「統治」あるいは「市民社会」の幻影

ベルナール・カセン(Bernard Cassen)
ル・モンド・ディプロマティーク編集部

訳・北浦春香

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 政治の用語には、誰も気づかぬうちに、きちんと定義されないまま、いつのまにか浸透しているものがある。こうした言葉は、いわば周りにすっかり溶け込んだ後でようやく、自らの正体を明らかにする。それらは単なる用語ではなく、ある思想体系を構築するための要素として働いている。見るからに使い回しが利き、メディアにも頻繁に登場する二つの表現、「市民社会」と「統治」もその例にもれない。

 このよく聞く「統治」という言葉の意味を正確に理解している市民がほとんどいないとしても、エリートがこの言葉を無節操に使っていると非難する声は聞かれない。このようなことは他にいくらでも見られるが、ある最近の出版物を一例に挙げると、この言葉がエリートの常套句の一つになっていることがわかる。ジョスパン仏首相により設置された経済分析委員会が世界銀行との共催(という聞いただけで疑念がわくような取り合わせ)でシンポジウムを開き、その内容を英語で出版した。表題を文字通り訳すと「統治、公正、世界市場」となる(1)。これだけでも、「統治」なる概念がどのような語法の中に位置づけられているかがわかるというものだ。

 全く別のところに目を向けてみると、ベルギーが欧州連合(EU)の議長国となる7月に向け、欧州委員会が「欧州統治白書」を準備しており、続く12月にブリュッセルで開かれる欧州理事会(首脳会議)での採択を目指している。白書が採択されれば、これは非常に大きな意味を持つことになる。なぜならば、そこで見直しを求められているのは「EUレベルでの政治の実行方法に影響を与える法規、手続、慣習の総体」にほかならず、それに当たっては「行政偏重の見直しという考えと、EU憲法策定は時期尚早という考えの中間をいく」アプローチが提唱されているからだ。ということは、これまでの議論の流れからして、代表民主制の現在の(各国憲法に基づく)あり方が抜本的に見直され、公共政策の決定が完全に民間に委ねられることになると考えてさしつかえない。こうした動きの中、各国議会は自分たちをお払い箱にしようとする白書の作成に当然ながら関与もできず、ひたすら足元の雑事に追われている。

 「統治(gouvernance)」という言葉の選択は何ら偶然ではなく、この言葉の長い歴史を踏まえたうえでのことだ。この言葉は、13世紀の古いフランス語で“gouvernement(統治する技術と方法)”の同義語として使われ、14世紀に英語の語彙ともなって(governance)同じ意味で用いられたが、その後は姿を消してしまう。この言葉を1980年代末に復活させたのは世界銀行で、国際通貨基金(IMF)や国連開発計画(UNDP)もそれに倣うようになった。国立学術研究センターの研究部長マリー=クロード・スムーによれば、「よき統治」というのは、「小さな政府をうたう政策思想を広めるための方便」であるという(2)。ユネスコの社会科学・学術研究・政策部長を務めるアリ・カザンジギルの言葉を借りると、そのような国家では、「行政の役割はもはや社会全体に奉仕することではなく、個別の産業部門や顧客ないし消費者にモノとサービスを提供することに変わり、市民間、地域間の格差を拡大させかねない」ことになる(3)。要するに、構造改革と「ワシントン・コンセンサス」(4)を打ち出すための周到な地均しに用いられたのだ。企業活動という別の分野でも、株主の独裁がコーポレート・ガバナンス(企業統治)と銘打たれるようになった。その結果、ダノンのビスケット部門「リュ」のように業績好調な企業においてさえ、株式市場の意向に沿った首切りが行われている。

代表民主制の否定

 「統治」という言葉の使われ方を辿ってみると、自らの狙いをほとんど隠そうともしない欧州委員会の姿勢がよくわかる。プロディ委員長は、「補完性の原則(5)によって切り分けられる上下のレベルごとに政治を論ずる思考を脱却すべき」であると主張し、「EUの政治は、EUレベルの機構だけでなく、国レベル、地域レベル、地方レベルの政治機構、さらには市民社会によって行われるものだ」と述べている(6)。これらの発言を突き合わせてみると、補完性の原則はもはや時代後れであり、これまで公的権力の専属だと考えられていた行政機能を「市民社会」も担うということになるはずだ。では、ここで最後の砦のように奉られている「市民社会」とは何なのか。それは、つまりは個別利益の寄せ集めにすぎない。ヘーゲルはこれを国家と対置して、「市民社会においては、各人が自分にとって目的であり、その他一切のものは彼にとって無である」と述べている。しかし、個別の利益がたとえ正当なものであったとしても、それらの合算が全体の利益となるわけではない。そのうちの一部が平等という以上に考慮される場合にはなおさらだ。欧州委員会の主要な部局に出入りし、ときには法案づくりに携わることもある欧州産業円卓会議と、丁重に耳を傾けられるだけの市民団体や労働組合を比べた場合、その力関係は明らかに平等ではない。

