政治参加の知のために

ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)
社会学者、2002年1月23日死去

訳・逸見龍生

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 1995年11月から12月にフランスで続発したストライキ以後、ピエール・ブルデューは政治的関与を重ね、しばしば激しい批判を浴びた。批判の急先鋒は、その社会的役割をブルデューが著書で分析したジャーナリストたちやメディア知識人たちだった。何よりも彼らの気持ちを逆撫でしたのは、「学者」がこれほど活発に「政治」の場に関与したことだったと言えるだろう。しかし、公共の議論への社会学者ブルデューの肩入れは、アルジェリア戦争を批判した1960年代初頭まで遡る。「政治的に思考せずに政治を思考すること」を望んだブルデューは、社会科学と闘争活動は対立し合うどころか表裏一体を成し、社会的現実の分析と批判がこの現実の変革に寄与できることを証明しようとした。以下の文章は、2001年5月、ヨーロッパ、文化、ジャーナリズムをテーマにアテネで開催された研究者と組合活動家の集会において、ブルデュー自身によって読み上げられた。来る2002年春に刊行予定の書籍『関与(1961-2001)社会科学と政治行動』に収録される。[訳出]

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 グローバリゼーション政策に直面している今、相当数の自立した研究者が社会運動へ参加することは重要です。必要不可欠ですらあります。(敢えて「グローバリゼーション政策」と申します。まるで自然の過程のように映る「グローバリゼーション」ではありません)。この政策が生みだされ、拡大してゆく過程のほとんどはなお隠蔽されています。グローバリゼーション政策が実行に移されるよりも前に内実を明らかにするだけでも、まずは大がかりな研究が必要です。この政策がどんな結果をもたらすか、社会科学の蓄積に立てば予測は可能です。とはいえ、大部分の人びとの目にはっきり見えるようになるにはまだしばらく時間がかかるでしょう。グローバリゼーション政策のさらに別の特徴として、それを生みだすのに研究者たちが一役買っていることも挙げておきたい。この政策がもたらす有害な影響を自分の学問的知識から予想している者たちが沈黙を守りきれるかどうか、沈黙を守るべきかどうか。それは、危機に瀕している人間を前にして助けの手を差し出さないこと(1)に似てはいないでしょうか。もし地球が重大な災厄に脅かされているのが事実だとするならば、この災厄が何かあらかじめ知っていると考える者たちは、伝統的に学者が自分に課してきたあの慎みから脱却すべきなのではないでしょうか。

 特に社会科学系の教養人の考え方には、私にはまったく有害としか思えない二分法があります。「スカラーシップ」と「コミットメント」の二分法です。一方には学問的方法に従って他の学者を相手に学問研究に打ち込む人びとがいて、他方には政治参加し自分の知を外へ供出する人びとがいる。そのような対立は作為的であります。実際には政治参加型の知を生みだすためには「スカラーシップ」の規則に従って自律的に研究しなければなりません。「スカラーシップ・ウィズ・コミットメント」です。真の、そして正しく、政治参加をする学者となるには、知の投入が不可欠です。そのような知は、学者共同体の規則に従った学問研究の中で初めて獲得されるのです。

 換言すれば、私たちの頭の中にあり、責任放棄を許す方便となっている様々な抵抗感を乗り越えなければなりません。その手始めは、自分の象牙の塔に閉じこもる学者の抵抗感です。「スカラーシップ」と「コミットメント」を二分しておけば、学問共同体の承認は得られますから、研究者としての良心は安泰です。まるで、自分の学問を使って何もしないことが二重の意味で学者の道と信じられているかのごとくです。しかし生物学者であれば、それは犯罪行為になりかねません。犯罪学者の場合も同じぐらい深刻です。こうした慎み、純粋さへの逃避は、社会的にきわめて深刻な結果をもたらします。私のように国家から給与をもらって研究する人間は、同僚以外に研究成果を伝えないように心がけるべきなのでしょうか。自分が発見したと思うものについて、真っ先に同僚の批判を仰ぐことが基本中の基本であるにしても、公共的に獲得され、審査を経た知を同僚の間にだけ留め置く理由があるでしょうか。

