「人類は一つ」は夢か悪夢か

ドニ・デュクロ(Denis Duclos)
社会学者、パリ国立学術研究センター研究部長

訳・北浦春香

line
 「普遍性」とは、人類すべてに共通することをいう。それは地球を覆い、すべての人間に関わってくる。現在の経済のグローバリゼーションは、普遍性を追求する新たな構想として立ちあらわれている。そして、直接的に、また間接的に、世界の統一へと向かおうとする。普遍性は人間性の砦とされ、帝国主義のような不幸な歪曲が次から次へと行われたにもかかわらず、ふつうは肯定的な価値であるとみなされている。普遍性を追求する構想は常に争いを生む。様々な特色やアイデンティティーを破壊しようとするものだと糾弾され、激しい反発を呼び起こす。普遍性は眩惑に満ち、と同時に堪えがたい、一つの理想のように思われる。人間社会はこれに対して大胆に前進したかと思えば恐れをなして後退する。グローバリゼーションの時代に、統一された世界で、テラ・インコグニータ(未知なる大地)も外敵もなく生きること。その考えは魅力的であるだけに反感を呼び覚ましているのではないだろうか。[訳出]

line

 普遍性なるものが今や現実となるかもしれないという見通しは、私たちを魅了すると同時に戦慄させる。それは人間にとって、他者性の抹殺であり、根源的な自己愛の成就に他ならないが、そこでは不安もまた最高潮に達する(1)。「他者」を抹殺した世界において、自分とはいったい何者か。同一の権利を持つ似通った存在として互いの連帯を深めつつ、沈黙した宇宙に孤独に向かい合うしかないならば、それから人間はどうなっていくのか。

 地球上に子午線が引かれる以前から、船乗りや宣教師は、赤道の向こうで見つけた「野蛮人」と自分たちの間には根本的な違いがあるという虚構の崩壊を恐れていた。この虚構は、強力な意志をもって維持されなければならなかった。しかし、数十年もすると、野蛮人にも魂があることを認めざるを得なくなった。そして、奴隷制擁護の最後の嵐が去ってから300年足らずを経た現在、もはや「優越人種」と「原住民」とを公然と区別することはできない。人類学の寄与もあり、人間社会を「高度な文化」と「原始的な集団」とに分類することも問題視されるようになった。『リトル・セネガル』という美しい映画(2)を見ると、文明と野蛮というものが、私たちの考えるように文明は西洋に、野蛮はアフリカにあるのではなく、その逆こそ正しいのかもしれないと思えてくるだろう。

 もちろん、主人の座にある社会の側は、南側諸国の保護者を気取ったり、医薬品の流通を制限したりといった支配を通じて、違いを保ち続けている。だが、こうしたやり方の妥当性もあやしくなっている。つまり、劣位にある者、弱者、第三世界、第四世界のような「他者」は、移民という道を経るかどうかにかかわらず、「自己」となり「同類」となろうとしているからだ。普遍性とは、すべての人間が分かち持つアイデンティティーであって、さもなければ、そもそもの定義に反する。

 普遍性の潮流が勢いを増すなかで、不平等な分割に基づいたモデルはますます役に立たなくなってきた。そこで考え出されたのが、様々な人々を水平に、ほぼ同じ「文明度」を持った集団として区別するという方法である。これらの集団は、ゲルマン的な「文化」に属するかフランス的な「啓蒙思想」に属するかといった微細な記号や、「市場の独裁」を採るか「国家の独裁」を採るかといった微妙な見解の差違によって区分される。それぞれが似通っているだけに、私たちは必死になって互いにしのぎを削ってきた。

 ここでもまた、「戦略的競争」を定着させようとする私たちの試みよりも、歴史を動かす思想の方が、先へ先へと展開していった。それぞれが、すべての他者をさしおいて自分だけが体現していると標榜していた普遍性は、着々と前進を続け、私たちのもくろみを覆したのだ。かつて帝国主義的、イギリス的で片付けられた普遍性は、今度は資本主義的、アメリカ的なものとして現れている。インターネットに収束し、アメリカの商業・軍事スパイ活動を通じてコントロールされていると思いきや、普遍性はフリーソフトやネットワークの形で噴出し、その中心がどこにあるのか見極めることさえ難しい。「唯一の世界大国」のリーダーシップによって封じ込めようとしても、普遍性は既に世界社会の構築という方向へすすんでおり、産業や金融の無秩序が世界中で引き起こす危機、混乱、被害に対処できる唯一の組織と目されている。

