ブラバントの完全犯罪

セルジョ・カロッツォ(Sergio Carrozzo)
ジャーナリスト、ブリュッセル在住

訳・瀬尾じゅん

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 今から20年ほど前、ブラバントの「殺人鬼」によって、混乱と死がワロン地域を襲った。そして彼らは忽然と消え去った。28人の死者を出した残虐行為は迷宮に入り込んだ。彼らの正体についても動機についても、まったく手がかりがない。手慣れたギャングの仕事なのか。テロリストによる指令の実行なのか。いずれにせよ、ベルギー中がパニックに陥った。いったい、どんな陰険な思惑があったのか。今日に至るまで、真相は謎に包まれている。異例の捜査態勢がとられ、国会では2回にわたって調査委員会が組織され、被害者の遺族からはしきりと圧力がかけられているにもかかわらず、謎は何も解けていない。[訳出]

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 1980年代初頭、フランス、ドイツ、イタリアでは政治が嵐の季節を迎えていた。その一方ベルギーでは、かねてからのフランス語圏とフラマン語圏の対立は別として、日々は平穏に過ぎていた。しかし、ミッシェル・ド・ゲルドロードが表現したように(1)、その窓辺から死神は密かに、そして執拗に、こちらを窺っていたのである。

 右派単独政権の登場に伴って(2)、「平穏な王国」というベルギーのイメージにひびが入り始めた。極右が左派系週刊誌「プール」の事務所に放火し、NATO(北大西洋条約機構)の極秘テレックスがネオナチ武装軍団ウェストランド・ニュー・ポスト(WNP)の活動家の手に渡り(3)、憲兵隊が爆弾テロの標的にされた。そして82年8月14日、ベルギー国境近くのフランスの町モブージュで、食料品店が強盗に襲われるという事件が起こった。

 三面記事によくある事件と思いきや、さにあらず。「殺人鬼」が舞台に登場したのである。すでにこの事件に彼らの特徴が現れている。襲撃の戦利品はごくわずか、駆けつけた警察を避けることなく迎え撃つ。そして銃撃戦で優勢に立つ、というパターンである。

 これに続き、彼らは自動車、銃器販売店、レストラン、スーパーマーケットなどの襲撃と強盗を重ね、合わせて10人前後を殺害した。捜査当局は、個々の事件の物理的・心理的な関連や、足取りのつかめない犯罪者の特異な行動を量りかねた。85年の秋になると、スーパーマーケット「デレーズ」の大型店舗3店が続けざまに襲われた。16人も殺されたというのに、奪われたのはわずかな現金と数キロのコーヒーのみ。筆舌に尽くしがたい恐怖のいえぬ様子で、目撃者は事件の地獄絵を語る。覆面をした3人の男が、少しでも動いた者は大人も子供も片っ端から銃で撃ち、レジから現金を奪った。そして、そのまま踵を返して、追跡する警官を巻いて逃走した。

 85年11月9日にアールストで起こった殺人事件を最後に、このスティーヴン・キングの小説から抜け出してきたかのような正体不明の殺人鬼の消息はぷっつり途絶えた。そして後には、28人の遺体と、生涯にわたる恐怖を負った生存者、うちひしがれた遺族、茫然自失の市民、戒厳令状態の国が残された。政府は市街に特殊部隊要員を送り込んだ。

 以来、この凶悪な殺人者の特定は進まず、その動機もまるでつかめない。彼らは足がつきそうな全ての証拠を消し去りつつも、わずかな手がかり(薬莢)をあちこちに残しており、犯行に使われた車や武器を元に、22の凶悪事件が彼らの犯行と推定されるに至った。こうした関連づけや、採取された指紋の断片、事件後かなり経ってから作成されたモンタージュ写真といった実体的な捜査もさることながら、ある一つの疑問が、様々な仮説と推測につきまとい続けていた。これは強盗団の仕業なのか、テロリストの仕業なのか?