 研究者に選択の余地はないと私には思えます。もし研究者が、新自由主義政策と軽犯罪率、新自由主義政策と重犯罪率、新自由主義政策とデュルケームならアノミー(社会的無秩序)と呼んだはずの諸々の徴候の間に相関関係があると確信しているとすれば、それを指摘せずにいてよいものでしょうか。彼の発言は、非難すべきいわれがないばかりでなく、称賛されるべきではないでしょうか(おそらく私は自分の立場を弁護しているのでしょうが)。

 ではこの研究者は、社会運動の中で何をするのでしょうか。第一に、かつてある種の有機的知識人(2)の一部がそうしたように教訓を垂れることではありません。彼らは競争の激しい学問市場で自分の商品を認めさせることができず、もはや知識人など存在しないと言いながら、知識人以外の人びとを相手に知識人を演じたのです。研究者は予言者でもなければ思想指導者でもありません。彼はきわめて困難な役割を新たに創出しなければなりません。耳を傾け、探し求め、そして創出するのです。新自由主義政策に抵抗することを使命とする諸々の組織の支援に努めなければなりません。これらの組織は労働組合も含め、残念ながらますます弱体化しています。研究者は、手立てを供給することによって彼らを援助しなければなりません。特に、大規模な多国籍企業の側に付いた「専門家」が及ぼす象徴効果に対抗するための手立てです。諸々の事象に対し、それにふさわしい名前を与えなければなりません。たとえば、現在の教育政策はUNICE(欧州産業連盟)や環大西洋研究所などによって決定されています(3)。5年後の教育政策を知るためには世界貿易機関(WTO)の教育部門に関する報告を読めば十分です。国家教育省は、法学者や社会学者、経済学者たちが練り上げ、ひとたび法的な外観が整うと各国に伝えられる指令を反響させているだけにすぎません。

 研究者たちは、さらに斬新で一層困難な行動に出ることもできます。それは、政治的構想を創出する意志を集団的に生みだすための組織づくりを後押しし、続けて、この政治的構想の創出を成功させるための組織づくりを後押しすることです。この構想が集団的なものとなることは明らかです。結局のところ、1789年の憲法制定議会やフィラデルフィア議会を構成していた人びとは、皆さんや私のような人物であり、法律家としての学識をもち、モンテスキューを読み、その上に立って民主主義の機構を創出したのです。今日もまた、同様の新たな創出が必要となっています。もちろん、「各国議会や欧州労連(ETUC)など、そうしたことを行うことになっている機関は多々あるではないか」と言う人もいるでしょう。ここで例証することはしませんが、これらの機関はそうしたことをしていないと言わざるを得ません。それゆえに、創出を後押しするための条件づくりが必要なのです。障害となるものを取り除かねばなりません。障害の一部は、それを取り除くべき社会運動自体の中に、特に労働組合の中に見られます。

 楽観的であってよい理由があります。なぜでしょうか。勝算ということを言えば、今こそカイロス、好機なのだと私は考えます。1995年頃こうした話をしても、私たちの誰も耳を傾けてもらえず、狂人扱いされたものでした。カサンドラ(4)のように破滅を予言した者たちは、愚弄やジャーナリストの攻撃にあい、罵倒されたのです。今では事態はやや好転しています。着実に事が実行されてきたからです。シアトルがあり、一連の抗議行動がありました。私たちが抽象的な形で予測していた新自由主義政策の影響も次第に見えてきました。人びとはわかりつつあります。どんなに偏狭で頑固なジャーナリストだろうと、15%の収益を上げられない企業は人員解雇を行うことを知っています。不幸の予言者たち(他人よりも多くの情報を得ていたというだけの人びと)の最も破滅的な予言が現実となりつつあるのです。それが早すぎるということはありません。しかしまた、遅すぎるわけでもありません。なぜならば、今はまだ端緒にすぎず、破滅は始まったばかりだからです。知識人は、とりわけ様々な社会的利益を受け取っている場合には、社民主義政府に対して愛憎の入り交じった眼差しを向けていますが、これらの政府に揺さぶりをかける時間はまだあるのです。

