カリマンタンの虐殺

フレデリック・デュラン(Frederic Durand)
トゥールーズ第二大学助教授

訳・渡部由紀子

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 インドネシア政府の求心力低下が露呈するなかで、国内の周辺地域で住民抗争が激しさを増している。2001年の2月と3月には、中部カリマンタン州(ボルネオ島)で未曾有の虐殺事件が起きた。同州はパニックとなり、5万人ものマドゥラ系移民が避難を迫られた。民族浄化行為であるとの短絡的な論評も多いが、カリマンタンで勃発した暴力事件は、元はといえば軍人大統領スハルトの政策に原因がある。そして紛争の背後には、軍の影がちらついている。[訳出]

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 「カニバリズム」「血なまぐさい虐殺」「首狩り族の復活」「ダヤック人のマドゥラ人に対する民族浄化」「野蛮な殺戮行為」―。2001年2、3月に(ボルネオ島インドネシア領の)中部カリマンタン州を震撼させたマドゥラ系移民の虐殺を取り上げるのに、各国の報道機関は形容に事欠かない。一部のイスラム系メディアは、「人食い異教徒」がイスラム教徒に対して行った「ジェノサイド」と言ってはばからない(1)。一方で、欧米諸国では、旧植民地国家の為政者にはもはや自国の舵取りは無理なのだというささやきも聞かれた。まれにみる規模となった今回の虐殺は、多くの人々を惨劇に巻き込んだ。しかし、まき散らされる言葉やイデオロギーの陰で、ジャワ中央政権の歴史的責任が覆い隠され、カリマンタンの置かれた複雑な状況が見えなくなっている。

 ここ数カ月間にカリマンタンで起こった虐殺の源は、スハルト体制下(1965−98年)に進められた周辺諸島の植民政策にさかのぼる。スハルト将軍は数十年にわたり、ジャワ島とマドゥラ島の住民がカリマンタンなど「周辺地域」に移住することを奨励してきた。現在中央政権からの離反を示しているのは、これらの入植地域である。スハルトの「人口移動」政策は、ジャワ島の人口過密を緩和し、ジャカルタの主導権を国内の主要な島々で確立することを目的に進められた。さらに、地方の資源は中央政府と結びついた現地エリート層に吸い上げられた。

 こうしてカリマンタンでは、ダヤック人が自らの土地の上で周辺的存在へと追いやられていった。正確にいえば、ダヤックという民族グループは存在しない。この言葉は漠然と、ボルネオ島に住む非イスラム系住民の総称として用いられているが、その中には少なくとも10以上の言語集団が認められる。これらの集団は、いくつかの文化的な共通点を持っている(2)とはいえ、互いに意思疎通ができないほど言語的な隔たりが大きいものもある。

 スハルト政権下では、島の人々の生活の場であると同時に経済の基盤となっていた森林(ゴム林、公共利用や動植物保護のための禁制地など)が、先祖代々の権利を否定する政府によって接収された(3)。こうして67年以降、西カリマンタン州では土地全体の40%以上、中部カリマンタン州では75%が、ジャワ島から来た人々に払い下げられた。彼らは島外の労働者を使って、再生が危ぶまれるまでに森林を伐採した。

 これと並行して、企業による大規模な植林や、生育の早い樹木の導入が進められ、新住民のための生活用地が整備された。その一環として、スハルト大統領が島の中心部に「100万ヘクタール水田」を開くという壮大きわまりない構想をぶち上げていたが、おそろしく費用がかかる上、環境に壊滅的な打撃を与えるのは避けられないため、スハルト失脚後に中止されている。60年代にはカリマンタンの総面積の76%を占めていた密林は、今では34%にすぎなくなった。先住民は政治の上でも、周辺的存在に追いやられていった。95年には、西カリマンタン州の6つの県のうち、ダヤックに属する人間が取り仕切っていたのは1つのみ、それも最も奥まった県という状況になっていたのだ。

