パレスチナ和平はいかにして頓挫したか

アラン・グレシュ(Alain Gresh)
ル・モンド・ディプロマティーク編集長

訳・安東里佳子

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 「パレスチナ難民問題はイスラエル=パレスチナ関係の中心的問題である。その包括的かつ公正な解決は、長期的かつ良心的な和平の構築にとって重要である。(中略)イスラエル国家は、パレスチナ難民の悲劇、その苦痛と損失に対して厳粛に悲嘆の意を表明する。そして、この53年前に始まった悲劇の幕を閉じる(中略)パートナーとなろう」

 パレスチナ指導者たちは信じられないといった面もちで、イスラエル代表から手渡された文書を読みつづけた。舞台は2001年初頭、アカバ湾に面した海浜リゾート地のタバ。この1平方キロメートルほどの飛び地は、長い係争を経て1988年にイスラエルからエジプトへ返還された。ここでイスラエルとパレスチナの両代表団が1月21日より、「和平を救う」ための膝詰め協議を行ったのである。

 「建国途上のイスラエル国家は、1947年11月の[パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家の二つに分割することを勧告した]国連総会決議181号を受け入れたにもかかわらず、1948-49年の戦争と流血の惨事に引き込まれた。これは、難民と化したパレスチナ民間人の強制移住と財産収奪を含め、双方に犠牲と苦痛をもたらした。以来数十年にわたり、これらの難民は尊厳、市民権、財産を失った状態に置かれている(後略)」

 「国連安保理決議242号に合致した難民問題の公正な解決は、国連総会決議194号の実施に至るべきである(後略)」

 あるパレスチナ指導者は、この文書を目にしたときの自分の反応を次のように語る。「私の心情は、二つに分かれた。一つは、交渉に大きな突破口が開かれたという喜び、もう一つは、もはや遅すぎるという確信ゆえの悲しみだった」。確かにイスラエルは初めて、パレスチナ難民の悲劇の責任の一部が自らにあることを認め、問題解決に向けて直接貢献することを受け入れ、それが国連総会決議194号の実施につながることを言明したのだ。1948年12月より毎年確認されてきた決議194号には、特に「帰還を望むパレスチナ難民は、可能なかぎり早期に故郷に帰還し、その隣人と平和に暮らすことができる」旨がうたわれている。本紙が初公開となるイスラエルの文書をはじめ、多くの当事者の談話は、失敗に終わった2000年7月のキャンプ・デーヴィッド会談後の数カ月にわたり、水面下の交渉が進展していたことを示す。

 しかし、タバ協議の参加者は皆、もはやバラク首相(当時)が2001年2月6日の選挙で惨敗を避けられないことを知っていた。世論調査によれば、彼はリクードのシャロン党首に20%以上の遅れをとっていた。そして事実、数日後には、サブラとシャティラの大量虐殺を引き起こした筋金入りのタカ派が、イスラエル首相に就任したのである。

 それから7カ月後、両民族間の溝はかつてないほど深く、和平ははるかかなたに遠のいてしまった。パレスチナ人に対する弾圧は、前代未聞の頂点に達している。毎日のように死傷者が増え、家が破壊され、農地が荒らされる。イスラエル軍の侵攻は、パレスチナの自治権をいっそう形骸化した。町や村の封鎖は、F16戦闘機の空爆ほど注目されないにしても、分散し、隔離され、分断された飛び地であえぎ、貧困に追いやられたパレスチナ人をさらに窮乏化させている。

 虐待や子供にまで加えられる拷問(1)、指導者の暗殺、「検問所」で受ける屈辱が、国際社会から見放され、占領に抵抗するパレスチナ住民の殉教録にちりばめられる。このような状況下にあっても、ハマスや他のイスラム過激派の支持率が、過去1年で15%から25%にしか増えていないのは、ほとんど驚くべきことだ。

 対するイスラエルでは、自爆テロが相次ぎ、再び恐怖が広がっている。外に出れば、自分がやられるのでは、子供がやられるのでは、と恐れをなしている。相手側の苦しみには無自覚なイスラエル人は、圧倒的な軍事的優越にもかかわらず、またもや脅威が迫っていると感じている。2001年初めにはタバで合意に近いところまで至っていたというのに、どうして、このような事態になってしまったのか。