 つまり、普遍性が(身体、経済、科学、コミュニケーション、政治の領域で)現実のものとなっていくに従って、その細分化や、権力の分割、文化の対立に訴えて普遍性を飼い慣らそうとする従来の手法は、不適切で不穏当であるばかりか、ついには無意味になろうとしているように思われる。地球を覆う皮のように、単一の世界が編成されようとしている。「アイデンティティーへの閉塞」に対する倫理的な非難は、一段と高まりつつあるだけでなく、今や国際刑事裁判所という司法機関と国連部隊という警察機関を手に、グローバルなポリス(都市国家)という理想に向けて(まだ手段が不十分であると認めつつも)突きすすもうとしている。

 しかしながら、私たちの仮説が真実を反映しているとすれば、「大いなる全体」に取り込まれてしまうことへの不安がいずれ爆発するに違いない。「他者」が「自己」に吸収されることへの困惑は増大していくだろう。刻々と現実味を増す、すばらしくも息苦しい、人類の統一を押しとどめるために、私たちはまだ何らかの手段を考え出すことができるだろうか。

技術という媒介

 人類を普遍志向のヒューマニスト十字軍とアイデンティティー重視の反動主義者とに分けるというのが、一つの解決策として浮上してくるかもしれない。しかし、そこには矛盾がある。つまり、統一の名のもとに分割を行い、「すべて」の名のもとに、そこに含まれるはずの少数派に烙印を押すことになってしまう。さらに、外部の敵に代わって内部の犯罪者を設けることになるから、共通の理想に異議を唱える者はみな犯罪者とされ、唯一の秩序に刃向かう者は共通の法を侵したとみなされるようになりかねない。

 この点は、統一の理想に対する敵との戦いに燃える善意の活動家たち(人道団体、国際行政官僚、来るべき世界国家のエリート予備軍)には、きちんと意識されていない。とはいえ、これが、普遍性の前進に対して恐怖に駆られた反発を呼び起こし、現代に特徴的な様々な紛争を引き起こしている。

 普遍性の呼び覚ます危惧と眩惑は、現代では大きくいって二つの形を取り、二つは互いに結び付いている。一つは、私たちの身体が、その活動やいずれ生命までも技術によって整然と管理しようとする合理的思考に飲み込まれてしまうのではないか、という危惧である。もう一つは、前もって定めた基準によって、子どもたちやずっと先の子孫たちの将来を限定したいという願望と、それに対する危惧である。ここにもやはり、普遍性の両面性が表れている。

 まさに溢れ出した問題をあげるならば、気候変動の恐れが慢性化し、居住地の広範な水没が現実味を帯びるようになっている。ただし、温室効果の事実についての科学的な確証(何らかの証拠が出されたとしても、それを扱う気候変動モデルに内在する制約がどうしても壁となる)と、今度は地球規模で起こる新たなノアの大洪水という想像とを混同してはならない。ここに浮かび上がってくるのは、居住地水没による人類分断の地図である。未来における(経済的な比喩ではなく、物理的な意味での)「興隆国」が技術を駆使して環境変動に適応するのに対し、他の国々は文字どおり沈没してしまうだろう。

 狂牛病に口蹄疫など、次々に発生した家畜の疫病による食品パニックから読み取れるのは、自らの力に押し流されるようになってしまった人間の活動が、広域感染を引き起こしたということだ。これに対して家畜を何十万頭も殺し、焼却する措置が採られたことで、集団処理技術に対する人々の危惧は強まった。さらに、世界を「清潔国」と「汚染国」とに分け、アメリカと(ボイコットにあった)ヨーロッパとを区別しようとする動きも起きている。しかし、こうした敵対的な操作を重ねたところで、人心不安がおさまるわけではない。不安の原因は、生産性の追求よりも産業システムの媒介機能に求められるからだ。それは、まさに普遍性が物質的な形を取ったものに他ならない。こうして生み出された媒介機能によって、感染が規模を拡大しながら繰り返される。そして、通常なら種の障壁のようなある種の「障壁」の秩序に従った自然界に、掟破りを持ち込むのだ。

 世界は一つという思想の担い手を自認する専門家たちは、技術を媒介とする普遍化の潮流について、いっそう強い罪悪感を持っている。最初にパニックを示したのも、一般市民ではなく(彼らは警告を耳にして、しぶしぶ消費量を減らしただけだ)、普遍性の実践に励む人々、つまりジャーナリスト、内外の政治家、官僚、法律家、科学者、技術者などだった。進歩の担い手を自負する教養階級こそ、自分たちが「引き金を引いた」と考えられる事態を前にして、内心では最も慄然としていたのだった。