 さらに知っておかなければならないのは、70年代以降繰り返されてきた新旧住民間の紛争のほとんどが、マドゥラ系移民による卑劣な行為を発端としているということだ(4)。ダヤック人のマドゥラ人に対する最近の暴力が苛烈を極めていたとしても、両者の緊張関係が二項対立的でないことは強調しておかなければならない。ダヤック人は、先住民(バンジャル人、マレー人、プナン人)と移民(ブギ人、ジャワ人、中国系インドネシア人)の混在する複数の民族グループが、1つの島に住むことを問題としたわけではない。99年の暴力事件は、イスラム系の先住民であるマレー人と、同じイスラム系で文化的には大きな違いのないマドゥラ人との対立であった。ダヤック人はマレー人の側に付いたとはいえ、対立の先導はしていない。

社会経済的な対立

 今回の暴力事件の勃発は、90年代末の経済、環境、政治危機を一因とする。97年以降に3つの大きな変化が起きたが、これらは問題を複雑化したにすぎず、近年の暴力行為を激化させた要因と考えられる。第一に「アジア規模」の経済危機により、インドネシア人の3分の2、ダヤックに至っては80%が貧困層となり、このことが社会経済的な対立をあおった。第二に、スハルト氏の失脚により、軍による地方支配が弱まり、治安部隊の恐怖を基本とする統治方式が立ちゆかなくなった。

 さらに2001年1月、ワヒド大統領が地方分権法案を準備不足のまま緊急に施行したが、問題の解決には至るまい。おそらく逆に緊張を高める結果を招くだろう。この改革は、財源の大部分(林業収入の場合は80%)を地方政府に渡すとしている。前体制の行き過ぎた中央集権を見直し、自分たちのことは自分たちで決めたいという地方住民の声にこたえようというのだ。しかしここで立法府は、これまで行政単位として州(総数26)が重視されてきたことについて、独立を求めるほど強大な政治単位ができるのではないかと恐れ、県(総数364)に財政自治権を与える道を選んだ。インドネシアでは地方格差が極めて顕著なことから、このような行政単位の過度の細分化は、地方指導者の手腕(および清廉度)と所得の分配という2つの問題を引き起こすことになる。

 2001年には中部カリマンタン州にまで至った暴力行為の拡大にも、分裂の兆しが表れている。それまで紛争は島の西側、つまり、早くから入植が進み、先住民が少数派となった地域に限られていた。1999年までの住民抗争の大部分が起こった西カリマンタン州の場合、ダヤック人が40%、(古くからボルネオ島に住むイスラム教徒である)沿岸部のマレー人が34%、中国系マレー人が15%、セレベス島を起源とするブギ人が5%、そしてジャワ人とマドゥラ人がそれぞれ3%という人口構成になっている(5)

 紛争は現在、ダヤック人がなお多数派を占める唯一の州にまで広がった。そこでも経済活動は徐々に新住民の手に握られるようになっていた(6)。同様の事態は、東南アジアの他の地域にも見られる。特にヴェトナムの高地では「少数民族」が多数派集団の大量移民に直面するようになり、2001年2月、抗議の意を示し、地方の権利とアイデンティティーを主張すべく、中部で大規模なデモを繰り広げた。

 文化とアイデンティティーの問題も極めて重要な意味を持つ。ダヤックを構成するグループは総じて、彼らと彼らの文化を「移民」たちが軽視していることに、かねてから不満を抱いていた。移民たちはダヤックに否定的なイメージを持ち、その伝統や儀式を尊重せず、外部の宗教を強制し(7)、河川を汚し、ダヤックの一部が神聖視する森林を破壊してきた。1997年、軍の介入の際に死亡したダヤック人の遺体が夜のうちにこっそり埋められたという(この地方の文化では考えられない)事件が起こったことで、軽視されているという感情は一層強まった。この事件では死者の数や身元も明らかにされず、遺族は葬儀を営むことができなかった。公表された犠牲者数にはマドゥラ系移民しか含まれていなかった。

ちらつく軍の影

 もう一つ大きな問題として、事件の展開には外部からの圧力や介入が絡むことがある。ダヤック人グループが時には軍に煽動されていたことは、多くの者が認めている。とりわけ67年には、軍部が共産主義者として槍玉にあげた中国系マレー人(ボルネオ島の小店主や企業家)に襲いかかった。同様に、96−97年および2001年の事件では、ダヤックの活動家の一部は出所のはっきりしない半自動装填銃で武装しており、時には軍事用通信機材を備えた平服の男たちに先導されていた。