2000年7月@キャンプ・デーヴィッド

 過去にさかのぼってみよう。圧倒的多数のイスラエル人は、アラファト議長が2000年7月のキャンプ・デーヴィッド会談で彼らの「寛大な提案」を拒絶することで、バラク首相の言葉を借りれば「本心をさらけだした」と見なしている。そして、それを支持したパレスチナ人の暗黙の目的はイスラエルの破壊にあると受け止めた。

 「寛大な提案」というが、どのような基準に照らしてのことだというのだろう。1967年に占領したすべての領土から撤退し、東エルサレムも含めたすべての入植地を解体することをイスラエルに求める国際法でないことは確実だ。「寛大」という言葉は語るに落ちている。これは勝者が語り、敗者が拝聴すべき言葉なのだ。そこには、強者が弱者に押し付ける和平観が示されている。この事実は、その後の数カ月にわたり、会談失敗の責任はパレスチナ側にあるとするメディアの弾幕によって覆い隠されてきた。

 1年後、われわれはキャンプ・デーヴィッド会談の詳細を知り、イスラエル提案の不当性に気づくことになる(2)

 バラク首相が容認を示したパレスチナ国家は、限られた主権しか持ち得ないものだった。パレスチナ人の生活が占領国に従属する点は変わらない。イスラエルはヨルダン川西岸地域の9.5%を併合し、約10%に相当する沿岸地区を「長期」にわたり租借する。西岸地域は2カ所の大きな入植地群によって実質的に3つに分断され、長い回廊地帯により、イスラエルはキリヤット・アルバとヘブロン中心地区への直接の通路を確保する。パレスチナ国家の外側の境界はイスラエルがコントロールを続ける。そこでは、難民問題については何の解決策も示されなかった。ただしエルサレムについては、バラク首相はこれまでの強固な方針を曲げ、1967年にイスラエルの「永遠の首都」と定めた「統一エルサレム」の分割を初めて視野に入れた。具体的な切り分けについては後日の課題となるにしても、エルサレムが両国の首都となる可能性が示唆されたのだ。

 キャンプ・デーヴィッド会談は協議にならなかった。バラクはアラファトと差し向かいで会うことを拒否し、アラファトはバラクに次のような不信感を抱いていた。彼は1999年5月に首相に選出されてから1年近くもの間、結局は失敗に終わったシリアとの交渉を優先し、パレスチナ問題に背を向けていたではないか。自分が交渉しておきながら、イスラエル軍のヨルダン川西岸地域からの第三次撤退を無期限延期にしたではないか。イスラエルの政府と議会も承認したというのに、エルサレム周辺の数カ所の村(アブ・ディス、エル・エイザリア、サワハラ、アナタ)のパレスチナへの返還を拒絶したではないか。

 より一般化して言えば、キャンプ・デーヴィッドにおけるイスラエル提案を支える思想には、和平とオスロ協定に関する独自の見方が反映されていた。イスラエルの世論も政府も、パレスチナ人の権利(尊厳、自由、安全、独立などの権利)がイスラエル人の権利の後にくるのは当然のことと見なしている。オスロ協定が、権利と義務において対等な二者間の契約ではなく、占領する側とされる側の間の取り決めであったことは、繰り返し強調すべきだろう。そして占領する側は、あらゆる段階を通じて、アメリカの支援の下に自分の視点を強制しようとした。1993年9月から2000年の間に数々の合意がサインされたといっても、そこに書き込まれていたイスラエルの義務のうち実行に移されたのはわずかな部分にすぎず、それもしばしば遅れを伴っていた。ラビン元首相も、「日付に絶対というものはない」と述べていた。こうした遅れと引き延ばしが、パレスチナ人の忍耐をすり減らしていく。

 それでもなお、パレスチナ人は長い間、トンネルの向こうに独立と自由が輝いていることを信じつづけた。急進派やイスラム過激派の影響力が大きく広がることもなかった。しかし、予定の暫定自治期間終了から1年後に行われたキャンプ・デーヴィッド会談でも、イスラエルの提案は、パレスチナ人を押さえつけるという考えを捨てていないことを示していた。しかも、現地では強引に入植が進められていた。