大人と子ども、現在と未来

 普遍性に対する恐いもの見たさといった感情の時間的な側面、つまり、ありうべき未来を、現在のグローバル思考にたぐり寄せてしまう態度についても同じことがいえる。現在の大人たちが、インファンス(語らぬものという意味での子どもたち)の未来はもとより、まだこの世に生まれていない(人間、あるいは人間以外の)命あるものの未来までも、科学によって決定してしまってよいのだろうか。現在の文化と知識の発展のただ中にある人類そのものを体現する全能の大人が、不確実な未来を自分の基準に引き寄せることが許されるのだろうか。

 こうした気の遠くなるような疑問をめぐり、人々の危惧は主に二通りの形で表れている。第一に、人間や動植物の遺伝子操作に関する現在の選択に基づいて、未来世代の行く末を方向付けてしまうことになるという非難である。第二に、大人の論理で快楽を押し付けるのは、人間にとって「子どもの破壊」につながるという非難である。

 もちろん、生物の遺伝子操作に対する懸念と、現代人の放埒な性行動についての懸念とは、別の分野に属する。しかし、両者の根底に、将来を現在の枠に閉じ込めようとする同じ傾向があることは十分に感じ取れる。私たちの社会に蔓延するヒステリックな憤懣は、大人と子ども、現在と未来という二重の接合を息苦しいものと受け止めているようだ。こうした風潮の責任が、現代社会における人間関係全般の教育指導化傾向よりも、悪者に仕立てられた個人(例えば小児偏愛者)になすりつけられているのは事実である。こうしたすりかえが行われるのも道理だといえる。自分たちの社会自体が奇怪であると認めるよりも、「怪物」を非難する方が簡単だからだ。

 小児偏愛者への過度の恐怖は(幼児殺害や生活上の横暴、虐待にはここでは触れないが)、次のように説明がつく。典型的な倒錯者はこの際、引き合いに出されているだけであって、恐怖の本当の原因は別のところにある。集団操作によって「ひどい目」にあっているのは、子どもだけではない。メディアから御託を並べられ、教育を叫ぶ声に取り囲まれ、大衆規模の俸給・消費生活に従属させられるあまり、幼児化され、犠牲者となった人類そのものもまた、「ひどい目」にあっているのだ。

 例えば、一躍有名になったテレビ番組『ロフト・ストーリー』(3)で、メディアの技術のもと現実化されたのは、親の役を割り振られた視聴者と、かりそめの私生活を映し出す画面でセックスをする若者との間で交わされる近親相姦の幻想であった。番組をスキャンダル視する反発の根底にある危惧は、権力(この場合は中央集権化したメディア)が私生活の虚構を操り、予定に従った快楽や、その強制的な代価を押し付ける(椅子取りゲームや行動実験といった手法による競争相手の排除を、社会の機能モデルとして提示する)力を持つところに向けられている。

 生活の最もプライベートな部分を公然たる映像として観察することに、私たちは眩惑されつつ身をこわばらせる。この番組は、世代間の基準の違いを想像の中ですり合わせようとするものだ。それを見て私たちがショックや怒りを感じるのは、行き過ぎた個人の自由や「自己の所有権」を目にするからではない。全く逆に、一つに溶け合うという集団の理想と、それを個々人に強制する手段とが、おそろしいほど進歩をとげているのを目にするからなのだ。

 普遍性の要請に抵抗する声に耳を澄ませることは、危惧とともに漏れてくる声なき金言を聴くことに他ならない。「様々な生物の種は、一つの大きな全体の中にくくれるものではない」。あるいは、「今生きている世代とこれから生まれる世代とを同一に考えるわけにはいかない」。こうした金言が神経症患者の口から出るのに耳を傾ければ、社会の精神状態の変化がかなりよく理解できるようになる。そう考えると、環境汚染問題が取り上げられ、環境に対する関心が高まっていること、これまで関心を寄せず、罪悪感を生み出す奇妙なメカニズムがなければ今後もずっと変わらなかったかもしれない人々が関心を持つようになったことは、普遍主義に対する無意識の反発と無縁ではないだろう。また、eエコノミーが景気後退に陥ると見るや、バーチャルな世界で普遍主義の実践に努める人々(第一にアメリカの情報技術者やインターネット利用者自身)が、生身の現実を生きる人間の「本当の生活」を棚上げにした「何でもインターネット」という風潮や全世界的コミュニケーションの理想に対し、不信感を示し、一線を画すような態度に転じたことも、同様に分かりやすくなるだろう。