ユーロミサイル論争の時代

 15年ほど前から彼らを追っていて、現在はワロン・ブラバント州特別捜査室(4)に所属する捜査官は、匿名を条件に、自分としては大強盗団による犯行という線に傾いていると語る。「当時の犯罪と比べ、犯人たちは20年は先を行っていた。彼らが処罰を逃れていられるのは、時代遅れの旧弊な司法の文化と制度のせいだ。彼らがあれほど残忍だったのは、究極の実利主義の表れで、邪魔者は消せというモットーをを地でいったわけさ」と彼は言う。犯行に使われたライオット・ガン、短機関銃その他の拳銃についても、同様の配慮が払われている。これらの銃は、犯行より以前にも以後にも使われた形跡がないのだ。裏社会を当たっても、それらしい人物は見つからない。四方八方で聞き込みをしても、その筋からは情報が得られなかった。捜査官によると、これもまた事件の異常性を示している。「一連の事件は、まずフランスで始まった。犯人は外国からやって来て、こっちで新しい手口を使ってみようとしたとのではないだろうか。 武器に関する知識の高さからすると、軍隊か傭兵部隊にいたということも考えられる」という。

 この解釈はなかなか妥当性があるように思われるが、そうではなくて「戦争の犬」と呼ばれる輩が社会不安を煽ろうとしたものだとの仮説が、捜査当局に近い筋から出されている。彼らにとって当時のベルギーはヨーロッパの弱点とみなされており、ユーロミサイルの設置に反対する国民的な運動がとんでもないと反感をかったのだという。そのために、社会をパニックに陥れようとしたという説である。国内の緊張を煽って真っ二つに引き裂くというイタリアに用いられた戦略(5)が、ベルギーでも遂行されたのだと考える者もいる。

 「殺人犯は極右だ。アメリカとNATOの情報部も関与した可能性がある。犯人の攻撃の仕方はあまりにもコマンド作戦に似ている。それに、NATOの連繋や共謀がなければ、あのような真似は無理だ。ベルギーがイタリアの二の舞を踏まずにすんだはずがあるだろうか。アメリカは自分の利益が脅かされそうになると、秩序回復を図ろうとするものだ。私から見れば、あんなことが起こったのは、国内の緊張を煽る戦略だったとしか思えない」と、被害者の附帯私訴を手がけるミッシェル・グランドルジュ弁護士は論ずる。

 事件の時期を考えてみると、なるほどと思えてくる。「殺人鬼」は82年8月から83年12月にかけて犯行を繰り返した。そして、襲撃は途絶えた。偶然の一致なのかどうか、ちょうどその頃に、「ボリナージュの暴力団」が犯人グループとして逮捕されている。ところがどっこい、88年春にモンスの重罪院は彼らを無罪放免にした。その間に、「戦闘的共産主義者細胞(6)」が死の舞踏に加わった。このグループは84年10月から85年12月にかけて、いくつかの銀行の本店にプラスティック爆弾を仕掛け、NATOの燃料輸送パイプラインに対する妨害活動を行った。この頃、平和運動は頂点に達していた。

 この国には、欧州連合(EU)の機関や、NATO、連合軍欧州最高指令部(SHAPE)が置かれている。陰で糸を引く何者かが、ベルギー国家の治安組織の強化を狙って、極左や極右のゲリラ兵を養成し、操ってみせたのだろうか。「他の線を排除するわけではないが、この政策も考慮に入れる必要がある。つまり、イタリアの例に倣った極右的で社会不安誘発的な政策だ」と、ワロン・ブラバント州特別捜査室を監督するモンス重罪院のクロード・ミショー検事は断じ、次のように付け足した。「それについて動かぬ証拠があるわけではないにせよ、彼らが強盗団を装ったテロリストで、強盗や殺人の一部は攪乱工作にすぎなかったということは十分に考えられる。当時は東西冷戦の時代だった。そしてロナルド・レーガンの政策は、『赤禍』に対して欧米諸国に強硬策をとらせるというものだった。ところが世論は全体として、特にベルギーの政治家たちは、『我が国では全てうまくいっており、何の危険もない』と考える風潮にあった。これに対して、イタリアで使った手口をさらに洗練させて、逆のことを見せつけてやろうとしたものだろう。イタリアの極右テロリストを例にとれば、彼らが秘密警察に操られていたことは今日では周知の事実だが。ただし、こちらの殺人犯は一つのミスを犯した。彼らの犯罪はあまりにも完璧すぎたのだ。これほど緻密にやってのけたのは、外国の情報機関がバックにあったからではないか。しかし、私の考えが間違っていることを祈りたい。もしそうなら、事件は永久に解決しないだろうから。それに実行犯は抹殺されてしまっていることだろう」

