アルゼンチン、全面的危機に突入

カルロス・ガベッタ(Carlos Gabetta)
ル・モンド・ディプロマティーク南米南部版編集長

訳・北浦春香

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 2001年夏から債務不履行の可能性が取り沙汰されていたアルゼンチンでは、12月に入って預金引出制限、国際通貨基金(IMF)の追加融資見送りによりペソ切下げ不安が高まり、国民の政治不信が募るなかで急進党主体のデ・ラ・ルア政権が崩壊した。正義党のロドリゲス・サアを大統領とする暫定政権は、債務返済停止を宣言した後に空中分解した。2003年末までの任期を保証された同党のドゥアルデ大統領は、90年代にインフレ抑制効果をもたらした固定相場制を放棄しつつ、輸出競争力の回復、市民の預金保護、金融システムの崩壊防止、財政赤字の削減、インフレ抑制など相反する利益の調整を迫られている。ここで究極の形で問われているのが、中産階級を支持基盤とした急進党にせよ、労働大衆を支持基盤とした正義党にせよ、新自由主義と社会保障の対立という全世界的な問題であることに変わりはない。[日本語版編集部]

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 まさに典型的な崩壊である。アルゼンチンがとうとう爆発した。長い闘争の伝統をもち、政治党派と労働組合の組織率も高い国であるだけに、これまで社会がじっとしていたのを事情通はいぶかしく思っていた。以前のアルゼンチンでは、もっとましな状況下でも国がひっくり返るような騒ぎになっていた。それが今回は、失業率が20%、人口3700万人のうち1400万人が貧困ライン以下の生活、5年間で購買力が50%近く下落するという、とんでもない状況にある。

 それでも、この2001年12月19日、数万人の市民が自然発生的に街頭に繰り出すまで、アルゼンチン社会は不満を表明する力もないまま茫然自失しているように見受けられた。1976年から83年までの血塗られた軍事独裁体制、1982年のマルビナス戦争(フォークランド紛争)での敗走、社会に深い傷跡を残した1989年のハイパーインフレを記憶する市民は、政治家が「過去への逆戻り」つまり強権政治や経済崩壊の脅威をふりかざしつつ、軍事政権によってレールを敷かれた新自由主義の経済モデルを綿密に実施するのを甘受してきたのだ。

 よく見落とされがちだが、3万人の市民を殺害させた非合法的な軍事政権の時代は、対外債務が80億ドルから430億ドルへと跳ね上がり、アルゼンチンが景気後退の悪循環に引きずり込まれた時代でもあった。同じ時期、あの「汚ない戦争」と国防政策が、政府を構造調整計画の準備へと向かわせた。そこでは軍人大統領ホルヘ・ビデラ、経済相マルティネス・デ・ラ・オス、政権に協力する国際通貨基金(IMF)幹部ダンテ・シモーネ、そして中央銀行総裁が中心的役割を果たした(1)。当時の総裁は、かのドミンゴ・カバロである。

 1991年にペロニスタ(正義党)のカルロス・メネム政権がハイパーインフレ鎮静のために起用したのも、この同じドミンゴ・カバロだった。彼は国際金融界の歓迎を受け、アルゼンチンの「経済革命」の立役者として、南米諸国のうちで最も急進的なものをも含めて改革を推進し、ワシントンの専門家たちの意向を忠実に実行に移した。つまり、数万人規模の解雇により公共部門を解体し、民営化および経済と貿易の自由化を進め、金利を引き上げるという政策を採った。カバロの発案により、ドルとペソの交換比率を固定する為替システムが採用され、これがやがて輸出の足を引っぱるようになる。

 この国は景気後退に入って4年目を迎えようとしている。数万の企業が倒産に追い込まれ、かろうじて生き残っている企業も技術力の遅れに苦しんでいる。1999年10月24日に中道左派のフェルナンド・デ・ラ・ルアが大統領に選ばれたころのアルゼンチンは、想像を絶する腐敗に蝕まれた政府によって運営される新自由主義の優等生であり、民主主義はその見目麗しい外観にすぎなくなっていた(2)。90年代の「奇跡」の立役者ドミンゴ・カバロは、2001年3月20日に再び起用されると、議会から特別な権限を与えられ、7月30日に「財政赤字ゼロ法」を成立させた。その中には、公務員の給与と一部の退職者年金を7月時点で13%削減するという措置も含まれていた。2002年度予算案では、前年度に比べ18.6%、額にして92億ドルの歳出削減が予定されている。

