか言いようがない。というのも、その頃ちょうど、当時までセルビア軍の下にあったサラエヴォの諸地区がボスニア当局に移管されようとしていたのだ。この移管の焦点は、セルビア系住民を引き留めることにあった。つまり、国際社会がボスニア当局に強要した恩赦法が厳格に尊重される必要があった。ところが、違法な逮捕を承認することによって、ICTYは自らこの恩赦法に泥を塗った。それは、ボスニア人による報復の脅威を喧伝し、サラエヴォからのセルビア系住民の大移動を組織していたセルビア民族主義勢力の思うつぼでしかなかった。

 もう一つ、別の状況下で起きた例として、コソヴォでの犯罪に対するミロシェヴィッチ氏の起訴もまた、同様に望ましくない影響をもたらした。ICTYに関する著書のあるピエール・アザン(6)によれば、ユーゴへのNATOの空爆作戦が最終段階にあった1999年5月27日に、この元ユーゴ連邦大統領の起訴に踏み切った動機は、NATOの軍事行動を正当化しようということではなかった。そこにあったのは、紛争の終幕が見え始めてきたタイミングで、欧米指導者が1995年のようにミロシェヴィッチ氏と折り合いを付けるのを阻止しなければという焦りだったという。彼の解釈はもっともらしく聞こえるし、この例でもまた、そのような工作はICTYからすれば適切と思われるだろう。だが、ベオグラードでは、特に妄想をたくましくしなくても、この起訴はどうしても進行中の空爆を正当化しているようにしか見えず、セルビアの人々がICTYの活動に不信感を抱く大きな原因となった。

 ICTYの幹部たちは、起訴を発表する際や地域の当局者へ圧力をかける際には、もっとタイミングや地域情勢を考慮すべきことを次第に学んでいった。例えば、ミロシェヴィッチ裁判の開始と前後して、戦争犯罪を疑われるコソヴォのアルバニア系住民が初めて何人か逮捕されたが、それはおそらく偶然ではない。だが、こうした行動は問題をはぐらかすだけだ。ICTYは最初の数年間で一度ならず、勢いに任せたずさんな場当たり仕事というイメージを与えた。現在では、微妙なさじ加減を加えているように見受けられるが、これはチトー時代のユーゴの司法を思い出させてしまう。

 このように述べるのは、ICTYの決定を頭から批判しようということではなく、この法廷が囚われているジレンマを強調したいからである。政治から距離を置き、前後の状況を考慮することなく行動すれば、先に書いたような望ましくない影響という形で、政治に後ろから襲われる危険がある。かといって、完全に政治の土俵に上がろうとすれば、自らもって任じる補償や歴史に関わる役割を大きく断念することになる。いずれにせよ、ICTYは正義、和解、そして真実の機関として立ち現れることになるが、その使い方は微妙であり、その力は未知数である。しかし、その存在を端的に忘れてしまうならば、それだけで極めて非建設的な結果をもたらすことになりかねない。

(1) 2002年2月12日付。
(2) 行き詰まりと見える論理上の困難。[フランス編集部註]
(3) 2001年初頭、クロアチア人の最大政党HDZ(クロアチア民主同盟)が共同機構をボイコットしたことから、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは大きな政治危機に見舞われた。同党の指導者たちは、2000年11月11日の選挙直前に選挙法が改正されたことに反発し、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける第3勢力としてのクロアチア人共和国の創設を要求した。
(4) これにより、クロアチア人勢力はセルビア人を退却させ、クライナを「解放」した。
(5) ジュキッチ司令官は、セルビア軍の兵站を担当していたことから、スレブレニツァの人々の虐殺現場までの移送を組織した嫌疑をかけられていた。ICTYの幹部の目には、彼は「セルビアのアイヒマン」として映り、それだけ象徴的な重みをもっていた。癌に罹っていたジュキッチ氏は、逮捕の数カ月後に健康状態を理由に釈放され、ほどなくベオグラードで死亡した。
(6) ピエール・アザン『戦争に対峙する司法−ニュールンベルクからハーグまで』(ストック社、パリ、2000年)。


(2002年4月号)

All rights reserved, 2002, Le Monde diplomatique + Miura Noritsune + Hayama Kumiko + Saito Kagumi

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