 欧州委員会は、市民団体(実態とは無関係にNGO、つまり非政府組織と呼ばれるものが多い)を懐柔するために、政策決定への参加と受け止められるような、彼らの自尊心をくすぐる地位を用意している。しかし、EU関連問題についてのジョスパン首相の御意見番と言われるラミー欧州委員は、次のような語るに落ちる発言をしている。「NGOと市民社会は、(動員や代表、あるいは単なる法的、技術的なサポートといった)多様な活動チャネルを提供することで、正統性づくりに貢献してくれる(7)」。この「正統性づくり」が重視されていることは、シアトルで世界貿易機関(WTO)閣僚会議に対する激しい抗議運動が起きて以来、多国間組織(IMF、世界銀行、WTO)や欧州委員会が「市民社会」との「対話」に狂奔していることからもはっきり見て取れる。こうした組織の職員たちは、どうやら毎月の割り当てに従って、抗議運動をしている人々と会談するよう指示されているらしい。その目的は何か。想像が付くように、現在推進中の政策を修正することではなく、それをもっとよく「説明」することにあるのだ。意見拝聴の恩恵に浴した団体の数が多いほど、組織にとっては転ばぬ先の杖となる。

 代表民主制を否定せんばかりのブリュッセルの動きを憂慮するEU官僚の勉強会は、欧州委員会が実現をめざしている提案を次のように分析する。「市民の総体としての人民がぽっかり抜け落ちている。統治というものにひそむ大きな矛盾点は、民主主義を市民社会まで拡げようと言ったところで、まさに市民社会をかたちづくっている関係において、個人が市民ではなく、単なる個別利益の担い手にすぎないところにある。人は、主権者の一員としてのみ市民となりうる。主権者の意思の発露としての法を個別利益に優越させるという特権規定だけが、(中略)不平等に対する、また強者による弱者支配に対する、唯一の保障となるのだ(8)

 企業経営にたとえられ、「グローバリゼーション」(と控えめに総称される金融市場や多国籍企業)を唯一の株主とする政治が、ラミー欧州委員の言に従えば、ブリュッセル流の「統治」の(動かせない)バックグラウンドとなっている(9)。この点については、イタリア政府は3つの「I」すなわち英語(inglese)、情報処理(informatica)、企業(impresa)を旗印とすると宣言したベルルスコーニ首相が、既にこういった統治を先取りしているように思われる。

 各国の代議士が、自分たちをお払い箱にしようとする欧州委員会の白書に対して、どういった反応を示すのかに注目していきたい。欧州委員会は、「EU憲法策定は時期尚早」との考えに立つものであると強調している。よく言ったものだ。この白書を年末に採択すると目される各国首脳と違って、本件について有権者からの委託を受けたわけでもない欧州委員会が、まさに無血クーデタの準備を進めているというのが事実に即している。

(1) Joseph E. Stiglitz and Pierre-Alain Muet (eds.), Governance, Equity and Global Markets. The Annual Bank Conference on Development Economics-Europe, Oxford University Press, Oxford, 2001.
(2) マリー=クロード・スムー「国際関係における統治の活用法」(国際社会科学雑誌155号、ユネスコ、パリ、1998年3月)
(3) アリ・カザンジギル「統治と科学−市場に倣った社会管理と知識生産の方式」(国際社会科学雑誌、同上)
(4) ベルナール・カセン「批判の的の国際金融機関」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年9月号)参照
(5) 下位レベルの権限を重視し、上位レベルの権限はそれを補完するにとどまるとする政治原則。[訳註]
(6) 2000年2月15日、ストラスブールの欧州議会で行った演説「新しい欧州の形成に向けて」
(7) 2001年1月30日に欧州安全保障協力機構(OSCE)がブリュッセルで開いたセミナー“Good Governance in the Public and the Private Sectors, against the Background of Globalization”での発言。
(8) この勉強会が作成した文書を参照。ここで引用したものは、John Brown の署名の入った「統治あるいはネオリベラリズムの政体」で、attac.org のウェブサイトの「新着」コーナーで閲覧できる。
(9) パスカル・ラミーの演説、前掲


(2001年6月号)

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