三権分立における司法の地位

ヌリ・アルバラ(Nuri Albala)
弁護士、国際民主法律家協会「法・連帯」国際部門代表

訳・北浦春香

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 長年にわたり、司法は三権中で劣位にあるとみなされてきたが、ここ数年の世論は、司法の独立を掲げ、立法と行政からの影響力を排し、他の二つの権力に優越する地位を与えようとする方向に傾いている。この発想は、そもそも権力分立の観念に反するものだ。司法の優越という信念は、思慮分別よりもむしろ素朴な心情から出てきたものであり、「法治国家」の確立に民主主義の「極致」をみる考え方とも結び付いている。

 法の尊重を徹底させるほど国家は民主的であるとされるが、ひるがえって、その法を施行したのは当の国家に他ならない。まばゆいばかりのトートロジーではないか。

 裁判所がどのような働きをするのかという原則からして、正しく把握されているとは言えない。裁判所が審判を下すのは、付託された事件に限られる。一般論として、何を審判の対象とするかは、裁判所ではなく提訴する側が決めることだ。検察による提訴が一般的となる刑事裁判を例外とすれば、すべての裁判所がこうした原則の下に動いている。そして裁判官は、付託された問題について審判を下すことを義務づけられている。つまり、国家が司法に期待しているのは(体制が民主的か否かにかかわらず)、法の適用によって社会の調和が保たれ、国家の望む秩序が尊重されることなのである。

 こうした国家の意向は、時効(一定期間が経過した後は、もはや社会秩序を不安定にすることは許されない)、既判力の原則(上訴の道が閉ざされた段階で問題は解決したとみなされ、同じ問題を再び取り上げることはできない)が基本的なルールとされていることや、フランスで再審がなかなか認められない事実にも表れている。1994年に至るまで、「公然たる行為、口頭または書面による表現によって、司法判断(中略)への不信感を助長する意図をもって、司法権の権威を損ねた」者は、罰金刑または拘禁刑もしくは両方の刑に処すという法の規定があったのも、同様に考えられる。

 国家はまた、裁判官の裁量を厳格に制限しており、裁判官は一般的な規範力を持ち得ない。「裁判官は、付託された訴訟事件について、一般法規的な判決を下してはならない(1)

 一般市民と同様に、政治家もまた法と司法判断に従わなくてはならない。しかし、政府が(つまり少なくとも理論的には、政府を選んだ国民が)進めようとする政策を、裁判官が(国民に選ばれたわけでもないのに)妨げてよいものだろうか。そうした動きは何度もあった。たとえば、米国の最高裁はフランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領のニューディール政策を全面的に阻止し、フランスの憲法院はいくつかの国有化計画を憲法違反とした。

 この問題は、ときにはもっと陰険なかたちで立ち現れる。市民ウィリアム・クリントンが「独立検察官」ケネス・スターに訴追されたとき、彼の大統領という地位ゆえに事件のインパクトは大きくなり、メディアも派手に取り上げ、それにつれて両者の確執も深まった。そして、この裁判沙汰により、米国大統領が大統領としての職務を遂行する時間がなくなるという事態となってしまったのだ。フランスでは、裏金疑惑の証人としてジャック・シラク大統領を召喚した予審判事に対し、非難の嵐が巻き起こった。実際には、エルヴェ・ガッテーニョ記者が指摘したように、この時の議論は完全に歪んでいた。つまり、判事が大統領を召喚したのは、大統領に嫌疑をかけたからに他ならず、しかも嫌疑がある以上、「大統領だからということではなく、被疑者であるがために(2)」、シラク氏を証人として喚問するわけにはいかなかったのだ。この分析を裏付けるように、担当判事は2001年4月25日、シラク大統領の有罪を「裏付ける複数の証拠」があると考えられるため、自分には捜査を続ける権限がないと公言した(3)

