記憶の中立

ツヴェタン・トドロフ(Tzvetan Todorov)
国立学術研究センター研究部長

訳・葉山久美子

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 過去というものは、どのように用いるべきなのか? それが私的な場か公的な場かでルールは異なる。私的な場では、言葉と世界の関係は二人の個人、すなわち語る人と聴く人の関係に従う。友人を苦しませるような真実を私は告げないし、自分の心を乱すような新事実に私は耳を傾けない。

 公的な場では事情は異なってくる。ここでは、どのような真実であれ、告げることが望ましい。ある情報に接したときに第一に問うべきは、「なぜX氏はこの情報を流したのか」「これはY氏にとって得になるのか」といったことではなく、「これは真実か」である。ゲッベルスはカティンの森(ポーランド)の虐殺の責任をソ連政府に帰した。この情報が正確でないとされたのは、情報を伝えたのがナチスの忌むべき啓蒙宣伝相だったからではない。ソ連の収容所の存在は知られていたが、「ビヤンクールを絶望に追いこむな(1)」という理由から真実は隠蔽された。その結果、事実がようやく明るみに出たときの労働者階級の絶望はさらに深いものとなった。真実を求める権利、そして真実を知らせる権利は、民主主義における基本的人権の一つである。動機や影響の分析は第二段階、つまり可能な限り真実に近づいた後に着手すべきものである。

 個人もまた集団も、自らの過去を知ることを求める。過去は、それだけに尽きるわけではないにせよ、アイデンティティーの拠り所となる。アルツハイマーに冒されて記憶をなくした人は、アイデンティティーを失い、自分自身でなくなる。同様に、共通の記憶をもたない民は存在しない。集団はそのアイデンティティーを得るために、偉業も受難もすべて含めた総体としての過去を選びとる。しかしながら、過去に頼ることが避けられないとしても、それは過去が常に正しいことを意味しない。

 記憶は言語と同様、それ自体は中立的な道具でしかなく、高貴な理念のための戦いにも腹黒い目的のための計画にも用いられる。過去に訴える動機が第一に復讐や報復の欲望にあり、あるいは逆に現在における特権の獲得や怠慢の正当化にしかないのなら、「記憶の務め」に道徳的な正当性が見出されることはない。過去の道具化を非難することはできなくなる。誰もがやっていることだというだけではない。過去が現在に奉仕するのは当然とされるからだ。とはいえ記憶の利用が必ず正しいとは限らない。むしろ悪用に近いものもある。だが、どうやって見分ければよいのか。

 記憶と向き合うに当たり、陥りやすい二つの罠は「神聖化」と「凡庸化」と名づけられる。神聖化とは、ある事件に特殊性を見出すことではない。特殊性が事件を(その唯一性を歴史の中に位置づけるために)他の事件との関係において捉えるのに対し、神聖化は、逆にそれを他の事件から孤絶した領域に据える。その事件は何ものとも比べられることがない。付言すれば、人それぞれの私生活には、神聖な記憶というものもあり得る。自分の子供を亡くしたら、自分にとって絶対的に唯一の事件である子供の死が、他の死や他の弔いと同列に扱われてよいなどとは思わないものだ。

 公的な議論では事情が異なる。ここでは、記憶の神聖化は、特殊なケースから一般的な教訓を引き出し、過去と現在を結びつけることを妨げる。つまり、その過去に関わった集団に属さない人々が、彼らの経験を活かすことができなくなる。しかし、マルセル・プルーストが陰鬱に述べているように、およそ「人はどんな経験も活かせない。なぜなら人は一般論に与しようとはせず、常に自分が過去に前例のない体験をしていると思うものだから」

 逆の危険が記憶の凡庸化である。それは過去を現在にかぶせ、過去と現在をまったく同列に並べ、結果として両方を見誤らせる。最近のユーゴでの数々の戦争がよい例だ。ユーゴの民族間紛争は(まったく考えにくいことだが)第二次世界大戦にたとえられ、ミロシェヴィッチはヒトラーに見立てられた。テレビは有刺鉄線の後ろにたたずむボスニアのイスラム教徒のやつれた顔を映し出す。「まるでホロコーストではないか」と間髪を入れずにホワイトハウスの顧問が発言する。過去の暴虐の例を他に知らないに違いない。

 1995年、アメリカ国務省のユーゴ特使リチャード・ホルブルックは、自分の道徳観を棚上げにしても、彼が犯罪者とみなしていたユーゴの権力者と話し合う準備があると発言した。彼はせめてもの慰みに、迫害されたユダヤ人を救うためにナチの殺人者と交渉することを辞さなかったラウル・ヴァーレンベリを引き合いに出した。ここでホルブルックの頭から抜け落ちていると思われるのは、彼が世界最強の軍隊を持つ国を代表しているのに対し、ナチス占領下のブダペストのスウェーデン大使館員にすぎないヴァーレンベリが自身の命をかけて行動していたということだ。その上、歴史の悲劇的な皮肉というべきか、ヴァーレンベリはもう一つの全体主義国家であったソ連の牢獄で命を落とすことになる。

 1996年にアメリカの国務長官となったマドレーン・オルブライトは、第二次世界大戦時にチェコスロヴァキアから家族ともにアメリカに避難した体験から、幼少期の思い出を通して現在の事件を捉えている。ボスニアの戦争は彼女にナチズムを思い起こさせ、欧米諸国の対応は1938年のミュンヘン会談におけるイギリスとフランスの態度を髣髴とさせる。すでに1994年の時点で、国連大使であったオルブライトはワシントンのホロコースト博物館で「ホロコーストに照らしてみるボスニア」というタイトルのスピーチを行い、次のように述べている。「ボスニアのセルビア人指導者たちは支配地の非セルビア民族問題に対し、絶滅もしくは強制追放という最終的解決に訴えようとしてきたのです」