 ヨーロッパの社会運動が実効性をもつものとなるかどうかは、私見によれば労働組合、社会運動、研究者の三者の結集にかかっています。むろん、これら三者が単に横に並ぶだけではなく、ひとつに統合されることが条件となります。私は昨日、組合活動家の皆さんに対し、ヨーロッパのどの国でも社会運動と労働組合の間には行動内容にせよ行動手段にせよ根本的な違いがあると申し上げました。社会運動の方は、労働組合や政党がすでに捨て、忘れ去り、あるいは抑え込んだ政治目標を存続させてきました。社会運動はまた、やはり労働組合が少しずつ忘れ、無視し、抑圧してきた行動方式を持ち寄りました。なかでも個人としての行動方式です。社会運動の行動を支えるのは象徴的実効性、抗議行動をする人びとの個人としての政治参加にも依拠した象徴的実効性です。そこにあるのは、身体レベルの政治参加でもある個人としての政治参加です。

 リスクを引き受けることが必要です。組合活動家がメーデーで伝統的にしてきたように、スクラムを組んでデモをするのではありません。行動に出ること、建物を占拠するといったことが必要です。それには想像力と勇気がともに必要とされます。だが私はそこで、「組合嫌い」は禁物だということも言っておきたい。労働組合の仕組みにはそれなりの論理があり、その点は理解しなければなりません。なぜ私は組合活動家に対しては社会運動の側が彼らについて抱いている見解に近いことを語り、逆に社会運動に対しては組合活動家の側が彼らについて抱いている見方に近いことを語るのか。こうした分裂は、すでにきわめて弱小な諸々の集団を弱体化させるばかりであり、それぞれの集団が自己を他者の目で捉えることが分裂を乗り越える条件になるからです。新自由主義政策に抵抗する社会運動は全体的にみて弱小でしかないにもかかわらず、内部分裂によって弱体化しています。これでは、緊張や軋轢、衝突の形でエネルギーの80%が熱となって失われるモーターのごとくです。実際にはずっと速く、ずっと遠くへと進めるはずなのに。

 統一されたヨーロッパ社会運動を創造するためには、様々なレベルで障害が待ち構えています。言葉の壁はとりわけ重大です。たとえば労働組合や社会運動間の意思疎通に当たって障害となります。経営者や管理職は複数の外国語を操りますが、それに比べて外国語を喋る組合活動家や社会運動家ははるかに少数です。そのために、社会運動や労働組合の国際協調が困難になっています。それから、習慣や思考法、社会構造、労働組合の構造と結びついた障害があります。こうした中で、研究者にはどのような役割があり得るでしょうか。それは、新たな社会運動、すなわち新たな国際的な行動内容、行動目的、そして行動手段を生みだす「集団的創出構造の集団的創出」に取り組むという役割なのです。

(1) これはフランスその他の一部ヨーロッパ諸国で刑法上の犯罪とされる行為である。[訳註]
(2) もともとグラムシの用語で、ブルジョワ社会の「伝統的知識人」とは異なり、組織の創設、運営、宣伝といった機能的な役割を果たす知識人のこと。[訳註]
(3) 産業ヨーロッパ監視センター『ヨーロッパの諸機関と実業界の危険な関係』(アゴーヌ社、マルセイユ、2000年)参照。
(4) ギリシャ神話に登場するトロイアの王女で、国が滅ぶとの予言も、自分が殺されるとの予言も聞き入れられなかった。[訳註]


(2002年2月号)

* 改訳の上『力の論理を超えて』に収録、NTT出版、2003年8月

All rights reserved, 2002, Le Monde diplomatique + Hemmi Tatsuo + Saito Kagumi

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