 バラク首相はキャンプ・デーヴィッドで、アラファト議長がイスラエル提案を拒絶したことに驚いたに違いない。国際法を軽視し、イスラエル政界で受け入れられるかどうかを基準としたこの提案に、パレスチナ側が従うと踏んでいたからだ。確かに1993年以降、パレスチナ自治政府は譲歩の上に譲歩を重ねてきた。しかし今回の会談には、パレスチナの最終的な地位がかかっていた。アラファト議長は、暫定合意であれだけの譲歩をした以上、「最終的な解決」については、国連安保理決議242号に従って東エルサレムを含むヨルダン川西岸地域およびガザ地区の占領に終止符を打つもの以外にはあり得ない、とあらかじめ通告していた(3)。しかし、「被入植民」に対する優越感ゆえに無神経になっていたイスラエルの指導者たちは、これを聞く耳を持たなかった。

 キャンプ・デーヴィッドで示された原則譲歩を拒否したアラファト議長は、「和平は領土との交換」というスローガンを真剣に受け止めていたパレスチナ世論から全面的に支持された。首脳会談は部分的に失敗に終わった。だからといって、この世の終わりと言わんばかりに騒ぎ立てる必要があったのだろうか。水面下の交渉は続けられており、まだ前進は可能だった。

2000年9月@エルサレム

 しかし、パレスチナ人の忍耐は限界を超えた。爆発に火をつけたのは、選挙を控えたイスラエル政界の駆け引きだった。2000年9月28日、リクードのシャロン党首は、アル・アクサ寺院のあるエルサレムの神殿の丘を訪れるという挑発に出た。バラク首相は、これに目をつぶることで彼の立場を強め、自党内の対立候補ネタニヤフ前首相の当て馬にしようとした。解散総選挙の可能性もあった中で、バラク首相は簡単に打倒できると思ったシャロン氏を相手にすることを望んだわけだ。しかし、パレスチナ人はこの「訪問」を挑発とみなし、怒りをあらわにした。続く3日の間に、武装攻撃を受けたわけでもないイスラエル軍は、30人を殺し、500人を負傷させた。パレスチナ人は中央から指令を受けることもなく立ち上がった。彼らの要求は、イスラエル占領の即時停止であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。こうして、7年間の引き延ばし工作、守られなかった約束、破られた夢に倦み疲れたパレスチナ人の第二次インティファーダが始まった。

 事件勃発の第一の責任がイスラエル政府にあるにしても、2000年夏以降の混迷に関してパレスチナ側に全く責任がないとはいえない。アラファト議長の権威主義的な手法、彼の後任争い、内部に広まる腐敗により、パレスチナ指導部は何カ月にもわたり致命的な機能麻痺に陥っていた(4)。彼らはシャロン氏の勝利がどのような危険をもたらすかを感じ取っておらず、2000年10月のすさまじい弾圧で萎縮していたイスラエル国内のアラブ系有権者を動かそうとしたときには、すでに選挙戦終盤に入っていた。しかも、キャンプ・デーヴィッド会談後の情報操作に対して、明確な目標を掲げることも、戦略を定めることも、マスメディア・キャンペーンを展開することもできなかった。全パレスチナ難民にイスラエルへ「帰還する権利」があると時宜をわきまえぬ声明を出し、神殿の丘がユダヤ教にとっても聖地であるというのは疑わしいと表明するなど、イスラエル世論の恐怖感を煽っただけだった。交渉カードの99%はアメリカが握っていると信じて疑わないアラファト議長には、どのような合意もイスラエル世論の支持なしでは不可能であるという、決定的に重要な一点が見えていなかった。

 しかし、パレスチナ自治政府に非常に深刻な欠点があるからといって、国連決議で認められたパレスチナ人の権利が失われるわけではない。1990年当時、イラクによる占領を終わらせるにはクウェートの民主化が必要だなどとは誰も考えなかったのと同じことだ。外交問題評議会の研究員ヘンリー・シーグマン氏が書いたように、たとえそれが不当だったとしても、アラファト議長がイスラエル提案を拒否したからといって、「パレスチナ人のヨルダン川西岸地域とガザ地区に対する権利という、国際社会で認められた権利が無効となるわけではない(5)」のである。

