フランスの移民統合モデルは有効か

ジェラール・ノワリエル(Gerard Noiriel)
歴史家、パリ社会科学高等研究院教授

訳・吉田徹

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 1世紀以上にわたってうまく機能してきた「移民統合の共和制モデル」は、今日危機にさらされている。そういった見方が、移民問題をめぐる議論の中で強くなってきた。しかし、様々な思い入れで美化された過去と、重苦しく不安に満ちた現在とを対立させるような方法は、歴史家にとって納得できるものではない。確かに、現在の人口のかなり(おそらく約三分の一以上)は、三世代前には移民の子だった。そして、これら数百万の人たちは、徐々に「フランスの坩堝」に溶けていった。しかし、そうした事実を根拠として、移民統合の「共和制モデル」が有効であるとするのは、「現在中心主義」という論理的ミスを犯すことになる。

 現在の立場から過去の経験を振り返ることは、敗者を無視した勝者の歴史を作り上げることであり、それは見えざる者、声なき者を顧みずに勝者の軌跡を追う歴史にしかなりえない。それゆえ、移民の問題を真剣に考えようとすれば、最近の研究によって実証された最も基本的な事実を踏まえることから始める必要がある。それは、過去にフランスへと移動してきた人間の大半が、定住には至らなかったという事実である(1)。これら数千万の人たちの「共和制モデル」に対する意見は、共和国が彼らに許した唯一の方法で表明された。つまり、もっと住みやすい地域へと移動するという、「足による投票」を行ったのである。移民統合政策の第一段階が、外国人を適切に迎え入れ、ここに定住したいと思わせることだとすれば、共和国は大半の場合において、それに失敗したと言わざるを得ない。

 フランスへの定住を決めた少数の移民だけをとり、これを「統合の共和制モデル」として語るとすれば、その歴史の軋轢と痛みに満ちた側面が見えなくなってしまう。労働市場の底辺に閉じ込められ、労働災害の危険と隣り合わせ、市民の基本的権利を剥奪され、排外主義や警察の取り締りや国外追放の標的となった移民たちは、統合のために大きな代価を支払ってきた。

 移民の流入は三つの時期に大別できる。第二帝政期(1852-70年)と1920年代、そして第二次世界大戦後(主に1970年代)である。大挙して流入した移民は、工業発展上の必要と密接に結び付いていた。繁栄の時代には大量の移住者が必要とされたが、その反対に危機の時代(1880年代、1930年代、1980年代)には国境が閉鎖された。こうした移民流入のサイクルは、労働供給国の拡大と一致する。19世紀には、移民の出身地は主にフランスの隣国(当時はまだ移民輩出国であったベルギー、ドイツ、イタリア、スペイン)であったが、1920年代に入ると、フランス企業は労働力をヨーロッパ全土(特にポーランド)から集めるようになる。第二次世界大戦後、国民経済が必要とする労働者階級の供給源となったのは植民地帝国(主に北アフリカ)だった。

 共和制「モデル」という言葉には、そこに移民の社会的統合政策があったかのような響きがある。しかし1970-80年代に至るまで、歴代政権が移民問題に本格的に取り組んだことはなかった。19世紀末以来、移住者とその子孫は、政府や専門家が取り組まずともフランス社会に溶け込むことができた。他の分野と同様に、移民に関しても、政治が果たす役割は通常言われるよりはるかに低かったのである。

 20世紀における移民大国であるフランスと米国の比較は、この点で非常に示唆に富んでいる。長期(三世代)にわたって統合のプロセスを社会的流動性、宗教慣行、母国語の維持などを指標として追ってみると、政治制度の著しい差異にもかかわらず、両国の間にさしたる違いはみられない。この事実は、統合の第一の担い手が移民自身であることを我々に思い起こさせる。移民統合のプロセスは、地域交流の形で展開されており、社会的出自、就労の機会、感情的なつながりの積み重ね(『国際』結婚)といった様々な要素に依存しているのである。

 また、景気も無視できない要因である。1860年代から1970年代までの間、新たな景気拡大はその度に大量の移民を招き寄せ、それ以前に定住していた移民の社会的上昇を容易なものとした。こうした社会的メカニズムが機能するためには、国家がそれを妨げず、すぐにとは言わないまでも比較的短期間に、移民とその子孫が他の住民と平等に扱われるようにすることが必要である。全般的に見ると、大量の移民を受け入れた民主主義諸国はこの原則を遵守し、事情に応じて異なる手段を用いつつも移民統合の「成功例」となってきた。