帝国の夢想

 だからといって、普遍性を拒否する、退行的で危険な態度に舞い戻ることを容認すべきだろうか。現在見受けられる普遍主義に対する抵抗のうちに、様々な方向性を見分けなければならない。というのも、かつて不況(1880年、1929年など)に伴って現在と似たような後退傾向が起きたときに見られたのは、理性に立ち戻ることではなかったからだ。人々は多少の逡巡ののち、猛り狂ったように突き動かされ、普遍主義への固執、あるいは普遍性のやみくもな否定への回帰といった方向へ、なだれを打って流されていったのだ。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領の電子メール嫌いは、メディアの手から大統領のプライバシーを守ろうとする、同情に値する反応のように思われるかもしれない。しかし、実際には旧套墨守の図式にあてはめられるものでしかない。そこでは、普遍性の展望に対する後退的な姿勢は、主人たる地位を重ねて主張するために取られているのだ。女性の中絶権への公然たる反対や、超大国は地球環境を汚す権利があるといった主張も、同じ図式の一部をなしている。彼の唱える「孤立主義」は、裏返せば、南北アメリカにおける自国の大きな権益の確保に今や直接関与しようとする政策に結び付いている。欧州連合(EU)の不平等版である米州自由貿易地帯(FTAA)の創出を目指したケベック首脳会議でも、そうした姿勢が明らかに見て取れた(4)

 ブッシュ大統領が「包囲されたアメリカ要塞」理論を唱え、ミサイル防衛構想への莫大な支出を正当化しようとするのも、普遍性拒否の病的な想像に舞い戻った「ザルドス・コンプレックス」の兆候といえる。イギリス人監督ジョン・ブアマンの映画(5)は示唆に富んでいる。「スター・ウォーズ」が話題になるよりもずっと前に、この映画は未来の地球を描き出した。クローン技術によって不死身となったアングロサクソン人エリートは楽園に閉じこもり、レーザー光線システムによって貧困と恐怖のうちにとどめられた外界から守られている。そこでブアマンが示した最もスキャンダラスな教訓は、この硬直化したエリート層の夢がただ一つ、死に至ることであり、未来を他人のために解放することだったという点にある。

 現実の世界の多極性と文化的多様性により、もはや唯一の覇権国という構図は完全に凌駕されたという意味で、ブアマン映画の示した1970年代の不安は今や過去のものとなったといえる。とはいえ、帝国の夢想が今なお懐古主義者の脳裏で育まれることがないとはいえない。反動主義的な世界の戦略的再分割は、市場原理に動かされる世界社会への固執と必ずしも相反するものでないだけに、その懸念は大きい。

 歴史家エリック・J・ホブズボームは、ベルエポック時代の超リベラルで世界主義的な資本主義によって促進された国内大衆市場の創出が、その後20世紀全般にわたって、諸国の市民間の博愛精神と敵対的な排外感情を、表裏一体のものとして強化していったことを指摘している。こうした1902年の国際環境についてのホブズボームの記述、「保護主義は国際的な経済競争の状況を表わしていた(6)」との指摘は、今日もなお別の意味で有効である。資金を動かす勢力は、世界貿易の完全な自由を求めつつも、その一方で自国の属する大陸の市場と、競争相手を退ける特権とを大いに重視している(ボーイングとエアバスの戦い、アメリカの大豆や文化関連商品の購入義務付けといった事例を見よ)。ユーロと円とドルの綱引きも、それだけで通貨のメガ・ナショナリズムや地域主義を助長しており、敵意昂進の温床となりかねない(ヨーロッパを経済的危険と捉えるアメリカ世論や、ドルの発行によるアメリカの大規模な借金に爆発する怒りを考えよ)。

 貧しい国々の資源を列強が分割するという古典的な手法についても同じことがいえる。西洋の多国籍企業が力まかせに第三世界の企業を買収する場合にも、やはりホブズボームが19世紀植民地主義の主目的について記していることがあてはまるのではないか。「帝国主義は社会改革に必要な費用を支弁することができる(中略)と考えられていた(7)」。その点は、18世紀に用いられた手法にまでさかのぼることができる。イギリス、フランス、オランダ、ポルトガル(8)各国の「インド会社」は、書類の上では私企業であったが、進出先の資源を手中に収めつつも、現地政府の直接経費を負担することはなかったのである。

二つの岩礁の間をすすんでいくこと

 あまたの第三世界化された国々の収入源となっている現代の「インド会社」が、証言台に引き出されたエルフ石油会社だけではないのは明らかだ。実際にも、世界的な大企業のほとんどが、現地エリートに金銭的便宜を提供している。こうして現地エリートが蓄えた金は、北側諸国で運用されることになる。その一方で、社会的価値を持つ財貨を手に入れることのできない人々は、低賃金労働を供給し続ける。