 「まる飲みするか、空手で帰るか」というのがキャンプ・デーヴィッドの提案の性格だった、とバラク首相は語った。しかし、彼はその後さらに先へ進み、自ら死守するとした「レッドライン」をひとつひとつ変更せざるを得なくなった。第二次インティファーダの圧力なしに彼が折れたとは考えにくい。国内治安機関シン・ベトのアヤロン長官(当時)も、「パレスチナ人は、暴力に訴えなければイスラエルにはわからないと理解したのだ」と述べている。PLO(パレスチナ解放機構)の側では、パレスチナ人が最低限の利益を確保できるならば、柔軟に対応する余地があるとの意向を示していた。

2001年1月@タバ

 2001年1月のタバ会合では、パレスチナ自治政府とバラク政権の間の交渉が、最も進んだ地点に達した。両者は1月27日付の最終声明で、これほど合意に近づいたことはなかったとしている。4つの主要問題(領土、エルサレム、治安、難民)について作成された文書も、主要当事者(6)の談話も、この声明を裏付けている。

 まず始めに、両者は国連安保理決議242号に従って、1967年6月4日当時の境界線を最終的な国境の基線とすること、イスラエルによって併合されたパレスチナの領土は補償されるべきことに同意した。イスラエル代表団は、ヨルダン川西岸地域の94%(7)(入植者の約20%の居住地域)を返還し、同3%相当のイスラエル領土を割譲すること、3%の「不足分」についてはヨルダン川西岸地域とガザ地区を結ぶ「安全通路」が相当するが、これはパレスチナ自治政府の統治下には置かれないことを提案した。キャンプ・デーヴィッドと違って、イスラエルはヨルダン川沿岸地区、シロ、アリエル東部、またケドゥミムやベイト・エルといった遠隔地、それに入植地モディムの北部地帯(5万人のパレスチナ人が居住)の維持を断念した。さらに、ヘブロン中心地区からの入植者の引き揚げ、キリヤット・アルバ入植地とパレスチナ領内のすべての入植地の解体を受け入れた。

 パレスチナ側は「100%」の考えに固執した。彼らは言う。「牢獄では、95%の空間は囚人のためにある。囚人房、喫茶室、体操室、看護室などだ。しかし、残りの5%は看守が囚人の監督を続けるために必要とされる(8)」。パレスチナ代表団は、ヨルダン川西岸地域の2%(入植者の約65%の居住地域)を譲り、その代わりに同等の価値のある領土(イスラエルはガザ地区の辺境にあるネゲヴ砂漠のヘルツァ砂丘を提案)を得ることに同意した。土地の明け渡しは早急に行われるとされたが、イスラエルは3年かかると主張し、パレスチナは1年半で十分だと主張した。

 エルサレムは分割せず、二つの国の共通の首都とする。キャンプ・デーヴィッド会談にも参加した左派メレツのサリド党首は次のように述べた。「われわれは、クリントン・プラン(9)の示したエルサレム分割の原則には同意した。ユダヤ人地区はわれわれのものになり、アラブ人地区はパレスチナ人のものになるということだ」。パレスチナはハラム・アッシャリーフ(神殿の丘)の主権を要求し、イスラエルは嘆きの壁を含む西壁全体の主権を要求した。国連安全保障理事国5カ国とモロッコに時限的に主権を預託するという案も含め、さまざまな提案が検討された。

 治安についても同様に意見の一致をみた。パレスチナは国家の武装制限に関して譲歩し、また一定の条件つきで、イスラエルが3カ所に警報所を設置することも容認した。国境沿いに国連軍が駐屯することも受け入れた。

 ヨルダン、シリア、レバノン、そして自治区に散らばっている370万人のパレスチナ難民の悲劇は最大の難問であり、キャンプ・デーヴィッド会談が失敗に終わって以来、数々の論争の中心問題となっていた。アラファト議長は、大挙する難民でイスラエルを埋め尽くそうとしたと見る者もいる。テレビ局フランス2のエルサレム特派員として、イスラエル=パレスチナ交渉を1999年9月から見守ってきたシャルル・アンデルランは次のように反論した(10)。「一部のプロパガンダの主張するように、パレスチナ指導部が、370万人の難民のイスラエルへの帰還まで含めた和平協定を結ぶ可能性を信じているなどという見方は、理性に対する冒涜だ。ただし、PLOがこの歴史的な要求の放棄を受け入れるのは、ヨルダン川西岸地域とガザ地区のほぼ全域を領土とし、エルサレムのアラブ人地区を首都として、存続の見込みのあるパレスチナ国家が樹立される場合に限られる。これが真相だ(11)