「外国人」の導入

 より現実に即してみれば、「統合の共和制モデル」なる概念は結局のところ、民主的社会の基本的原理の実現に向けて共和制国家が用いた手法を意味している。フランス独特の事情を理解するには、第三共和制(1870-1940年)が果たした決定的な役割を思い起こす必要がある。19世紀末に第三共和制の指導者が腐心したのは、人民階級をいかにして国民国家に統合するかということだった。この目標は、二つの種類の改革によって数十年のうちに達成されることになる。

 まず、彼らの政治参加(市民性)が促進された。選挙法が改正され、相当数の人民階級出身者が(主に市町村レベルで)公職に就くようになった。出版と集会の自由を認める法律が施行され、この傾向をさらに強めた。こうして労働者と農民は、集団となって政治に介入する権力を手にし、産業資本主義の発展による変化(過疎やプロレタリア化など)に有効に対処できるようになった。

 第三共和制はその一方で、「社会保障」政策の展開によって人民の統合を促進し、資本主義の拡大に伴う社会変動の破壊的影響を和らげようとした。国家への帰属(言い換えればフランス国籍の保持)が、社会的権利の獲得に直結するようになったのである。移民(この言葉が政治的に用いられ始めたのはこの時期である)の増加は、こうした民主化の直接的な帰結だった。

 第二帝政期の終わりまで、国内の主な対立軸は、地方名望家と「危険な労働者階級」という社会的な領域にあった。当時の労働者はまったくといっていいほど何の権利も持っていなかったので、彼らが「フランス人」であろうが「外国人」であろうが、政府にとって大差はなかったのである。しかし、労働者が政治的、社会的権利を獲得するようになると、フランス国家に帰属する者とそうでない者(おおむね他の国民国家の出身者)を峻別する必要が生じた。こうして外国人は、国民に付与される権利を持たない人々という消去法によって定義されるようになる。

 フランス共和国が、何故このような差別政策を極めて厳格に推し進めたかを理解するには、フランス革命があらゆる旧体制下の同業組合や行政機構を解体したことを思い起こす必要がある。さらに当時の政府は(少なくとも本国内では)、宗教や民族に基づく差別を禁止した。

 他の多くの国では、地域や宗教、職業に基づく対立が20世紀に至るまで残り、個別的利益をめぐって争う市民がそれを利用することが可能だった。しかしフランスの場合、自らの差異を表現し、集団的な帰属意識を培うため個人に残された「材料」は、ごく早い時期に二つの方向に収束した。ひとつは、階級闘争(経営者と労働者)であり、もうひとつは国民と外国人の区別である。19世紀末以降に大量の移民が流入すると、この区別が強調される素地ができることとなる。第三共和制下で人民階級に抵抗の力が与えられた結果、大企業は必要な労働力を国内で調達できなくなった。そして、未成年者、未熟練労働者、農業労働者、家事使用人といった融通の利くプロレタリアートを確保するためには、国民に付与された社会的権利を持たず、そうした境遇に集団として抗議する手段を欠いた住民を「作り出す」必要が生じたのである。こうして、南西部ルシヨン地方のブドウ園から北東部モーゼル地方の製鉄所に至るまで、経営者はイタリアやポーランド、植民地へと労働力を求めるようになった。

 従って、労働者階級の統合と外国人移民の社会的排除は、コインの表と裏の関係にある。この切っても切れない関係は、1880年代から1930年代にかけて行われた労働市場の保護政策をみれば、実によく理解できるだろう。共和国政府は、外国人による労働を許可制とした。政府はこれにより移民の流入を調整し、景気後退期には移民の入国を禁じ、衰退産業へ労働力を回し、国民の人気の高い産業部門での競争を制限する手段を確保した。同じ時期、フランス人に限定される就職口である「公務員職」を拡大する措置が繰り出され、こうした制度をさらに強化した。

第二世代の二重性

 共和制下の差別システムにおいては国民と外国人との区別が中心的な位置を占めているのを見れば、フランス国籍をめぐる問題が常に政治的に微妙な問題であったことも理解できる。現在の国籍法の根本を規定した1889年法は、外国人のフランス国籍取得を以前より容易にすることで、移民の統合に大きな役割を果たした。しかし、この法制度をもって、揺るぎない統合政策が確立されたとみるのは間違いである。