 今日、誰もが自分が新しいホロコーストを防いだと言えるようになることを望んでいるように見える。しかしながら、ホロコーストはボスニア問題に何らの光を投げかけるものではなく、むしろ問題の分析を試みる者たちの目をくらませているだけだ。それでも、アメリカ大統領ウィリアム・クリントンが軍事介入を正当化するために、この根拠薄弱なたとえを用いたのには驚いた。「もしチャーチルの話に耳を傾けるのが間に合っていて、もっと早くヒトラーと対決していたら、どうなっていただろうか。アメリカ人も含めて何人の命が救われただろうか」と、彼は1999年3月23日に発言した。ヒトラーに対する介入をもっと早く行えばよかったことは確かである。しかし、いわば第二次大戦に生き残った者たちがユーゴへの空爆を正当化する根拠はどこにあるのだろうか。ミロシェヴィッチが、ヨーロッパにとって、そして世界にとって、1938年当時のヒトラーと同じように脅威であると真剣に考えていたというのか。過去を省みればどのような行為も正当化できるというものではない。

 「神聖化」と「凡庸化」という対をなす罠に陥らないためにはどうすればよいのか。われわれは記憶と向き合わなければならない。そうすれば、何か漠然とした近似や類似があると思いこんで、特殊なケースから別の特殊なケースへと飛び移るのではなく、特殊から普遍へ、つまり正義の原則や道徳律、政治の理念へと進むことができる。これらの普遍的観念の検証と批判は合理的な議論に委ねられる。そこでは、過去は単にうんざりするほど繰り返されるものでも、普遍的な相似に貶められるものでもなく、ひとつの範例として解釈されるものである。過去から導き出される教訓それ自体は妥当であるはずだ。なにも自分の大切な思い出がもとになっているからではない。記憶の正しい用い方とは正当な目的に役立つ用い方であり、単に自分の利益に都合のよい用い方ではない。

 正義が成り立つには公平が求められる。正義は「二重基準」的な処理を受け付けない。NATO(北大西洋条約機構)のコソヴォ介入が合法性を欠いていた一因もそこにある。過去にも最近にも、NATOが同様の状況において介入の意思を示したことはなかったのだ。公平の基準に従えば、コシュトニツァ大統領が国際刑事裁判所の中立性を認めようとしないのも、バラク首相がイスラエル軍の「失態」について国際委員会による調査を受け入れようとしないのも、同列に扱わなければならない。一人が有罪なら他方も有罪であり、一人が無罪ならもう一人も無罪であるべきだ。

 過去の不正義に対する賠償を原則として認めるならば、すべての事件に対して同一の期限を適用しなければならない。1939年に財産を失った中東欧のユダヤ人も、1948年に財産を失ったパレスチナのアラブ人も、同様に処遇しなければならない。期限の問題は厄介である。どこまでさかのぼるべきなのか。奴隷として売られてきた黒人の子孫に賠償すべきか。「西部開拓」のせいで土地を奪われたインディアンの子孫に対してはどうか。アメリカ政府は、第二次大戦中に強制収容所に監禁された日系アメリカ人の子孫に対し、最近18億ドルを支払った事実がある。

 人間尊厳の権利も同様に近代の正義概念の一つであり、どのように過去を持ち出そうと人間尊厳の否定である拷問を正当化することはできない。1950年代にフランスがアルジェリア人に行った仕打ちも、1980年代末からイスラエルでパレスチナ人が被っている仕打ちについても同じことだ。同じ苦渋に満ちた過去、例えばユダヤ人が受けた苦しみから、正反対の教訓が導かれることもある。この同じ過去の名のもとに、モシェ・ランダウ判事(2)は「敵」への拷問を合法とし、この同じ過去の名のもと、イシャヤフー・ライボヴィッツ教授は全力を挙げて拷問反対運動を行った。現代に引き出す教訓は、われわれの倫理的・法的原則に照らして判断すべきであり、過去の事件に即して判断すべきではない。

 偉大な画家であるゾラン・ムジッチは、第二次大戦の最後の年をダッハウ収容所で過ごした。この死の製造所を出たのち、彼は自分の見たものを描くことはできないと感じた。彼が経験したことは唯一無二の事件であり、人に伝えられるものではなかった。しかし、1950年代に戦争が、朝鮮半島やアルジェリアで再開され、人間が他の人間に対してどれほど残忍なことができるかが再び明らかになった。その現在は過去とは確かに違っていたが過去に似ており、ムジッチは収容所の死骸を描く新シリーズを制作した。それは、「われわれが最後ではない」と名づけられた。凡庸化に陥ることなく過去と現在を結びつけることで、画家は心を揺さぶるような作品を生み出した。それは真実でもあり、そして正義でもある。

(1) サルトルの言葉。ビヤンクールは現在は閉鎖されたルノー工場の城下町で、労働者階級の代名詞として用いられた。[訳注]
(2) ランダウ判事は、1961年のアイヒマン裁判の裁判長であった。後にイスラエルの最高裁判事となり、80年から82年まで長官を務めた。引退後は、「ランダウ委員会」を主宰し、87年にはパレスチナ人の逮捕者に対する「適度の身体的圧力」を合法であると述べた。


(2001年4月号)

All rights reserved, 2001, Le Monde diplomatique + Hayama Kumiko + Saito Kagumi

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