 タバ協議の詳細は彼の分析の正しさを示しているが、真相を語れば理解が得られるというものでもない。難民問題を担当するパレスチナのシャアス国際協力大臣とイスラエルのベイリン法務大臣(当時)は、協議に進展があったことを強調した。両者は、国連決議242号に合致した難民問題の公正な解決が、総会決議194号の実施に至るべきであることを確認した。さらに、難民問題の発生原因の分析をどのように記述するかという点でも前進をみた。こうした原則から出発して、具体的な解決策も策定された。5つの選択肢が難民に示されることになる。イスラエルへの帰還、イスラエルからパレスチナへ割譲される領土への帰還、パレスチナ国家への帰還、現在の居住地(ヨルダン、シリアなど)への定住、その他の国への移住(カナダなどいくつかの国がパレスチナ難民の大規模な受け入れを表明している)という選択肢である。

 パレスチナ指導部は、難民による選択の自由を主張しつつも、イスラエル国家のユダヤ性を問題視するつもりはないことを重ねて強調した。この点は、パレスチナ民族評議会が1988年に独立宣言を採択した時点で認知している。メレツのサリド党首が指摘するように、パレスチナ側は、「イスラエルへの難民の帰還にかかわる最終的な決定権がイスラエルの手の内にある」ことを認めたのだ。イスラエルは、5年間で4万人の難民が帰還することに同意した。これに「呼び寄せ家族」が加えられる。しかし、パレスチナ側は、10万人以下ならば話にならないと反論した。パレスチナ自治政府のアベド・ラボ文化・情報大臣によれば、この数字の決定が最後の障害となったという。

 両者はまた、レバノンのパレスチナ難民を優先することについて意見の一致をみた。彼らはレバノン政府による差別的政策のために最もひどい条件のもとに生活している。イスラエル側の文書には、次のような記述すらある。「イスラエル国家は、サブラおよびシャティラのキャンプにおける難民の窮状の迅速な解決に向けた道義的な責務を有する」

 難民に対する補償を実施するために、国際委員会と国際基金を早期に設置することも予定された。さらに、アラブ諸国を出てイスラエルに定住したユダヤ人の補償問題は、二者間の議論の対象とはしないことも了解された(12)

2001年7月@イスラエル&パレスチナ

 何故、タバでの前進を合意にまでもっていけなかったのか。双方とも、それが遅すぎたことを知っていた。イスラエル首相選の決着はすでについていた。「もしも、首相選が5月だったならば、われわれは2週間か3週間で合意にこぎつけていただろう」と、パレスチナのアベド・ラボ大臣は述べた。バラク首相は、ためらい、足踏みし、協議を中断しては再開したり、エルサレム旧市街全体の主権を要求したりといった姿勢だった。パレスチナのシャアス大臣の述懐によれば、「バラク首相は、ブルグ国会議長をはじめとする政府内の『モラリスト』から、政権維持のために国益を犠牲にしたのではないかと有権者が疑っていると圧力をかけられていた」という。確かに選挙の惨敗には、タバ協議に対する反発も働いていただろう。他方では、アベド・ラボ大臣が語るように、「われわれには正式文書を起草する時間がなかった。単なる宣言に一体どれほどの意味があるだろう。草案には何の拘束力もない」という要因があった。それに、パレスチナ市民からも譲歩を「取り付ける」必要があったが、シャロン新首相が単なる宣言に責任を感じるはずのない以上、相手側からの具体的な譲歩を示すことはできない。最後のチャンスとして、アラファト=バラク会談の設定が一時は考えられもしたが、結局のところ断念された。

 この最後の数カ月間の成果を失わなれたものとしないために、両代表団は、同席していた欧州連合(EU)のモラティノス特使に協議の結論のリストアップを依頼した(政権交代途中のアメリカは、タバに一人の代表も送らなかった)。歴史に残すという意味もあるだろうが、いずれまた、交渉の場に臨まなければならない日がやってくる。