 数々の現地調査の結果、双方の住民集団の怒りをあおるため、嘘の噂が組織的に広められていたことや、警察が不自然なほど受け身な態度に終始していたことも明らかにされた(8)。さらに、1997、99、2001年の暴力事件の勃発が、スハルト元大統領やその側近にかかわる政治問題や裁判と時期的に一致していたことも指摘しておかねばなるまい。

 インドネシア国軍の一部が東ティモールの反独立派民兵の訓練に携わり、一部の部隊がマルク諸島でキリスト教徒住民を襲撃したイスラム教徒住民を支援した例にも、この強大な国家機関が実に不透明な役割を果たしていることが浮かび上がっている(9)。軍人大統領スハルトの時代には、軍は軍事と統治の二重の機能を担っており、そこから資金など多くの特権を引き出していた。民主的性格を持つ体制が生まれたことで、既得権益の一部は失われるだろう。そして、昨年、クーデタの噂が流れたとき、米国をはじめとした国際社会は、力ずくで軍事政権が樹立されても支持しないことを明らかにしている。

 とはいえ、東ティモールの自治権をめぐる住民投票、アチェや西パプアの分離独立運動(10)、マルク諸島の宗教紛争などに揺さぶられるインドネシアで、さらに暴力事件が拡大するようなことがあれば、軍がインドネシア国家解体の危機に立ち向かう「唯一の頼みの綱」を自認することも考えられる。

 さしあたり、いまだ暴力事件が収まらない状況下で、ダヤック人とマドゥラ人の代表者は、和解の宣言や合意を重ねている(11)。しかし、多くの問題は未解決のままだ。紛争を緩和するより維持しようとする強大な軍が現地にいる限り、両者の構造的対立は解決できないだろう。何千人ものマドゥラ人が、今なおカリマンタンの森や難民キャンプで不安な生活を送っている。さらに、5万人のマドゥラ難民の帰還問題も残っている。マドゥラ島の仮設キャンプにあふれる難民の中には、ダヤック人と結婚している人や、片親がダヤック人の子供も含まれている。

(1) http://muslimedia.com
(2) 外からの圧力が増大するなかで、1990年代以降、ダヤック人アイデンティティーの昂揚あるいは形成が促進され、先住民によってダヤック学の研究機関が設立された。インドネシアにおける様々なアイデンティティーの形成に関しては、ダニエル・ペレ著『民族地図の形成−スマトラ島北東部のバタック人とマレー人』(フランス極東学院、パリ、1995年)参照。
(3) フレデリック・デュラン著『東南アジアの森林、その後退と開発−インドネシアの事例』(ラルマッタン社、パリ、1994年)参照。
(4) マドゥラ人の暴力行為に関しては、Glenn Smith, << Carok Violence in Madura. From Historical Conditions to Contemporary Manifestations >>, Journal of the Danish Ethnographic Society, Copenhagen, Vol. 39, 1997 参照。
(5) 「民族」構成に関するデータは、国勢調査でこのデリケートな問題に触れていないことから、特に言語を基準とする区分集団ごとの推定規模に従っている。
(6) 1980年代初頭のメンタヤ川下流域に関する研究によると、衝突の最初の舞台となったサンピトでは、マドゥラ人が商業の20%を取り仕切っているのに対し、ダヤックの割合は1%に満たない。Cf. Olivier Sevin et al., Regional Geography to Develop Transmigration Settlements - Central Kalimantan, Orstom, Paris, 1984.
(7) インドネシアでは、アニミズムは無神論と同様に禁止されている。すべての住民は5つの一神教のうち1つを選ばなければならない。フランソワーズ・ケラック=ブランシャールほか著『インドネシア−国家建設の半世紀』(ラルマッタン社、2000年)参照。
(8) Human Right Watch, Report on Communal Violence in West-Kalimantan, 1997.
(9) ロマン・ベルトラン「インドネシア国軍とは何か」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年10月号)、フランソワーズ・ケラック=ブランシャール「インドネシア前門の国軍、後門の分離主義」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年3月号)参照。
(10) ガブリエル・ドゥフェール著『インドネシアと西ニューギニア−植民地起源の国境の維持か共同体アイデンティティーの尊重か』(ラルマッタン社、1996年)参照。
(11) Suara Pembaruan, 1 March 2001, Banjarmasin-Post, Banjarmasin, 9 March 2001.


(2001年4月号)

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