そして捜査は続く

 事件の解明を求めて、国会では2回にわたって調査委員会を発足させた。第1期調査委員会は、過去10年に起こった犯罪記録を洗い直した。そこにはスパイやスキンヘッド、悪徳警官が入り交じっていた。殺人に関する裁判記録も隅々まで調べ上げた。結局は、事件が「他の動機をカモフラージュしているという印象も、裏で糸を引いた黒幕勢力が存在するに違いないという確信も、拭い去る」ことはできなかった(7)。87年12月の国政選挙で誕生した社会党・キリスト教社会党の連立政権は、これまで長年にわたり好き勝手にやっていた警察機関と情報機関の民主的統制を図るなどの改革に着手した。

 「連続殺人事件を契機として、司法および警察組織の近代化が始まる。すなわち、この時期が転回点となる。それまでは素人集団も同然であったと言える。しかし私には、ブラバントの殺人事件が、確かに暴力行為であるとはいえ、平凡な犯罪であるとは思えない。停滞した社会状況につけこんで不安を煽ろうという意志が、はっきりと感じられる。経済停滞のただ中にあった国内状況は、計画も統制も欠いた活動の展開には好都合であった。しかし、連続殺人事件によって警察国家がもたらされたとは思わない。行政権がいっそう強化される結果となったのだ」。第2期調査委員会に加わったティエリー・ギエ議員の報告である(8)。彼は被害者の遺族と同じく予審記録に目を通すことができたが、いくつもの可能性が浮かび上がっては消えるだけに終わった。何者かの指示による殺人、恐喝、国家要人がらみの乱交パーティー疑惑との関連、ネオファシストの謀略、憲兵隊による暴動計画、等々。

 「我々の目的は、長いこと捜査を混乱させてきた様々な噂をきっぱりと締め出すことにあった」とギエ議員は述べている。科学技術の進歩によって、犯人特定への希望の光がかいま見えたこともあった。しかし、タバコの吸殻によるDNAテストも、嘘発見機の利用も、捜査の進展にはつながらなかった。それらの結果は、重大な前科を持つ者も含めて容疑者をシロとしただけだった。

 刻々と時効が迫るなか、どんな結論が引き出されることになるのだろうか。犯人からのメッセージが(仮にあったとすれば)何であったのか、彼らを雇った(かもしれない)命令者のメッセージが何であったのかは、依然として不可解である。もし彼らがベルギーを揺さぶろうとしていたのであれば、その目論見は失敗に終わった。また、彼らの活動が警察国家の建設をもたらすこともなかった。その証拠に、デュトルー事件(9)によって、腐敗した治安組織の劣悪化が暴き出された。2001年5月31日、行き詰まってしまった捜査団は、大強盗説ではまったく成果が上がらなかったとして、今後はテロリスト説を重視すると発表した。被害者の遺族、そしてベルギー社会には、真相を知る権利がある。

(1) ベルギーの劇作家ミッシェル・ド・ゲルドロード(1898−1962年)の戯曲『死は窓辺にのぞく』
(2) 一連の凶悪事件は、自由党とキリスト教社会党が組閣した時期(1981−85年)に起こった。この内閣は緊縮財政を実施するために「特権」を獲得した。閣議は事実上の全権機関となり、王令によって議会と野党を政治から締め出した。グザヴィエ・マビユ著『ベルギー政治史』(クリスプ社、ブリュッセル、1997年)参照。
(3) ルネ・アキャン著『極右の潜伏スパイたち−国家安全とWNP』(EPO社、ブリュッセル、1984年)参照。
(4) 1990年に創設された特別捜査組織で、殺人犯の捜査を統括する。
(5) フランソワ・ヴィトラーニ「イタリアという制限主権国家」(ル・モンド・ディプロマティーク1990年12月号)参照。
(6) 1985年12月、全4人の幹部が逮捕され、88年10月、終身刑を言い渡された。「ブラバントの殺人者」(アヴァンセ1999年5月号、ブリュッセル)参照。
(7) 強盗およびテロリズムの対策組織方法に関する議会調査の最終報告書(1990年4月30日、ベルギー下院)
(8) 「ブラバントの殺人者」に関する議会調査の最終報告書(1997年10月14日、ベルギー下院)
(9) マルク・デュトルーは、1995年6月から96年8月にかけて起こった複数の幼児誘拐殺害事件の主犯と見られている。ジャン=ピエール・ボルルー「改革の進まないベルギーの司法府」(ル・モンド・ディプロマティーク2001年7月号)参照。


(2001年8月号)

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