 何故なら、さしあたり国際文民監視団という形でしか考えられないパレスチナ人の国際的な保護が、目下の最優先事項だとしても、死が死を呼ぶ連鎖を断ち切ることができるのは政治的解決だけだからだ。これこそが、7月の終わりに、双方を代表するような人々が勇気をもって主張したことだった。声明に加わったのは、パレスチナ側では、数人の大臣(アベド・ラボ文化・情報大臣、アムル議会担当大臣、ラゼク政治犯担当大臣)と知識人(ハナン・アシュラウィ、サリ・ヌセイベ、サリム・タマリ)、イスラエル側では、バラク政権時代のベイリン前法務大臣と多くの作家(アモス・オズ、A・B・イェホシュア、デーヴィッド・グロスマン)などである。

 「われわれイスラエル人とパレスチナ人は、両民族にとって最も困難な状況の中で、流血を終わらせ、占領に終止符を打ち、早急に交渉を再開し、和平を実現することを、共同で訴えます。(中略)どんなことがあったとしても、常に相手の側の人間性を信じ、われわれが和平の実現に向けたパートナーであることを信じます。両民族間の紛争を交渉によって解決することは可能です。(中略)前進のためには、国連安保理決議242号と338号の国際的な正当性と実施を受け入れなければなりません。これは、1967年当時の国境線に基づき、イスラエルとパレスチナの二つの国家がエルサレムをそれぞれの首都として共存するという解決に至るものです。未解決のすべての問題について、パレスチナ国家とイスラエル国家の主権、それぞれの市民によって定められ、パレスチナとユダヤの二つの民族それぞれの国家への希求のこめられた主権を侵すことなく、公正で長期的な解決策を見つけることは可能です」

 双方とも、もう一つの選択肢が悪夢であることを知っている。紛争が激化すれば地域に飛び火が広がることは避けられず、「彼らか、われわれか」を合い言葉とする終わりなき対決、どちらも最後には敗者となる戦争に行き着くしかないのである。

(1) ハアレツ紙のヨゼフ・アルガジーによる調査報道(クーリエ・インターナショナル紙2001年5月17日付に転載)、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙(パリ)2001年8月20日付。
(2) パレスチナ側とは異なり、イスラエルの代表団はキャンプ・デーヴィッド会談の期間中、一連の「リーク」を組織的に行い、続けて会談内容の唯一の公式バージョンを提供した。こちらの公式バージョンが、そのままイスラエル、次いで西側諸国のメディアに掲載された(See Aluf Benn, << The Selling of a Summit >>, Haaretz, 26 July 2001)。非常に詳細で、寛大な提案という見方よりも事実に近いように思われる文書の形で、パレスチナ側のバージョンが提示されたのは、会談から1年後のことであった(See Akiva Eldar, << What went wrong at Camp David ; the official PLO Version >>, Haaretz, 24 July 2001)。
(3) Palestine Report, 1 February 2001(Jmcc.org
(4) パレスチナ人からの最も厳しい批判は、在英の知識人イェジド・セイグ氏による。彼は1991年10月にマドリッドで始まった和平交渉に臨むパレスチナ代表団に数回にわたり助言を与えた経験がある。See << Arafat and the Anatomy of a Revolt >>, Survival, The International Institute for Strategic Studies, London, vol.43, no.3, autumn 2001.
(5) << Middle East Conflict : Seek Palestinian Confidence in What ? >>, International Herald Tribune, Paris, 17 July 2001.
(6) 代表団長はそれぞれ、パレスチナ評議会のアブ・アラ議長、イスラエルのシュロモ・ベン・アミ外相である。パレスチナ代表団のメンバーは、ナビル・シャアス、サエブ・アリカット、ヤセル・アベド・ラボ、ハッサン・アスフール、モハンマド・ダハラン。イスラエル代表団のメンバーは、ヨッシ・ベイリン、アムノン・リプキン・シャハク、ギラド・シェール、イスラエル・ハッスン、ヨッシ・サリド。
(7) この比率には議論の余地がある。そこには、東エルサレムの72キロ平方メートル(ヨルダン川西岸地域の1.3%に相当)は含まれないし、ヨルダン川西岸地域の1.8%に相当するイスラエルが併合した非武装地帯(とりわけラトルン周辺)も含まれない。
(8) << What went wrong ... >>, op.cit.
(9) 「クリントン・プラン」とは、イスラエル・パレスチナの主要問題について、前米国大統領が2000年12月23日に示した提案を継承したもの。ル・モンド・ディプロマティークのウェブサイトの中東問題の項(http://www.monde-diplomatique.fr/cahier/proche-orient/)にあるテキストを参照。
(10) 2001年末以前には公開しないという条件で、彼は交渉に立ち会ったすべての当事者の証言を集めて記録した。
(11) リベラシオン紙2001年2月26日付。
(12) エジプトとの和平協定では、イスラエルはこの問題について全く触れなかった。