 しかしアルゼンチンの人々は生きる本能を取り戻したようだ。大規模蜂起がまずは嫌われ者の経済相、次いで全閣僚、そしてついには2001年12月20日にデ・ラ・ルア大統領自身を辞職に追い込んだ。

 それは、何千人もの絶望した人々が、スーパーマーケットや商店に殺到し、食べるものを手に入れようと略奪を行ったときに始まった。大多数は数年前から失業していて、あらゆる経済的、社会的保護を奪われた勤労者だった。デ・ラ・ルア大統領が、この抗議運動は「共和国の敵」によって組織されたものだと断ずるばかげた演説を行うと、国中のあらゆる町のあらゆる町角で、貧困化した中産階級の人々が「カセロラーソ(鍋叩き)」(3)を繰り広げた。続いて、先の抗議活動と同じく自然に往来に繰り出して、ブエノス・アイレスでは五月広場、他の町では自治体庁舎の前へと向かった。

最後の支えの役割

 これが他の蜂起と大きく違う点は、アルゼンチンの人々が経済モデルを拒否しただけでなく、若干の例外(アルゼンチン労働者中央連合など)を除き、政治家と労働組合を全面的に拒否したことである。かつてはストの指令に従って、組合や政党の旗のもとに隊列を作って行進していたものだが、今回はただの市民としての行動である。国旗は別として旗は掲げられなかったし、ここ50年あまりで初めてのことだが、いつものペロニスタの大太鼓も持ち出されなかった。群衆に加わろうとした何人かの政治家ははねつけられ、議会は数百人のデモ参加者に襲撃された。

 社会的抗議は12月19日の戒厳令発令にひるむ様子もなく、経済の危機は政治の危機に転じ、さらには体制の危機にまで発展する可能性が出てきた。アルゼンチンは一つの時代の終わりを迎えているのであり、このような歴史的瞬間において先を見通すことはできない。明らかにいえるのは、体制全体に蔓延した腐敗(4)、過去四半世紀にわたり贅沢な暮らしをし、大銀行や多国籍企業、世界的権力の中枢のもたらす役得を山分けしてきた指導者層に対し、市民が「もうたくさんだ」という声を叩きつけたことだ。というのも、この国は「IMFの最優等生」で、銀行の90%と産業の40%は外国資本の手中にあるのに、その結果は惨憺たるものだからである。

 1970年代初頭以来、対外債務は76億ドルから1320億ドル(推計によっては1550億ドル)に膨れ上がった。しかも民営化で受け取ったはずなのに、どこかへ消えてしまった政府収入が400億ドルもある。この間に、失業率は3%から20%に上昇し、極貧層は20万人から500万人に、貧困層は100万人から1400万人に増え、非識字率は2%から12%に、機能的非識字率(5)は5%から32%に上がった。

 その一方で、政治家、組合幹部、企業経営者が国外に移した資産は1200億ドルにのぼる。新自由主義の「模範生」は、あらゆる点で典型的だといえるだろう。社会の富を盗む手口も、それが社会に与える破壊的な影響の点でも。

 2001年12月1日にカバロが決定した「強奪」を前に、国民の堪忍袋の緒は切れた。2001年末までに7億5000ドル、2002年1月末までにさらに20億ドル余と、国際融資の返済期限に迫られた政府は「資本流出に歯止めをかけるため」個人の預金引出に制限を加えた。アルゼンチン国民は自分の銀行口座から1週間に現金250ドルまでしか引き出せなくなってしまった。この措置が、国内外の大口投資家による150億ドル超の資金の国外移転後に布告されたことは言うまでもない(6)

 言い換えれば、金融システムの最後の支えの役割が、中小の預金者と国内企業の肩にのしかかってきたのだ。彼らはそれ以降、もはや自分の資産を自由にすることもできぬまま、これまでの人生の蓄えを紙切れに変える通貨切下げの可能性に、時々刻々と怯える毎日を送っている。

 現金が手に入らないという市民の窮状につけこんで、銀行はそれ以来クレジットカードの利用者からペソ建てなら40%、ドル建てなら29%の手数料を取るようになったばかりか、この率をさらに上げようとさえした(7)。もし手数料の引き上げが実施されていれば、すでに貧困状態にある数百万人に加え、さらに何百万人もの「資産なき」中産階級が生まれるところだった。