 こうした領域で普遍化が進展するのは紛れもなく喜ばしいことだ。例えば、南アフリカにおける類似医薬品の生産を認めるという製薬各社の決定は、先進国をも含めた保健分野の世界市場を抜本的に再編することになるだろう。

 反対に、労働の二元化に対する(業種や地域ごとに組織されるのを常とする)抵抗運動(9)を反動的だと決めつけることができるだろうか。アメリカには本社や研究所のような知的で高尚な機能が集約されるのに対し、その他の国々に残された道は、管理職階級の流出による文化レベルの低下でしかない。また、企業の労働慣行に対する反旗は嘆かわしいものなのだろうか。ここ数十年の間、「コスト・キリング」、海外移転、大規模な解雇、「フレキシビリティー」といった慣行は、給与所得者を苦しめるばかりで、企業の安定にどれほど役に立つのかは実証されることがなかった。

 資金流通の論理への固執に対する歯止めは、公共性の高い分野の場合も含めて、「時代に逆行する」として非難されるべきだろうか。カリフォルニア州政府が、株主の資金提供拒否によってたちゆかなくなった電力会社を「再公有化」した例を考えれば、ヨーロッパの電力各社は、仁義なき価格競争に打って出ないのが賢明だと思われる。価格競争に突入すれば、電力価格の引き下げという大義名分のもと、長期的視点に立った研究をはじめとして、品質や安全性が軽視されてしまうだろう。企業が(手のひらを返したように経営者側の信条に転向した共産系・社民系の労組の合意を得て)グローバリゼーションという理想のもとに「帝国主義的」方針を取り続け、これまで50年以上にわたって一般市民の金と信頼によって築き上げてきた設備を崩壊に至らしめるならば、フランスでもおそらく10年も経たないうちに、初の電力不足が起こることになるだろう。

 要するに、本質的に普遍主義の善し悪しなどないのだ。同様に、それに対する抵抗の善し悪しもない。確かに、金銭を経済の媒体として拙速に単一への融合を目指そうとする動きには狂奔めいたものがあるし、同様に、攻撃的で分離主義的なアイデンティティーへの膠着には不健全なものがある。最も難しいのは、危惧と熱狂という、互いに結び付きやすい二つの岩礁の間をすすんでいくことだ。

 突き詰めれば、普遍性というものに立ち向かう際の困難は、取り除くべき障害としてではなく、私たちが人間として生きることに否応なくつきまとう不変の条件として捉えたうえで、議論をすすめていくべきだろう。普遍性は、今後も強い眩惑と反感の対象であり続けるだろう。それを渾身の力をふりしぼって拒否しようとする徴候は、否定するよりもなだめ、ときには人間の生存条件として容認すべきである。こうした認識に立つことが必要なのだ。

 いずれにせよ、私たちが「普遍性」とどのように関わっていくかという問題は、おそらく永遠に両義的で矛盾をはらんだものであることを自覚しなくてはならない。普遍性に一歩近付くたびに、多様性や差違の問題が、さらに大きく立ちはだかってくる。たとえ、こうしたことが私たちの無意識のうちから、抑えようもない反発の表れとして噴き出しているにすぎないにしても。

(1) フランソワーズ・シローニ「普遍性は拷問か?」(新民族心理学雑誌34号、グルノーブル、1997年)
(2) ラシド・ブシャレブ監督作品、2001年4月。
(3) 男女の若者がロフトで生活する様子を映し出し、視聴者と出演者の投票によって順番に一人ずつ落選させたのち、最後に残ったカップルが一定期間もてば豪邸を獲得するというフランスのテレビ番組。高視聴率を記録するとともに、社会的な議論を呼んだ。[訳註]
(4) ドルヴァル・ブリュネル「米州自由貿易地域への反対運動」(ル・モンド・ディプロマティーク2001年4月号)を参照。
(5) 『未来惑星ザルドス』(1974年、ショーン・コネリー主演)
(6) エリック・J・ホブズボーム『帝国の時代 1』(みすず書房、東京、1993年)61ページ。
(7) 同上書148ページ。
(8) ポルトガルのアジア貿易はほぼ王室の独占であったが、新興諸国に遅れて特恵会社が発足、ただし失敗に終わっている。[訳註]
(9) ジャック・キャプドヴィエル『コーポラティズムの近代性』(シアンスポ出版、パリ、2001年)


(2001年8月号)

All rights reserved, 2001, Le Monde diplomatique + Kitaura Haruka + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)