 現実には、全ての制度は国益のために存在する。国家の力は人口に比例するという考え方に取りつかれた政治指導者が、出生率低下という国難に際して徴兵対象者を増やすため、国民共同体の扉をわずかに開けようとしたのであった。共和国はそれと同時に、国籍に関連する立法措置を通じて、そうした新しいフランス人の社会的排除を強化した。1889年から(1980年代初頭に至るまで)、帰化した外国人は二級市民として扱われていた。彼らは完全な市民権を得る前に10年間の「研修」を強要された。この国民と外国人との峻別は、フランス人を様々な階層に分断することとなった。共和国は「出身国」に基づく差別のシステムを導入し、これを突破口として、対独協力政権を率いたペタン将軍の支持者が外国人排斥と反ユダヤ主義政策を展開することになる。

 「統合の共和制モデル」は、それが国民国家の形成から生じたという認識なくしては理解できない。第三共和制は国民と外国人の間に明確な一線を引くことで、国益の名のもとに外国人差別政策の強化を主張する保守政党や極右政党と、人権の名のもとに差別の緩和を求める革新政党との対立に、新たな争点を呼び込んだ。20世紀を通じて、移民に関する共和国の政策は、この両勢力の力関係によって決まることになる。その後の歴史を概括するならば、進歩的組織の闘争、貿易交流の進展、人権思想の社会的浸透などによって、外国人差別は消えないまでも、緩和に向かったとはいえるだろう。

 しかし、その一方で、「第二世代」に属する人々への差別が強まりつつある。この移民の子たちは、1950年代から70年代という繁栄の時代に雇い入れられたプロレタリアの子供たちである。その多くはフランスで生まれ、フランス国籍を持つが、一般的には労働者階級に属している。このため、資本主義のグローバル化による社会的変動の影響を直接的に受けることになる。彼らが統合に当たってぶつかる困難は、今日の労働者全般に共通する問題だが、移民出身の一部の若者にとっては特に厳しいものである。

 フランス社会は1950年代以降、大きな変容を遂げている。子供と大人の間に位置する社会的な中間層(15歳から25歳の間の「若者」)が出現し、大規模集合住宅と市街化優先地区が増加した。その結果、「第二世代」が社会の中で目を引く存在となった。さらに、マスコミはこのグループの一部を占めるにすぎないマグレブ(2)移民出身の若者だけを大きく取り上げた。彼らは常に、その民族的出自、大半が実践していない宗教、そして多くのフランス人と同じように自分には無関係な国際政治問題と結び付けられることで、法によらない行政的、経済的、社会的そして文化的な差別政策の犠牲者となっている。

 この若い労働者たちは、あらゆる「第二世代」に特有の社会学的特徴を顕著に示している。両親が抵抗する力もないままに極度の従属状態におかれていたことを目にし、自分が毎日のように周囲から疎外されるのを体験するにつけ、彼らは社会的認知(つまりは統合)を強く求めるようになる。しかし、一方では自分たちを軽蔑し見捨てている世界への拒否感をあらわにしたいという思いも持っている。こうした若者たちの一部による暴力的行為は、彼らが地元社会(都市)への統合を果たしつつも、与えられた役割に甘んじるのを拒否するという状況を反映しているのである。

 戦間期にフランスへと移住した移民の子は、1950年代にはこのような統合と反逆という二重の役割を共産党という政治的組織に見出すことができた。過去と現在における民衆の暴力行動で異なるのは、過去の労働者運動が暴力を制御し、それに政治的な意味を付与することができたのに対し、今日の都市部での小規模な反乱は、打撃を受けるのもまた労働者層であるという自己破壊的な性格を帯びているということだ。

 「移民の統合」をめぐる専門家の論議はますます空虚なものとなってきている。「画一思想」を断ち切ろうとする人々は、歴史学的、社会学的研究の成果を活用して、新たな政治構想を生み出せるはずだ。それはブルジョワ的秩序への「統合」を標榜することで、人々が意見を表明し、行動することを封殺するためにではない。これまでにない方法で民衆の統合と自律性への希求を表明するために、集団的行動の新たな仕組みを推進するような政治構想を生み出すためである。

(1) 全貌を知るためには、エリック・ギシャール、ジェラール・ノワリエル編『国籍の創設と現代フランスにおける移民』(高等師範学院出版、パリ、1997年)を参照。移民の歴史に関するウェブサイト http://barthes.ens.fr/clio/ も参考のこと。
(2) モロッコ、アルジェリア、チュニジアの三国を指す。[訳註]


(2002年1月号)

* 改訳の上『力の論理を超えて』に収録、NTT出版、2003年8月

* 後ろから五段落目「直接的に」の後のタグのゴミを削除(2002年11月15日)
* 小見出し「『外国人』の導入」から二つ目の段落「プロレアタリア化」を「プロレタリア化」に訂正(2003年4月13日)

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