(2001年9月号)

All rights reserved, 2001, Le Monde diplomatique + Ando Rikako + Kitaura Haruka + Saito Kagumi


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パレスチナ難民に関するイスラエルの提案

2001年1月23日

「ノンペーパー」

パレスチナ難民に関する2001年1月22日付の文書への非公式回答(1)

    難民問題解決の重要性に同意

  1. パレスチナ難民問題はイスラエル=パレスチナ関係の中心的問題である。その包括的かつ公正な解決は、長期的かつ良心的な和平の構築にとって重要である。

    経緯

  2. イスラエル国家は、パレスチナ難民の悲劇、その苦痛と損失に対して厳粛に悲嘆の意を表明する。そして、この53年前に始まった悲劇の幕を閉じ、パレスチナ難民問題の公正かつ包括的な解決の実現に応分の貢献をするパートナーとなろう。

  3. パレスチナ難民の地位の創出に直接または間接の責任を有する全ての当事者、ならびに公正かつ長期的な地域和平を絶対的要請とする全ての者は、1948年のパレスチナ難民問題の解決に貢献する責任を負う。

  4. 建国途上のイスラエル国家は、1947年11月の国連総会決議181号を受け入れたにもかかわらず、1948-49年の戦争と流血の惨事に引き込まれた。これは、難民と化したパレスチナ民間人の強制移住と財産収奪を含め、双方に犠牲と苦痛をもたらした。以来数十年にわたり、これらの難民は尊厳、市民権、財産を失った状態に置かれている。

  5. したがって、難民問題の解決は、1948-49年の戦争以降の現実を考慮に入れつつ、難民の必要と希求に対処したものでなければならない。すなわち、帰還の希望を実行に移すに当たっては、ユダヤ民族の母国たるイスラエル国家の存在およびパレスチナ民族の母国たるパレスチナ国家の創設との両立を図らなければならない。

    根拠

  6. 国連安保理決議242号に合致した難民問題の公正な解決は、国連総会決議194号の実施に至るべきである(パレスチナ側の立場)。

    帰還、帰国、移住

  7. 1948年以来、パレスチナ人の希求は、国際法を根拠とする「帰還権」および独立パレスチナ国家の創設という二つの原則に集約されてきた。本合意に認めるパレスチナ民族の希求の実現は、彼らの帰還を定め、難民の将来の福祉と安寧を保障した国連総会決議194号に基づき、難民問題の全側面に対処しつつ、パレスチナ人の自決権行使およびパレスチナ難民にとっての包括的かつ公正な解決を含むものである。

  8. 帰還、帰国、移住に関しては、難民各人は以下のプログラムのいずれかを申請することができる。これにより、国連総会決議194号の関連条項が履行される。

    1. イスラエルへ:合意された××人(2)の難民に限り、また現在レバノンに居住するパレスチナ難民を優先する。イスラエル国家は、サブラおよびシャティラのキャンプにおける難民の窮状の迅速な解決に向けた道義的な責務を有する。

    2. イスラエルの交換領土へ:この目的に向けてイスラエル国家の主権地域内に難民を受け入れるための社会基盤が整備され、開発プログラム全体の枠組みの中でパレスチナ主権の下へ移管される。