ワイマール共和国との比較

 今回の大衆蜂起はアルゼンチンに悲劇的な損失をもたらした。警察の弾圧による死者が31名、略奪にあった商店が数千、都市部で荒らされた地区が数カ所、そして元首のいない共和国が一つ(8)。「ごろつき政治家」たちは数人の例外を除いて上下両院合同会議に集まり、4日間の激論の末、サン・ルイス州知事のアドルフォ・ロドリゲス・サアを暫定大統領とし、来たる3月3日に次期大統領選挙を実施することを決めた(9)

 政治家たちは自らの生き残りを賭け、せめて最初のうちだけでも、政治的立場の相違や個人的野心、利害の衝突を超えて、理性的に状況に取り組むようになるだろうか。彼らの任務は容易ではない。経済は崩壊し、国民は蜂起によって、一刻の猶予もならない要求を突きつけた。

 超自由主義的な経済モデルが暗礁に乗り上げている事実を長らく認めなかった政治家たちは、その失敗を最悪の条件のもとで認めざるを得なくなるだろう。外貨準備は、カバロが対外債務の支払いに注ぎ込んだために、もはや底をつきかけている(10)

 ロドリゲス・サアは一連の強烈な社会的措置を発表し、債権者との再交渉が成立するまで債務の支払いを停止することを公式に宣言した。そして、経済再活性化のため新たな通貨を導入すると公約し、ペソの切下げはないと言明した。ドル建ての債務を抱える市民や国内企業はペソ切下げを恐れている。しかし事実上、交換比率はすでに幻にすぎない。銀行はもはやドルを売らず、街頭では1ドルが2ペソで取引されているのだ。

 政治家は国民を代表していないのではないかとの意識が広がっており、それが今回の状況に対する社会の反応を遅らせた。さらに、この反応が無政府状態に転じることも危惧されている。最悪の状況を避けるためには、新政権は選択しなくてはならない。これまでのように多国籍企業の利益を優先するのか。それとも新たな大衆蜂起にさらされるのか。現在の状況は1930年代の世界恐慌、それに伴うワイマール共和国の展開と政治的末路に似ていると憂慮する見解もある。

 この比較は大袈裟に思えるかもしれない。だが、近年のアルゼンチンの歴史を振り返ると、そうも思えなくなる。マルビナス戦争での敗北、長年にわたる挫折感、議員の信用失墜、体制への信認喪失、展望のなさ、世界的な危機。このような状況下で、権力の空白が独裁を招き、あるいは策謀家の野心を刺激することがないと、どうして言いきれるだろうか。

(1) アルノー・ザカリー「アルゼンチン危機の起源」、第三世界債務取消委員会(http://users.skynet.be/cadtm/pages/english/english.htm)による資料「アルゼンチンの債務危機」より。
(2) カルロス・ガベッタ「低迷の中のアルゼンチン大統領選」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年10月号)およびホルヘ・バインシュタイン「アルゼンチン経済は嵐の予感」(同2001年7月号)
(3) バルコニーや通りで、シチュー鍋などの台所道具を叩き鳴らすという抗議行動。
(4) 資本流出は1998年には約400億ドルにのぼり、通常であれば国庫に入るはずの税収の半分が失われた。高額所得者のうち所得税を支払ったのは17%にすぎないのである。アルノー・ザカリーの前出ドキュメントを参照。
(5) 基礎的読み書きをある程度知ってはいるが、十分には身につけておらず、また基礎的な知識や理解力も不足しているために、地域社会や生産活動への満足な参加ができないこと。[訳註]
(6) Daniel Muchnik, << La economia en la cuenta regresiva(経済に逆行する収支)>>, Clarin, Buenos Aires, 16 January 2001.
(7) Gustavo Bazan, << Tarjetas de credito : solo prestan en dolares y a tasas muy altas(クレジットカード:ドル建てで高利でなければ金は借りられない)>>, Clarin, 18 December 2001.
(8) また、負傷者は数千人、逮捕者は約2000人であった。
(9) 2000年10月にカルロス(チャチョ)・アルバレスが辞任して以来、副大統領のポストは空席のままとなっていた。こうした中で両院合同議会(ペロニスタが多数を占める)には総選挙を行うか、それとも2003年12月までの大統領任期を議員または地方知事のうち誰かに務めさせるかの選択肢があった。
(10) Julio Nidler, << Mucho plan, pero pocos dolares(プランばかりでドルはなし)>>, Pagina 12, Buenos Aires, 21 December 2001. また、ル・モンド・ディプロマティーク南米南部版2001年12月号 << Argentina, un pais empantanado(泥沼にはまり込んだアルゼンチン)>> 特集も参照。


(2002年1月号)

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