裁判官は中立的か

 司法(正確にはその構成機関の一つ)による行政の阻害は、行政による司法の阻害に劣らず、歓迎できることではない。

 裁判官の独立は、市民の権利の根本的な保障として不可欠である。しかし、司法府が独立を確保するために、立法と行政から絶縁することまで必要なのだろうか。検察の独立をめぐる議論は、まさにこの問題を反映したものだ。特定の事件に関し、検察が法務大臣から命令や指示を受けてはならないという点については、(少なくとも言葉のうえでは)ひろく合意が成立している。しかし、一般的な内容のものも含めて、検事は大臣から一切の指示を受けてならないとまで規定する必要があるのだろうか。

 これは危険な考え方である。控訴院(高裁)ごとに司法政策が異なるような状況は、公共サービスにおける市民の平等の原則からいってショッキングだろう。さらに重大なのは、刑事政策、もっと広く言えば司法政策のあり方という社会の根本的問題について、検事長がそれぞれの所轄、つまり控訴院の管轄内で最高の決定権を持つことになる点だ。メディアはことさら刑事司法を取り上げるが、日常生活の中で市民がもっとも関心を抱いているのは、民事司法、住宅権、社会権、消費、家族法なのである。

 こうして、司法政策が国民の代表の手から離れ、裁判官の手に委ねられることになる。たとえ自らの良心に従っているにせよ、裁判官には民主的正統性が欠けている。

 同様の理由から、いわゆる裁判官の中立を期待するのも危険な幻想である。そして、ここでもまた、中立と誠実さを混同してはならない。いかに誠実が貫かれたとしても、それは中立と同義ではない。そもそも、ここで「中立」なるものを想像するのも難しい。司法判断の多くは、何らかの思想的立場に立脚している。その理由は単純だ。それ以外、他にやりようがないからである。

 非常に単純で、政治とは無関係の例を一つ挙げてみよう。数年前、フランスのテレビ局ラ・サンクが、ジョン・ヒューストンの映画『アスファルト・ジャングル』のカラー版を放映しようとしたところ、遺族が放映禁止を求めて訴訟を起こした。監督は生前ずっとカラー化に反対しており、とりわけこの映画は故人が意図的に白黒で撮ったものであるという。彼の著作権は米国では消滅しているが、フランスでは存続している。そこで、この作品に関してヒューストンの著作者人格権を認めるフランスの法規が、「公共の秩序」と考えられるほど、つまり米国の法規を退けるほど基本的な規定かという点が問題となった。

 カラー映画の放映は、第一審では禁じられた。第二審では許可された(そして実際に放映された)。続く破棄院(最高裁)では第二審の判決が破棄された。この三度にわたる判決のうち、どれか一つでも思想的に中立の立場から下されたと本気で考える者がいるだろうか。

 裁判官が一時的に官房に入ったり、自治体の政治に参画したりすることは多い。裁判官を経て国会議員や欧州議会議員になる者もいる。さらには、刑務局長に任命されるとか、国土監視局長に任命されるとか、野心をはっきり口にしている場合もある。こうした事実は、特に常規を逸したものでも、衝撃的なものでもない。とはいえ、中立や三権の独立が実現されているなどと、本気で口にすることができるだろうか。結局のところ、いったい誰が誰を牽制しているのだろうか。

 司法は、我々の社会システムそのものの中に組み込まれており、その大きな柱となっている。そもそも司法が成り立つには、適用すべき法があることが不可欠だが、それを制定するのは議会である。また、ときには強制手段を使ってでも司法判断を執行する力も不可欠だが、そうした力は行政府によってしか与えられない。そして、司法機関が内向きの姿勢をとったり、司法が市民に近付こうと努力しているのに市民の方が敬遠する態度を改めなかったりでは、司法がまともな地位を得られるはずもない。司法改革を試みるならば、こうした点を忘れてはならない。

(1) この規定は、アンシャン・レジーム(旧体制)下で地方の高等法院が「法規的判決」により中央政府に対抗した事態の再来を防ぐために、現行民法(ナポレオン法典)に挿入された。
(2) ル・モンド2001年4月15-16日付。
(3) 憲法院の判例により、大統領の犯罪は国会議員からなる高等法院によってのみ裁かれると解釈されている。[訳註]


(2001年7月号)

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