    3. パレスチナ国家へ:パレスチナ難民は、パレスチナ民族の母国たるパレスチナ国家へ、その主権の下にある法律と法制度に従って制約なしに帰還することができる。

    4. 現行の受け入れ国における権利回復:これが選択された場合、権利回復は即時かつ完全に行われるものとする。

    5. 第三国への移住:パレスチナ難民受け入れの意思を表明する第三国への自発的な移住。

    難民の定義

  9. パレスチナ側の立場を示すパレスチナ文書第6条を参照。

    補償および権利回復

  10. 難民各人は第××条に詳述する補償プログラムおよび権利回復のための援助を申請することができる。この目的に向けて国際委員会および国際基金が創設され(下記第××条)、請求の受理および確認、資源の割当および分配を含めた難民問題の全面的解決の実現につき完全かつ排他的な責任を負う。これらは以下の原則に従って進められるものとする。

    1. これらのプログラムは、強制移住(パレスチナ側の立場によれば精神的苦痛)および物質的損失への金銭および現物による補償、ならびに関連コミュニティの経済成長に配慮しなければならない。これらのプログラムの策定は、個人に対する歴史的な正義およびコミュニティの経済発展という二つの目的によって導かれなければならない。

    2. 補償プログラムは二つの基準に従って、すなわち個人別に、また請求の性質に即して講じられる。前者は早期処理に付され(下記第××条に詳述)、国際委員会および基金の適切な部門が編纂する財産請求台帳の最終完成版に従って管理される。

    3. 権利回復のための援助および補償プログラムは、対象となる個人ならびに彼らが居住または移住するコミュニティおよび社会の経済的発展および社会的回復を促進する努力の一環を成し、したがって種々の援助の選択肢ないし選択肢群を含むものとする。

    4. 受け入れ諸国への補償に関しては下記第××条に従う。

    5. 国際社会およびイスラエル国家は、各々につき合意された上限の枠内において国際基金の主たる出資者となる。イスラエルの撤退後にパレスチナ国家内に残存するイスラエルの固定資産は、××ドル相当額の資産として国際基金に移管され、総額××ドルの出資の一部を成すこととする。

    受け入れ諸国

  11. 難民受け入れ諸国は、難民受け入れに際して負担した多大な費用に対する補償金を受領する。将来の権利回復の費用および投資に関しては、本合意の詳細条件に従って受け入れ国および国際委員会の二者間取り決めを通じて対処する。

    国際委員会

  12. 国際委員会はパレスチナ国家、受け入れ諸国、イスラエルならびに国際連合、世界銀行、欧州連合およびG8その他の関連国際機関を含む国際社会の成員により構成する。国際委員会は難民問題の全面的解決の実現につき完全かつ排他的な責任を負う。国際委員会の任務、組織、運営方式に関しては本合意に詳述する。

    国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)

  13. UNRWAの段階的完了は当事者の同意した日程表に従って行われ、その期間は5年を超えないこととする。UNRWAの業務範囲は本合意の実施の進展に従って適宜変更する(第一段階には、UNRWAの行政業務および職能の受け入れ国政府への移管、関連職能の国際委員会への移管の方式、ならびにパレスチナ難民キャンプの地位の停止を含める−パレスチナ側より新文書を提示)。

    レバノン難民の優先

  14. 上記プログラムにおいてはレバノン在住のパレスチナ難民を優先する。

    元ユダヤ難民

  15. アラブ諸国からの元ユダヤ難民への補償問題はイスラエル=パレスチナ二者間合意の一環ではないが、両当事者はその苦痛と損失の認識の上に立ち、この問題の公正かつ公平な解決を追求すべく協力することを誓約する。

    請求の決着

  16. 両当事者は以上が1948年12月11日の国連総会決議194号第11条の完全かつ最終的な実施であることに同意し、以上に詳述された通り合意されたプログラムおよび措置の実施をもって、パレスチナ難民問題の全側面を網羅した完全、最終的かつ撤回不能な解決と見なす。この問題に関する追加の請求ないし要求は、いずれの当事者も行わない。これらの条文の実施により、以降パレスチナ難民の地位を認定される個人が現れることはない。

    (1) フランス編集部註:パレスチナ側の文書、および本文書の英語原文は、ル・モンド・ディプロマティークのウェブサイト ル・モンド・ディプロマティークのウェブサイトに掲載。
    (2) フランス編集部註:原文も「××」のまま。文書には数字が示されていない。

[訳・斎藤かぐみ]

(2001年9月号)

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